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奥野克巳『ひっくり返す人類学 ――生きづらさの「そもそも」を問う』

☆mediopos3570(2024.8.28)

「ひっくり返す」のは常識である
そのために「そもそも」を問う
そんな人類学

奥野克巳『ひっくり返す人類学』が
問いかけている「そもそも」は
学校や教育
貧富の格差や権力
心の病や死
自然と人間との関係
という四つの常識である

まず学校や教育について

たとえば「「ヘヤー・インディアンの文化には
「教えてあげる」、「教えてもらう」、
「誰々から習う」、「誰々から教わる」
という考え方自体がない」
従って「師弟関係」というものもない

彼らの文化には
「人間が人間に対して、指示・命令できるものではない」
という前提があって
「人間に対して指示を与えることができるのは、
ただ「守護霊」(目に見えない内的存在)だけである

そして重要なのは知識よりも
「「知識」をぐらつかせ、解きほぐす」ための「知恵」である

上記のことは
学校や教える-教えられるといういわば師弟関係
知識偏重などが盲目的に信仰されていないかぎり
それらの「そもそも」は意味を失うと思われるのだが
問題なのはそれらが問われることさえないということだろう

続いて貧富の格差や権力について

「狩猟採集民プナンの社会には、貧富の格差」がない
プナンでは「誰かがものを独り占めすることを認めない」
「プナンの人たちは、分かち合う精神を基本にしながら
人間関係」が築き上げられている

そこには「その場その時に生まれる
アドホックな(一時的な)リーダー」以外は存在しない

そしてプナン語には
ほとんど使われることのない
「分かち合う寛大な精神を称える
「よい心がけ(ジアン・クネップ)」という言い回し」はあるが
「ありがとう」という言葉自体が存在していない

あらためて「そもそも」を問えば
「ありがとう」は「有り難い」であって
めったにないからこその謝意
「有り難く」なく常にシェアされている状態では
その言葉そのものが不要ということだろう

さらに心の病や死について

プナンの社会には「心の病を抱えている人が存在しない」

また「人が死ぬと残された近親者たちが名前を変える
「デス・ネーム」という習慣」がある
この習慣をプナン自身は「名前を変える」と呼んでいる

プナンが自発的に名前を変えるのではなく
「生や死に関わる出来事が、
外側から名前を変えるように強いてくる」のである

プナンにとっては
「身体と魂をしっかりとつなぎ止めておく役割を果たすために、
何かが起こるたびに新たな名前が必要であるかのように、
人の生活史の中でころころと変わる」という

日本では死者に対して戒名や法名が与えられ
「「新しい生命」を持った存在者として「あの世」にいる」
とされるが
プナンでは「死者の名前を呼ぶことを忌避して死者を無名化し、
それと同時に、死者と関わりのある人々の名前を
デス・ネームに変え」
「死者の輪郭を虚ろなあやふやなもの」とし
「生きている人々の意識は、新しく個人名を与えて
刷新された共同体に振り向けられる」

そして自然と人間との関係

プナンにおいては
「生き物ごとにそれぞれの世界があって、動物と人間は連続し」
「「自然」は人間から隔てられて」はいない

カナダの人類学者エドゥアルド・コーンは
「森それ自体」も思考しているとした
またマオリでは「「川に人格がある」とさえ主張される

以上のように
私たちの「常識」の多くは
無前提にすり込まれているだけで
「そもそも」を問うことで
見えてくるものもずいぶん異なってくる

本書の副題は
「生きづらさの「そもそも」を問う」
となっているが
なぜ生きづらいのか
その「そもそも」が
私たちの「常識」に由来するのだとしたら

世の中のほうはすぐには変わらないとしても
それを問い「ひっくり返す」ことで
個人の意識が囚われから自由になるだけで
「生きづらさ」から解き放たれやすくなるのではないか

■奥野克巳『ひっくり返す人類学 ――生きづらさの「そもそも」を問う』
 (ちくまプリマー新書 2024/8)

