見出し画像

野村喜和夫対談集『ディアロゴスの12の楕円』/野村喜和夫『二十一世紀ポエジー計画』・『オルフェウス的主題』

☆mediopos3363  2024.2.1

詩人の野村喜和夫による哲学者・美術家・作曲家
そして詩人たちとの12の対話篇
『ディアロゴスの12の楕円』の最初に
小林康夫との「詩と哲学」をめぐる対話が置かれている

その対話と関連してくる野村喜和夫の評論集
『二十一世紀ポエジー計画』と『オルフェウス的主題』から
記事をピックアップしながら「詩と哲学」
そして新たな時代における詩の
「大地の可能性と不可能性」について引用方々のメモを・・・

哲学のはじまりともいうべき
パルメニデスやヘラクレイトスがそうであったように
哲学はもともと詩としてはじまっている

そうした最初の詩的な言葉は
ロゴスとして論理化されるプロセスを経て
やがて哲学となっていくことにもなるが
実用的な言葉の使い方をしないという意味では
哲学も詩も同様だともいえる

その意味でいえば
叙情詩的な「私は歌う」はともかくとして
詩なき哲学はなく
哲学なき詩もない

詩とはいわば
「いま私が世界を歌う」「私が言う」
ということだともいえるが
哲学はそれに対して「世界がこうだ」という

しかしながら
パウル・ツェランがそうであるように
「「私が言う」とか「私が語る」が成立しないにもかかわらず、
分散的に詩が出来してくる」
またランボーにおいても『イリュミナシオン』となると
「私が歌うのではない」

逆に哲学においても
たとえばヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』のように
「命題だけを書いたものがいちばん詩的に見えてしまったりもする」

そうした意味においても
「哲学と詩はクロスしてくる」

その観点から
「詩とはいったい何なのか。詩に何ができるのか」
ということをとらえてみる必要があるのではないか

とくに現代はAIによって
人間の使うそれのように
言葉が作られていきもする時代だからこそ
ほんらい「詩」であり
やがて哲学とクロスしてくることもある言葉が
これからどのようなありようのなかで
その可能性を持ちえるかということでもある

逆にいえばそうした詩/哲学による
ポエジーの言葉によってこそ
AIによってつくられるのではない
言葉の可能性をひらくものでなければならない

その点において鍵のひとつになるのが
「大地の可能性と不可能性」ということではないか

野村喜和夫はそれを「彷徨う木」
あるいは「詩的ガイネーシス」
といったことで表現しているのだが

「彷徨う木」とは
「ただの根なし草、故郷喪失者というのではなく」
それでいて「風土や土着やナショナリズムに
傾きすぎているのでもない生のあり方」だという
それを可能にする詩的想像力が求められているということだ

野村喜和夫にとってそれは
ディアスポラ的な「ユダヤ的なもの」と
詩的大地性を求める「ハイデッガー的なもの」とを
「同時に表現していこうという
「一生かかって追求しても惜しくないようなコンセプト」
だという

小林康夫は「二十世紀における「詩の出来事」の転回点」を
「大地の委託」と捉えることのできるのリルケの樹木のイメージと
「樹木が乏しいツェランの詩的世界との差異のうちに」
とらえようとしているというが

まさにそれこそが「彷徨う木」であり
大地性を大地性の固着から詩的想像力によって解き放つ
「詩的ガイネーシス」への可能性の起点でもあるのだろう

そうしたことは現代まさに
政治的にも世界中で起こっているように
大地性をスポイルしようとするグローバリズム的な潮流と
大地性を守ろうとする潮流のふたつが
全体としてどのような流れをつくりだしていくのか

それは「グローバルに考えローカルに行動する」ことと
「ローカルに考えグローバルに行動する」ことを
クロスさせたなかで見えてくる風景かもしれないが

それぞれの可能性と不可能性のなかで
どのように展開されていくかということにも
どこかで通底しているのではないか

それに対して詩的想像力が
どのように言葉を紡ぎ得ていくのかに注目していきたい

■野村喜和夫対談集『ディアロゴスの12の楕円』
(詩人の遠征 extra trek01 洪水企画 2023/4)
■野村喜和夫『二十一世紀ポエジー計画』(水星文庫 思潮社 2001/5)
■野村喜和夫『オルフェウス的主題』(水星文庫 水声社 2008/2)

*(野村喜和夫対談集『ディアロゴスの12の楕円』〜
 「VS 小林康夫 閾を超えていく彷徨/詩と哲学のあいだ」より)

