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戸谷洋志『責任と物語』/サン=テグジュペリ『星の王子さま』

☆mediopos3752(2025.2.26.)

戸谷洋志『責任と物語』の主題は
「「責任を引き受ける」ということが、
どのようにして可能になるかを明らかにすること」である

「責任」という概念は多義的だが
少なくともここでいうそれは
自己責任論などでいわれるような責任とは異なっていて

それがサン=テグジュペリ
『星の王子さま』の物語を例にして考察されている

物語は砂漠で不時着した飛行士である主人公が
星の王子さまと出会うところから始まる

星の王子さまは
小さな星にひとりぼっちで住んでいた

やがて宇宙から種が飛来し美しいバラの花を咲かせ
そのかけがえのないバラと二人で暮らしはじめる

しかしバラのわがままに我慢の限界がきて
星を出て地球にやってくる

そこに無数のバラの生えている花畑を見て
じぶんの星で出会ったバラは
そうしたバラのなかのひとつにすぎなかったのではないか
と思うのだが

一匹のキツネに出会い
この世界には同じようなものが無数に存在するけれど
相手と仲良くなることができれば
その相手はかけがえのない存在になるのだと助言を受け
自分が小さな星で出会ったバラは
かけがえのないバラだったことに気づき
再び自分の小さな星へと帰還しようとする

星の王子さまはキツネの助言から
「かけがえのない存在」に関する認識を訂正し
「本当に愛するべきだったバラを置き去りにしてしまった。
そしてそれを行ったのは自分だ、ということを受け入れ」
過ちを犯した責任を果たそうとするのである

ここで「責任を引き受ける」といわれているのは
「責任を引き受けない」
つまり「自分の責任を他者のせいにする」こともできるとき
「あえて、自分で引き受ける」という意味において
「責任を引き受ける」ことである

私たちは人生という物語の作者になることはできないが
「主人公」として生きることはできる

そしてその物語のなかで「他者」と関わることで
ときにその「物語」を訂正しながら自分を語り直し
過去の自分を違った仕方で解釈し直すことで
「物語的責任」を引き受ける

それは自分が過去になした行為の帰結を
どう理解するかだけではなく
そのことによって
「これから「私」がどうありたいか、
どんな人生を歩んでいきたいか、という未来へ」
向けられるという意味での「物語的責任」である

それは外から与えられるような「自己責任論」ではなく
みずからが「主人公」として
あえて「責任を引き受ける」ということである

そのためにはみずからの過去のおこないを「訂正」し
その「物語」を語り直していかなければならない
それは「かけがえのない」「他者」と関わりながら
深められていく「責任」であるともいえるのだろう

おそらくそこに必要なのは
「許し」であり「気づき」であり
そしてそのために自分を語り直す「勇気」である

「物語」はともすれば
自らの生を固定化させるような縛りともなるが
「主人公」としてその縛りを解き
未来に向けて語り直すことができるならば
「魂の世話」をおこなうのための大切な歩みとなる

■戸谷洋志『責任と物語』(春秋社 2025/1)
■サン=テグジュペリ(内藤濯訳)『星の王子さま』(岩波書店 2000/11)

・はじめに

「本書の主題は、「責任を引き受ける」ということが、どのようにして可能になるかを明らかにすることである。」

「もっとも、責任という概念は多義的である。同じように責任という言葉が使われていても、その内容は文脈によってまったく異なったものになる。ここでは問題の所在を明確にするために、一つの文学作品を範例として取り上げてみたい。

 それは、現代フランスの小説家アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの代表作、『星の王子さま』である。

 『星の王子さま』の物語は、砂漠で不時着した飛行士である主人公が、突如として目の前に現れた、星の王子さまと出会うところから始まる。王子さまは主人公に対して、自分が地球にやってきた経緯を語る。

 彼は、もともと小さな星に住んでいた。ある日、そこに宇宙から植物の種が飛来した。その種は発芽し、やがて美しいバラの花を咲かせることになった。それまで、その星で独りぼっちだった王子さまは、バラと二人で暮らすことになった。彼にとってそのバラは、かけがえのない美しい花だった。彼は一時、そのバラがそこにいてくれることで、とても幸せな気持ちになることができた。