**(「序章 人類学でひっくり返すとはどういうことか?」より)

*「2014年一月から、仲間たちと「聞き流す、人類学。」と題するYouTube番組を始めました。そのチームのメンバーである加藤志異さんと喜屋武悠生さんと、私が講師を務めた市民講座に参加したことのある山田彩加さんとともに、二〇二四年三月に半月ほど、プナンのフィールドワークに出かけました。加藤さんは妖怪絵本作家で、りんごの行商などもやっている四〇代後半の男性です。喜屋武さんは、三線の流しやバーの不定期店長などをやっている三〇代後半のマルチタレントです。山田あんは理学療法士の資格を持ちながら、二〇二二年秋から石川県で地域おこし協力隊員として働いている三〇代前半の女性です。

 この三人に共通しているのは、現代日本社会の中で定職を得て、すんなりと社会に適応して暮らしているわけではないという点です。」

*「プナンと暮らしてみて三人はそれぞれ、自分たちの日本での元々の暮らし方や生き方を見つめ直し始めました。言い換えれば、なじみの薄い土地で経験や直感を頼りにしながら、彼らは、日々暮らしている中で身についてしまった自らの「当たり前」をひっくり返そうとしたのです。そう「当たり前」すぎて気づかなかった日常を「ひっくり返す」ことこそが、フィールドワークの大きな効用なのです。

 本書『ひっくり返す人類学』のタイトルは、そこから来ています。私たちのやり方や考え方をひっくり返してみるのです。これは、物事の根源に立ち戻って存在意義や必要性などを問う一種の「そもそも論」ですが、それを具体的な民族誌の事例の中から考えていくという点は、人類学独特の思考法と言えるでしょう。」

**(「第1章 学校や教育とはそもそも何なのか」より)

*「そもそも学校とは何なのでしょうか?」

「近代の学校教育は、西洋から世界へ、そして国家の中心から辺地へと広がって行きました。日本ではすっかり浸透したのですが、それははたして、地球上のどの場所でも、どんな人たちにも受け入れられるようなものだったのでしょうか?

 結論を言えば、それは世界各地でおおむね受け入れられ、今日に至っているのは確かです。しかし、「学ぶ」ということに関して、近代の学校教育とは相容れない、異なる考え方を持っている人たちも世界にはいます。近代の学校教育の理念とは異なる考え方を持つ人たちの一例として、ここでは、カナダのヘヤー・インディアンを取り上げてみようと思います。」

*「ヘヤー・インディアンの文化には「教えてあげる」、「教えてもらう」、「誰々から習う」、「誰々から教わる」という考え方自体がないということが分かってきました。」

「「教えてあげる」、「教えてもらう」がないわけですから、ヘヤー・インディアンの社会には「師弟関係」というものがありません。先生の役割、生徒の役割という役割関係が見当たらないのです。

「彼らの文化には、「人間が人間に対して、指示・命令できるものではない」という前提が横たわっている(・・・)。ヘヤー社会では、親といえども子に対して指示したり命令したりすることはできないのです。人間に対して指示を与えることができるのは、ただ「守護霊」だけなのです。それは、目に見えない存在です。」

「そのため彼らは、「ものごとは自分で(守護霊のもとに)覚える」以外はないと言います。」

*******

*「「教えてあげる」「教えてもらう」だと、伝授される知識や技能は、個人が所有していることが前提になっているわけですが、プナンにとっては、知識や技能は誰のものでもなく、共同体の中でゆるやかに共有されているものなのです。」

*******

*「「知識」をぐらつかせ、解きほぐすものが必要になります。それが「知恵」なのです。

 いろんな「知識」を体系的に獲得した人物は、物知りになるでしょう。えも「知識」をどんどん増やして、膨大な量のものにまでなっても、それはあくまで「知識」でしかありません。」

「ヘヤー・インディアンやスコルト・サーミが私たちに示してくれるのは、こうした「知恵」を、自ら「動くことで知る」という経験を通じて学び取ることの大切さです。「内側から」私たちは、物事を知るべきではないでしょうか?

