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岩野卓司「ケアの贈与論」〜「連載第8回/フロイトの介護論」「連載第9回/介護殺人」(法政大学出版局 別館(note))

☆mediopos3685(2024.12.21.)

法政大学出版局 別館(note)で連載中の
岩野卓司「ケアの贈与論」

今回は
「連載第8回/フロイトの介護論」
「連載第9回/介護殺人」
について

第8回では「フロイトの介護論」(『トーテムとタブー』)と
マルセル・モース『贈与論』とをつなげる
「ケアの両面性と贈与の両面性」について論じられている

フロイトは『トーテムとタブー』において
家族のケアをする者には
「一生懸命に愛情をむけ細やかに心を配り介護した者でも、
自分が至らなかったから愛する者は死んでしまったのではないか
という苦しみに苛まれる」ように
相手への愛情が強ければ強いほど呵責の念も強くなるといい
それを「人間の感情の動きのアンビヴァレンツ」と呼んでいる

無意識のメカニズムにおいて
「相手への愛情が強ければ強いほど、
愛情のもうひとつの面である憎しみも強くなる」ということである

そして「ケアにおいて自責の念にとらわれるのと、
人が幽霊を怖がるのには、同じ理由」があり
「両方とも、無意識における敵意が原因」だとしている

ケアにおいて贈与は重要な役割を果たし
家族が世話をする場合はとくに
「無償の贈与」と呼ばれたりもするのだが

ケアの贈与は相手にも自分にも
喜びをもたらすという両面性があって
『贈与論』の著者マルセル・モースが示唆しているように
贈与は毒でもあるという両面性をもっている
(Giftは贈り物でもあり毒でもある)

「善意からの贈与が、本人の意図とは裏腹に、
相手を潰したり破滅させたり」もするのである

その意味において
「愛情と敵意は、表と裏の関係」であり

「どんなに理想化しようとも、
無意識のうちの敵意が織り込まれ」ているように
「贈与や愛情の両面性は、
ケアの両面性につながっている」

第9回では2012年8月に起きた「介護殺人」の事件から
家族の間や家族と社会の間における
無償の贈与がはらむ「毒」について論じられている

「介護が行き詰って、家族を手にかけたという悲劇」がある

「介護殺人は決して他人事ではない。誰にでも起こりうる」
「多くの介護者は殺人を犯しはしない。
だが、ごく普通の人が介護をしているうちに疲労していき、
精神的に追いつめられて鬱状態になり、
犯行に至るケースがある」のである

毎日新聞が2015年12月中旬ごろから
介護家族にアンケートを実施したところ

「介護している家族を殺してしまいたいと思ったり、
一緒に死のうと考えたりしたことがあります」
という質問に「はい」と答えた人は20%あったという
介護者が不眠に悩んでいる場合はさらに高く38%にもなる

介護殺人について長年研究している湯原悦子は
「介護殺人」を「『やさしい』暴力」と名づけ
「ケアや贈与の両面性(肯定と否定)を考えなければならない」
としている

そうした示唆を踏まえ岩野卓司は
「「介護殺人に至らないようにするにはどうしたらいいのか。」
について
①第三者の介入
②介護者が休息を取れるようにする
③高齢者の介護施設を増やす
といったことが必要だとまとめているが

さらに付け加える必要があるのは
「家族であることの呪縛」という視点だという

現在のところ殺人事件の件数は減っているのに対し
親族間の殺人は増加している

「家族のように相手との距離が近いと、
愛情の濃い関係を築けたりするが、
この愛情の歯車が一度狂うと強い憎しみが生まれて、
愛情は攻撃性や殺意へと変わっていく」

まさに愛情と敵意は表と裏の関係にあるのである

その点に関して
家族のあり方や
家族と社会の関わり方が
考えなおされなければならない

家族のあいだにも
そして家族と社会のあいだにも
贈り物/毒・愛情/敵意という両面性があり
その両面性について無意識であるとき
ときにその「裏」の側面が噴出し
じぶんでは制御できなくなってしまうことがあるからである

■岩野卓司「ケアの贈与論」
「連載第8回/フロイトの介護論」
「連載第9回/介護殺人」
 (法政大学出版局 別館(note))

