雑賀恵子(随筆)「駐車場にて」(『群像』2024年12月号)/入沢康夫『遐い宴楽(とほいうたげ)』
☆mediopos3664(2024.11.30.)
ほぼ10年ぶりに
今年2024年7月に文芸エッセイ集
『紙の魚の棲むところ』を刊行した
雑賀恵子の随筆「駐車場にて」が
『群像』2024年12月号に掲載されている
随筆はこのようにはじまっている
「じぶんがいま、どこにいるのか、
いつにいるのか、わからなくなるというか、
じぶんがなにか、すうっと逃げてしまうことがある。」
わたしはだれ? ここはどこ?
というのはギャグとして使われたりもするほど
いまではかなりベタな表現にさえなっているが
(はじめは1979年放映のドラマ「赤い嵐」で
記憶喪失の娘役を演じた能勢慶子のパロディだったようだ)
多かれ少なかれ
そして程度の差はあれ
夢から醒めたときなどはとくに
いまがいつなのか
ここがどこなのか
じぶんがだれなのか
わからなくなってしまう
ということがあるのではないだろうか
雑賀恵子が例として挙げているのは
イッセー尾形の一人芝居「駐車場」である
接待のために駐車場で相手を待っている
サラリーマンの山中は
「サラリーマンであることも、
接待のために駐車場で客を待っていることも、
つまり彼と社会との繋がりは消えて、過去と未来もなく、
ただひたすら肉体の動きの現在にいることになる」
「そして、ひょいと、現実に乗る。
彼は、ふたたび、駐車場で接待客を待つ
サラリーマンの山中くんになる。」
そしてこう言う
「ああ、いきたくねえ!」
というストーリー
山中は「いまいるところから浮き出して、
じぶんからもはぐれてしまい、手掛かりを求めようとして
モノそのものに向きあう羽目におちいる」
サルトルは「嘔吐」で
「存在」の深淵を垣間見る体験を描いたが
そこまではいかないとしても
山中からは一時ほんらい分節されていてしかるべき
世界や自分の「意味」が抜け落ちてしまう
「ああ、いきたくねえ!」というオチで
その記憶喪失のような現象が
いわば現実逃避であったことがわかるのだが
現実に還るとき
「徐々に目に映るものに意味を見出していく。
そうすると、だんだんとモノの群れが
社会のなかで位置づけられて、それとともに
彼のいまおかれているところがはっきりと輪郭を現してくる」
ように
わたしたちの深層意識である
「存在の本源的渾沌(カオス)」(井筒俊彦)では
いまだ私たちが通常そのなかで生きている
さまざまな「意味」は分節化されないままである
ある意味で「わたしはだれ? ここはどこ?」は
私たちがそのなかで生きていると思いこみ
わたしたちを雁字搦めにしている
さまざまな「意味」から自由になるための
根源的な体験としても意味を持ちえるのではないか
話は少しばかり変わるが
「わたしはだれ? ここはどこ?」で思い出したのが
入沢康夫の2002年に刊行された
詩集『遐い宴楽』に収められている
「わたしは誰? 誰? 誰? だれなの?
そして ここ ここはどこ?
