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渡辺一夫「曲説フランス文学」(松岡 正剛『千夜千冊エディション 読書の裏側』/渡辺一夫『曲説フランス文学』・『ガルガンチュワ物語 パンタグリュエル物語』

☆mediopos2814  2022.8.1

先日来ユマニスムについて
あれこれ考えるようになった

「日本のユマニストの象徴のように崇敬されてきた人物」は
いうまでもなく渡辺一夫である

ユマニスムとヒューマニズムはおなじではない
松岡正剛の言うごとく
「ヒューマニズムという言葉はぼくには身につかない」
「できれば使いたくないし、
ヒューマニズムと言いさえすればいいと信じている
連中を見ると虫唾が走る」

モンテーニュがかつて語ったように
「人間性のなかには悪も残虐も狂気も宿っている」が
ヒューマニズムはそれらが
まるで存在しないかのような顔をしているからだ

渡辺一夫の語るユマニスムには
「嘲笑」も「揶揄」もある
「ようするにつねにおかしなモノやコトに対する
腹の底からの「笑い」というものがある」というのだが
それを渡辺一夫は
「寛容と狂信のあいだ」というふうにとらえている

渡辺一夫のことをはじめて知ったのは
高校のころ大江健三郎のエッセイを通じてだが
そのころはまだ渡辺一夫のいうユマニスムのことは
あまり意識してはいなかったように思う

それよりも少しあとになって渡辺一夫の訳した
フランソワ・ラブレーの『ガルガンチュワ物語』に
ぶっとんだことがいまでも印象に強く残っている
フランス文学というのはなんと面白そうなのだろうと思い
フランス語を勉強してみようと思い始めたのだが
結局大学ではドイツ語を勉強するようになってしまった

おもしろいことにいまになって振り返ってみれば
ドイツ語教師のひとりには
ゲーテの自然学を研究している珍しい方がいたりもして
(その頃ゲーテはどうにも好きになれなかったのだが)
その一〇年ほど後シュタイナーを知るようになるので
(シュタイナーはゲーテの自然学論文の編纂に関わっていた)
ドイツ語を少しなりとも読めるようになったほうが
ずいぶんと好都合だったことがわかった
ずっと後になってみないとわからないことはずいぶんある

さて渡辺一夫のラブレーだが
かつて岩波文庫で全五巻ででていた
『ガルガンチュワ物語 パンタグリュエル物語』のうち
学生時代に読んだのは最初の一冊だけだったのだが
少し前に古書店でその全五冊セットを格安で入手できた

ほとんど内容を忘れきっているものの
あらためて読み始めてみると
ラブレーがそうなのか渡辺一夫の訳がそうなのか
やはりぶっとんだ「ユマニスム」である
甘ったるい偽善のヒューマニズムではない

少しばかり長い間人間をしていると
「人間性」にはさまざまな要素が
しこたま詰め込まれているのが実感されてくる
それだけでもそこそこ長く生きてきてよかったと思える

昨今のきわめて偽善的な香りたっぷりの
管理社会的な世の中にいちばん欠けているのが
そうした「ユマニスム」の視点なのではないだろうか

mediopos2805でとりあげた
保苅瑞穂『ポール・ヴァレリーの遺言』でもふれたが
「大量破壊兵器も、強制収容所も、テロリズムも」
人間性の発露であることを忘れてはならない
すべては人間が生みだしたものなのだ
それらは姿を変えて現在進行形で進んでいる

けれどそれらを克服していこうとする「勇気」も
そのなかには宿っている
そして「勇気」の種はみずからの内なる「悪」を
克服し変容させることからしか育っていかないのだ

■渡辺一夫「曲説フランス文学」(第一一一夜 二〇〇〇年八月十一日)
 (松岡 正剛『千夜千冊エディション 読書の裏側』
  (角川ソフィア文庫 KADOKAWA 2022/7 所収)
■渡辺一夫『曲説フランス文学』
(岩波現代文庫 岩波書店 2000/1)
■フランソワ・ラブレー (渡辺一夫訳)
 『ガルガンチュワ物語 パンタグリュエル物語 全5冊セット』
 (岩波文庫 岩波書店 1973/1)

((松岡 正剛『千読書の裏側』〜渡辺一夫「曲説フランス文学」(第一一一夜)より)

