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岩野卓司「ケアの贈与論」「連載第10回 泥棒幻想と相互贈与」(法政大学出版局 別館)

☆mediopos3712(2025.1.17.)

法政大学出版局 別館(note)で連載中の
岩野卓司「ケアの贈与論」
第10回は「泥棒幻想と相互贈与」

前回とりあげた第8回「フロイトの介護論」では
「愛情と敵意は、表と裏の関係」であり
「贈与や愛情の両面性は、
ケアの両面性につながっている」こと

第9回「介護殺人」では
「愛情の歯車が一度狂うと強い憎しみが生まれて、
愛情は攻撃性や殺意へと変わっていく」ように
愛情と敵意は表と裏の関係にあることから

家族のあり方や家族と社会の関わり方が
考えなおされなければならないことが示唆された

第10回では介護の現場で起きる暴力について
「贈与がもたらす「負い目」とは何か」
そして「それとどう向き合えばいいのか」が
問われている

まず「泥棒幻想」について

介護士である三好春樹は
芹沢俊介との共著『老人介護とエロス』のなかで
介護されている高齢者が家族や介護者を
「泥棒」呼ばわりするケースについて語っている

いい介護を懸命にする人が「泥棒」とされてしまうのは
「いい介護というものが、
相手を依存させてしまう暴力性を秘めているから」である

いい介護をしてくれる人は
無理なことにもきちんと向き合い応じてくれるが
「さらに依存度が高まっていくと、
とうとう心が不安に耐えきれず、
「泥棒幻想」が始まってしまう」

「依存している相手が「泥棒」ならば、
自分が被害者として優位にたてる。
完全依存を脱することができ、負い目も解消できる」
そう思い込むことで「心のなかでバランスをとっている」

ここに「贈与の毒」としての「暴力」があり
「善意から一生懸命におこなう贈与が、
相手を依存させることでダメにしてしまう」というのである

しかし「泥棒幻想」は
「他者ときちんとした関係を築きたいという欲求の表現」に
ほかならない

「泥棒幻想」をなくすにはどうしたらいいのか

まず必要なのは
介護者との閉鎖的空間を
開かれた空間にしていくことである

さらには
「一方的な贈与の関係を相互的な関係に変えていくこと」

「ただの受け身の存在にしないこと」が重要なのである

そのことに関して
深田耕一郎は『福祉と贈与』のなかで
「相互贈与」という言葉を使っている

家族による介護や施設による世話の場合
贈与に対する負い目が存在するが
「障がい者が公的機関から介護料を受け取り、
介護者に贈与するやり方」では
「負い目は解消して相互の関係になる」という

その「介護料」という金銭は
商品経済における交換ではなく
マルセル・モース『贈与論』の贈与のあり方と同じで
「介護者がサービスという贈与をおこなって、
障がい者は介護料と歓待(例えば、食事、入浴)
という贈与をおこなう」ことで「相互性」が成立する

それは「お互いに贈与し合って
負い目を解消しようとする関係であり、
しかも、歓待のような心の絆をもった関係」となり得る
というのである

ケアにおける「贈与」は「両刃の剣」ではあるが
「ケアにおいてお互いに贈与し合うことは、
物や金銭をお互いに一方的に与えるだけではない。
お互いの贈与を通して負い目を解消するような、
心の関係をつくっていくこと」につながる

とはいえ「負い目」を解消することは
実際問題として難しいだろう

論を離れていえば
こうした「負い目」や「相互贈与」という問題は
魂の霊的側面に深く関係してくるように思われる

つまり霊的原則としていえるのは
「与えたものが与えられる」ということである
従って与えられたものは与え返さなければならない

与えた者は与えたことに
いわば「返礼」を求めないとしても
(霊的には与えることそのものが魂の養分ともなる)

