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久山雄甫「雰囲気学をひらく」(現代思想2023年12月号 特集「感情史」)

☆mediopos3612(2024.10.9)

現代思想2023年12月号・特集「感情史」に
久山雄甫「雰囲気学をひらく」が掲載されている

「雰囲気学」という名称は聞きなれないが
日本で新たな学術領域として
「神戸雰囲気学研究所(KOIAS/コイアス)」が
設立されたのは2022年のこと

英語のmood・フランス語のambiance
ドイツ語のStimmung・中国語の氣氛など
世界各国でひろく使われている
「雰囲気(英語:atmosphere)」に関連する現象を
分野/文化横断的な視点から包括的に研究しているという

きわめて即物的な技術につながるものばかりが
研究の対象となっているように見える現代に
「雰囲気学」なるものの研究所が
よく設立される運びとなったものだと驚かされる

久山氏も記事の最後に
「フンイキガクなどと言えば、
何とも浮き世離れして聞こえるだろう。
社会実装にすぐ役立つものでもない。
けれどもこのテーマならば、周回遅れのランナーのように、
どこかで未来社会の切実な問題と切り結ぶことも、
ひょっとしたらないともかぎらない。」としている

「雰囲気学」がどういうものか
記事でふれていることだけしかまだわからないが
その一部を紹介してみることにしたい

「雰囲気」はそれを対象化することはむずかしい
いうまでもなく主客二元論とは相容れないところがある
つまりヨーロッパ近代の人間観が前提となってはいない

「雰囲気は、人間がみずからを周囲世界とは異なる主体として
意識する点につねに先行している」がゆえに
「人間のみならず、この構造はすべての生命体に
多かれ少なかれ共通している」

そのため「雰囲気学では生命体を、
環世界に開かれた存在として、つまり開放系として考える」

「雰囲気」という概念はヨーロッパで生まれ
たとえば英語のatmosphereは
近代ラテン語をもとにした造語atmosphaeraに由来している

日本語の「雰囲気」という言葉は明治維新前に
オランダ語luchtの訳語として見られるようになり
はじめは自然科学における「大気」を意味していた

「雰囲気」という言葉が使われるようになったのは
「自然からの乖離が決定的になり、
自然の不在が意識されたがゆえに、
自然への眼差しが生まれたという
近代の反転的な情況」があったようだ

KOIASにおける研究では考察の対象を
雰囲気のもつ近代以降の近代的性格の問題化だけではなく
その枠組みを超え歴史文化的な多様性に注目する

それに関連する重要語でいえば
洋の東西における「プネウマ」と「気」がある
(東と西の間にはサンスクリットの「プラーナ」)

プネウマは古代ギリシア語であり
それに対応するラテン語がスピリトゥス

「プネウマはもともと息吹や風の意味だったのが、
思想史の流れとともにだんだんと非物質化し
「精神化」ないしは「霊気化」していった」

天と地をむすびつける聖霊である聖なるプネウマは
やがてキリスト教の根源的世界観となる

東アジアにおける「気」も
「プネウマに似て、胎内を流れつつ体外にも漂い、
内部と外部の二項対立を軽々と飛び越えていく。
さらには精神と物質にまたがり、
自意識とも血流や神経とも深く関わる。」

さらにいえば日本語における
「場」や「間」という言葉も
雰囲気学的視点から考えていく必要があるという

こうした「プネウマ」や「気」に関しては
神秘学的な考察がその核心に近づけるようにも思うのだが
アカデミックな学問としては
その範囲内で考察されざるをえないところがあるようだ

ちなみに雰囲気を正面から取り上げた数少ない学術研究として
ヘルマン・シュミッツの「新現象学」(一九六〇年代以降)と
ゲルノート・ベーメの「新感性学」(一九九〇年代以降)が
紹介されているが
それについては以下の引用部分を参照のこと

さて設立されたばかりの「雰囲気学」だが
記事から想像するところ久山氏は
特に文学にみられるような「言語の魔法」に関心があるようだ

「文学を味わい、その世界のなかに入り込むことは、
「いま・ここ」にはない雰囲気にふれることそのものであろう。
ないはずのものをありありと感じさせる「言語の魔法」は、
こうして、存在と非在をめぐる雰囲気学の
最難関を突破するための鍵になりうる」という

雰囲気は対象化できず
見ることも聴くこともできず
「いま・ここ」にはないこともある

しかしそれらの存在へと意識を向け
その世界をひらくことで得られるものは
即物的なものに席巻されている現代において
なにものにも代えがたいものとなるのではないだろうか