 ところがそのバラは、とてつもなくわがままだった。素直ではなく、嫌みばかり言った。いつも些細なことで王子さまを責めた。王子さまはそうしたバラと付き合うことにだんだんと嫌気が差してきた。そして、ある日、とうとう我慢の限界が来て、バラを置いてその星を去ることを決めてしまった。

 その後、王子さまは様々な星を渡り歩いた後、地球にやってきた。彼はそこで衝撃的な光景を目の当たりにした。何千本のバラが生えている花畑を見てしまったのだ。小さな星では、たった一つしかないと思っていたバラが、そこには無数に存在していた。彼は、自分が小さな星で出会ったバラも、そうした無数のバラのなかの一つにすぎなかったのではないか、と疑うようになった。

 そんな折、彼は一匹のキツネに出会った。キツネは彼にこう助言した。この世界には同じようなものが無数に存在する。自分も、無数に存在するキツネの中の一匹に過ぎない。しかし、相手と仲良くなることができれば、その相手はかけがえのない存在になる、と。

 王子さまは、その助言を胸に、再びバラの花畑を訪れた。彼は以前とは違った心境を抱いた。彼が小さな星で出会ったバラは、目の前に存在する無数のバラとは、違ったものだったことに、彼は気がついたのだ。」

「王子さまにとって、小さな星で出会ったバラは、それ以外のバラとは異なる、かけげのないバラだった。しかしその理由は、小さな星で出会ったバラに、他のバラを凌駕するような美しさが備わっていたからではない。彼がそのバラと関わったからである。自分が世話をし、自分が守り、自分が保護したということ————それが、彼にとってそのバラがかけがえのない存在である理由なのだ。そのことに、彼は気づくことになった。

 そうであるにもかかわらず、自分はその花を星に置き去りにしてきた。彼はその現実を自覚し、再びあの星へと帰らなければならない、と考えるようになった。」

「全体を顧みれば、『星の王子さま』は、バラを自分の星に置き去りにした王子さまが、自らのバラへの責任を自覚し、再び星へよ帰還する物語である。その意味において、王子さまはバラへの責任を引きうけたことになる。」

「そもそも王子さまは法律を犯しているわけではない。自分を置き去りにしたことについて、バラから非難を受けているわけでもあい。したがって、彼が責任を引き受けることを強制するものは、何も存在しない。彼は、固く心を閉ざしてしまえば、キツネの言葉を無視し、すべてをバラのせいにして、自分から一切の責任を免除することもできたはずである。そうであるにもかかわらず、彼はそうしなかった。それはいったいなぜなのだろうか。

「責任を引き受ける」ことができるのは、「責任を引き受けない」こともまたできるときである。「責任を引き受けない」こともできるのに、あえてそうしないということが、「責任を引き受ける」ということだ。そして、責任を引き受けないということは、自分の責任を他者のせいにする、ということである。私たちが自分の責任を引き受けるとき、それは、考えようによってはそれを他者のせいにもできるときである。それでは、なぜ「私」は、他者のせいにすることができる責任を、あえて、自分で引き受けるのだろうか。

 ここに本書の問題関心がある。もしも「私」に責任を引き受けることが可能であるとしたら、その態度を取るということは、いかなる条件に基づいているのか。本書はこの問題について、哲学の領野における様々な議論の蓄積を踏まえて、一つの解答を試みる。(・・・)

 議論を先取りすれば、本書において中心的な役割を果たす概念は「物語」である。伝統的な責任の議論において、この概念が注目されることは、それほど多くなかった。しかし本書は。人間のアイデンティティと物語の関係を理解することなしに、責任を引き受けることの可能性の条件を明らかにすることはできない、と考えている。」

・第七章 物語の核

「自分の責任を引き受けることと、人生の物語を訂正することが、いかにして可能になるのか(・・・)、この問いに対する答えを模索するために、私たちは科学哲学の知見を手がかりにした。

