東畑開人「贅沢な悩み」新連載第2回 「1章 贅沢な方法————臨床エセーと病める魂」 (「文學界 2024年2月号)
☆mediopos3343 2024.1.12
臨床心理士・東畑開人の連載「贅沢な悩み」の
第二回目は「臨床エセーと病める魂」
臨床的に考えるとき東畑氏は
「三つの思考回路を発動させている」という
ひとつめは
「病める魂の視点から世界を見る」
ふたつめは
「根源的な価値軸の問題」で
「芸術家が「美−醜」の軸で、
宗教者が「善−悪」の軸で、
科学者が「真−偽」の軸で、
政治家が「友−敵」の軸で物事を考えるように」
東畑氏は、「「健康−病気」の軸で物事を考え、判断する」
みっつめは
「一般論ではなく、個別性を問題とする」
そうして「個別的に、具体的に、
この人がどうすれば少しは生きやすくなり、
何をしない方が安全であるのか」
「ひたすらに個人的なことを
個人的に考えることを続けている」
そうすると
「個人の底が抜け、天と地が逆転する」
「個人的なことを考えていはずが、
社会について、世界について、つまりみんなについて
考えていたことに気がつく」
「病める魂の側から世界を見ていると、
健全な心たちの世界に潜むゴツゴツが明るみに出る。
そのゴツゴツが愛というものを、自由というものを、
あるいはお金というものを、
今までと違ったように見せてくれる」
というのである
ところで今回この
「臨床エセーと病める魂」をとりあげたのは
個別の臨床における「健康−病気」についてではなく
「病める社会」におけるそれについて考えるためである
世界は現在黙示録的な病の淵にあり
日本はそのなかでも頭抜けた病に冒され
その主要因は政治的なものだともいえるだろうが
いうまでもなくその政治/政治家を
暗につくりだしているのは
そうした政治を行わせている国民であるともいえる
あえてそうした「病める社会」をつくりだしている
政治家・官僚・メディア・医者・科学者・宗教家
さらにいえばそれらからの情報を鵜呑みにする者
そうした「病める魂」の視点に立って見るとどうだろう
暗澹たる現状について嘆くのは後回しにして
そうした視点から「社会」を見続けてみることで
さまざまな「根源的な価値軸」の様相
そしてそれぞれの固定化されがちな価値軸について
「今までと違ったように」見えてこないだろうか
悪とは時機外れの善だということもいわれるが
おそらく「病める魂」の価値軸は「時機外れ」
あるいは行使の仕方が病んでいるともいえる
そこには「悪の自覚」が欠如しているともいえる
悪への単なる憎悪や恐れは
それに呪縛されるということでもある
社会は恐れ・不安・憎しみ・怒り・抑鬱・恨み
そうした低次の感情によって操作され
さまざまな争いや戦争や奴隷状態が生み出されてしまう
おそらく重要なのは
そうした「病める魂」の価値軸に
いかに同調しないでいられるかだだろう
「病める魂」「病める社会」の視点で見ることで
アンチという逆の同調もふくめ
それらから自由でいる可能性を
ひらくことができるのではないか
■東畑開人「贅沢な悩み」新連載第2回
「1章 贅沢な方法————臨床エセーと病める魂」
(「文學界 2024年2月号)
■モンテーニュ(原二郎訳)『エセー(二)』(岩波文庫 1965/11)
■W.ジェイムズ(桝田啓三郎訳)『宗教的経験の諸相 上』(岩波文庫 1969/10)
(東畑開人「贅沢な悩み」より)
「われわれのふつうの仕方というのは、その好みのままに、左へ、右へ、上に、下にと、その時々の風に吹かれるままに、あちこちの方角に運ばれていくことだ。
(モンテーニュ『エセー』2巻1章 われわれの行為の移ろいやすさについて)」
*****
臨床エセー。それは我が国の臨床心理学や精神医学で連綿つ受け継がれてきた「方法」だ。
(・・・)
もちろん、メインストリームではない。主流には学術論文がある。
(・・・)
その一方で、この業界には、自分の身辺で起きたこと、読んだ本やミ見た映画、そして臨床で起きたことについて、グルグルと考えを巡らせるエセーの伝統がある、自分の体験を振り返り、話を行ったり来たりさせる中で、あるテーマを深掘りし、人間についてのある種の思想を提示する。」