■久山雄甫「雰囲気学をひらく」
 (現代思想2023年12月号 特集「感情史」)

・はじめに

*「二〇二二年四月、神戸雰囲気学研究所(Kobe Instutute for Atmospheric Studies)が立ち上がった。略称はKOIAS(コイアス)。神戸大学を中心とした、ささやかな「雰囲気学」国際プラットフォームである。」

「「雰囲気」は身近な現象であり、身近な言葉である。類義語を挙げればきりがない。場の「空気」や時代の「ムード」を感じとり、故郷の「におい」にふれ、季節の「風情」を味わい、建物の「空気感」につつまれ、私たちは毎日を生きている。これら現代日本の異同を考えるだけでも面白いが、KOIASでは関連の概念や現象をひろく扱う。メンバーの専門領域は、哲学、倫理学、美学/感性学、文学、歴史学、芸術学、美術史、心理学、地理学、建築学、演劇学、言語学と幅広い。雰囲気をめぐる歴史文化の多様性を考察し、その知見をさまざまな実践知と切り結ぶことで、雰囲気を学術テーマとして確立させるのが目的である。」

「困難は少なくない。まずもって対象化が難しい。雰囲気は常日頃から私たちをとりまいているが、日常の素地であればあるほど自明化し、それとして意識されにくい。高揚感や解放感や違和感をもたらすとき、はじめて特別な何かとして浮かびあがってくる。しかも主客二元論とは相性が悪い。むしろ雰囲気は、人間がみずからを周囲世界とは異なる主体として意識する点につねに先行している。いや、人間のみならず、この構造はすべての生命体に多かれ少なかれ共通しているだろう。雰囲気は、動物でも植物でも、すべてを生まれた時から包み込んでおり、生きものと環世界との根源的交流の地平をなしている。雰囲気という言葉自体はもちろん空気に関係するが、広義にとらえれば、魚は水中の雰囲気を、ミミズは地中の雰囲気を、その都度それぞれ感じている。

 これに対応して、雰囲気学では生命体を、環世界に開かれた存在として、つまり開放系として考える。人間だけでなく、生きとし生けるものはつねに周囲の雰囲気にさらさえれており、意識していようとしていまいと、さまざまな感覚の協働をつうじて、からだ全体で雰囲気にふれている。それゆえ五感をばらばらに捉える枠組みよりも、共感覚やハプティック(体性感覚)のほうが雰囲気の知覚をとらえやすい。

 ヨーロッパ近代の人間観は、明に暗に、環境から遊離した個的存在、主客分離と自律的主体、五感による外界認識などを基礎に展開してきた。こうした閉鎖系モデルは今もなお社会のあらゆる場面で顔をのぞかせるが、雰囲気学ではこれを前提にすることはできない。必要なのは新しい存在論————ないしは非在論————である。」

・ヘルマン・シュミッツとゲルノート・ベーメ

*「雰囲気を正面から取り上げた学術研究は国際的にも数少ない。例外的ないくつかの先行研究はドイツを中心に散見する。なかでも重要なのが、ヘルマン・シュミッツの「新現象学」(一九六〇年代以降)とゲルノート・ベーメの「新感性学」(一九九〇年代以降)である。」

「シュミッツによれば、人間は身体において雰囲気に「情感的に襲われる(affectiv betroffen)」。「襲われる」という受動態は見逃せない。ここで雰囲気は、たとえ穏やかに作用するものでも、根本では人間を圧倒する力として考えられている。たとえば実際、雰囲気と宗教をめぐるシュミッツの叙述では、キリスト教の聖霊が人々に降臨するさま(『新約聖書』「使徒言行録」第二章冒頭)が例に挙げられ、また、ルドルフ・オットーのヌミノーゼ概念が新現象学的な雰囲気把握の先駆として評価される。」

「このように独創的なシュミッツ哲学を建設的批判とともに展開し、雰囲気概念のポテンシャルを開花させたのがゲルノート・ベーメである。人間の感性的な世界知覚を再検討する彼の「新感性学」は、雰囲気という現象が主客分離以前の原初体験にかかわることを強調し、雰囲気は「準客観的」であるという便利な表現を生み出した。」

「ベーメにはまたシュミッツの概念をひろく建築論や芸術論などにも応用し、雰囲気という切り口からヨーロッパ文化史を再解釈した功績もある。カント、ヘーゲル。アドルノらの哲学思想との比較考察はもちろん、古くは古代ギリシアの四大元素説から、ヤーコプ・ベーメのシグナトゥール論を経て、近現代におけるヒルシュフェルトの庭園論、アレクサンダー・フンボルトの自然図絵、カール・グスタフ・カールスの風景画論、ヴァルター・ベンヤミンのアウラ概念、ルドルフ・シュタイナーの心魂論、ヴィリー・ヘルバッハの風土心理学。シュテファン・ゲオルゲやゴットフリート・ベンの詩までが、雰囲気と結びつけて論じられた。」

