見出し画像

柄谷行人「霊と反復」

☆mediopos-2490  2021.9.10

批評家・哲学者である柄谷行人の
「霊と反復」というエッセイが面白い

柄谷行人はわりと苦手なほうで
著作もとりつきにくいと感じていたけれど
こうしたエッセイでは
ときに不思議な顔が見え隠れして楽しめたりする

おそらく柄谷行人は
批評と論理を駆使しながらも
さらにそれを超えた世界へと
誘ってくれるシャーマンなのかもしれない
限界に至るまで論理と批評をみずからに憑依させ
その限界までくると思考をリセットして
それを超えるあらたな異界へと赴こうとするシャーマン

そんなとき柄谷シャーマンは
(頭がおかしくなりかけて)
お面やマスクをして近所を徘徊したりする(笑)

今回のエッセイはこうした内容である

プラトンの語るソクラテスの哲学は
ダイモン(精霊)からの働きかけではじまった

ヘーゲルは世界史は
「精神(霊)」が自己実現する過程だとした

そしてヘーゲルの弟子を自称したマルクスは
『資本論』にフェティッシュ(物神)という
ダイモン(精霊)/無意識を持ち込み
商品価値が交換という霊的な力からくることを論じ
『共産党宣言』では共産主義という幽霊が
ヨーロッパを徘徊しているとさえいった

「商品価値に対してフェティッシュに言及したとき」
マルクスは「そこに一種の霊的あるいは観念的な力が
出現すること、そして、それが生産ではなく
交換から来ることを洞察した」のだという

上記の内容をさらに展開させれば
こういうことにもなるだろう

唯物論とはいうが
その「物」は「霊」の働きに他ならない

論理もまた霊の働きである
論理的でなければならない
といったときも
その「なければならない」というのは
物質からも論理からも導き出すことはできない

もちろん科学も同様で
「科学的でなければならない」というのは
科学でもなんでもなく「観念」としての倫理感である

「物質」「論理」「理論」「科学」といったものは
絶対的に存在し完結しているものではなく
それらみずからがみずからを規定し
おそらくはそれらをさらに拡張していく
という「霊」(精神・観念)の働きだから

それらを絶対化することなく
それらがどこから生まれてくるか
という視点を持つ必要がある

今世紀の量子力学のさまざまな論争さえも
単にその理論が真実かどうかということ以前に
それぞれの物理学者にダイモン(精霊)が
働きかけているととらえると見えてくるものもある

■柄谷行人「霊と反復」
 (『群像 2021年10月号』所収)

「私は2020年に「思想家の節目」というエッセイ集を書いた。(…)そこで、五〇年以上になる自分の仕事の「節目」をふりかえったのだが、そのとき、幾つかのことに気づいた。一つは、そのような節目がほぼ一〇年ごとに来ていたということである。もう一つは、そこに別の反復性があるということだ。
 先ず、私の最初の本は『畏怖する人間』で、これは群像新人賞(1969)をもらった「漱石私論」を巻頭に置いた文芸評論集であった。私は一九六〇年に大学に入学すると同時に、安保闘争に参加した。七〇年代初めに出版したこの本は、私の六〇年代を総括するものだといえる。その意味で節目であった。このあと、私は『マルクスその可能性の中心』を書いた。以後、私の書くものは理論的・哲学的になった。その頂点が、一九八〇年に群像に連載した『隠喩としての建築』、そして、「形式化の諸問題」である・
 しかし、それはまもなく破綻に終わった。そのきっかけは、その時期、霊界(あの世)は数学的な位相空間として示しうる、というようなことを考えはじめたことにある。そして、それはたんに理論上の問題ではすまなかった。私はそのあと、我ながら頭がおかしくなったのである。いわば霊界が現実に存在するかのように見えてきたからだ。しまいには、何も仕事ができず、タイガーマスクの面をかぶって、近所を徘徊したりした。その後、そのような状態を脱し、群像に『探求』の連載をはじめたのである。」
「私はその後も、このような仕事を続けた。それが『探求Ⅱ』である。(…)この間、私は体系的な理論への志向を退けていた。そうすることが、むしろ「批評」だと考えていたのである。しかし、九〇年代の『探求Ⅲ』を書いていたとき、動きがとれなくなり、連載を中断するにいたった。その間に、私の中で、今につながる大きな変化が生じた。(…)
 これは、ある意味で、『探求』以前のスタンスに戻ることであった。実際、私は理論的・体系的になった。のみならず、この時点で、私は文学批評から引退した。」
「それ以降の私の仕事は、『世界史の構造』(二〇一〇年)に集約される。それは、一口でいうと、史的唯物論の批判的再考である。史的唯物論では、政治的・イデオロギー的上部構造は、経済的下部構造である「生産様式」(生産力と生産関係)によって規定されるが、それに対する批判が、ウェーバーやフロイト以降なされてきた。確かに、政治的・イデオロギー的上部構造は、経済的下部構造(生産様式)によって規定されるとしても、それとは別の独自の力がある。たとえば、宗教や無意識がそこに働いている、ということである。そして、今ではマルクス主義者もそれを認めている。
 しかし、私が気づいたのは、政治的・イデオロギー的上部構造を規定している「力」は、経済的下部構造ではないどこかから来るのではなく、経済的下部構造の基底をなす交換様式から来るということである。つまり。宗教や無意識と見なされる観念的な力は、交換様式から来るのであり、したがって、その様式によって異なる。」
「これを書き終えたとき、私は、こうこれ以上書くことはない、たんに補足する仕事が残っているだけだ、と思っていた。しかし、それから五、六年経ったあと、物足りなくなった。私はあらためて、このような「力」がなぜいかにして交換様式かた生じるのかを考えようとした。以来、私は『力と交換様式』と題する仕事に取り組んできた。しかし、最近になって気づいたのは、それは一九八〇年ごろに私がやろうとしたことと類似するということである。
 交換様式かた生じる観念的な力とは、いわば霊的なものだ。交換様式を論じるとき、あらゆるところにさまざまな「霊」が見えてくる。それらが各所で働いている。四〇年ほど前に、私は霊的世界を位相空間としって考えようとした。そのあげく、お面をかぶって家の近所を歩き回ったりした。しかし、ある意味では、今も同じことをしている。つまり、マスクをして、毎日近所の丘陵を徘徊しながら〝霊〟について考えているのである。」