**(「連載第8回」より)

・幽霊の怖さ

*「昔、ある本で原爆と幽霊とではどちらが怖いかという話を、読んだことがある。核兵器は大量殺戮どころか、人類の破滅までもたらす可能性があり、考えてみると怖くなる。しかも、そのことについて科学的根拠もある。それに対して、幽霊は存在するのかどうかもわからない。その存在は科学的に証明されてはいない。しかし、正体がわからないから怖い、という意見もある。

 幽霊を信じるのは、迷信だと言う人もいるだろう。しかしそうは言っても、やはり多くの人が幽霊を怖がる。確かに、宗教や呪術への信仰が強い、古代人や先住民たちのほうが幽霊への恐怖心は強いだろう。だが、宗教心が薄らいだ現代でもなおも幽霊を怖がる人はよく見かける。幽霊が怖い理由のひとつには、「恨めしや」の言葉で語られるように、幽霊が恨みや憎しみと結びついたネガティブな存在だと見なされていることが挙げられる。幽霊がみな天使であったら、だれも怖がらずに友達になっているだろう。だが、ふつう幽霊は悪霊や鬼であったりする。どうして、生者が死者になった途端、恐ろしい存在になってしまうのだろうか。

 これについて、精神分析学のフロイトはひとつの答えを用意している。幽霊が恐ろしい存在であるのは、僕らの心の奥底の敵意が幽霊に投射されているからである。つまり、僕らが死者の幽霊を怖がるのは、この死者への僕らの無意識の敵意が、恐ろしい幽霊というかたちをとってあらわれるからなのである。」

・愛する者のケア

*「無意識の敵意を理解するために、『トーテムとタブー』の一節を読んでみよう。これは愛する者を一生懸命看病したが先立たれてしまった者たちの例である。

****
妻が夫を亡くしたり、娘が母を亡くしたりしたとき、後に残された者は、自分の不注意や怠慢のせいで愛する者が死んでしまったのではないのかという痛ましい疑念──われわれはこれを「強迫呵責」と呼んでいる──にとらわれることがよくある。心細やかに病人を看病したことを思い出しても、言われるような罪もないと事実に即して否定しても、この苦痛は終わることはない。この苦痛は、喪の悲しみがどこか病理的であることを表している。それは、長い時間をかけることでしだいに消えていくものなのである。
 これは、多かれ少なかれ家族のケアをする者に訪れる疑念であろう。一生懸命に愛情をむけ細やかに心を配り介護した者でも、自分が至らなかったから愛する者は死んでしまったのではないかという苦しみに苛まれる。もっと一生懸命介護すべきだったのにとか、もっと注意深く看病すべきだったのにとか、自分の心のなかで自分を責め立てるのだ。相手への愛情が強ければ強いほど、呵責の念は胸に迫ってくると言えるだろう。この呵責の念をどう考えていくべきであろうか。
****

 フロイトは呵責の念を精神分析の視点から解釈している。こういった呵責の念をどう否定しても否定しきれないのは、それ相応の正当な理由があるからである。もちろん介護において怠慢や不注意があったというわけではない。しかし、そこには無意識の動機が見いだされるのだ。

 やはり喪に服する人のなかに何かがある。それは自身には意識されない願望、死を不満としないし力さえあれば死を招き寄せたであろう願望である。愛する者が死んだあと、こういった無意識の願望を抱いたことへの呵責の念があらわれるのだ 。

 やさしい愛情の背後には敵意が存在する。これは家族のように愛情のきずなが強ければ強いほど、その背後にある憎しみの気持ちは強いからである。介護において愛する人に心から尽くしても、その死後に呵責の念にとらわれるのは、介護者が心の底で抱いた殺意について無意識は彼らを容赦なく責め続けるからである。相手の死を望む無意識の願望が、死後に仮装したかたちで今度は当人に向かってくるというわけである。