 また、学校に行かないプナンのふるまいが教えてくれるのは、私たちが学校教育を絶対視して、「知識偏重」の世界に私たちが身を置くことの危うさではないでしょうか? 森の中で、自ら「動くことで知る」という「知恵」をゆっくりじっくりと彼らは会得していくのです。」

「「知識」を積み上げることが決して悪いと言っているわけではありません。「知識」は私たちに心の平安をもたらします。でも、他方で、凝り固まった見方に陥らせてしまう危険があります。「知識」をぐらつかせる「知恵」を手に入れることもまた大事なことなのです。」

 
**(「第2章 貧富の格差や権力とはそもそも何なのか」より)

*「ボルネオ島の熱帯雨林に暮らす狩猟採集民プナンの社会には、貧富の格差がありません。」

「シェアーとは「みんなで共有する」ことであり。それは、個人的にものを所有することの否定です。逆に言えば、プナンは、誰かがものを独り占めすることを認めないのです。」

「彼らはなぜそんなことをするのでしょうか? それは、一言で言えば、全員が生き残るためです。目の前にあるものをそこにいる全ての人で分かち合って、全員が食べて、生き残ることができるようにしているのです。強者だけが生き残るのではなく、みんなで生き残るというのがプナンのやり方です。」

「社会生活の場面でプナンの人たちは、分かち合う精神を基本にしながら人間関係を紡いでいきます。少なくとも、分かち合うことによって、そこにいる誰もが食べて生き残ることができるような社会をつくり上げてきたのです。その意味で、プナンにとって「シェアリング」とは、命を掛けて取り組む行為なのだと言えるでしょう。」

*******

*「プナン社会には獲物や様々なモノを分かち合うことによって、貧富の差がない、平等主義的な社会を築き上げてきました。

 だとすると、そこにはリーダーはいないのでしょうか?

 プナンの共同体にも全くリーダーがいないという訳ではありません。世襲ではなく、その場その時に生まれるアドホックな(一時的な)リーダーがいるのです。プナン語では、ラケ・ジャアウ(大きな男)と呼ばれる存在で、英訳すれば「ビッグマン」です。

 どのように選ばれるかといいうと、シェアリング・エコノミー、つまり皆で分かち合う経済を他の人たちよりも積極的に行う人物が、ビッグマンになる可能性があります。つまり、ビッグマンという社会的地位が先にあってその地位に誰かが選ばれたり、誰かが就いたりするのではありません。言い換えれば、職位に権力が属しているわけではないので、権力が「上」から「下」に発生するわけではないのです。」

*「モノが贈られた時に「ありがとう」という言葉が発せられることはありません。プナン語にもまた、「ありがとう」という言葉自体がないのです。

 何ごとに対してもすぐに「ありがとう」という言葉を発して、謝意を伝える私たちのやり方は、プナンには通じません。ただ、それに代えて、ほとんど使われる機会はありませんが、分かち合う寛大な精神を称える「よい心がけ(ジアン・クネップ)」という言い回しがあります。分け与えるのは当然のことと考えられていて、その精神が称えられるのです。贈与交換の原理が、私たちとプナン社会では、根本的に違っています。」

**(「第3章 心の病や死とはそもそも何なのか」より)

*「プナンの社会は(・・・)心の病を抱えている人が存在しない社会です。(・・・)少なくとも私がフィールドワークに通っているこれまでの一九年間では、精神を病んだり心の病を抱えているプナンに会ったことがありません。」

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*「プナン社会には、人が死ぬと残された近親者たちが名前を変える「デス・ネーム」という習慣があります。それはたとえば、こんなふうです。ブニという男にはブウォという妻がいました。妻ブウォが死ぬと、ブニは「アバン」と呼ばれるようになりました。その後、アバンはアニという名の女性と再婚し、再びブニとなりました。これはブニに限ったことではなく、妻を亡くした夫であれば誰であろうとも、アバンと呼ばれるようになります。その後、再婚すると、ふたたび本名へと戻るのです。