与えられた者が与え返すことができないとき
そこにどうしても「負い目」が生まれてしまう

「泥棒幻想」をもつか
「介護料」のような形をとるかどうかは別として
「負い目」を解消することは
たしかなかたちで「返す」ことによってでなければ
難しいだろう

「歓待のような心の絆をもった関係」は
互いの霊的な魂の成熟があって
はじめて成立することだといえるのかもしれない

そのためにはおそらく
そこに転生をふくめた長い時間のなかでの
関係性が背景としてあることもあるだろう

それは「介護」といった場にかぎらず
あらゆる関係において
見えないところで生まれていると思われる

それは高次の「愛」の実現のための
時空を超えた働きだともいえるだろうが
閉じた時空のなかで短期的に
成立させようとする制度は
ある意味で対処療法的な働きを超えないかもしれない

やはり「相互贈与」というのは
魂と魂のあいだの関係性をどう方向づけていくか
という問いに深く関わっているからである

■岩野卓司「ケアの贈与論」
「連載第10回 泥棒幻想と相互贈与」
 (法政大学出版局 別館(note))

「第10回では「泥棒幻想と相互贈与」と題し、介護の現場で起きる暴力について考えていきます。贈与がもたらす「負い目」とは何か、それとどう向き合えばいいのか。三好春樹さん、深田耕一郎さんの議論を手がかりに、解決の糸口を探ります。」

・ある泥棒幻想

*「介護士に三好春樹という人がいる。『関係障害論』という名著を書いている人で、僕も彼の書物は本当にすばらしいと思っているひとりである。

 その三好は、教育評論家の芹沢俊介との共著『老人介護とエロス』(雲母書房)のなかで、介護されている高齢者が家族や介護者を泥棒呼ばわりするケースについて、次のように語っている。

***
(三好春樹・芹沢俊介『老人介護とエロス 子育てとケアを通底するもの』雲母書房)
同室者ではなく、介護してもらっている家族や介護者を「泥棒」と言い始めることがあります。「あいつは泥棒だ」とか、「私の金を狙っている」という言い方をよくします。〔…〕
でも、どちらかというとけっこう長い付き合いがあって、まじめにいい介護をしている人、一生懸命に介護をしている人が泥棒にされやすいのです。いいかげんなヘルパーは泥棒にしてもらえません。お嫁さんでもいいかげんな嫁さんは泥棒にならないのです。一生懸命やっている人が泥棒にされてしまうのですから、本人は嘆き悲しみます。「私はここまで頑張っているのに、私のことを泥棒だと言い始めました。もう介護できません」というような状況になります。
***

 介護施設で、こういうことが起きたりする。そのとき、同じ部屋の高齢者たちではなく、介護する人や家族が「泥棒」にされてしまうのである。しかも、いい介護を一生懸命する人が「泥棒」とされてしまうのだ。

 それではなぜ、いい介護を懸命にする人が「泥棒」とされてしまうのだろうか。

 それは、いい介護というものが、相手を依存させてしまう暴力性を秘めているからである。三好はこう述べている。「介護を一生懸命やればやるほど、それが実は暴力になっているという見方ができると思いました」。高齢者たちの身体能力や知力はだんだんと衰えていく。彼らは自分がまわりの人たちに迷惑をかけているのを知っている。ものすごく負い目を感じているのだ。その結果、逆説的なことだが、周りの人たちに無理な要求をする。どうしてそんなことをするかと言えば、無理なことでもやってくれたら、自分は見捨てられていないと確認ができ、安心できるからである。彼らは不安だからそれを繰り返す。だが、いい介護をしてくれる人は、そんな無理なことにもきちんと向き合い応じてくれるのだ。しかし、さらに依存度が高まっていくと、とうとう心が不安に耐えきれず、「泥棒幻想」が始まってしまう。」