 これをフロイトは「人間の感情の動きのアンビヴァレンツ」と呼んでいる。これは何も特別なものではない。誰にも見られるものなのである。僕らの愛情には両面があり、愛情は裏側の面の憎しみと組になっている。愛情においてふだん憎しみを感じないのは、意識が憎しみを抑圧しているからであり、組になっているもうひとつの面を完全に失っているからではない。愛する人と喧嘩したあと、相手への憎しみが収まると、自責の念がこみあげてくるのは、愛情の下で再び抑圧された憎しみが無意識のうちに自分に向かってきて攻撃するからである。こういった愛と憎しみのアンビヴァレンツは、感情の動きが激しくなればなるほど強くなる。つまり、相手への愛情が強ければ強いほど、愛情のもうひとつの面である憎しみも強くなるのだ。介護というケアにおいては、看病する方が相手に強い愛情をそそげる。だがその反面、何かひとつ躓きの石があると、この強い愛情が強い憎しみに変わる。そしてそれが、暴力となってあらわれる場合もあるだろう。

 誰もが無意識のメカニズムにおいて、こういう両義性を生きている。どんな人でも、ふだんは否定的な感情を無意識に抑圧している。だから、無意識に潜む殺意というものは、決して異常なものではない。フロイトのエディプス・コンプレックスの理論によれば、誰もが幼少期に異性の親への近親相姦の願望と同性の親への殺意をもっているのだが、実際にそれらを実行する者は極めて少ない。ソフォクレスの『オイディプス王』では、主人公のオイディプスは運命の悪戯から知らないうちに父を殺し母と交わるのだが、フロイトによれば、この作品が現代に至るまで多くの人の心を揺さぶるのは、誰もが幼少期に抱いた願望が実現されているからである。しかし、このコンプレックスは無意識へと抑圧され、実際にはたいていの人はオイディプスにはならない。

 それと同様に、強い愛情が存在するところには、無意識のレベルで強い憎悪も併存しているが、それが殺人に至るケースは稀である。愛情をこめた介護においても同じである。しかしながら、フロイトを援用すれば、僕たちは誰でも潜在的に殺害者であることを自覚すべきである。この意味でケアは潜在的には大変危険な行為にほかならない。ケアから「不安や心配」を取り除き、「充足や喜び」のみを見ようとすると、この危険を覆い隠してしまう。本当は、二つの面はつねに二重になっているのである。

 だから、ケアにおいて自責の念にとらわれるのと、人が幽霊を怖がるのには、同じ理由がある。両方とも、無意識における敵意が原因なのである。それまで愛情をもって看病していた愛する人が死んだあと、幽霊になってこちらに危害を加えるという強迫観念にとらわれるのは、相手の死を無意識のうちに願った敵意が、相手の死後、仮装したかたちで自分のほうに向かってくるからである。一生懸命に看病した相手が死んだあと、良心の呵責を覚えるのも、無意識のなかに潜む殺意が、相手の死後に自分を攻撃し続けるからである。それは、幽霊のかたちをとるか、あるいは自責の念となるかどうかの違いなのである。」

・ケアの両面性と贈与の両面性

*「ケアにおいて贈与は重要な役割を果たしている、とすでに述べた。介護する者は、介護される者に贈与やサービスをするのだ。それはしばしば、「無償の贈与」と言われる場合もある。家族が世話をする場合はその傾向が強い。

 ところで、ケアは両面的な性格をもっていた。そうであるならば、ケアの両面性は贈与ともかかわりをもっているのではないだろうか。たしかに、平川克美は父親の喜ぶ姿を見たくて料理を一生懸命つくったことから、贈与は相手に喜びをもたらすためのものであり、それによって自分も喜びを受けとると考えていた。最首悟も人は自発的に人のために何かをすることにいちばん喜びを感じると主張していたから、ここでも贈与は人を喜ばせることで自分も喜ぶことだろう。ケアの肯定的な面は、贈与と喜びを結びつけていた。それはその通りだと僕も思う。

 しかし、贈与は喜びをもたらすだけであろうか。たしかに、喜びをもたらす面もあるだろう。サンタクロースは、イヴの晩にプレゼントを子供たちに与えることで彼らに喜びをもたらしてくれる。記念日に愛する人にプレゼントを渡すのも相手を喜ばすためだろう。賄賂のような不当な贈与も相手にプレゼントを贈り歓心をかうことで自分も利益を得ようとすることだろう。