 子どもが亡くなった場合にもまた、その子と関係がある家族・親族は、名前を変えます。第一子が死んだ場合、父母ともども「ウユン」という名前になります。父母は第二子が死んだ場合、「サディ」、第三子は「ララー」、第四子は「ウワン」……という名前に変えられます。そしてしばらくしてその母が死ぬと、やもめとなったその父はふたたび「アバン」と呼ばれます。このように、プナンは死を契機として名前を変えるのです。

 一般に「デス・ネーム」として知られる、プナンを含むオラン・ウル(山の民)と総称される先住民の習慣を、プナン自身は、「名前を変える(ngeliwah ngaran)」と呼んでいます。はたして何のために、そんな習慣があるのでしょうか? 名前とはいったい何かという点から探ってみることにしましょう。」

*「プナンにとって人間は、身体、魂、名前の三つの要素を備えた存在だとされます。人間を構成する三つの重要な要素のひとつとして、名前があるわけです。イギリスの人類学者ロドニー・ニーダムは、その三つの要素とそれらの相互の関係を描いています。人間には身体と魂があり、しかしそのふたつの要素の結合は不安定なものです。それらをしっかりと結びつける接着剤のような働きをするものこそが、名前なのです。いや、接着する役割をもっているだけではありません。名前は、名づけと名づけられること以上の重要性を持つ、身体と魂と並ぶ存在(者)の構成要素なのです。

 その名前が、身体と魂をしっかりとつなぎ止めておく役割を果たすために、何かが起こるたびに新たな名前が必要であるかのように、人の生活史の中でころころと変わるのです。」

「プナンが主体的に、自発的に名前を変えるのではありません。生や死に関わる出来事が、外側から名前を変えるように強いてくるのです。プナンの感覚からすれば、近親者が死ぬと、名前がどこか別の場所からやって来て、私の名前だけでなく、私の周りの人たちの名前をごっそりと替えてしまうのです。個人名はあるのだけれども、日常では口にされないので、それらはどこかに漂っているような、自分から離れてしまったような、不思議な感覚を催します。名前はそのうちに個人名に変わることもあれば、次に起きた死によって、別のデス・ネームに変わることもあります。」

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「日本では、死者に対して戒名や法名が与えられます。」

「それは、言い換えれば、それまで生きていた人の「不在」に対して名が与えられる習慣だとも言えるかもしれません。」

「デス・ネームとの比較で述べれば、死者に名前を付けることは、死者の輪郭をはっきりさせた上で、祖先祭祀し(祖先を供養し祀ること)の対象とすることに関わっています。死者は死後に新しい名前を授けられることで、「新しい生命」を持った存在者として「あの世」にいるのです。そのことによって遺族は、仏壇や墓などを通して、死者を弔い祀ることができるようになるのです。

 それに対してプナン社会では、死者に新しい名前が付けられるどころか、死者の名前は口に出してはならないとされます。残された者たちの会話の中で、どうしても死者に言及しなければならない場合には、死体を埋葬するために作られた棺の素材である樹木の名前を用いて、「ドゥリアンの木の男(lake nyaun)」、「赤い沙羅の木の女(redukeranga)」などという言い方でヒソヒソとほのめかされるだけです。死者は無名化される傾向にあります。

 プナンは、死者の名前を呼ぶことを忌避して死者を無名化し、それと同時に、死者と関わりのある人々の名前をデス・ネームに変えてしまいます。日本の戒名との比較で言えば、プナンでは死者を死んだ存在としてくっきりと浮かび上がらせるのではなく、反対に、死者の輪郭を虚ろなあやふやなものとします。そして生きている人々の意識は、新しく個人名を与えて刷新された共同体に振り向けられるのです。」

******

*「日頃、濃密な人間関係の網の目の中で暮らしているプナンは、死や死者を逸早く周囲から遠ざけてしまおうとする一方で、デス・ネームによって、刷新された共同体で生きる現実に意識を振り向けようとしてきました。現代日本でも社会・経済的環境の変化を背景として、葬儀というのが、そんなに難しく考えるべきものではなく、カジュアルで気軽で「本源的な」ものへと変容しつつあるのだと言えるでしょう。人類学者がひっくり返すのではなく、現代社会が今、日本人の死をひっくり返しつつあるのかもしれません。」

