戸谷洋志「本の名刺 メタバースの哲学」 (群像2024年11月号)/戸谷洋志『メタバースの哲学』
☆mediopos3615(2024.10.12.)
『群像』で連載されていた
(2023年7月号〜2024年4月号まで全10回の連載)
戸谷洋志「メタバース現象考 ここではないどこかへ」が
『メタバースの哲学』として単行本化されている
連載の際に幾度かとりあげたことがあるが
単行本化されるにあたり
群像2024年11月号で自著の紹介(本の名刺)で
『メタバースの哲学』を書き終えた時点での
著者の考が述べられているのでそれをとりあげる
『メタバースの哲学』では
「メタバースへの「欲望」を観点としながら、
仮想空間と物理空間の関係」が考察されている
それは「人間」と「現実」との関係でもある
メタバースとは
「バーチャルリアリティーによって構成された
架空の世界」であり
「そこではユーザーは
アバターと呼ばれるキャラクターを動かし、
「第二の自分」として生活する」
いうまでもなくバーチャルリアリティーの世界も
そこにいる「第二の自分」も
生きた身体をもった自分やその世界ではない
メタバースの欲望の根源は
物理空間ではかなえられないような
「なりたい自分になれる」
ということにあると言われる
しかしその欲望は「見方を変えれば、
自分で自由に変えることのできない
物理空間への嫌悪の現れでもある」
戸谷洋志が『メタバースの哲学』を
執筆しようとしたのは
ある大学で開催された
教員の授業実践を交換し合う研究会で
「バーチャル美少女受肉」することの教育効果を検証する
という発表に違和感を抱いたことからだという
「バーチャル美少女受肉」(バ美肉)は
「美少女のキャラクターをユーザーの分身として
映像化すること」であり
「ユーザーはそれを「第二の自分」として
自由自在に動かすことができる」
そうした技術を応用して
「教員が美少女の姿をして授業をすると、
学生の学習意欲が向上する」というのがその発表だった
「自分のような「おじさん」が話すよりも、
美少女が話した方が、学生が聞いてくれるのではないか」
と仮説を立てて実践してアンケートをとったところ
肯定的な評価が得られたというのである
戸谷洋志が違和感を抱いたのは
それは「おじさんの話が聞いていられないという傾向を、
加速させる」もので
「もしも自分が現実にはおじさんでしかないのだとしたら、
それは端的な自己否定なのではないだろうか」
ということだった
「バ美肉する教員が、
自分がおじさんであることを否定しているように」
メタバースへの欲望は
物理空間という現実を否定することでもあり得る
しかし今回の記事で示唆されている
重要な問いはここからである
メタバースは科学技術によって提供されるサービスだが
「仮想空間と物理空間は、
テクノロジーの有無と本来は関係がない」
「技術があろうがなかろうが、
この世界を仮想的なものとして眺めることができる」
はたしてそれは
「自らの身体を否定するのと同じ仕方で、
自分の何かを否定しているのだろうか」
戸谷洋志は『メタバースの哲学』の執筆後
そう考えているという
それはこの世界そのもの
現実そのものを問い直すことにつながる問いだろう
連載されていた「メタバース現象考」の副題は
「ここではないどこかへ」だった
(以下は著書や記事から離れる)
「ここ」にはおそらくすでに
「ここではないどこか」も内包されている
それは人間の意識のありようと関係している
たとえば精神分析において
人間には「欲求」と「欲望」があるとされ
「欲求」が生理的な満足を求める傾向であるのに対し
「欲望」はより社会的・文化的なものを求める傾向だが
いわゆる脳科学的にはその両者は区別できない
「欲求」は動物とも共通してもっているけれど
「欲望」はそれを一般化することはできない
メタバースであれ物理空間であれ
その「欲望」は「ここではないどこか」への
個人的な情動としてあらわれる
それを「自己実現」として肯定する向きもあるが
それはひょっとしたら
「自分がおじさんであることを否定しているように」
「自分の何かを否定」していることなのかもしれない・・・
■戸谷洋志「本の名刺 メタバースの哲学」
(群像2024年11月号)
■戸谷洋志『メタバースの哲学』(講談社 2024/9)