 だが、贈与はそれだけではない。もっと危ない面がある。贈与の人間関係においては、贈与する者が受け取る者に対して優位に立つのである。日常の貸し借りを考えてみても、受け取った者は贈与した者に対して負い目を持ち続け、お返しをしないとこの負い目は解消できない。北米の先住民の風習にポトラッチというものがあるが、この風習ではある部族の首長が別の部族の首長に贈り物を贈ったら、受け取ったほうの部族の首長はそれを屈辱と感じて対抗の贈与を相手におこなう。ここでは贈与とは、相手を辱めることでもあるのだ。だから、贈与が相手を喜ばせ自分も喜ぶという主張だけでは、見方がまだ不十分と言えるだろう。
『贈与論』の著者マルセル・モースは、贈与の両面性に気づいていた。彼は、ゲルマンの諸言語において贈与(Gift)という語が二つの意味を持つこと、に言及している。

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与えられたり渡されたりしたものが表す危険を、とても古いゲルマン法やとても古いゲルマン諸言語ほど感じさせるものはたぶんない。このことは、これらの言語全体におけるgiftという語の二重の意味が説明してくれる。この語は、一方では贈与を意味し、もう一方では毒を意味している。私たちは別のところでこの語の意味の歴史について論を展開した。不吉な贈与、毒に変わる贈り物や財産のテーマは、ゲルマンの伝承において基本的なものなのである。
****

 ゲルマンのgiftはある真実を告げている。贈与は毒でもあるのだ。本来は相手に富をもたらし、そこから人間関係が生まれるはずの贈与が相手に不幸をもたらし、与えられた富が毒に変わってしまうのだ。モースが挙げる例のひとつは、ゲルマン神話『ニーベルンゲンの歌』に基づいて創作された、ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪』のなかで、ラインの黄金を手にした者が破滅し、ハーゲンによって与えられた酒盃が英雄ジークフリートの死を招く原因となるという話である。もうひとつは、北欧神話『エッダ』の英雄の一人フレイズマルがロキに対して、悪意からの危険な贈り物を受け取る前にお前を始末すべきだったと嘆く話である。モースはこういった贈与の危険性が現代の僕らも縛り続けていると考えてこう述べている。「ゲルマンとケルトの、おびただしいこの種の民話や物語はいまだ私たちの感性に取り憑いているのだ」。現代の僕たちもなお毒としての贈与に縛られているのだ。

 ただ、モースは贈与の毒においても、悪意ある意図について考えているが、それだけでなく、無意識における悪意にまで広げて、贈与について考えるべきだろう。不吉な贈り物は、善意からでもそこに隠されている無意識の悪意に由来する場合もあるだろう。そういったとき、善意からの贈与が、本人の意図とは裏腹に、相手を潰したり破滅させたりすることにつながるのだ。贈与の両面性については、モースにフロイトを接続する必要があるのではないだろうか。

 愛情と敵意は、表と裏の関係と言えよう。これは贈与と毒の関係と同じである。愛情も贈与も一元化して美化できない。どんなに理想化しようとも、無意識のうちの敵意が織り込まれているのである。贈与や愛情の両面性は、ケアの両面性につながっている。フロイトが愛する者への献身的な介護に見つけた、相手の死を願う欲望は、贈与を特徴づけている毒や敵意と軌を一にしているのだ。ケアの両面性の根本には、この贈与の両面性が存在している。だから僕らは、汚い危ないものを避けずに直視しなければならないのだ。」

**(「連載第9回/介護殺人」より)

*「ケアにはネガティブな面がつきものである。

 汚物の処理のような嫌な作業、言うことを聞かないどころかこちらを罵倒する相手、経済的にも困窮していく不安、自分の時間が奪われていくことへの口惜しさ、体力的にも精神的にも限界を感じる気持ちなど、ケアには多くの苦労がつきまとう。ここから心が折れてしまって、介護虐待、さらには介護殺人に至る痛ましいケースが見られる。

 その背景には、まわりへの迷惑を考え気兼ねする家族中心の考え方、日本社会の特徴である「死」による問題解決、介護離職などによる経済的困難と先行きの不安、介護の長期化による疲労とストレスが引き金となるノイローゼや鬱病などがある。ケアされる者とケアする者が孤立していき閉じた世界をつくり周囲と十分なコミュニケーションをとれなくなってしまっていることが原因だとも言われている。

 毎日新聞大阪社会部が取材した記録からなる『介護殺人──追いつめられた家族の告白』では、介護が行き詰って、家族を手にかけたという悲劇が綴られている。これは、毎日新聞の記者たちが、殺人の加害者や関係者に取材してまとめたものである。」

