見出し画像

穂村弘×永井玲衣「この世界のポテンシャル」・・・『迷子手帖』×『世界の適切な保存』W刊行記念対談(群像2024年10月号)

☆mediopos3586(2024.9.13)

穂村弘『迷子手帳』と永井玲衣『世界の適切な保存』の
刊行を記念した対談が
群像2024年10月号に掲載されている

永井玲衣『世界の適切な保存』は
『群像』誌上で連載されていたものであり
このmedioposでも何度かとりあげたことがある

対談のタイトルは「この世界のポテンシャル」

穂村弘は「この世界は本当はどういう場所なのか、
わからなけど、世界のポテンシャルを感じる瞬間がある」

「本当は世界はものすごいポテンシャルに満ちた場所なのに、
こっちが勝手に扉を閉じてしまっているのかもと思う」といい

それに対して永井は
「哲学というのは世界の奥行きを信じられることだ」といい
「世界は行き止まりじゃなくて奥行きがあって、
ふだんはそれに気づけないけれども、
問うたり、詩を通して見ることができる」と応えている

そのとき重要なのが「みんなで迷子になる試み」

哲学対話において
「自分は地図を持っています。
現在地はここで、目的地はここだから、
最短ルートはこうです」というのは違和感があって

「地図や目的地や現在地や最短ルートは、
すべて世界の現在の形を前提としているわけだから、
そこでの正解は、つまり世界を現状のまま固定してしまう」

穂村弘は
永井玲衣の哲学対話はその逆で
「読み手が不安になるようなことを、
書き手が自分も不安がりながらどんどん書いていくから、
地図を持っていない者同士の迷子比べみたいになって、
すごく刺激される」のだという

「みんなで迷子になる試み」をすることが
「この世界のポテンシャル」を開くための
大切なプロセスになるということだろう

しかし穂村弘の『迷子手帳』の帯に
「いつまでも迷子であり続ける人のための手帳です」
と書かれていることに対して
永井玲衣がつぎのように語っていることは
とても大切なことではないかと思われる

「穂村さんが信頼できるなと思うのは、読み手に対して
「大丈夫だよ。君は迷子のままでいいんだよ」
みたいな、妙な寄り添い感がないこと。
ただ率先して穂村さんが迷子であることが書かれてある
というのが、むしろすごくありがたい」

『迷子手帳』は「迷子のススメ」ではないからだ

どんなテーマでも
またどんな人の姿勢に対しても
それを受け取るとき
それらを「○○のススメ」のように受け取るだけでは
「この世界のポテンシャル」を受け取るどころか
ただ教えられたことに従うだけになってしまう

その人だけにしかできない
不可避の迷子のなり方があり
迷うことではじめて
世界から得られるポテンシャルがある

与えられ固定された地図の通りに
世界をたどることで到着する場所と
迷いながらじぶんだけのルートで到着する場所とでは
同じ場所のように見えてもまったく異なっているから

■穂村弘×永井玲衣「この世界のポテンシャル」
 『迷子手帖』×『世界の適切な保存』W刊行記念対談
 (群像2024年10月号)
■穂村弘『迷子手帳』(講談社 2024/5)
■永井玲衣『世界の適切な保存』(講談社 2024/7)

**「穂村弘×永井玲衣「この世界のポテンシャル」
  〜みんなで迷子になる試み」より

*「永井/穂村さんとはこれまで何度かトークをご一緒しているのですが、今回は私の本と穂村さんの本を通してお話できればと思ってきました。よかったら、『世界の適切な保存』の感想をいただいてもいいですか。