どこなの?」
ではじまる
「旅するわたし————四谷シモン展によせて」
という詩である
この詩における「わたし」は
「四谷シモン展」ということからすれば
四谷シモンが創った人形ということになり
「わたしの造り主の《彼》」は
四谷シモンということになるだろうが
わたしが人形であったとして
その人形がじぶんの存在と
その辿ってきた旅をふりかえるとき
じぶんを創った「造り主」はいったい?と
問うことは避けられないということだろう
先の説明でいえば
「存在の本源的渾沌」から
分節化によって「存在」と「意味」を生み出したのは
いったい何だったのかということでもある
入沢康夫「旅するわたし」では
最後に「いつたんは押韻され
徐々に薄れていく巨きな巨きな神の(神の?)指紋」
とあるが
その徐々に薄れていく「指紋」(シモン)は
いったいどんな「神」(?)の衝動だったのだろう・・・
■雑賀恵子(随筆)「駐車場にて」(『群像』2024年12月号)
■雑賀恵子『紙の魚の棲むところ』(青土社 2024/7)
■入沢康夫『遐い宴楽(とほいうたげ)』(書肆山田 2002/6)
**(雑賀恵子(随筆)「駐車場にて」より)
*「じぶんがいま、どこにいるのか、いつにいるのか、わからなくなるというか、じぶんがなにか、すうっと逃げてしまうことがある。」
「もっとも、人生諸事情があり、いつもぼんやりして頭が随分と悪くなっているような気はする。
じぶんがわからなくなる、というのは、そういうことではなく、じぶんのいましていることを考えていて、その思考の流れの途絶えるところというか、いまいるじぶんそものものに気づくとき、この世界からとりはぐれて宙に浮かび、ひどく孤独ななにかに感じてしまうというものだ。」
*「イッセー尾形のかなり前の一人芝居に、「駐車場」というのがある。接待のために駐車場で相手を待っているサラリーマンの山中くんが、駐車場の管理人や接待客と取り違えた二人連れと延々喋りながら所在なくしているうち、歯に挟まった青葱が気になり、停まっている自動車のサイドミラーを覗き込んで歯をせせる穿る。一体どうして、青葱なんかが歯に挟まっているのだろう、あ、ラーメンを食べたんだ、俺、なんで接待の前にラーメンなど食べちゃったのかな・・・・・・。ふと、鼻先に持っていった指の臭い、鼻の脂の匂いに戸惑い、そこから「山中?」とじぶんの間に裂け目が生じ始める。じぶんが誰か、なぜここにいるのか、持っている鞄をさぐり、そのうち鞄が誰のものかも訝しくなり、中から取りだした紐の用途がわからず手すさびに弄ぶうち、紐はしなり、しなりに合わせて紐を振りだし、振ることの反復により紐の動きに加速度がついて、しなる紐が鞭となり、鞭は地面を叩きつけ、跳ね返った反動でまた一層激しく鞭を地面に叩きつけ、運動する紐と空気の摩擦により鋭い音が発生し、その唸りと紐と地面との接触の反発力に触発されて顔面の筋肉は硬化し、暴力が一瞬擦過する。
もちろん、なにもない空間でイッセーの身体だけが動く、喋っているので、観客はイッセーを視ることに参加して、そこで表現されていることを読み解いていくわけだが、それはともかく山中くんは、いまいるところから浮き出して、じぶんからもはぐれてしまい、手掛かりを求めようとしてモノそのものに向きあう羽目におちいる。紐はヒモという名前や意味、用途からほどけて、モノそもののとして彼に働きかけ、握る手から伝わる触感や重さの情報と連動して手首が動き、腕が動き、上半身が動き、肉体は自走し、モノであることを露わにして、意識を置き去りにする。
このとき、サラリーマンであることも、接待のために駐車場で客を待っていることも、つまり彼と社会との繋がりは消えて、過去と未来もなく、ただひたすら肉体の動きの現在にいることになる。