「出版人と知識人がほどよく遊んでいる韜晦趣味など、いまはもうなくなりつつあるのかもしれない。多くの名著はしばしば韜晦から出自してくるのだが、そういう風味が出てくることが、わからなくなっているにちがいない。そうだとしたら残念なことだ。もはや耕書堂の蔦屋重三郎も、シェイクスピア・アンド・カンパニー書店のシルヴィア・ビーチも、改造社の山本実彦も、なかなか出現してくれないということになる。
 本書が一九六一年にカッパ・ブックス『へそ曲がりフランス文学』(のち『曲説フランス文学』に改題)として出版されたとき、ぼくはまだお尻の青い高校三年生だったのに、出版人神吉晴夫と知識人渡辺一夫の蜜月のような関係がなんだかとても羨ましく、いつかそのどちらかの声に接するか、そのどちらかの一端に与したいと思ったものだった。渡辺一夫が神吉晴夫との友情の柵(しがらみ)の顛末をあかしている「まえがき」のせいだった。いまふりかえれば、この配剤の妙を記した「まえがき」を読んだことが、ぼくをしてどこかで「編集」に走らせたのかもしれない。」

「渡辺一夫は周囲から日本のユマニストの象徴のように崇敬されてきた人物である。大江健三郎が渡辺センセーを語るときもそういう口吻になる。
 ユマニストとはヒューマニストという意味である。これは、渡辺がルネサンスのユマニストの王であるエラスムスを研究していたこと、それ以上にラブレーの翻訳と研究の第一人者であったことにもとづいている。ヒューマニズムという言葉はぼくには身につかない。異和感がある。できれば使いたくないし、ヒューマニズムと言いさえすればいいと信じている連中を見ると虫唾が走る。しかし渡辺の言うユマニスムは、そのころぼくが感じていたヒューマニズムとはかなり異なっていた。そこには「嘲笑」もあれば「揶揄」も含まれる。ようするにつねにおかしなモノやコトに対する腹の底からの「笑い」というものがある。
 これを渡辺センセーは「寛容と狂信のあいだ」というふうにとらえた。ヒューマニズムをユマニスムといふうにフランス語にするだけで、こんなに意味がちがうのかと思ったはずだ。寛容はともかくも、狂信までもがユマニスムに入るというのは意外だった。たとえば本書にあつかわれている宗教改革者ジャン・カルヴァンにとっては、当時の宗教的な状況そのものが「狂信」に見えたのだし、逆に当時の宗教状況にいる者から見れば、カルヴァンその人が「狂信」のかたまりに見えたはずだった。
 すなわち、何を狂信と見るかということそのものがユマニスムの決定的な境目になることは、宗教改革の時期だけではなく、いくらだってありうることなのである。それをユマニスムとよぶのなら、ヒューマニズムとは孔子の「正名(せいめい)」に対する荘子の「狂言」のような刃だったのだ、
 そういう境い目を丹念にたどったり、大胆にまたいだりしていくことが、フランス文学を味わう歴史というものなのだとすれば、ぼくが知るかぎり、本書のようなフランス文学史はまことにもって稀有である。その渡辺センセーのために、印税を先払いしてあげて、渡辺家の風呂をつくったカッパの神吉晴夫もかなり変わった出版人だったということになる。
 高校三年生のことだから当然だったけれど、ぼくはこの本でフランス文学の流れに入っていった。のみならず、この本がきっかけで結局は早稲田の仏文に入ってしまったのだ。このカッパ・ブックスが決定的な一冊だったのだ。」

「本書がぼくにもたらした青春期の贈り物ははかりしれないものがあるが、その最大のものがラブレーを読むようになったことなのである。
(・・・)
 読書というもの、そうした読書時期によって油彩画や水彩画のようにその色を変えていく。読書はどんなときも平坦ではありえず、ラグビーやサッカーの試合と同様に一様ではありえない。その読後感ですら季節によって年代によって、自分がさしかかっている境遇によって遊弋(ゆうよく)するものなのだ。
 本が上梓されるにあたっての裏側の経緯を知るのも、また読書の醍醐味になる。かつては出版人と知識人とが一冊の著作をめぐって韜晦できていたという、その配剤の妙味にふれることだけでも、読書の意義はある。韜晦とは、世間の動向などに見向きもしない一匹の修羅を自分で飼うことをいう。その修羅とは、さまざまな知の料理に巣くっている。だから旨いのだ。」

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