  穂村/(・・・)哲学対話というのは基本は生身なりオンラインなりで集まって、テーマを決めてみんなで話し合うと思うんだけど、僕の感じ方だと、それはみんなで迷子になる試みのような気がするんです。
  もしもその中に一人、すごくしっかりした人がいて、「自分は地図を持っています。現在地はここで、目的地はここだから、最短ルートはこうです」と言ったらどうか。現実の社会ではその人はリーダー向きだと思うけど、哲学対話の場では逆に違和感があるんじゃないか。地図や目的地や現在地や最短ルートは、すべて世界の現在の形を前提としているわけだから、そこでの正解は、つまり世界を現状のまま固定してしまう。
  永井さんはその逆で、読み手が不安になるようなことを、書き手が自分も不安がりながらどんどん書いていくから、地図を持っていない者同士の迷子比べみたいになって、すごく刺激されるんです。

  永井/(・・・)『迷子手帳』の帯には「いつまでも迷子であり続ける人のための手帳です」と書かれてあるんですが、私がこの本を読んで思ったのは、穂村さんこそ徹底してずっと迷子だなと。私が十代のときに呼んでいた穂村さんの迷子性と、三十歳を超えていま読む穂村さんの迷子性が、ずっと貫き通されているというのがすさまじい。
 穂村さんが信頼できるなと思うのは、読み手に対して「大丈夫だよ。君は迷子のままでいいんだよ」みたいな、妙な寄り添い感がないこと。ただ率先して穂村さんが迷子であることが書かれてあるというのが、むしろすごくありがたいと思って読んでいました。」

**「穂村弘×永井玲衣「この世界のポテンシャル」
  〜世界の奥行きの触れる」より

*「穂村/この世界は本当はどういう場所なのか、わからなけど、世界のポテンシャルを感じる瞬間があるよね。(・・・)
 本当は世界はものすごいポテンシャルに満ちた場所なのに、こっちが勝手に扉を閉じてしまっているのかもと思うんです。

  永井/確かに、哲学というのは世界の奥行きを信じられることだと私はよく表現するんです。ここで行き止まりだと、世界が閉じて見えることはつらいけれども、それに「本当に?」と問うことによって世界の扉がパカッと開いて、奥行きが見え始める。それはすごく不安だし、偶然性に左右されるんですが、不安だけど希望みたいなところがある。
 今の穂村さんの話を聞いて、自分が詩とか哲学が好きな理由は、世界は行き止まりじゃなくて奥行きがあって、ふだんはそれに気づけないけれども、問うたり、詩を通して見ることができるということがたまらないからだなと思いました。」

**「穂村弘×永井玲衣「この世界のポテンシャル」
  〜短歌的な瞬間を保存する」より

*「穂村/『世界の適切な保存』には短歌の引用が多いけど、それ以外にも短歌的だなと思うエピソードがあって、例えば東日本大震災のとき、あの直後はもちろん今に至るまで、一人一人がどこで何をしていたかを話し合うことがあったけど、永井さんがある人に、「どうだった?」と聞いたら、「スキニージンズがきつかった」と言われた話を書いていますね。

  永井/スキニージンズがきついな、って思いました」と、まず言われたんです。

  穂村/それにはすごいリアリティを感じました。震災とスキニージンズは何の関係もないように見えるけれども、背景や説明はすっ飛ばされて、本人の体感として圧倒的にただ一つ残った実感が、スキニージンズがきついな、ということだった。短歌もそういうつくり方をするんだよね。短いから、「そのとき私はこういう場所にいて、こういう事情でふだんしない動きをしたので」みたいなことは説明できなくて、一番強く心に突き刺さったものだけが残るのが短歌なんです。」

*「永井/穂村さんが「迷子」と表現するのは、その人でしか間違えられないということとつながっていますか。

  穂村/そうですね。小さい子どもとかが、「ねえ、ママ、舌も生え替わるの?」みたいな間違いをすると、すごいなあと、うれしい感じがする。歯は生え替わるもんね。

  永井/確かに迷子になって人って、それぞれの間違い方をしている気がするんですね。駅からこの書店まで、こうやって行けば一番早いという最短ルートに対して、めっちゃ迷ってきましたという人が何人かいると思うんです。その人たちの迷い方は多分全然ばらばらで、そのうちの一つを穂村さんはこの『迷子手帳』で体現されているのかなと思いました。」