「特筆すべきは精神医学者テレンバッハの『味と雰囲気』で、ベーメはこれをシュミッツ哲学と並ぶ雰囲気概念の嚆矢として再発見し、味やにおいから感じ取る「雰囲気」が自己と世界の関係性の基礎をなすこと(動物における「巣のにおい」)、日本語の「気」とドイツ語の「アトモスフェーレ」に親和性があること(テレンバッハと木村敏の交流)を重視した。」

*「こんにち、シュミッツとベーメの哲学的な雰囲気概念は、ポストモダンの思想状況のなか、ドイツ語圏をこえて国際的に注目されている。ローマ・トル・ウェルガータ大学のトニーノ・グリッフェッロが主宰する研究ネットワークAtmospheric Spacesは、イタリア語と英語で、雰囲気論の可能性を精力的に紹介してきた。近接領域では、スロベニアのレナート・シュコフ(コペル科学研究センター)が率いる呼吸哲学(Respiratory Philosophy)やカナダのデイヴィッド・ハウズ(コンコヅディア大学)が展開してきたセンス学(Sensory Studies)が、「雰囲気」をキーワードに次世代の思考を開拓しつつある。KOIASではこれらの組織と学術協定を結び、包括的な雰囲気学を創出・展開するための国際研究拠点ネットワークを構築してきた。」

「もうひとつ、今後注目されるべき論点として、シュミッツとベーメに共通する問題意識に言及しておこう。それは政治の雰囲気、なかえでも全体主義をめぐる問いである。シュミッツは『歴史のなかのアドルフ・ヒトラー』という大著でこれに取り組んだ。ベーメも最晩年まで、たとで建築を具体例として、ナチスの権力掌握と雰囲気の関係について考察を重ねていた。

 邦語の一般書には、戦中戦後の日本社会における全体主義的「空気」の支配を問題化した山本七平『「空気」の研究』があり、「空気」を日本固有の現象と捉えているが、この点は安直な日本論に陥らない批判的検討を要するだろう。」

「問題はつまるところ倫理的な問いでもある。雰囲気が生み出す帰属感は、もちろん時には居心地のよさにつながる。ただしそこには、異分子を認めない全体主義的傾向の危険がつねに潜んでいる。ある人にとっての「よい雰囲気」は、それに馴染まないものの抑圧や排除によって成立する。普段の人付き合いでの「空気を読む」ことの無理強いも、この雰囲気の暴力性に由来しているだろう。雰囲気はひとを解放もすれば束縛もする。シュミッツとベーメの問題提起は、雰囲気の光と影にまたがっていた。」

・ゲーテ

*「シュミッツとベーメの来歴には面白い共通点がある。二人とも哲学者でありながら、若いころからきわめて熱心にゲーテ研究に取り組んできた。その成果は彼らの雰囲気概念とも密接につながっている。」

・雰囲気をめぐる歴史文化————プネウマと気

*「概念史上、「雰囲気」はヨーロッパの生まれである。たとえば英語のatmosphereは、近代ラテン語をもとにした造語atmosphaeraに由来し、OEDによれば最初期の用例のひとつは一七世紀イギリスの聖職者ジョン・ウィルキンスが月の「大気圏」を論じた文章(一六三八年)に見つかる。」

「なお、日本語の「雰囲気」は、ヨーロッパ近代の概念につらなる翻訳語である。明治維新前にオランダ語luchtの訳語として蘭学者に散見するようになり、はじめは自然科学でいう「大気」を意味した。」

*「雰囲気という言葉ばかりでなく、雰囲気をそれとして対象化する眼差しにも、多かれ少なかれ近代性を認めうる。その背後にはおそらく、近代における人間と自然の関係変化をめぐる問題がひそんでいる。ゲルノート・ベーメが弟ハルトムートと著したカント批判『理性の他者』で跡づけたように、自然からの乖離が決定的になり、自然の不在が意識されたがゆえに、自然への眼差しが生まれたという近代の反転的な情況である。

 ただしKOIASでは、考察の対象を近代以降に限定しない。雰囲気のもつ近代的性格の問題化は欠かせないが、その枠組みをこえて、歴史文化的な多様性にこそ注目すべきだと考える。」

