廣井亮一『悪さをしない子は悪人になります』/ライアル・ワトソン『ダーク・ネイチャー―悪の博物誌』
☆mediopos2992 2023.1.26
『悪さをしない子は悪人になります』
この的を射たタイトルに感心して読み始めた
テーマは「悪理学」
著者は家庭裁判所調査官として
数百人の非行少年を更生に導き
その実践をもとにしながら
非行・犯罪臨床・家族臨床の研究を続けてきたという
新書という限られたなかで
さまざまな事例が紹介されている
「悪」は時機外れの「善」だともいわれるが
「悪」と「善」は相対的なものに過ぎない
重要なのは
「子どもの「悪」を圧し潰したり排除したりするのではなく、
親や教師らとの関わりのなかで
「総体としての生身の子ども」に
「悪」を位置付けることが秘訣だ」という
「悪」はその表し方や関係性を変えると
「善」へと転化し得るエネルギーであって
「人の内にある「悪」を制限しては」解決にはならない
重要なのはそれをどのように「位置付け」るかだ
その基本的な観点を
以下のように「悪理学の三原理」として説いていたのが
ライアル・ワトソン(『ダーク・ネイチャ』(1995))である
「第1原理:よいものは、場所を移されたり、
周囲の文脈からはずされたり、
本来の生息環境からどけられたりすると悪いものになりやすい。」
「第2原理:よいものは、それが少なすぎなり
多すぎたりすると非常に悪いものになる。」
「第3原理:よいものは、お互いに適切な関係をもてなかったり、
つきあいのレベルが貧困化したりすると、
きわめて悪質なものになる。」
この基本的な観点はアリストテレスの
『ニコマコス倫理学』で示唆されている「中庸」からきているが
「「善」は「悪」の反対物ではなく、
両方ともが存在するフィールドの一部分であって
「「善」が質的、関係的にシステムとしてのバランスを
崩したときに「悪」に転じる」ことになる
従って「「悪」を排除して「善」だけを求めようとしたら、
より〝邪悪な悪〟を生み出すことにしか」ならない
たとえ「悪さ」をしないで「よい子」であったとしても
そのエネルギーバランスが崩れているとき
その「よい子」は「邪悪」にもなり得るということだ
その意味で「偽善」は見かけの上で
悪が排除されているがゆえにむしろ「悪」でもあるし
無自覚な「よい子」も同様である側面がある
とはいえさらに難しいのは
子どもの非行や犯罪ではなく大人の場合で
積極的な「悪」が顕現されている場合や
これも見かけ上は「善」を偽装しながら
その実〝邪悪な悪〟そのものであることもある場合である
現在その典型的にも見える実例が
あからさまなかたちで表れてもいるのだが
それをどのように捉えればよいのか
大きな問いがわたしたちの前に提出されている
その「悪」についての観点の一端については
明日とりあげてみることにしたい
■廣井亮一『悪さをしない子は悪人になります』
(新潮新書 新潮社 2023/1)
■ライアル・ワトソン(旦敬介訳)
『ダーク・ネイチャー―悪の博物誌』(筑摩書房 2000/11)
(廣井亮一『悪さをしない子は悪人になります』〜「はじめに————非行少年と「悪」」より)
「私はかつて家庭裁判所調査官として、「悪」と呼ばれる数千人に非行少年たちと関わってきました。大学に転じてからは、研究の一環としてスクールカウンセラーや教育相談、子育て相談をしてきました。また、成人の犯罪者の心理鑑定などを通して、犯罪者が生まれてから事件を起こすまでの詳細な生育歴を調査してきました。そうしたさまざまな非行少年、犯罪者の臨床実践を通して痛感していることは、現代の家庭、学校、社会の、子どもの「悪」に対する包容力の欠如です。
子どもたちは、強いー弱い、明るいー暗い、早いー遅いという、多様な軸を豊かに生きることによって、「総体としての生身の人間」として成長していきます。そのどの軸が分断され、排除されても、子どもたちはバランスを失ってしまいます。
それでも近年、不登校については、登校できない子も登校できる子も同じクラスメートとして支援しなければなたないという姿勢と体制を、ようやく学校と社会は獲得しました。学校にスクールカウンセラー等を配置して、学校臨床に本格的に取り組み始めたことがその表れです。もちろん障害のある子どもにはそれぞれの障害に応じた援助がなされています。そのようにして私たちは、子どもたちのさまざまな軸を連続線として認め、受け止めようとしています。