・1 認知症の妻の介護がもたらした悲劇

*「まずひとつの事件を取り上げてみよう。

 2012年8月におきた事件である。妻は認知症になり、人格が変わってしまい、夜になると大声で怒鳴り散らすようになった。近所から苦情があり、夫が妻を一晩中ドライブに連れ出して過ごした。睡眠不足や過労から、精神的にも肉体的にも打ちひしがれた夫は、とうとう妻を絞殺するに至ったのだ。」

*「事の経緯をもう少し補うと、夫は時計店で長く働いていた職人であり、真面目な人であった。夫婦には三人の子どもがいたが、事件の頃はみな独立している。夫の定年退職後に夫婦で旅行をするのが、二人の楽しみであった。

 しかし、2009年ごろから、妻におかしな行動が見られるようになった。タンスの引き出しを繰り返し開閉したり、使わないアイロンを用意したりすることもあった。パート先の飲食店で簡単な注文を取りちがえたりもした。通っていたスイミングクラブでは、水着の着替えができなくなってしまった。

 2年後には原付きバイクの事故で妻は骨折した。その頃から、認知症の症状がひどくなる。下着だけで家の外に出ていったり、外でお漏らしもしたりするようになった。そこで要介護1の判定をもらい、デイサービスを利用するようになった。

 2012年春から病状は悪化する。妻は怒りっぽくなり、特に腹が減ると怒鳴り出すようになった。入浴、着替えも一人でできなくなり、介助が必要になった。おむつを着用していたのだが、便や尿がもれて部屋を汚してしまうようになった。その結果、要介護4に認定される。

 5月になると、夫が誰だかわからなくなる。汚い言葉でののしるようにもなり、夫は「お前」と言われるようになってしまう。6月に入ると、睡眠障害に陥り、夜中に大声で夫を怒鳴るようになった。最初は効果のあった睡眠導入剤も効かなくなる。うるさいとの苦情が近所から寄せられたので、深夜にドライブに連れ出す。以降、車の中で妻が眠るようになった。

 7月末、夫は深刻な体調不良となる。身体的、精神的疲労の限界に達する。深夜のドライブのつけがまわってきたのだ。ケアマネージャーから介護施設に妻を預けるように勧められる。しかし、受け入れ施設が見つからない。年金で入れるような特養(特別養護老人ホーム)は空きがない。民間介護施設は高額なのでとても手が出ない。ショートステイのほうも探してみたが、夜大声で叫ぶという理由で断られる。結局は自分で介護するしかないと、夫はさらに精神的に追い詰められていった。
 8月にとうとう事件がおきてしまった。夫は殺人罪で起訴されたが、執行猶予付き判決がおりる。

 これが事件のあらましである。こういった痛ましい事件は、2009年から2019年までの統計によれば、年間20件から30件起こっている。在宅で介護している人の数からいうと、割合は高くはないかもしれない。しかし、介護殺人は決して他人事ではない。誰にでも起こりうるのだ。もちろん、多くの介護者は殺人を犯しはしない。だが、ごく普通の人が介護をしているうちに疲労していき、精神的に追いつめられて鬱状態になり、犯行に至るケースがあるという事実を忘れてはいけない。

 姫路でおきた事件は、この事実を雄弁に語っているのだ。」

・2 新聞連載を読んだ人たちの投稿、介護家族へのアンケート

*「取材の結果は、まず「介護家族」というシリーズ企画として毎日新聞に連載されたが、読者の反響は凄まじいものだった。投稿した読者の多くが、犯人と自分を重ね合わせており、ひとつ間違えれば自分が犯人だったかもしれないという苦悩を綴っている。ふたつ取り上げてみよう。

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母の鼻と口を布団でふさいだら、楽になれる…と考えている自分に気づきます」
 脳出血と体がまひした母親を11年間、自宅で介護している看護師の女性(48)はB5サイズの紙2枚にびっしり書き込んだ手紙をよせた。
本書の第二章で取り上げた、寝たきりの母親を約10年間介護した末に殺害した藤崎さなえの記事を読んで、自らを重ねた。そして、何度も何度も読み返したという。「涙が止まりませんでした。まさに彼女は私でした。記事にいやされ、救われました。
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それから次のようなものもある。

