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八木幹夫『渡し場にしゃがむ女/詩人西脇順三郎の魅力』

☆mediopos-2429  2021.7.11

永遠の遊歩者(フラヌール)である
西脇順三郎を外して
日本の現代詩は語れない
その詩は読む度に新しい

(詩の世界だけではなく
たとえば井筒俊彦にしても
西脇の影響は無視できないだろう)

いまだにどんなに読んでも
わかったとはいえない側面が
むしろ増えてくるにもかかわらず
読むごとに近しさが増していくのが不思議だ

先日詩人の八木幹夫という少し懐かしい名前と
その西脇順三郎についての著書を見つけたので
興味深く思いさっそく目を通し
その新たな魅力を見つけることができた

かなり前のことにはなるけれど
現代詩文庫『八木幹夫詩集』の刊行された頃
その感想をネットで少し書いたことがあり
そのことで八木氏からメールをいただいたことがあった

そのときには八木幹夫と西脇順三郎は
ぼくのなかでは結びついていなかったかったものの
八木氏は西脇順三郎についての講演などもされていて
本書のなかにも収録されている

そのなかからそのタイトルのなかにある
「しゃがむ女」ということに関連したところを

かつて「しゃがむ」という姿勢は
かなりふつうに見られたというが
たしかにあまり見かけることはなくなった

多田道太郎によれば
戦争直後アメリカ兵は
日本人のしゃがんだ姿を不快に思ったらしい
おそらく未開社会の下品な習俗に見えたのだろう
それもあって日本人から
「しゃがむ」ということが廃れていった

西脇順三郎は「西欧の文化を
深く吸い込んで」きてはいたが
「日本人全体の戦時中の硬直と直立不動」を
目の当たりにすることで
「しゃがむ」に象徴されもする
「戦前の大らかな日本人の暮らしぶり」が
廃れていったことにどこかで
「無意識に「高度文明社会」を拒否する姿勢」を
とろうとしていたのかもしれない

明治以前は歩を揃えて歩くことなどなかったように
日本の近代の歴史というのは
経済的な豊かさのようなものと引き換えに
しだいに「おおらかさ」を失ってゆき
「みんないっしょ」が強制されてくる歴史でもあった

現代でも一見して「硬直と直立不動」ではないとしても
見えない空気の圧力によって
「みんないっしょ」でなけれならないような
「同調圧力」が支配する
管理社会的な方向は強化されるばかりだ

「まがった蔓をまっすぐにすると枯れる」
という意味のことを西脇順三郎はいっているそうだが
「しゃがむ女」の姿はその蔓のような
まがる曲線を象徴しているといえる

西脇順三郎の詩をあらためて読み直してみると
たしかにその詩は「まがった蔓」が「まがった」ままで
ポエジーになっているようにも見え
ますますその詩が魅力的に思えてくる

「まっすぐでなくてはならない」という
同調圧力で圧殺されて「枯れて」しまわないように
「まがった蔓」のままでいられますように

■八木幹夫『渡し場にしゃがむ女/詩人西脇順三郎の魅力』
 (ミッドナイト・プレス 2014/9)
■『西脇順三郎全詩集』(筑摩書房 昭和三十九年九月)
■『八木幹夫詩集』(思潮社 現代詩文庫176 2005/1)

「第二次大戦で日本が敗戦をむかえた二年後、一九四七年、昭和二十二年(この年に筆者は生まれた)八月、西脇順三郎詩集『旅人かへらず』(東京出版)が刊行されました。本書のタイトルはその作品番号〈九〇〉に示された詩篇から取ったものです。

 渡し場に
 しやがむ女の
 淋しき

 一六八篇の詩篇で構成されたこの詩集は作品を順序立てて読もうとしなくても、任意のページから自由に読み始めることのできる不思議な詩集です。連続と断絶。断絶と連続。交互に作品が次の作品を呼び込み、突然日常の出来事が侵入し、物語の持つ起承転結を拒んでいく。長編詩でありながら叙事的要素はほとんどない。詩篇のひとつひとつが独立していて、かつ大きく連続している気配です。詩篇の中には古代、近・現代(洋の東西を問わず)の文学、絵画や交互の記憶が混在しています。芸術、文学へのアレゴリー、揶揄、風刺、カリカチュア。文学上の記憶や人物が時空を越えて現れます。掲出詩も例外ではありません。渡し場は実景でしょうか。昭和二十年代、東京、佃島の渡しならば見られた光景かもしれません。しかし、西脇さんはこれを現代(当時)の東京ではなく、江戸の浮世絵から切り取っています。この作品のひとつ前、〈八九〉にも、