**「穂村弘×永井玲衣「この世界のポテンシャル」
  〜暴力に抗するものとしての言葉」より

*「永井/自分はやっぱり言葉がすごく好きなので、言葉というものが失われたり、言葉というものの意味が引き剥がされてしまって、別の意味に塗り替えられてしまうことが暴力であると思っています。それに抗するという態度で自分はいたい。別に対話が透きだからやっているんじゃなくて、恐らく暴力に抗するものとして対話を探しているだけじゃないんですけど、言葉を探すことが暴力に抗することだとつなげて考えているんだと思います。」

*「永井/私は見るとかきくということをずっと軸にしていて、世界をもっとよく見たい。見るためにはきかなければならなかった。それは自分にとって必要なことで、自分は本の中にずっと閉じこもっていた人間だったのですが、(・・・)本の中だけだと行き止まりが訪れてしまう。だから、いろんなところに出かけていく、そこで話をきくと世界が奥行きを見せて、どんどん巻き込まれていく。そういう意味では、書斎ではできないなと私は思いますね。

  穂村/現場に行くと、すごい無力感に襲われることがあるよね。さっきの迷子の話でも、「なんで現在地の地図を持ってちゃダメなんですか」という人が実際には普通なわけでしょう。「哲学対話なんて何の意味があるんですか。みんなで迷子になってダメになるだけじゃないですか」と。会社でもどこでもそれが普通ですよね。どこに行っても、話はまずそこからになって、振り出しに戻ってしまう。

**「穂村弘×永井玲衣「この世界のポテンシャル」
  〜他者とどう向き合うか」より

*「永井/わたしはよく聞かれるんですよ、「短歌をつくらないんですか」って。私は短歌を一回もつくったことがないんですね。それはやっぱり逃げているというか、怖い。怖過ぎてつくれない。だから、穂村さんはなぜつくれるおかと思います。
 前にも聞いたかもしれないですけど、穂村さんは、ここまで他者を怖がりながら、なぜ書くこと、短歌をつくることができるんでしょうか? それはある種の他者への信頼がないと。すごく怖いものだという気がする。書かれた歌は誤読されたり、他者に勝ってにこねくりまわされて、全く違うものに変貌していってしまう可能性がありますよね。他者への信頼がなければできない「書く」ということを、なぜこんなに他社製を恐れる穂村さんがずっと続けてこられているのかが気になります。

  穂村/短歌というか韻文は生身の他者に向けてはあまり書いてなくて、もうちょっと垂直的なベクトルで書いているんですよね。祈りとか呪いの一種というか、あとは、思春期のころはオール・オア・ナッシングで、完全主義になるでしょう。そうすると、完璧に伝わらないなら試みないという気持ちになって、何もできなくなる。でも、だんだん年をとってくると、一〇〇%じゃなくてお、六〇%しか通じなくてもやったほうがいいと思うときがある。六〇どころか、四〇とか三〇のときもあるわけです。
 他者と向き合うのは今でも苦しいんだけど、ただ、最初に想定しら一〇〇%にはなかっら五%が、その中に入っているみたいなときがあって。三〇%であっても、二五%プラス、自分が予測もしなかった、恩寵のような五%が生まれたりする。他者性とか偶然性にはそういうものが含まれていると思うんです。とはいえ、すべての局面で場数を踏めばいいとまでは思えないんだけど。

  永井/私は十代のときは結構、暴力的な子どもだったんですよ。でも、自分が対話に開かれていったのは、暴力を振るいたい他者がいるけれども、どんな他者とともに生きるにはどうしたらいいかというのが始まりだったんです。私にとっての他者は、自分を脅かしてきたり、あるいは自分が暴力を振るってしまいたいと欲望するような怖い存在で、でも、その人にどうやって暴力を振るわずに一緒にいられるだろうというときの手立てとして、いま自分にとっての言葉とか対話とか、そういうものがあると思います。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?