 二〇世紀に隆盛した科学哲学の議論において、科学的な仮説が実験による経験的な観察によって実証できる、という従来の見方に疑問が寄せられた。むしろ、いかなる経験も、それを私たちが理論のもとで眺めるかによって、その意味を制約される。そうした観察を有意味に解釈するための前提となる理論を、クーンはパラダイムと呼んだ。彼は、パラダイム同士は通約不可能であると考えた。それに対してラカトシュは、パラダイムの概念をリサーチ・プログラムと呼び、その理論的な発展を試みた。彼によれば、リサーチ・プログラムは堅い核と防御帯の二層構造によって成り立っており、堅い核を守るために、防御帯は修正されていく。一方で、もはや防御帯の修正が機能しなくなったとき、そのリサーチ・プログラムは新たなものへと刷新される。

 本書はこのアイデアを物語的責任概念に取り入れることを試みた。「私」には人生の物語を訂正することができる。しかし、それによって物語が同一性を失うことはない。なぜならそれは、訂正されてはならないものを守る形で、すなわち物語の堅い核を存続させる形で、行われるからである。

 そのように堅い核として守られるものは何だろうか。本章ではそれを、自分自身がその物語の主人公であることとして解釈した。「私」は、自分が人生の物語の語り手であり、自分によってその物語に起こる出来事が意味づけられるような存在である。そうである限りにおいて、「私」は自分の行為によってもたらされた出来事を、そうしたものとして解釈することができる。反対に、その堅い核を奪われ、言い換えるなら自分の人生の主人公性を否定されるとき、「私」は自分を自分の人生の主人公として眺めることができなくなり、結果として責任を引き受けることもできなくなる。

 本書は、こうした事態を自暴自棄として説明した。それに対して、「私」が自らの責任を引き受けることは、ある種の自己肯定感を私たちに喚起させるに違いないのだ。」

・おわりに

「本書はその冒頭において、『星の王子さま』における責任の問題を紹介した。」

「(キツネの)助言を聞き入れることで、王子さまは、再び「かけがえのない存在」に関する認識を訂正する。彼にとってそれは、もはや「同じ種類のものが他に存在しないもの」を意味するわけではない。たとえ同じ種類のものが他に存在するのだとしても、自分が関わった存在が、そのことだけによって「かけがえのない存在」になるのだ。

 あの小さな星で、王子さまは紛れもなく、一本の生意気なバラを美しいと思った。それは、この世界にバラがその一本しか存在しないからではない。そのとき王子さまが関わったバラが、この世界にその一本しか存在しないからだ。王子さまは、そのとき、たった一度しか訪れない時間を、そのバラとともに過ごした。その小さな星に、偶然咲いたバラと、たまたまそこに居合わせた自分が関わった。そのありえないような邂逅に、彼は美を感じたのだ。そしてその美は、バラの外見の美しさを意味するのではない。キツネが助言するように、大切なことは目に見えなかったのである。」

「このようにして彼は、過ちを犯したことを引き受けたのだ。自分は、本当に愛するべきだったバラを置き去りにしてしまった。そしてそれを行ったのは自分だ、ということを受け入れた。だからこそ彼はその責任を果たすために、危険を冒して、あの小さな星への帰還を試みたのだ。

 このように、王子さまが責任を引き受ける過程では、彼がそれによって自己を解釈している物語の訂正が起きている。しかしその訂正は、彼を無責任な言い逃れや、単なる自暴自棄へと導くのではなく、責任の主体としての自覚へと促しているように思える。

 おそらくそれは、王子さまが、その旅路のなかで何度人生の物語を訂正しようとも、その物語の核となる部分を、守り抜いていたからではないだろうか。その核とは、かつてあの小さな星で、そのバラを確かに美しいと感じた、ということだ。そのバラとともにいるとき、彼が紛れもなく明るい光のなかにいた、ということだ。」

「物語的責任が、過去の行為に関する責任概念である、という説明は、大いにミスリーディングだ。なぜなら、私たちが自らの責任を引き受けるのは、私たちの生きる人生の物語に即してのことであり、そして物語は未来へと広がっているからである。「私」は、自分が過去になした行為の帰結を、自らの行為の帰結として理解するが、それはこれから「私」がどうありたいか、どんな人生を歩んでいきたいか、という未来への視点と不可分である。この意味において、物語的責任は未来とも密接に関係する。もし、あえて違いを説明しようとするなら、弱い責任が他者の未来に向けられたせきにんだとしたら、物語的責任は、「私」の未来へ向けられた概念だと考えることができるだろう。