「小林/世界に言葉で問いかけるという意味では、哲学も詩も同じですよね。どちらも実用的な言葉の使い方をしないで、哲学もパルメニデスやヘラクレイトスがそうであったように、もともと詩として始まらざるを得ない。ただ、その原初のおとばがロゴスとして論理化されるプロセスはあとにどうしても出て来る。原初的フィロソフィアのひとつあとの形態ではそうなる。
 詩には、「いま私が世界を歌う」がありますね。つまり「私が言う」ことを目指し、そこからはじまっている。そういう言語行為が詩だとすれば、哲学はそれをいったん無化させるわけです。「私がこう思う」ではなく「世界がこうだ」というように。では詩の場合、「私が語る」ことそのものが究極的に不可能になったとしたら。どのように可能であるのか。ツェランがそうですが、「私が言う」とか「私が語る」が成立しないにもかかわらず、分散的に詩が出来してくる。そういった意味で、哲学と詩はクロスしてくる気がします。詩なき哲学はないし、哲学なき詩は、抒情としてはあるのかもしれませんが・・・・・・。
 ランボーによる転換とはつまり、私が歌うのではないということですよね。『地獄の季節』はまだ自分が、しかも強烈に語っているように見えるかもしれない。でも『イリュミナシオン』の場合、さっき出てきた「幼年時代」がとくにそうですが、私がいまこの世界を歌いあげる、という構造にはなっていない。

 野村/まさにランボーのそこに惹かれたんです。「私が言う」ではちょっと物足りないというか、いまの感覚じゃないというのが確かにありましたね。

 小林/マラルメにも「Je dis:une fleur!」がありましたね。「私は言う、花と」。すると芳しい観念の花が立ち昇るという。いまの時代、詩人ひとりひとりは、その「私が言う」についてどのように違うポジションを持っているのですか?

 野村/いろいろだと思いますが、個的に、モナド的に閉じこもって、自分の個を問題にするときは、やはりどうしても「私が言う」ことが基軸になってしまう。「Je dis:une fleur!」だけで終わっている人が結構いるのではないでしょうか。マラルメのように、その「私が言う」を、「芳しい観念の花」によって無化するというプロセスまでは至らない。

 小林/詩の「言う」ことと哲学の「言う」ことがどうクロスするか、突きつめるとその問題ですね。哲学もテーゼだけ持ってきてあとは削ぎ落としてしまうことで、たとえば〈論理哲学論考〉のヴィトゲンシュタインみたいに、命題だけを書いたものがいちばん詩的に見えてしまったりもする。詩人も真っ青となってしまうわけですが、そのように振る舞うのではなければ、詩も哲学も「私が言う」という事態=到来をどこからどう汲み上げてくるのか、そこが決定的に問われているし、これからの時代、ますます問われると思います。」

*****

「小林/野村さんの評論集の最後には、いや、ポストモダンは続く、まだやらなければならないと書かれていましたが、これから先の時代はどうなるのでしょう。難しい問題ですが、モダンとはまた違った、しかしインファンスではなく、厳しい大人の世界が始まる、その時代の切れ目にいまいるのではないか。ぼくはそういう感覚を持ちます。(・・・)世界のさまざまな動きを見ていても、金融資本主義+情報テクノロジー文化にひとつの限界が可視化されていて、それを人類がどう超えていくのかが問われているように思います。そしてそのときに、詩はいったい何なのか。詩に何ができるのか、という言い方がいいかわからないけど、その問いもまた浮上する。つまり、情報に対して、ビッグなデータに対して、このあまりに貧しい「私は言う」はどう機能し、そこにどのような世界をたしあげるのか。

 野村/物事にはすべて臨界がありますからね。その実感はあります。先が見えないだけで、それが近づいてきている。数日前中国の若い詩人たちを招いた交流イベントで、ぼくは詩人を瀕死の病人の状態にたとえたんです。瀕死の病人には、ふつうの人には見えないようなものがたまたま見えたりしますよね。極端に言えば、倫理体験であるとか。社会的、経済的な意味で健常な者には見えないもの、亀裂とか揺らぎとか、もっと言えば、未来からのカタストロフィーの予感とか、瀕死の詩人のほうがぱっと見えてしまうんじゃないか、と。アガンベン的に言えば、人間の残余みたいな存在のほうがかえってそういうものを見る能力を与えられているのかもしれません。逆説的な贈与のように。それがこれからの詩かなという気もします。

 小林/自分をいまに乏しくするか、自分のなかにその瀕死をどうつくり出すかが、その意味では大事ですね。どのように瀕死であるのか、自分がいまどのように瀕死を引き受けるのか、その覚悟が問われると思う。詩と哲学の問題を追いかけてきて、この先の哲学についてはどう考えますか。

 野村/素人なりにいろいろ読むなかで、別の実存というのか、フーコーが最後に辿り着いたような、モダンでもポストモダンでもない別の実存、別の大人、そういうものが誰かによって書かれるのかな、という感じはしますが。」

*(野村喜和夫『二十一世紀ポエジー計画』〜「彷徨う木————詩のトポスを求めて」より)