「交換から生じる霊(観念的な力)というとき、先ず私の念頭にあったのは、『資本論』のマルクスである。《机は、やはり木材、ありふれた感覚的な物である。ところがこれが、商品として登場するとたちまち、感覚的でありながら超感覚的な物に転化してしまう》。〝超感覚的〟なもの、すなわち霊的なものが、交換から生じるのだ。マルクスはまた、交換において生じるこのような「力」を物神(フェティッシュ)と呼んだ。
 しかし、マルクス主義者は一般に、これを冗談だとみなした。(…)そのことが『資本論』の意義を見失わせた。マルクスがここでなそうとしたのは、資本という霊が、商品交換(…)から生じることを解明することであったからだ。
 とはいえ、霊的な力は、資本に限られるのではない。それは、贈与交換(…)においてもある。マルセル・モースがハウと呼んだ霊がそうだ。霊はまた、国家(…)にもつきまとう。のみならず、霊は、それらを揚棄する力としてもあらわれる。すなわち(…)霊的な力としてあらわれるのだ。
 たとえば、『共産党宣言』でも、冒頭のつぎの言葉がよく知られている。《幽霊がヨーロッパを徘徊している。共産主義という幽霊が》。むろん、これ冗談だと思われているが、必ずしもそうではない。それはむしろ、つぎのことを意味する。共産主義は観念的な「力」として徘徊している。そして、それを斥けることはできない、ということである。つまり、その力が働くのは、合理的だからではないし、人が説いてまわるからではない。それは霊的な力なのだ。
(…)
 私は、さまざまな霊的な力はたんなる比喩ではなく、異なる交換様式に由来する、現実に働く力だと考える。」

「「ヘーゲルの弟子」だと公言したとき、マルクスが見いだした〝ヘーゲル〟は、通常いわれているようなヘーゲルではない。ヘーゲルにおいて、世界史は「精神」が自己実現する過程である。それによってヘーゲルがいわんとするのは、つぎのことだ。人間の社会史は、何らかの意図・設計によって作られたものではない。それは人間の意図を超えたものであり、したがって「無意識」によって強いられたものである。ヘーゲルがいう「精神」(Geist)とは、そのように作動する「霊」(ghost)である。
(…)
 たとえば、ヘーゲルは、ダイモン(ダイモニオン・精霊)に「議会に行くな」といわれたため、広場に行って問答を始めたソクラテスに関して、次のように述べている。

  (…)精霊はソクラテス自身ではなく、ソクラテスの思いや信念でもなく、無意識の存在で、ソクラテスはそれにかりたてられています。同時に、神託は外的なものではなく、かれの神託です。それは、無意識とむすびついた知という形態をとるもので、----とりわけ催眠状態によくあらわれる知です。(…)ソクラテスの場合には、知と決断と思考に関係し、意識的自覚的に生じたはずのことが、このような無意識の形式でうけとられたのです。

 なぜソクラテスは広場に行って討議するようになったのか。その理由は不明である。しかし、ここで大事なのは、彼がそのことを意識しておこなったのではない、ということである。であれば、ダイモンとはソクラテスの「無意識」だといえるのではないか。ヘーゲルはそう考えた。「ヘーゲルの弟子」だと公言した時点で、マルクスも同じようなことを考えていたといったよい。
(…)
 「ヘーゲルの弟子」としてのマルクスは、『資本論』で「無意識」をもちこんだ。というより、ダイモン(精霊)をもちこんだ、といってよい。それがフェティッシュ(物神)である。つまり、商品価値に対してフェティッシュに言及したとき、彼は、そこに一種の霊的あるいは観念的な力が出現すること、そして、それが生産ではなく交換から来ることを洞察したのである。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?