**(「第4章 自然や人間とはそもそも何なのか」より)

*「プナンは森に入っていく時、ハンターとしてテナガザルをしとめるという目的を持っています。プナンは狩る「主体」であり、テナガザルは狩られる「客体」(対象)としてイメージされているはずです。ところが森には、人間→動物という、主体→客体のイメージをひっくり返す存在がいるのです。それが、テナガザル鳥です。

 プナンにとって、森という場は、「狩る側の人間」と「狩られる側の動物」という二項対立だけから成り立っているわけではないのです。森では、テナガザル鳥という第三者が、「狩る/狩られる」という二項に介入してきます。そしてそれは、つねに動物の側であるテナガザルの味方をするのです。プナンにとって森は、人間と動物たちという複数種が、それぞれ主体として立ち現れる世界だと言うことができるように思います。言い換えれば、そこでは、人間だけが主体なのではありません。森では、トリや動物もまた主体として立ち現れるのです。そしてトリは、人間を客体とみてその動きをつぶさに察知し、サルに危険を知らせるのです。」

「生き物ごとにそれぞれの世界があって、動物と人間は連続しています。「自然」は人間から隔てられているわけではありません。」

*「「森それ自体」も思考していると主張した、カナダの人類学者エドゥアルド・コーン(・・・)の研究の目的は、思考するの人間だけという考えに深く囚われてしまっている私たちの当たり前をひっくり返してみることです。」

*「さらに言えば、先住民たちは、動物だけが思考し、精神を持つ存在だと考えているわけではありません。非生物あるいは無生物もまた同様に思考し、精神を持つ存在として捉えている事例報告がたくさんあります。」

*「川に人格があるなどということは、マオリのような伝統的な考え方をもつ人たち以外にはすんなり納得してもらうことは難しいかもしれません。(・・・)しかし、「信じられない」と思ってしまう裏には、人間と「自然」は別物だとする考え方があることを思い出してみてください。

 私たちは、当たり前と感じているそういった思想をひっくり返して、洪水や土砂災害などを、川自らが上げている声と捉えて、その声に応答しようとする姿勢について考えてみることが大事なのです。その姿勢は、川の氾濫を災害であると捉えて治水工事をしたり、あるいは利水するだけの資源(対象)と捉えたりする、人間本位の自然哲学を改めて、人間と自然を連続性の位相のもとに捉える思想へと立ち戻ることにつながっています。」

【目次】

序章 人類学でひっくり返すとはどういうことか?

1「精神の危機」によって生まれた人類学
2『ひっくり返す人類学』とは何か?
3本書が目指す「処方箋」としての人類学

第1章 学校や教育とはそもそも何なのか

1私の「お稽古ごと」時代
2ピアノ教室の未知の世界
3学校教育とは何か
4「師弟関係」がないヘヤー・インディアン
5ヘヤーにとって「覚える」とは?
6ボルネオ島の狩猟民プナンにとっての「学び」
7プナンにとって「学校」とは何か?
8学校には行かなければならないの?
9「知識」とともに「知恵」を重んじる

第2章 貧富の格差や権力とはそもそも何なのか

1世界と日本における貧富の格差
2貧富の格差のないプナン社会
3貧富の格差が生じないような仕組み
4権力とは何か
5気前のいいビッグマン、不穏なビッグマン
6権力を生じさせないための工夫

第3章 心の病や死とはそもそも何なのか

1働きすぎやうつ病をめぐる私たちの日常
2うつ病や心の病のない社会
3カリスの唇のあやまち
4それは心の病ではない
5日本における「この世」からの別離
6葬儀の変化、死の消滅
7人が死ぬと残された家族の名前が変わる
8日本の戒名とプナンのデス・ネーム
9死者を「忘れる」

第4章 自然や人間とはそもそも何なのか

1自然と人為という枠組み
2人間から分け隔てられる動物
3自然と人間の二元論に抗する思考
4トリと動物と人間の三者間関係
5動物は思考し、森も思考する
6山や川もまた人間
おわりに

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