*****
「臨床的に考える。
そのとき、私は次の三つの思考回路を発動させている。
根源にあるのは、「病める魂」の視点から世界を見ることだ。
これはウィリアム・ジェームズが「健全な心」と対比して使った言葉である。ジェームズ自身が病んだ魂の持ち主と健全な心の持ち主という別タイプの人間がいて、彼らがそれぞれに宗教に対して異なる態度をとることを論じたのだが、私はもうちょっと広い意味合いでこの言葉を使いたい。
素朴な言葉を使うならば、人には元気なときと具合の悪いときがあって、それぞれで世界の見え方が全然違うということだ。元気なときに世界を見ているのが健全な心で、具合の悪いときに世界を見ているのが病める魂。
(・・・)
二つ目は、根源的な価値軸の問題だ。芸術家が「美−醜」の軸で、宗教者が「善−悪」の軸で、科学者が「真−偽」の軸で、政治家が「友−敵」の軸で物事を考えるように、面接室にいるときの私は「健康−病気」の軸で物事を考え、判断する。
結局のところ、臨床家の関心はいつも「治療」とか「支援」にあるのだから。クライエントにとって、それは健康にいいことなのか、悪いことなのか。今生じているのが、病的な心の働きなのか、健康に向かう心の働きなのかを、逐一判断しないといけない。
(・・・)
ここが最後のポイントだ。
この人について考える。
つまり、一般論ではなく、個別性を問題とする。原理主義ではなく、ケース・バイ・ケースで考える。
臨床駅に考えるとは、目の前のこの人の場合はどうなのかと考えることだ。この人の経済状況がどれほどのもので、多やれる人間関係がどれくらいあり、仕事はどれくらい融通が利くのか、そういう様々な個別の事情を鑑みたうえで、この人にとって「健康にいい」とはどういうことなのかを実務的に考える。」
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心の臨床家とは病める魂の再度に立って世界を見て。「健康にいいか。悪いか」の軸で物事を判断し、かつそれを一般論ではなく、個々人の事情に合わせて、実務的に考えようとする人のことである。
毎日毎日、いろいろな人に会う。面接室のいつもの椅子に座ると、思考のモードが変わる。病める魂の側から世界を眺め始める。
私はあくまで実務的な仕事をしている。個別的に、具体的に、この人がどうすれば少しは生きやすくなり、何をしない方が安全であるのかを考えている。ひたすらに個人的なことを個人的に考えることを続けている。
すると、ふしぎなことが起きる。
ときどき、個人の底が抜け、天と地が逆転するのだ。
あくまでこの人について実務的に考えていたはずなのに、いつの間にか哲学的なことを考えはじめている自分に気づく。個人的なことを考えていはずが、社会について、世界について、つまりみんなについて考えていたことに気がつく。
たとえば、夫を愛することができない女性のカウンセリングをしている。その女性がこれまで愛してきた人について聞き、その愛がどのようにして壊れてきたのかを聞く。夫がどういう人であり、その人の愛がどのようなものであるのかを聞く。個別的、実務的に病める魂にとっての愛を考えることを続け、長く長く話し合いを続ける。すると、あるとい、ふと問い始めてしまっているのは。
「そもそも愛とは何か?」
同じように、言葉とは何か、自由とは何か、お金とは何か、神とは何か、そして、生と死とは羽仁かと、そもそもを問わざるを得ないときが、臨床にはある。
病める魂の側から世界を見ていると、健全な心たちの世界に潜むゴツゴツが明るみに出る。そのゴツゴツが愛というものを、自由というものを、あるいはお金というものを、今までと違ったように見せてくれる。
そういうとき、臨床的に考えることは、この人を超えて、人間そのものについての思索になる。
ここにエセーが始まっている。実務的にこの人を考える臨床の場が、ときどき哲学的にみんなのことを考えるエセーの場になっている。
どういうことだろうか?」
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