だが、肉体の暴走に怯えた意識が、現在に追いつこうと振動する。周りを見回し、空中に浮かぶ文字を眺め、サラ金の看板だとわかり、そうやって徐々に目に映るものに意味を見出していく。そうすると、だんだんとモノの群れが社会のなかで位置づけられて、それとともに彼のいまおかれているところがはっきりと輪郭を現してくる。彼と周りとの関係性が、その距離感によって明らかにされて、山中くんの過去が引き戻される。彼とモノとのかかわりが、そのより集まりが、社会のなかで彼をかたちづくっていたのであり、過去の積み重ねが未来の方向性を指し示す。
そして、ひょいと、現実に乗る。
彼は、ふたたび、駐車場で接待客を待つサラリーマンの山中くんになる。」
*「世界から剥がされ、じぶんそのもののようになり、そのじぶんをこなしているはずのじぶんがどこかにいってしまって、なんともうそさむく、いやさむいとかなんとかの心持ちもなくて、なにもないのになにもないことにうろたえているじぶんというなにかがいる。そんな途絶えが、突然くる。山中くんのように、手に負えない事態に振り回されることはないのだけれども、そのような空隙に入ってしまうことが怖くて、私は、家から出かけたり。人と喋ったり、ご飯を食べたり、そんなことをいろいろしながら、日常に必死になって縋りついているのかもしれない。
けれども、とりはぐれたところにいることも悪くないようにも思う。そこにとどまることはこれはこれで困難なことだろうが、しばらくの間でも、そこで呼吸ができるならば。
山中くんに戻ってきた山中くんは、これからしなければいけないことを思い出して、こう言ったのだった。
ああ、いきたくねえ!」
**(雑賀恵子『紙の魚の棲むところ』〜「まえがき」より
*「書物。
文字がたくさん配置され、それぞれがその場所で他のものと関係して意味を持ち、整合され、全体となる書物。
たとえば「さ」という文字。
「く」と出会って咲くとなり、「ら」と出会って桜となり、桜咲くとなる。
〜
だが。
書物のなかにありながら、意味するものにはとらわれず、意味するものとはまったく無縁に、言葉の海を泳ぐ魚がいる。
紙の魚。紙魚(しみ)。
紙を食い破り、文字のつながりに裂け目をもたらし、脈絡を断ち、配置をほどき、脱落させ、散乱させ、べつのつながりへの可能性を開き、試み、意味を解体し、異なるものへと変化させる。」
**(入沢康夫『遐い宴楽(とほいうたげ)』
〜「旅するわたし————四谷シモン展によせて」より)
・1
*「わたしは誰? 誰? 誰? だれなの?
そして ここ ここはどこ?
どこなの?
わたしは 旅から旅をして ここに来た
わたしの琺瑯質の眼には
たくさんの たくさんの物が映り
次から次へと 流れ そして流れた
(それは 例へば
長大な角ふり立てて北天を移動する
水色の甲殻類の大集団)
(金属の葉叢にひそむ骸骨蛾(
(鳥籠に封じ込まれた土妖精(グノーム))
わたしの露はな胸郭の一隅に巣食ふ金色の蛆が
かすかな蠕動を繰り返し
誰かが わたしの最も軟質の部分に紅を差す
斜めに落ちかかる陽光のモアレ模様は
まるで熱湯かなにかのやうだ
わたしの 半分壊れた顔面・・・・・・
しかし 仮に あらゆる部分をとり除かれても
それでも わたしは在る 在らざるを得ぬ
わたしの造り主の《彼》
《彼》が居るかぎりは————
わたしは誰? 誰? 誰? だれなの?
そして ここ ここはどこ?」
・3
*「わたしは誰? 誰? 誰? だれなの?
そして ここ ここはどこ?
どこなの? どこなの?
遠い旅のあげくに
わたしは わたしたちは いま ここに立つ
木製のリブと真鍮製のリブとが危ふい連繋を
辛うじて保ち
声のない絶叫は大聖堂に満ち
仲間を求める白い手首が青い手首に向つて
蟹のやうに
ひたむきに這ひ寄つていく
わたしは誰? 誰? 誰? だれなの?
そして あなた
わたしを わたしを造つたあなた
創ついて かく在らしめたあなた
あなたは誰?
誰も答へない 誰も————
空漠たる天の砂漠の一隅
磨き上げられた天河石板の碑の表面に
いつたんは押韻され
徐々に薄れていく巨きな巨きな神の(神の?)指紋」
◎イッセー尾形 駐車場 (前編) PARKING LOT BY ISSEI OGATA 1
◎イッセー尾形 駐車場 (後編) PARKING LOT BY ISSEI OGATA 2