井奥陽子『近代美学入門』/林屋辰三郎『「手」の芸術(日本芸能史論 第3巻)』
☆mediopos3339 2024.1.8
昨日は桶職人・刀鍛治・紺屋・畳刺し・左官といった
江戸職人の技と意地を描いた坂上暁仁の漫画
『神田ごくら町職人ばなし』を紹介したが
そうした「職人」の「手」は
芸術家の「手」と通底している
さらにあえていえば
「職人」的な「手」なくしては
「芸術」は成立しないとさえいえるのではないか
いうまでもなく現代では
「芸術」はいわゆる「アート」だが
「芸術」はかつて「職人」とされていて
「芸術」が「アート」になったのは近代以降である
そうした西欧における美や芸術の歴史を
わかりすく解説している
井奥陽子『近代美学入門』が先日刊行されている
それによれば
古代から中世までは上記のとおり
「アート」は「技術」という意味であり
画家や彫刻家などは「職人」とみなされていた
「アート」が「芸術」となり
「芸術家」という言葉が生まれたのは
17〜19世紀の近代になってからのことである
「アート」としての「芸術」を
ほかの技術から区別するために
「美」という概念が使われるようになった
当初均整のとれたものを「美」とみなしていたが
次第に内的な自律した価値とみなされもするようになり
そのなかで自然の風景に美が見いだされるようになる
大自然を前にした高揚感から
「崇高」という概念が使われるようになり
大自然ではない風景に対しては
「ピクチャレスク」という概念が生まれる
上記のように現在の日本人があたりまえのように
桜を愛でるような感性というのは
近代までのヨーロッパにはなかったようだ
おそらく日本における自然への親しみというのは
西欧のような近代以降に生まれた
「美」への感性とは異なっている
それはじぶんから切り離された対象として
自然を美しいと感じるような
対象と切り離されたところに生まれる感性ではない
それは「職人」についてもいえることで
中世までのヨーロッパで画家や彫刻家などが
「職人」と呼ばれていた時代のように
あるいはそうした有りようよりも
さらにある意味で白川静の示唆することの多いような
「呪術」的な意味合いをもった「技」でもあるようだ
それは「職人」的な技術やそのつくられたものに対して
ある種の神事がむすびついていることからも
その呪術性を示していることが示唆される
参考までに林屋辰三郎の「日本芸能史論」三部作の
第三巻目にあたる『「手」の芸術』から
以下の引用で少しばかり紹介しておくことにしたが
日本においては美術と芸能は
「例えば、美術も作者が作品を創り上げていく
過程を考えれば、未発の芸能というような、
そういう性格をもっているのではないかろうか」
「美術と芸能はともに所作を中心として考えることが出来、
その未発と顕在の二つの在り方ということになろう。」とし
その接点となるのが「手」ではないかという
そしてその「手」は
個人によるものだけではなく
「過去のすぐれた芸能者が案出した手があって、
それがつぎつぎとうけつたえられて型にな」り
さらには「時間的・空間的条件が加わって」
育っていくなかかで難波ぶりなどの「風」(ぶり)や
今様のような「様」ともなり継承され
そうした「型」は芸能や技術だけではなく
美術においても「様式」となっていく
その意味において
「職人」の「手」というのは
個人におけるそれにせよ継承された型にせよ
ひとの創造性の根底にあるものだといえる
現代では
「芸術・芸術家」「アート・アイティスト」を
自称する者も後をたたないが
「手」を働かせる「職人」であることを等閑にしたとき
それらは創造性のない自我の病と化するだけだろう
■井奥陽子『近代美学入門』
(ちくま新書 筑摩書房 2023/10)
■林屋辰三郎『「手」の芸術(日本芸能史論 第3巻)』
(淡交社 昭和六十一年三月)
(井奥陽子『近代美学入門』〜「はじめに」より)
「ヨーロッパでは中世まで、人間の手によって整えられていないような、ありのままの自然の景色は美しいものとして捉えられていませんでした。海や山といった大自然の壮大さが崇高だと讃美されることもありませんでした。