 竹が道にしたたる
 武蔵野の小路に
 国貞の描いたやうな
 眼のつりあがつた女
 に出会ふ
 何事か秋の葉の思ひ
 今宵の夢にみる
 くちた木の橋に
 あかのまんまの色あせる

と武蔵野の散策を描いていますが、「国貞」とは、歌川国貞。浮世絵の世界です。現代の中に江戸の時空を持ち込んでいます。江戸時代の絵師、鳥居清長の浮世絵を詩集の表紙に使っていることからもわかるように時間は現在と過去が交錯しています。「くちた木の橋に/あかのまんまの色あせる」腐りかけた橋の隅にアカマンマの色が褪せているという光景自体が現代的ではありません。こうした中に「しゃがむ女の淋しき」が出てくるわけです。
 多田道太郎氏が「しゃがむ」動作に注目して、日本人はいつの頃からかこのしぐさを嫌うようになったと自身の体験エピソードを紹介しています(『しぐさの日本文化』)。「敗戦直後、泥酔して路地裏でしゃがみこんでいると、思いがけなく大男のGIが出現し、「立て」と大声でどなった。しゃがんでいる人間というのは、アメリカ人には我慢できぬものらしい。」多田氏はさらに興味深い指摘をします。「昔は農夫にしろ職人にしろ道端でひょいとしゃがみこみ、おもむろに腰から煙草をとりだしたりしたものである。その恰好は、それなりに極まっていたし、だれもそれを不愉快ととがめだてする人はいなかった。ところが「高度文明社会」のこんにち、駅のホームで背広の「紳士」がひょいとしゃがみこみ、おもみろにパイプでもとりだしたりすると、とがめの目が周囲から集中するのである。
 西脇さんは無意識に「高度文明社会」を拒否する姿勢を「しゃがむ女」の中に見たのかもしれません。作品〈一二六〉にも、

 或る日のこと
 さいかちの花咲く
 川べりの路を行く
 魚を釣つてゐる女が
 静かにしやがんでゐた
 世にも珍しきことかな

とあります。西欧の文化を深く吸い込んできた西脇さんには「しゃがむ」は、異質な行動様式と見えたのでしょうか。戦前の大らかな日本人の暮らしぶり(キャサリン・サンソム『東京に暮らす』参照)から一転しての、日本人全体の戦時中の硬直と直立不動。西脇さんはしゃがむ姿に女性の反権力とたおやかな力を感じ取ったのかもしれません。」

「西脇さんの「淋しき」には本来、日本語が背負ってきた情緒的なものがありません。(・・・)一部の初期作品を除いて、西脇さんの詩にはほとんど「わたくし」が出てきません。個人的な感情、情緒を述懐する詩人ではないのです。言い換えられた「私」、相対化された「私」が登場することはあっても、生身の「わたくし」は不在です。この「渡し場で/しやがむ女」も同様です。始めは観察者の視点ですが、そこに主観的な形容後「淋しき」を置く。すると「の」の意味が突然変化します。行替えも意図的です。この「の」は主格の格助詞的な意味を持つと同時に並列的な意味も持ってきます。」
「渡し場にしゃがむ女は淋しい」という叙事的な表現でないところにも工夫があります。「寂しい」「侘しい」という日本語があるにもかかわらず、西脇さんは「淋しき」の文字の表意性と音の美しさにも感応している。滑稽感と可笑しみも加わる。」
「西脇さんは或る時、酒場で突然立ち上がって、「わたしは女だ」と叫んだことがあるといいます。周りの唖然とした顔が目に浮かびます。この詩人の両性具有性を端的に表すエピソードです。世界に広範な知識を求め、汲めども尽きぬ詩の泉をもたらしさ「幻影の人」との散策は限りなく楽しいものです。」

「本書は「詩人西脇順三郎の魅力」をその折々に喋ったり、書きとどめたものです。話し言葉で文章が進められているのは、講演そのものの雰囲気を壊したくなかったからです。話が直線的に着地点に達することのない内容が常でした。蔓性の植物の特徴は「まがる」ということです。その時の、置かれた環境と条件(風や太陽や雨など)によって話の方向もまがってしまう。西脇さんはどこでだったか、「まがった蔓をまっすぐにすると枯れる」という意味のことをいっています。これは真理です。枕詞のように同一の西脇作品が扱われているのは、今までこの詩人にふれたことのない聴衆にも身近な存在として受けとめてもらいたかったからです。しゃがむ女の姿はまがる曲線を象徴しています。蔓草的本書のねらいでもあります。」

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