*「自分はわがままばかり言っているのに、献身的に介護をしてくれる。いつ見捨てられるのかという不安から、わがままを繰り返しながら、相手への依存度を強めてしまう。体も頭も弱っていくし、相手への負い目も解消できない。状況は打開できないどころか、悪くなる一方である。そんな状況で、高齢者はこのままではいやだと心で叫んでいるのである。その心の叫びに答えるかのように、「泥棒幻想」が生じる。依存している相手が「泥棒」ならば、自分が被害者として優位にたてる。完全依存を脱することができ、負い目も解消できるのだ。そう思い込むことで、高齢者は心のなかでバランスをとっているのである。

 ここに献身的な介護が高齢者を追い込んでしまう暴力があり、僕らは贈与の毒を目の当たりにするだろう。善意から一生懸命におこなう贈与が、相手を依存させることでダメにしてしまうのだ。「泥棒幻想」は、一方的にのみ贈与され完全に依存してしまうことへの抵抗に他ならない。そもそも、ふつうの社会生活では、人間関係は相互的なものである。日常的な慣習で贈与にお返しがともなうのは、一方的な贈与によって支配関係が生まれないようにするための配慮なのである。それなのに、この介護では一方的に贈与を受け取らざるをえない関係が生じる。「泥棒幻想」は、高齢者が他者ときちんとした関係を築きたいという欲求の表現なのである。」

*「それでは「泥棒幻想」をなくすにはどうしたらいいのだろうか。」

*「介護者と高齢者との閉鎖的空間から開かれた空間にしていくことが、まずは必要である。この閉鎖的な空間では、介護者から高齢者への一方的な贈与の関係しか結べない。介護殺人や介護虐待の場合も、介護する人と介護される人が二人だけの閉鎖的な空間を作っていったことが一因として指摘されていた。だから、いろいろな人がかかわるオープンな空間を作っていかなければならない。

 さらに、一方的な贈与の関係を相互的な関係に変えていくことも必要だろう。高齢者も介護者に何かをしてあげるような関係、何かを贈与できる関係をつくらなければならない。高齢者が何かをしてあげる相手は、別に介護者だけではない。第三者でもかまわないのだ。高齢者をただの受け身の存在にしないことが重要なのだ。」

・相互贈与

*「介護する人と介護される人の相互性に関して思い起こされるのは、深田耕一郎が『福祉と贈与』のなかで言及している「相互贈与」という言葉である。

 彼はこの書物のなかで、新田勲という脳性麻痺の障がい者とその介護について、社会学の立場から方研究をしている。新田は「全身性障がい者」であるが、1970年代に「公的介護保障要求運動」を展開している活動家でもあった。彼は介護してもらわなければ生きていけないので、最初はボランティアの人たち、次の時代は専従介護者とボランティアとともに生活していた。新田自身がかなり強烈な個性の持ち主ということもあり、そこにはさまざまな葛藤があり、深田はインタビューなどを重ね、資料を丹念にあたり、新田の活動と生活を克明に記している。

 そこで僕が興味を覚えるのは、深田が贈与の視点から新田の試みを説明している点である。当時、新田のような障がい者への支援は、三つのやり方があった。ひとつは家族による介護であり、これは障がい者を生んだ両親の子供への負い目、世話になり続ける子供の両親への負い目がともなうものである。もうひとつは、施設に入ることであるが、そうすると施設による世話に一方的に甘えることになる。場合によっては、「世話をしてやっているんだぞ」という恩着せがましい態度に出られることもある。ここでも贈与に対する負い目が存在するのだ。そこで新田たちが選んだ第三の道は、障がい者が公的機関から介護料を受け取り、介護者に贈与するやり方である。介護者がボランティアだけならば、障がい者はボランティアによる贈与に甘えるだけで負い目を感じてしまうが、障がい者のほうも贈与できれば負い目は解消して相互の関係になるのだ。」