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認知症の母親を4年半にわたり介護している女性(53)はメールで体験を送ってきた。約30年前にも認知症の祖母を介護したが、何度も「殺したい」という衝動にかられた。「比較的、楽な介護生活を送っていた私でさえ『殺してしまうかもしれない』という恐怖は常につきまとっていた」と明かした。
 このように実際に殺人や心中に至ってなくても、殺人の願望を抱いていた者は多数いるのだ。こういった介護者たちが家族を虐待していたわけではない。誠実に介護した結果、精神的、肉体的、経済的な負担からこういった殺意を意識するようになるのだ。献身的に贈与やサービスをする善意が、おぞましい殺意へと変化しているというわけである。
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 2015年12月中旬ごろから、毎日新聞は全国の支援団体の協力の下で、介護家族にアンケートを実施した結果、254人から回答を得たという。

 そのなかで最初の重要な質問は、「介護している家族を殺してしまいたいと思ったり、一緒に死のうと考えたりしたことがあります」である。
 この問いに「はい」と答えた人は20%(48人)もいた。どんな時に殺人・心中を考えたかの問いに対しては、複数回答可で、一番多い答えが「介護に疲れ果てた時」で77%(37人)を占めた。次に、「将来への不安を感じた時」が40%(19人)だった。

 このように、介護者のうち20%が何らかの形で殺人の願望を抱いたことになる。介護者が不眠に悩んでいる場合、この比率はさらに高まり、38%となる。

 アンケートの自由記述欄に書いてあった介護者の告白には次のようなものもあった。

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 在宅介護をして約5年。母親は徘徊を繰り返した。外に飛び出す母親を目の前にして「いっその事。車にはねられたらいいのに」と思ったこともあった。
 今は、そんなことを願った自分を責めているが、地獄の日々だったと綴る。
「介護ヘルパーさんは短時間で帰ってしまう。人手不足、予算不足は認識しているが、10年後、20年後を想像すると、自分も長生きしたいと思わない。切に行政に考えてもらいたい
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 ここからも介護殺人が決して特殊な人たちが犯すものではなく、誰もがそれを犯す危険があることが分かるだろう。

 実際に殺人を犯してしまった者たちも、『介護殺人──追いつめられた家族の告白』によれば、献身的な介護をしていた人たちであった。それが一人で負担を背負い込んでしまったり、不眠の状態が長く続いてノイローゼだったり、施設もどこも満員で患者をあずけられなかったり、といった理由が複合的に介護者を蝕んでいったのだ。最初に長く引用した姫路の事件の加害者である木村茂(仮名)はインタビューに答えてこう述べている。「介護は一生懸命にやればやるほど、自分に余裕がなくなるんです」。また、ここでは事件を取り上げなかったが、夫の命を奪った山下澄子(仮名)は、「なんでだんなを殺したのか、いまもわからへん。ただな、寝る間もない介護で、おかしくなっていたのは間違いない」と答えている。彼らはそれぞれ、あまりに献身的な贈与や自己贈与をおこなったから、精神的に追いつめられていき、殺害という暴力に至ったのだ。

 介護殺人について長年研究している湯原悦子は、『介護殺人 ―司法福祉の視点から』のなかで、この暴力を「『やさしい』暴力」と名づけている。まさにその通りである。しかし、暴力は暴力であり、刑罰の対象になるのだ。こういった献身が生む暴力を考えるために、ケアや贈与の両面性(肯定と否定)を考えなければならないだろう。この両面性は、それぞれ二つの独立した面ではなく、ある同一物の表と裏の関係にあるのではないだろうか。」

・3 家族のあり方

*「介護殺人に至らないようにするにはどうしたらいいのか。いろいろなメディアや書物で紹介されているが、毎日新聞大阪社会部取材班『介護殺人──追いつめられた家族の告白』と湯原悦子『介護殺人の予防──介護者支援の視点から』(クレス出版)を参考にしながらまとめておく。

 ①第三者の介入が必要な場合が多い。当事者は二人だけの世界をつくっており、客観的な対策を考えられてなくなっている。介護者も身体・精神の疲労で正常な判断ができなくなっているから、ケアマネージャーを中心とした頻繁な介入が必要である。それとともに、介護の悩みやストレスを日常的に相談できる相手も必要である。介護者どうしの集まり、相談会などに行くように呼びかけ、外に開けるようにさせることが重要である。