「フラクタルは、みえませんが根として土のなかにも伸びていて、まさしく木は大地に根ざしているわけです。しかしそれは、大地に囚われているということなのかもしれませんね。このあたり微妙なところですけれど、というのも、拠り所があるということは、反面、移動する自由を奪われているということにもなりますよね。いま=ここという場所から逃れ、他所へと移動していきたい。そこで「彷徨う木」という撞着的な、あるいは折衷的なイメージが出てくることになります・

「彷徨う木」————ただの根なし草、故郷喪失者というのではなくて、また風土や土着やナショナリズムに傾きすぎているのでもない生のあり方。でも、そんなあり方が可能なのでしょうか。いや、可能にしなければならないのではないか、旅をつづけながらそんな思いを強くしたのですが、それは詩を書く者の限界といいましょうか、しかしその限界をそのまま可能性の中心に転回したいような気もするんですね。

 で、そろそろ詩の問題に結びつけてこの撞着語法————「彷徨う木」を語ってみることにしましょう。まず木ですけど、木は、大地に根を張るというそのあり方によって、たとえばハイデッガーの言う言葉の原郷性、詩的大地性に結びつきます。(・・・)そういうものに結びつかない詩というものは、きわめて痩せた、面白味のないものとなりがちではないでしょうか。

 ひとまずそういう認識があって、しかし反面、ハイデッガー的な意味での大地性が民族的なもの、もっと言ってしまえばファシズム的なものと結びつきやすいのも周知の通りです。私はよく詩的ガイネーシスということを言うんですが、ガイネーシスというのは大地の女神の名前ガイアからつくられたタームで、まあ、詩を生み出す力一般としての女性的な大地性ですね。ハイデッガーを薄めたい、あるいはずらしたいわけです。そのために女性性を持ち出すのは、ある部分フランスの思想家ジュリア・クリステヴァ経由ですけれども、概念の系譜や定義はさておき、肝要なのは詩的想像力でして、それはいわばわれわれをある意味で女に生成変化させるわけですが、同時にその生成の流れは、有限の差異である性差を突き抜けて、無限の差異を含む多様性のうちに開かれるものではないでしょうか。そういう流れを詩的言語に促す力をこそ、私は詩的ガネーシスと呼びたいと思うのですけれども。

(・・・)

 一昨年秋、東大がパリ第八大學のスタッフを招いて開いた「ポストモダン以降のモデルニテ」というコロックにおいて、ある興味深い議論が行われたらしいんですね。それは、当事者のひとりである小林康夫さんの報告(『大地』への回帰————大学は緑の眼をもつ6)、「未来」一九九七年一月号)によれば、およそ次のようなものでした。まず小林さんご自身の研究発表があって、それはこんな内容だった————たとえばリルケとツェランを比べた場合、リルケのほうがはるかに大地に根づいた樹木のイメージに親しんでいる。これがツェランになると、切り倒された丸太とか、あるいはもっと無機的に、石とか灰とかの分散的なイメージが頻繁に登場するようになる。ひっくりめて、

   わたしはリルケとツェランのあいだで、まさにア・プリオリな、無条件な存在としてある「大地」が不可能になったことを、樹というメタファーがどのように逆転し、不可能になるかを検証することで言おうとした。

 ところがそのとき、特別に招待されていたクレオール文学の代表的詩人エドゥアール・グリッサンから。力強い問題提起、「国民国家に規定された領土の文化論かた、脱−領土化した大地の文化論へ」という主旨の断固とした主張があったというのです。

   グリッサンは、まさに領土に回収されないような、まさに「大地」への回帰を主張しているのだ。いまこそ、————侏種々の境界の混乱、揺らぎ、多様な文化交差を通じて————「大地」が可能になるのだ、と言っているのである。わたしが「大地は不可能になった」と言うそのところで、かれは、いまこそ「大地」と言う。

 小林さんのこの報告には、私の詩的ガイネーシスともクロスするかたちで、さまざに刺戟的な問題が含まれ、渦巻いているように思われます。氏の問題設定はあきらかにハイデッガーの詩的大地論を射程に入れたものでしょうし、またグリッサンの非西欧的なクレオール主義は、それをそのままよそに援用するわけにはきませんけど、万象の声を織り込む吉増剛造さんの詩法や、さらにはエズラ・パウンドが拓いた驚くべき翻訳空間をさえ想起させずにはおかないでしょう。そこから、たとえばインターネットのアナロジーなんかではちょっと追いつきそうもない詩ないしは詩学の可能性が、それこそクレオールの島の植物のように多種多様に芽吹き噴き出してきそうな予感もするのです。

 ともあれ、面白いですね、大地の可能性と不可能性。私なりにまとめてみますと。もはや私が詩を書く場所に通常イメージされるような大地はないという意味では不可能な大地性、しかしこの詩、この言語がなおもそこで草のように生成されてやまないという意味ではすぐれて潜在的な大地性。