それにもかかわらず、全く受け止めることができないのが、子どもたちの「善いー悪い」の軸です。むしろ現代社会においては、「善」と「悪」を峻別し、「悪」を排除するだけの姿勢を強めているように思われます。
たしかに、非行・犯罪は人と人との関係を破壊し、私たちが安心して暮らせる社会を危うくする「悪い行為」ですから、法によって人の行為に規範(ルール)が示されています。しかし、法の理念としてよく言われる「罪を憎んで人を憎まず」の通り、法が制限しているのはあくまでも「行為」に対するものであり、人の内にある「悪」を制限してはいません。悪いことをしなければ、いくら悪いことを考えていても構いません。
しかし、今の社会の非行少年に対する対応を見ると、「非行を憎んで、非行少年を排除しろ」と声を上げているかのようです。それに対して、現代の非行少年が凶悪重大事件をたびたび起こしているのは、人の内にある「悪」が力で抑え込まれて排除されていることの反動のようにも見えます。「悪」を押し潰された少年たちがさまざまな非行・犯罪を起こして、欠如した「悪」の部分を取り戻そうと試みているようにも思われるのです。
非行少年の更生、非行臨床の実践のポイントは、「悪」を排除するのではなく、総体としての生身の少年に「悪」を正しく位置付けることなのです。そうした関わりによって、彼らは「悪」の意味を知り、「悪い行為」を自らコントロールしながら更生していきます。」
(廣井亮一『悪さをしない子は悪人になります』〜「Ⅰ 悪理学」より)
「動物行動学、生態学をもとにしながらさまざまな観点から「善」と「悪」について考察したL・ワトソン(Watson,L.1995 『ダーク・ネイチャー————悪の博物誌』旦敬介訳、筑摩書房 2000)は、善良なものが腐敗して邪悪なものに転じる契機を「悪理学の三原理」として次のように提示しています。
第1原理:よいものは、場所を移されたり、周囲の文脈からはずされたり、本来の生息環境からどけられたりすると悪いものになりやすい。
(・・・)
第2原理:よいものは、それが少なすぎなり多すぎたりすると非常に悪いものになる。
(・・・)
第3原理:よいものは、お互いに適切な関係をもてなかったり、つきあいのレベルが貧困化したりすると、きわめて悪質なものになる。
(・・・)
ワトソンによれば、こうした「悪」の捉え方はアリストテレスの倫理学に通じるものだと言います。アリストテレスの倫理学は「黄金の中庸」という「ちょうどよい分量」をよしとします。中庸の範囲内に収まっているかぎりにおいて、よいものになるということです。何事も「ほどほど」がいいのです。そして、「よい在りよう」とは、よい者のみが生き残れるということではなく、悪い者も含めてさまざまな者が生きられる環境だといいます(アリストテレス『ニコマコス倫理学』(上)高田三郎訳、岩波文庫 1971)。
したがって、「善」と「悪」は相対的なものであり、「善」は「悪」の反対物ではなく、両方ともが存在するフィールドの一部分なのです。「善」が質的、関係的にシステムとしてのバランスを崩したときに「悪」に転じるわけです。この考え方によれば、人間の場合は「人」及び「人と人の関係」における「善」と「悪」を包括して捉えなければならない、ということになります。悪理学からすれば、「悪」を排除して「善」だけを求めようとしたら、より〝邪悪な悪〟を生み出すことにしかなりません。」
(廣井亮一『悪さをしない子は悪人になります』〜「おわりに」より)
「Ⅰ部「悪理学」は、本書のタイトルにした「悪さをしない子は悪人になります」とはどういうことなのかを、子どもの「悪」と非行・犯罪との関係についてさまざまな事例をもとにしながら解説しました。
子どもが非行少年・犯罪者にならないようにするためには、子どもの「悪」を圧し潰したり排除したりするのではなく、親や教師らとの関わりのなかで「総体としての生身の子ども」に「悪」を位置付けることが秘訣だということを、事例を通して分かりやすく解き明かしたつもりです。
Ⅱ部「非行を治す」では、Ⅰ部をもとにしながら子どもが非行の兆候を示したり非行化した場合の対応について、家族、学校、司法関係機関の各段階における解決方法、治し方について具体的に説明しました。」
◎廣井亮一
立命館大学特任教授。1957年新潟県生まれ。新潟大学人文学部卒業後、家庭裁判所調査官として18年間務める。その後、和歌山大学助教授、京都女子大学准教授を経て、2008年に立命館大学教授に。22年より現職。臨床心理士、博士(学術)。専門は司法臨床。