文 細谷功・絵 ヨシタケシンスケ 『やわらかい頭の作り方――身の回りの見えない構造を解明する』/井筒俊彦『老子道徳経』
☆mediopos3293 2023.11.23
だれも頭をかたくしたいとは思っていないし
じぶんの頭がかたいとは思っていないだろうが
じぶんの頭がかたいかもしれないと
気づくことからしかなにもはじまらない
細谷功の『やわらかい頭の作り方』は副題に
「身の回りの見えない構造を解明する」とあるように
気づいていないことに気づき
なぜ気づいていないのかを明らかにするための
さまざまなテーマがわかりやすく論じられている
しかしなんにつけ
いちばん問題となるのは
「気づく」ということである
ここで引用紹介しているのは
「第1章「心の癖」を自覚する」」から
「(4)気づいた時点で解決している」からだが
「問題だということにすら気づいていない」人が
どうやったらそれに気づけるかということほど
むずかしいことはない
アリストテレスは哲学の始まりは「驚き」 であるといい
西田幾多郎は「哲学の動機」は
「深い人生の悲哀でなければならない」といったが
「驚き」や「悲哀」といった契機がなければ
「気づき」は生まれ難いということだろう
釈迦が「苦」からの「解脱」を説いたのも
「苦」がその「気づき」となるとしたのだと思われる
なにを気づきとするかは人それぞれだろうが
なんにせよ「気づき」が起こるためには
それを可能にするだけの契機が必要となる
その契機となり得るだろう
重要なもののひとつに
『老子道徳経』に書かれてあるような世界観がある
個人的にも中学生の頃それをはじめて読んだとき
世界が一気に広がりはじめたことを今でもよく覚えている
そのはじめにはこうある
「道の道とすべきは、常の道に非ず。
名の名とすべきは、常の名に非ず。」
それは一見矛盾のようだが
そうした表現でしか可能でないもののなかにこそ
真実があると切実なまでに感じられた
数年前「井筒俊彦英文著作翻訳コレクション」に
井筒俊彦による『老子道徳経』の英訳からの翻訳がでて
あらためてそれがじぶんの世界観の
原点となっているだろうことを再確認したりもした
「気づき」を得るための重要な視点となるだろう
第十二章と第十四章から少し
「五つの色は、人の目を見えなくさせる。
五つの音は、人の耳を聞こえなくさせる。
五つの味は、人の味覚を鈍くさせる。」
「それを見ようとしても、見えない。」
「それは、「かたちなきもの」と呼ばれる。
「それを聞こうとしても、聞こえない。」
「それは、「かすかなもの」と呼ばれる。」
「それをつかまえようとしても、触れられない。」
「それは、「微妙なもの」と呼ばれる。」
問題だということにすら気づけないのは
見たものを見ていると思っているから
聞いたものを聞いていると思っているから
味わったものを味わっていると思っているから
ふれたものをふれたと思っているから
さらにいえば
考えたことを考えたと思っているからである
「気づき」のためには
見ていないかもしれない
聞いていないかもしれない
味わえていないかもしれない
ふれていないかもしれない
考えていないかもしれない
そのように「身の回りの見えない構造」へと
じぶんをひらいていく必要がある
そのときいちばんの障壁となるのは
強固なプライドだろう
じぶんがわかっていないはずはないという壁である
そのプライドを守ろうとして
権威や「ご専門」「象牙の塔」の内に閉じて
疑わことさえしない人もあるだろうが
それはまさに積極的な自己正当化の手段を使ってまで
「問題だということにすら気づ」きたくない人の
象徴だともいえるかもしれない
■文 細谷功・絵 ヨシタケシンスケ
『やわらかい頭の作り方――身の回りの見えない構造を解明する』
(ちくま文庫 2023/11)
■井筒俊彦(古勝隆一訳)『老子道徳経』
(井筒俊彦英文著作翻訳コレクション 慶應義塾大学出版会 2017/4)
(『やわらかい頭の作り方』〜「第1章「心の癖」を自覚する/(4)気づいた時点で解決している」より)
「先日イギリスで、自転車でナビを使って目的地まで最短距離を行こうとした人が、「ナビの指示通り」高速道路に混雑時に「進入」してしまい、問題になりました。この件に関する報道では最後に、「ナビを使う際には「常識」を働かせましょう」という働きかけがされていましたが、恐らくこと言葉の効果はほとんどないでしょう。