(・・・)

 これはもうユダヤ的な観念といってよいかもしれません。さっき小林さんの引用箇所に出てきたパウル・ツェランが、ほかならぬユダヤ人でした。もちろんポストモダンの言説のなかでは、やはりさきほどのドゥルーズ=ガタリがノマドということをしきりに言っていました。それから最近では、主として文化研究という分野で、ディアスポラということがよく言われているようですが。それこそまさに離脱、流亡ということです。

 こうしたわけでした、要するに「彷徨う木」というのは、思いっきり誇大妄想してしまいますと、ユダヤ的なものとハイデッガー的なものとを同時に表現していこうという大変欲張りな、しかしだからこそ一生かかって追求しても惜しくないようなコンセプトであり、詩を書くしか能のない私としましては、まさしくそれをライフワークそのものにしていなと。ひそかに考える今日この頃であるわけです。」

*(野村喜和夫『オルフェウス的主題』〜「第四章 オルフェウスの変容————リルケの彼方へ」より)

「第一部冒頭のソネット第一番はつぎのように書かれる————

  そこに一本の木がのびた おお 純粋な乗り越えよ
  おお オルフォイスが歌う おお 耳のなかの高く聳えた樹よ
  そしてすべては黙った だが その沈黙のなかにさえ
  現れたのだ 新たな始まりと合図と変身が

  沈黙の獣たちがひしめいて 明るい
  解き放たれた森の中かた 塒や巣の中から 走り出た
  すると分かったのだ 彼らがそのようにひっそりとしていたのは
  企みや恐怖からではなく

  ただ聴き入っていたためだと 咆哮も叫喚も妻恋いも
  彼等の心のなかで小さく思われた そしてほとんど
  これを迎え売れる小屋さえなく

  その支柱がふるえているたったひとつの入口の
  暗い欲望から生まれた隠れ家さえなかったところに————
  おんみは建てたのだ 彼等のために耳のなかの神殿を」

「「耳のなかの高く聳えた樹」(リルケ『オルフォイスへのソネット』)という詩句という詩句がなんとも印象深い。オルフェウスの歌声が耳に響くさま、それを「高く聳えた樹」にたとえば————つまりは聴覚の視覚化という詩的想像力のたまものであろうが、同時にそれが「新たな始まりと合図と変身」をうながすところに、リルケの詩作の契機がある。オルフェウスの歌のはたらき、それは変容の空間へと世界を更新することなのである。見逃してはならないのは、このときすでにオルフェウスも変容を始めており、詩の生起と引き換えに、みずからは不可視の存在と化しているということだ。

 なお、本稿ですでに何回も参照した小林康夫は、このリルケの樹木のイメージを詩人への「大地の委託」と捉え、樹木が乏しいツェランの詩的世界との差異のうちに、二十世紀における「詩の出来事」の転回点を描き出している(「大地論序説————詩・技術・死」、『表象の光学』所収)。

 オルフェウスの不可視化とともに、むろん「獣」も神話を離れ、比喩的形象となる。それは端的に言って人間のことであり。「小屋」とか「暗い欲望から生まれた隠れ家」とかは、この地上に縛られた人間の条件をさしているのだろう。オルフェウスの歌に聴き入るとは、そうしたところからの跳躍、リルケの言葉でいえばまさしくあの「世界内空間」への「純粋な乗り越え」の試みなのだ。オウィディウスの物語をふまえつつも、オルフェウスの歌のはたらきをこのように高らかに宣言することによって、リルケはその固有の詩学のなかにオルフェウスを置き直し、もとの神話を離れようとするかのようんだ。こうしてソネット第一番は、まさに詩集冒頭にふさわしい詩であるとえるだろう。」

○野村喜和夫
1951年埼玉県生まれ。早稲田大学文学部卒業。現代詩の最先端を走り続けるとともに、批評、小説、翻訳なども手がける。詩集に『川萎え』『反復彷徨』『特性のない陽のもとに』(歴程新鋭賞)『風の配分』(高見順賞)『ニューインスピレーション』(現代詩花椿賞)『街の衣のいちまい下の虹は蛇だ』『スペクタクル』『ヌードな日』(藤村記念歴程賞)『難解な自転車』『デジャヴュ街道』『薄明のサウダージ』(現代詩人賞)『花冠日乗』『妖精DIZZY』『美しい人生』(大岡信賞)、小説に『骨なしオデュッセイア』『まぜまぜ』など。評論に『現代詩作マニュアル』『オルフェウス的主題』『移動と律動と眩暈と』『萩原朔太郎』(鮎川信夫賞)『哲学の骨、詩の肉』『シュルレアリスムへの旅』など。また英訳選詩集『Spectacle & Pigsty』で2012 Best Translated Book Award in Poetryを受賞。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?