まさか、そんなはずはないだろう。自然を見て美を感じる心は、今も昔も、どこの国でも変わらないはずだ。美学を学び始めたばかりの私はこう思いました(・・・)。
しかしながら、少なくとも現時点での研究によれば、ヨーロッパで風景の美は近代になってから〝発見〟されたのです。決して普遍的なものではありません。
近代ヨーロッパ。それは自然に対する美意識が大きく移り変わった時代であるだけでなく、美や芸術という概念にも変動が生じた時代でした。
絵画や音楽などに心を動かされて「芸術とは天才の創造だ」と感じ入ったり、自然の豊かな場所を訪れて「絵になる風景だ」と呟いたり————芸術や自然に触れてこうした気持ちが沸き起こるのは、時代や地域を超えて共通する経験だと思われるかもしれません。しかし中世以前に生きた人々なら、このような経験は「ない」と答えるでしょう。
私たちが美や芸術について何気なく抱いている〝常識〟の多くは、17から19世紀のヨーロッパで成立した価値観なのです。この時代に、美や芸術に関する思想はかつてないほどの変貌を遂げました。」
「私たちは知らず知らずのうちに、近代美学の考え方が刷り込まれているのです。意識的に顧みなければ、その価値観を基準にしてあらゆる時代と地域の文化を眺める、ということをしてしまいがちです。当然そうした態度では、近代(なかでも19世紀)ヨーロッパの芸術や思想が至上であるかのように思われ、そこから外れるものを適切に理解することはできないでしょう。
無意識のうちに内面化している価値観を客観視して相対化するために、近代美学を学ぶことは非常に重要です。本書を執筆した一番の動機はここにあります。」
(井奥陽子『近代美学入門』〜「おわりに」より)
「古代から中世まで、「アート」という言葉は「技術」を意味しており、画家や彫刻家などは職人とみなされていました。ところが近代になると、「アート」が「芸術」を意味するようになり、同時に「芸術家」という言葉も生まれます。
それにともなって、芸術とは職人仕事とは違って作者の内面を表現したものであり、芸術家とは独創的な世界を創造する天才である、という考え方が広まりました。そうして芸術家は神に比する存在にまで祭り上げられていきます。
芸術の概念が誕生したときに、芸術を他の技術から区別する特徴として考えられたのが「美」です。
美の概念についても、同じ頃に転換が起こりました。美しいものとは均整のとれたものであり、よって美はものがもつ性質であるという思想が支配的だったところ、美はそれを感じる人の心のなかにあるという思想が優勢になったのです。このことは美が道徳や有用性などから独立した、自律した価値とみなされるようになることを促しました。
美が主観的なものと考えられるようになるにしたがって、それまでの美の概念には当て嵌まらなかった不規則で無秩序なものに対して、独特の魅力が見いだされるようになります。とくに自然の景色が人々の心を惹きつけました。
なかでも、大自然が引き起こす恐怖と混じり合った高揚感は「崇高」と呼ばれるようになりました。さらに、崇高な自然程巨大ではない自然に対しては「ピクチャレスク」という概念が生まれました。これはちょうど17世紀イタリアの風景画のような情緒のある風景のことを指します。
こうして「美、崇高、ピクチャレスク」という3つが並び称されるようになり、近代の美意識として成立しました。」
(林屋辰三郎『「手」の芸術』〜「Ⅰ 創造と伝統 1「手」の創造」/二「手」の芸術————美術と芸能————」より)
「その二つの分野(美術史と芸能史)は、決して対立するものではなく、例えば、美術も作者が作品を創り上げていく過程を考えれば、未発の芸能というような、そういう性格をもっているのではないかろうか。それは芸能という形で公開はされないが、人間が自分の才能を尽くして一つの作品を創り上げていく過程として、完成した作品からくみとることが出来る以上の意味もあり、未発の芸能とでもいえばいえるかと思える。美術はあくまでもその作品を中心としたものだが、芸能の方は、出来るだけ多くの観客を前にして自分の才能を顕示していく。そういう点では、美術と芸能はともに所作を中心として考えることが出来、その未発と顕在の二つの在り方ということになろう。