 筆者が弱い責任という概念を提唱した動機の一つは、自己責任論への批判だった。この点において、物語論的責任もまた同様の動機を持つ。責任を引き受けることができるのは、「私」が自分の人生の主人公であるときだけである。その条件を破壊された場合、「私」には自分の行為の帰結を、自分の行為の帰結として理解することができない。しかし自己責任論にとってそうした条件は無関係であり、むしろ場合によっては、その条件を破壊するように作用する。」

「私たちの人生には予想のできないことばかり起こる。自分の言ったことが、自分の思っていたのとは違った形で理解されることがある。自分のした行為が、思わぬ仕方で、誰かを傷つけることもある。

 そうした出来事を、それでも自分の責任として引き受けるとき、私たちは自分の生きている物語を訂正しなければならない。私たちは、自分を語り直し、過去の自分を違った仕方で解釈し直さなければならない。

 しかしその訂正は、訂正されるべきではないものを、物語の核を守り抜く形で遂行される。「私」は自分の人生の作者になることはできない。それでも、その物語の主人公であり続けることはできる。その意味において、責任を引き受けることは、自分を肯定することでもある。

 そして、そのように人生の主人公であるために、私たちは他者から助けてもらわなければならない。「私」は自分だけの力で主人公であり続けることができない。責任を引き受けるということは、決して、この世界で孤立して生きていくということを意味しない。むしろそれは、互いを許し合い、約束を交わし合い、そしてその傷つきやすさを気遣い合う、他者との関係性を前提にしなければ、決して成立しない。

 それは、本書の結論である。」

□【目次】
はじめに

第一章 伝統的責任概念の構造
 責任の分類
 強い責任と弱い責任
 責任への応答としての自己理解
 責任と功績の関係
 自己理解の前提としての自発性
 自由意志の系譜
 帰結の重視
 責任概念の時間性
 まとめ

第二章 決定論
 機械論的自然観
 機械としての生命
 リベットの実験
 遂行論的自己矛盾
 自然化された運命論
 自由意志の長期的な時間性
 まとめ

第三章 二階の欲求説
 他行為可能性への批判
 脳内を操作されていたとしたら
 一階の欲求と二階の欲求
 意志の同定
 共鳴する自由意志
 二階の欲求説の修正
 自己統制方針
 まとめ

第四章 物語的責任
 強い評価と弱い評価
 深い動機
 自己解釈とアイデンティティ
 地平としての物語
 物語的な構造化
 物語の予測不可能性
 物語の事後的必然性
 まとめ

第五章 回顧と訂正可能性
 意図的行為
 意図的行為と回顧
 回顧の虚構性
 正しさの正しさ
 訂正可能性
 歴史修正主義とのせめぎ合い
 悪の陳腐さ
 まとめ

第六章 許しと約束の力
 「だれ」の暴露
 物語の制御不可能性
 訂正可能性の制御不可能性
 「許し」の能力
 「約束」の能力
 活動としての許しと約束
 まとめ

第七章 物語の核
 物語の二重性
 理論負荷性
 パラダイム
 リサーチ・プログラム
 物語の「堅い核」
 主人公としての自己
 自暴自棄と自己肯定感
 まとめ

おわりに

○戸谷洋志
1988年東京都生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。専門は哲学、倫理学。法政大学文学部哲学科を卒業し、2019年大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。ハンス・ヨナスの研究で学位取得。
2015年「人類の存続への責任と「神の似姿」」で第11回涙骨賞奨励賞、同年「原子力をめぐる哲学」で第31回暁烏敏賞、2022年『原子力の哲学』で第41回エネルギーフォーラム賞を受賞。
著書に『ハンス・ヨナスを読む』(堀之内出版)、『原子力の哲学』(集英社新書)、『ハンス・ヨナス未来への責任――やがて来たる子どもたちのための倫理学』(慶應義塾大学出版会)、『哲学のはじまり』(NHK出版)、『恋愛の哲学』(晶文社)、『生きることは頼ること――「自己責任」から「弱い責任」へ』(講談社現代新書)など著書多数。

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