*「これを深田は「相互贈与」と呼んでいる。「介護料」という金銭がそこに介在するとはいえ、収益をあげることが狙いの市場原理とは異なるあり方からである。それは商品経済における交換ではない。深田が思想的基盤として参照しているマルセル・モース『贈与論』の贈与のあり方と同じである。介護者がサービスという贈与をおこなって、障がい者は介護料と歓待(例えば、食事、入浴)という贈与をおこなう。そこには相互性が存在する。

 モースであれば、このあり方を「贈与交換」と呼ぶだろう。だが、深田は「相互贈与」を「交換」から区別する。彼によれば、「相互贈与は交換と区別されるものであり、交換が財の等価性や確実性を前提にするのに対して、相互贈与は不等価性、不確実性を前提とし、モノのやりとりは即時的でなく遅延を伴う場合がある」からである。しかし、モース『贈与論』に即せば、贈与交換には、北米先住民の儀礼のポトラッチのように、より高い価値の物の贈与を競い合う儀礼もあり、かならずしも等価性を前提にしているとは言えない。またポトラッチは、相手が返せなくなることが勝利につながるので、お返しが確実にもたらされるとも言えない。さらには、当然ながら、贈与へのお返しは即時というわけにもいかない。ポトラッチでは贈与を受けとってから、十分な準備ができるまで返礼に時間を費やしてよいとされる。しかも、この「贈与交換」では、物の交換を通して精神的なつながりがもたらされる。ポトラッチの場合は、競合相手とのライバル意識という闘争的な関係がそこには生まれる。(・・・)そういうことを考えてみると、深田の「相互贈与」はモースの「贈与交換」とかなり重なっているように思われる。

 しかし、深田があえて「相互贈与」という言葉を使っている意味を考えてみよう。現代の僕らが交換という言葉で理解しているのは、貨幣と商品の交換のような経済を前提にしたものではないだろうか。たとえ交換が即時におこなわれなくても、等価であることや確実であることを前提にして、僕らはこの言葉を理解してしまっているのではないだろうか。

 この点で深田が「相互贈与」という言葉で言おうとしたことは、「贈与交換」の本来のあり方、モースが曖昧なかたちででも示そうとしたことを表現しているのではないだろうか。それは、お互いに贈与し合って負い目を解消しようとする関係であり、しかも、歓待のような心の絆をもった関係なのである。」

・両刃の剣

*「ケアにおける贈与はつねに両刃の剣となる危険にさらされている。
善意から一所懸命におこなう介護が、介護される人たちからすると自分を追い込んでしまうものであったりする。介護する人の親切から、彼らは依存していく状態を強いられ弱っていくのである。贈与の毒がまわっていくのだ。ここでは贈与する者が優位に立っていることが忘れ去られ、相手を支配してしまっている。「泥棒幻想」は、介護される人の負い目からくる悲痛な叫びに他ならない。

 「全身性障がい」の新田勲の場合も、贈与がもたらす負い目との闘いであった。家族や施設の介護ではなく、第三者による在宅の介護を選んだのは、いかに負い目をなくすかを考えた結果であった。介護される人たちの負い目をなくすためには、お互いに贈与し合う関係が必要だろう。「公的介護保障要求運動」は、お互いに贈与し合うことの要求だったのである。

 ケアにおいてお互いに贈与し合うことは、物や金銭をお互いに一方的に与えるだけではない。お互いの贈与を通して負い目を解消するような、心の関係をつくっていくことなのである。ただもちろん、贈与の両刃の剣と付き合いながらではあるが。」

○岩野卓司(いわの・たくじ)
明治大学教養デザイン研究科・法学部教授。著書:『贈与論』(青土社)、『贈与をめぐる冒険』(ヘウレーカ)、『贈与の哲学』(明治大学出版会)、『ジョルジュ・バタイユ』(水声社)、共訳書:バタイユ『バタイユ書簡集 1917–1962年』(水声社)など。

◎岩野卓司「ケアの贈与論」
「連載第10回 泥棒幻想と相互贈与」
 (法政大学出版局◉別館(note))


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