この二つの接点として考えられるものは何かというと、実はテーマのなかに最初から結論がでているようだが、「手」ではなかろうか。」
「美術にしても、芸能にしても、作品を創り上げる場合、手、時には足をも含めて手・足というものが動作の基本として、創造の中心になることは、いうまでもない。その手はおそらく単に個人の持っておる手というだけではなくて、当初きわめて呪術的な意味をもたされていただろうと考えられる。たとえば芸能史・美術史という「史」そのものが、いわば手と深い関わりがあると考えられている。周知のように、この、「手」に祝告を記した書冊を収めた器を叉頭の長棹によって捧げた象形文字(・・・)すなわち祝冊をささげて神に奉る、そういう所作が、歴史の史の意味であることが漢字研究の上から白川静氏によって説明をされている。歴史そのものが、当初は非常に呪術的な、神との関わりで考えられていたのだが、芸能というものも美術というものも、手に関わる意味で、歴史をみるかぎり、呪術的な性格を最初から持っていただろうと思う。従って、その手から生み出されるさまざまな芸能、あるいはそれを一つの過程として出来上がる美術作品、そうしたものは、いずれも、原初的には呪術性を非常に強く持ったものと思われる。
その最初に考えられるのが文字である。文字を書くという事は、個人の意志を他人に伝達していく方法であるが、その事は、手によって相手に自分の意志が歌ワルという事自体、非常に神秘的な意味を持っておったと考えていいのではなかろうか。」
「日本では書道のことを別の言い方で、入木道ということも周知の通りである。入木道は日本では空海を道の先祖としている。その入木道という由来は、王羲之が木の上に墨で字を書くと、「筆入木三分」というごとく墨痕が強くて木に三分位は滲み込んで、中に入っていく。そういう非常に力強い力を持っているということから、書に対して入木という言葉が出たという、そうするとこの筆力によって、木に浸透していくというのは、彫刻ときわめてよく似ている。木の中まで筆で墨痕を浸ませて書をのこしていくのと、木に彫刻刀を打ち込んでそこに立派な仏像を掘り出す彫刻ということも、これはある意味では一つの手の芸術と考えていいのではないか。手というものは、書を生み出すとともに、彫刻をも創り出す。そうなると美術品は全く手の美術として理解していいものではないかと思う。」
「そのように考えると、日本の文化においては、美術にも手を一巻して追跡できるのではないか。ある意味では先の手人というところから考えると、芸能全体に手を追跡できるのではないか。そんなことを考えるのである。」
「一人の人間が自分自身の新しい型を創って、それを伝統させていく、すなわち個人だけで手を考え、自分だけで、日本の文化を代表するところの手を創っていくということは、やはり大きな無理がある。過去のすぐれた芸能者が案出した手があって、それがつぎつぎとうけつたえられて型になるのだが、その間にもう少し条件があるであろう。その各時代、各地域、そういう時間的・空間的条件が加わってその芸能が育っていく。やはり日本の芸能の型というのは、内から、外からの条件によって創り上げられていくという要素も非常に多かったと思う。そういう場合にその条件を「風」とよんでいる。風は〈ぶり〉ともいう。古風というのに対して、今様という「様」という言い方もある。時間的に風という一方で、地理的にも、難波の風は難波ぶり、京都の風は京ぶり、というような言い方で、型の形式にはやはり時間的な、あるいはまだ空間的な条件が働いていて、人間はそれを手という形でうけ継いで型にまでつくり上げたのであろう。」
「美術品においても型は存在している。美術の様式とよばれるのがそれであろう。」