 ②ショートステイなどを活用して、介護者が休息を取れるようにする。イギリスでは「レスパイトケア」の制度がある。レスパイトは小休止の意味であり、この制度は介護者に介護を離れて休んでもらうという趣旨のものである。休んでいる間、介護施設が預かったり、ヘルパーや介護士が訪問して介護をすることが約束されている。夜間の在宅介護を代わってもらうこともできる。日本でもショートステイやデイサービス、夜間の訪問介護は存在するが、介護者に休息の権利を与えるという視点が欠落している。また、具体的な頻度や時間が定められていないし、緊急時や夜間でのサービスの体制もととのっていない。介護者の権利という視点から、支援を法律で定める必要があるだろう。

 ③高齢者の介護施設を増やすことも挙げられる。年金だけで入れる特別養護老人ホームは圧倒的に少ない。民間の施設は高額なので、誰でも入れるというわけではない。2022年4月の時点で特養も入居待機者は、27.5万人にのぼる。国は社会保障費を節約するために、在宅介護を推進している。その結果、訪問介護、デイサービスやショートステイの施設を増やしたが、介護離職者は2024年には11万人もいる。その理由は、「仕事と介護の両立はむつかしい」と「介護できるのは自分しかいない」というものが多い。国は「介護離職ゼロ」をスローガンにしているが、現実は程遠い。いずれにしろ、介護者の将来への不安を取り除かなければならないだろう。

 もうひとつ付け加えておきたいことがある。それは家族であることの呪縛である。「まずは家族が介護すべきだ」「よそ者が家族の問題に口を出してはいけない」といった家族優先の価値観が今でもはばをきかせている。嫁いできた嫁が子育てと介護をしなければならないという、かつての家父長的な価値観から、育ててくれた親の介護は子どもが「恩返し」としてしなければならないという家族中心の価値観まで、家族がケアを背負いこんでいるケースが多い。そのために、介護離職までして経済的に困窮してしまったり、四六時中介護に追われて、自分の時間をもつ余裕がなくなってしまうケースも多く見られる。家族が余計に閉ざされた空間になっていくのだ。

 今の時代、殺人事件の件数は減っているのに、親族間の殺人は増加している。2019年度は事件全体の54.3%が親族間の殺人である。そのうち33%が介護疲れや金銭困窮による将来の悲観が動機である。自分が我慢すればなんとかなると思い、それが耐えられなくなるとき、愛情が憎悪に変わってしまう。家族であることの甘えが悲劇を招く危険があるのだ。家族のように相手との距離が近いと、愛情の濃い関係を築けたりするが、この愛情の歯車が一度狂うと強い憎しみが生まれて、愛情は攻撃性や殺意へと変わっていくのである。

 介護の場合も、誠実で献身的な介護が殺人に至った例ばかりではない。同居する30代の娘二人が介護放棄して病弱な母親を餓死に至らしめた事件があった。そこには、母と姉の不仲が根本にある。姉は介護しなかったので、妹がひとりで介護するはめになるが、しだいに負担に耐えられなくなり、介護を放棄するようになる。その際に、第三者に介護を委託すればよかったのだが、それもしなかった。その結果、体力を失い衰弱していった母親はとうとう餓死するに至ったのである。ここで根底にあるのは、家族のあいだの不和であり、近いが故に生じる葛藤である。

 家族のあり方、さらには家族と社会の関わり方をもう一度考え直していくべきときが来ているのではないだろうか。介護殺人だけではない。ひきこもり、家族間の暴力、毒親、育児放棄、介護放棄なども、閉域と化した家族のあり方と結びついているのだ。

 介護における贈与も家族の愛情を前提にしている限り、家族のあいだの無償の贈与がいちばん尊いとされがちであるが、この無償の贈与があるとき限界に達して毒に変わってしまう危険を、僕らは常に認識すべきではないだろうか。」

○岩野卓司(いわの・たくじ)
明治大学教養デザイン研究科・法学部教授。著書:『贈与論』(青土社)、『贈与をめぐる冒険』(ヘウレーカ)、『贈与の哲学』(明治大学出版会)、『ジョルジュ・バタイユ』(水声社)、共訳書:バタイユ『バタイユ書簡集 1917–1962年』(水声社)など。

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