なぜなら、「非常識」な行動をする人のほとんどは、それが「非常識」であることに気づいていないからです。だから普段から「常識」を持って行動している人は、この言葉を聞かなくても常に常識を働かせているし、普段から「常識」を働かせていない人は、この言葉を聞いてもそれが自分のことだとはゆめゆめ思っていないのです。したがって、「常識を働かせましょう」と言われて、「しまった、明日から常識を働かせて行動しよう」と思う人はほとんどいないことになります。
同様に職場でよく聞く言葉に、「頭を使って仕事をしろ」とか「少しは自分で考えろ」といったものがありますが、「頭を使え」と言われただけで「頭を使う」ようになる人もほとんどいないでしょう。そう言われている人は、自分が「頭を使っていない」とは思っていないからです。」
「私たちの身の回りの問題や課題に対して、以下の三通りの人が存在するということです。
①本当にできている人
②できていないと気づいている人
③できていないことにすら気づいていない人
これは、全ての領域で①の人がいるとか、全ての領域で③の人がいるという意味ではなくて、私たち個人個人でも各々個別の問題によって、自分が①に入る場合もあれば、③に入ってしまっている場合もあるということです。
これを別の切り口から見て、身の回りの事象を問題になっているかどうかで分類すると大きく三つに分けられることになります。
①「本当に問題がない」解決済の問題
②「問題だと気づいているが解決していない」未解決の問題
③「問題だということにすら気づいていない」未発見の問題」
「圧倒的に根が深く難易度が高いのは問題の発見の方です。「問題は見つかってしまえば解決したようなものだ」という言葉がありますが、そこにも表れています。」
「私たちは知らず知らずのうちに、一番外側の③の領域が存在し、しかもそれがとんでもなく大きいということを忘れてしまっているのです。
自分のいままでの考え方では理解できないものを見た時や、失敗した時などには、必ず自らが気づいてすらいない未発見の問題が隠されている可能性があります。そんな場合に③の領域を意識しておくことで、そこに何らかの気づきのきっかけが得られるでしょう。」
(『やわらかい頭の作り方』〜「おわりに」より)
「「頭をやわらかくする」のに最も重要かつ難しいことはなんでしょうか?
それは「まる頭の柔軟性がない(失われつつある)自分を認識することだと思います。何事もそうですが、問題というのは認識した時点でほとんど解決したも同然なのです。よく言われる話ですが、「コミュニケーション力を上げるための本」を本当にコミュニケーションが下手な人は読まないし、「ダメ上司のための本」を「本当のダメ上司」は決して読まないのです。逆に言えば何事も「気づいていない」というのが最も重大な問題ということになります。」
(井筒俊彦『老子道徳経』〜「第十二章」より)
「五つの色は、人の目を見えなくさせる。
五つの音は、人の耳を聞こえなくさせる。
五つの味は、人の味覚を鈍くさせる。
速さを競う競争や狩猟は、人の心を狂わせる。
手に入れ難いような物品は、人の正しい行いを邪魔する。
そういうわけで、聖人は自分の腹に心を集中し、目には気を配らない。
それゆえ、かの人はあちらを手放し、こちらを選ぶのだ。」
(井筒俊彦『老子道徳経』〜「第十四章」より)
「それを見ようとしても、見えない。この点において、それは、「かたちなきもの」と呼ばれる。
それを聞こうとしても、聞こえない。この点において、それは、「かすかなもの」と呼ばれる。
それをつかまえようとしても、触れられない。この点において、それは、「微妙なもの」と呼ばれる。
これら三つの面からいって、それはとうていはかり知れないものである。その三つの側面が混じり合って〈一〉となる。
上の方では、それは明るくない。
下の方では、それは暗くない。
それは、より縄のようにいつまでも途切れなく、いかなる名前を与えられようがない。究極的に、それは〈無〉の原初の状態へもどってゆくのだ。
かたちなき〈かたち〉、像なき〈像〉、とでも言えようか。
ぼんやりとして確かめられない〈何か〉、とでも言えようか。
その前に立っても、頭は見えない。
その後に付き従っても、背面は見えない。
ものごとの永遠なる道の手綱をしっかりと握り、それは今のものごとを治めてゆくのだ。
かく、それはあらゆるものの原初の始まりを知っている。
これが〈道〉の大綱と呼ばれるものなのだ。」
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