**(戸谷洋志「本の名刺 メタバースの哲学」より)
*「何年か前のことだ。私はある大学で、教員の授業実践を交換し合う研究会に参加していた。その発表の一つに、教員が「バーチャル美少女受肉」することの教育効果を検証する、というものがあった。これだけだとワケがわからないが、発表の趣旨は明確だった。
バーチャル美少女受肉とは、美少女のキャラクターをユーザーの分身として映像化することである。センサーによって、ユーザーの身体の動きや表情の変化をキャラクターに反映させ、ボイスチェンジャーによって、ユーザーのもともとの声を美少女らしいそれに変換する。すると、ディスプレイには自分の分身となった美少女が出現し、ユーザーはそれを「第二の自分」として自由自在に動かすことができる。バーチャル美少女受肉は、縮めて「バ美肉」と呼ばれることもある。
こうした技術を応用し、教員が美少女の姿をして授業をすると、学生の学習意欲が向上する。それが発表の主な内容だった。発表していた教員は中年の男性だった。彼は、自分のような「おじさん」が話すよりも、美少女が話した方が、学生が聞いてくれるのではないか、と、仮説を立てた。そしてそれを授業で実践し、アンケートを取った。すると、少なくない学生が、バ美肉を肯定的に評価したという。
もちろんそこには目新しさもあると思う。それでも、普段は寝ている学生が、バ美肉すると真面目に授業を受けるんだから、その方が高い学習効果が得られるだろう、とその教員は強調した。いくらか自虐を織り交ぜ、笑いも取っていた。」
*「しかし私はその発表を聞いていて違和感を抱いた。おじさんの話は聞いていられないけれど、美少女の話なら真面目に聞く。それは望ましいことなのだろうか。そうした取り組みは、かえって、おじさんの話が聞いていられないという傾向を、加速させるのではないだろうか。それによっておじさんは、誰からも話を聞いてもらえない存在に、人々から関心を寄せられない存在に、変わっていったしまうのではないだろうか。そして、もしも自分が現実にはおじさんでしかないのだとしたら、それは端的な自己否定なのではないだろうか。
そうした疑問を抱いたことが『メタバースの哲学』を執筆した動機だった。」
*「メタバースとは、バーチャルリアリティーによって構成された架空の世界である。そこではユーザーはアバターと呼ばれるキャラクターを動かし、「第二の自分」として生活する。メタバースは、もともと、SF文学のなかで出現した概念であり、依然として技術的に確立しているわけではない。しかし、ここ数十年の間に、先駆的な形で何度もメタバースを実現しようとするサービスが現れ、その度に注目を集めてきた。恐らく、これからもそうしたサービスが散発的に出現し続けるだろうし、あるいはある日、完全にメタバースが確立され、私たちの生活に浸透するかも知れない。」
*「メタバースへの欲望の根源にあるのは何だろうか。しばしば識者は、それが「なりたい自分になれる」という点にあると言う。物理空間では、私たちは自分が望んだわけではない状況に置かれている。しかし、メタバースではそれをすべて自分でデザインすることができる。服や持ち物はもちろん、外見や声までも、自分で設定できるし、その気になればいつでも自由に変更できるのだ。人間である必要さえない。猫やロボットになることもできる。」
「そうした欲望は、見方を変えれば、自分で自由に変えることのできない物理空間への嫌悪の現れでもある。メタバースへ向かおうとする欲望は、物理空間からの逃避の裏返しなのだ。そして、メタバースへの欲望が断続的に蠢いている現代社会とは、そうした物理空間への嫌悪によって裏打ちされた時代なのではないだろうか。バ美肉する教員が、自分がおじさんであることを否定しているように、本書は、こうしたメタバースへの欲望を観点としながら、仮想空間と物理空間の関係を考察した。」
「ただし、忘れてはならないことがある。それは、メタバースやバ美肉といったテクノロジーが介在しなかったとしても、私たちが生きる現実は仮想空間を含んでいる、ということだ。そこにこそ、本当に重要な問題がある。」
*「仮想空間と物理空間は、テクノロジーの有無と本来は関係がない。私たちは、技術があろうがなかろうが、この世界を仮想的なものとして眺めることができる。メタバースはその複雑な関係をラディカルな形で提示しているのだ。」