*「関連語を代表する両横綱として、ここでは「プネウマ」と「気」にふれておく、これら双方が洋の東西で————サンスクリットの「プラーナ」をはさんで————似かよっていることは、これまでも多くの学者の興味を惹いてきた。実証可能な歴史的関連の有無はともかく、これらがいずれも空気や呼吸あるいは生命力と深く関連すること、ゆえに人間の身体の内外に流れ漂うこと、さらには精神と物質の双方にまたがること、そして超越世界あるいは鬼神世界に通ずることなど、類似点はたしかに多い。」

*「シュミッツ(は)雰囲気の例として「ガイスト」をしばしば挙げる(・・・)。そのガイスト概念の源流のひとつが、古代ギリシア語のプネウマ、そしてそれに対応するラテン語のスピリトゥスにある。プネウマはもともと息吹や風の意味だったのが、思想史の流れとともにだんだんと非物質化し「精神化」ないしは「霊気化」していった。それ以前、風でもあり霊でもあったプネウマは、たとえば、よく知られるようにキリスト教の根源的世界観を支えるものである。天と地をむすびつける聖霊、聖なるプネウマだ。「風〔≒霊〕は思いのままに吹き、あなたはその声を聴くが、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆同じである」(『新約聖書』「ヨハネによる福音書」第3章第八節)。シュミッツ(は)こうした聖霊も「雰囲気」として再解釈した(・・・)。」

「そもそも精神と物質の二分法はヨーロッパ思想史を通じてつねに自明であったわけではない。ガレノス医学におけるプネウマ、ルネサンス思想におけるスピリトゥスは、精神と物質いずれの性質もあわせもち、ゆえに両者を結びつける紐帯として捉えられていた。そのことは同時に、先述の聖霊イメージ、すなわち調節世界と内在世界の通行可能性のイメージとも重なる。」

*「東アジアの「気」概念も、プネウマに似て、胎内を流れつつ体外にも漂い、内部と外部の二項対立を軽々と飛び越えていく。さらには精神と物質にまたがり、自意識とも血流や神経とも深く関わる。東洋思想的な見方に立てば、われわれの生きた身体もまた、気にかたまりにほかならない。」

*「誤解をおそれずに言えば、東アジア、そして日本の感性には、雰囲気学を展開する大きな可能性があると思う。」

「ちなみに、日本語ではむろん「場」や「間」という言葉の雰囲気的再考も面白い。雰囲気には、中心となる事物から放射されるオーラのようなものもあれば、それに対して、中心となる事物をもたないで「場」や「間」に茫洋と漂うものもある。こうした視点から「場」「間」をあらためて考えるのは、そもそも空間と時間という枠組みを再考しなければならない。」

・おわりに————虚実のあわいの時空間

*「最後にもう一度、存在論的視点に立ち戻っておく。そもそも雰囲気は「ある」といえるのか。言えるとすれば、いかにして「ある」のか。」

*「伝統的なヨーロッパ思想史では、「有」と「無」の区別が存在論の根本をなしてきた。しかしデリダの憑在論をはじめ、現代思想にはこれを疑うものも多い。来るべき雰囲気学もまた、有無の浅薄な二分法を前提にするわけにはいかない。雰囲気は亡霊にも似て「ある」と「ない」のあいだに漂うからだ。」

*「雰囲気は「いま・ここ」で私を襲うものなのに、同時に「いつか・どこか」を感じさせうる。遠いあの日の記憶が、はるかな異国の幻が、実体としては存在しなくても、ある種の力を湛えた雰囲気として現前することがある。いや、むしろ、私たちはつねに一方では「いま・ここ」に生きていながら、他方、雰囲気をそれとして感じるときには、いつもどこかで日常の外部にふれているのではないか。なかんずく、文学を味わい、その世界のなかに入り込むことは、「いま・ここ」にはない雰囲気にふれることそのものであろう。ないはずのものをありありと感じさせる「言語の魔法」は、こうして、存在と非在をめぐる雰囲気学の最難関を突破するための鍵になりうる。

 昔日の文学の例ばかり挙げると古めかしく見えるかもしれない。しかし、虚実のあわいは同時に明日の実社会の根本問題ににもつながっている。人工知能、人工生命。人工宇宙の時代が到来して久しい。人間の脱身体化のプロセスが、その基軸のひとつをなす。生きた身体が消えていき、実体の存在感がかぎりなく薄まっていくとき、雰囲気だけがヴァーチャルに残りつづけるのか、それとも生の手触りが失われるとともに、雰囲気もまたどこかに霧散してしまうのか。近い将来、脱物質化していく世界に向かい合うための言葉と思考が、これまでになく必要とされるにちがいない。」

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