石井ゆかり「星占い的思考 56 50の再読」 (群像2024年11月号)/夏目漱石『坊っちゃん』
☆mediopos3613(2024.10.10.)
『群像』で連載中の
石井ゆかり「星占い的思考 56」(11月号)で
冒頭に夏目漱石の『坊っちゃん』から
坊っちゃんの清への思いが表現されている
短い一文が引用されている
〝返さないのは清を踏みつけるのじゃない。
清をおれの片破(かたわ)れと思うからだ。〟
(この文の文脈については以下「六章」の引用で)
いまさら『坊っちゃん』と思いきや
「名作」の「名作」たる所以
再読すると新たな視点が浮かびあがる
「50歳」になった石井ゆかりは
「なぜ清がそんなに坊っちゃんを愛したのか」に注目する
再読で得られたのは
「ラストシーンまで、この人がヒロインなのだ」
ということである
そして坊っちゃんの一人称で語られる『坊っちゃん』は
その全体で「「坊っちゃんがこういう人間だったから、
清はこの子に愛情を持ったんですよ」
と言われているようだった」という感想をもつ
なぜ今回この『坊っちゃん』がとりあげられているのか
星占いで「老い」「老人」を象徴する「土星」は
いま「記憶、救済、癒しを象徴する魚座に位置し」
「坊っちゃんのような血気盛んな、若い男性のイメージ」を
象徴する「火星」はいま魚座に位置しているが
その土星と火星がこの時期120度の位置関係にある
120度というのは「もっとも調和的な、
スムーズで強い結びつきを意味する角度」である
それが「まるで『坊っちゃん』の世界観のよう」
だというのである
「今、星々は魚座、蟹座など水の星座に集合している」が
「水の星座は感情と共感、情愛の世界である」
それは「損得勘定、換金できる価値から、一番遠くにある世界」
石井ゆかりはその例として
坊っちゃんが「旅館で法外な心付けをはずむシーン」や
「不当な昇給を拒むシーン」を挙げている
(以下「二章」「八章」の引用で)
現代はカネさえあればの世界であり
老いを悪だとし死を隠蔽しするアンチエイジングの世界である
そして生の世界はAIに象徴されるように
機械的なヴァーチャルなものに変換されようとしている
そんななかでこそ
「なぜ愛するのか」
という問いが
深い意味をもってはこないだろうか
愛は損得勘定などという虚妄を軽々と超え
愛することそのもののなかにその意味がある
『坊っちゃん』はそのひとつの象徴としての
物語としても読むことができるのかもしれない
■石井ゆかり「星占い的思考 56 50の再読」
(群像2024年11月号)
■夏目漱石『坊っちゃん』(岩波文庫 1989/5)
**(石井ゆかり「星占い的思考 56 50の再読」より)
*「〝返さないのは清を踏みつけるのじゃない。清をおれの片破(かたわ)れと思うからだ。〟
(夏目漱石『坊っちゃん』岩波文庫)
世に名作、名著と呼ばれるものがあって、それはもうたくさんの人が読み尽くしているのだから、自分などが読んだり何か言ったりする必要もないだろう、と思う。(・・・)しかし、ひとたび名作を手に取って読み出すと、まるで未だかつて自分しかそれを本当に読んだことがないのではないか、と思うほどに新鮮なのである。それが「名作」の所以である。最初に読んだのは多分、学生時代だっただろう。」
「本作の「どうしようもなく読みすすめさせられる」ドライビングフォースは、冒頭は「この坊っちゃんはどんな人生を送るのだろう」というところにある。四国に行ってからは「この複雑な人間関係の中で、だれが善人でだれが悪人なのだろう」という真相が気になってゆく。そして最後までに、もう一つ別のなぞが解かれる。なぜ清がそんなに坊っちゃんを愛したのか、ということである。」
「本作は坊っちゃんの一人称で語られるから、清その人の本当の思いは分からない。であれば坊っちゃんその人にとって、愛された理由がちゃんとあってほしかったのである。本作全体に「坊っちゃんがこういう人間だったから、清はこの子に愛情を持ったんですよ」と言われているようだった。50歳になった今の私には、そう思えた。」
「最初に読んだときも今も、冒頭では清がそんなに重要な登場人物とは思えないのである。四国に行ったら忘れるともなく忘れてしまう存在なのだと思えるのである。しかしラストシーンまで、この人がヒロインなのだ。私は今、50歳になったところが。今読み直してみて、老婆である清がこのように重要な、大切な、愛される人間として表現されることが、恥ずかしながら、意外なほど嬉しかった。小説の中でこんなに大事に描かれた「ふつうのおばあさん」は、ほかにあるだろうか。若者にこのように率直に「片破れ」と呼んでもらえたおばあさんはいただろうか。」
*「星占いで「老い」「老人」を象徴する星は、土星である。今、この土星は記憶、救済、癒しを象徴する魚座に位置している。一方、坊っちゃんのような血気盛んな、若い男性のイメージは火星に象徴される。今、火星は蟹座にある。蟹座は甲羅の星座で、まるで坊っちゃんのように、甲羅の中に熱い感情を秘めながら、全方位的にピリピリ、刃物のような鋭さで勝負に挑んでいる。この火星と土星が、この時期120度の位置関係にある。120度は星占いにおいて、もっとも調和的な、スムーズで強い結びつきを意味する角度である。まるで『坊っちゃん』の世界観のようだ。」
*「現代社会では、老いることは悪だと思われているらしい。「劣化」という表現もある。アンチエイジング、様々な健康法、「若い」があたりまえにほめ言葉となっている。働くことも消費もできなくなり、性的魅力も失ったら、生きている価値なし、と言わんばかりのコマーシャリズムを、私たちはいつのまにか受け入れさせられている。しかし今、星々は魚座、蟹座など水の星座に集合している。水の星座は感情と共感、情愛の世界である。損得勘定、換金できる価値から、一番遠くにある世界である。坊っちゃんが旅館で法外な心付けをはずむシーン、不当な昇給を拒むシーンがあるが、水の世界のお金の扱い方は、たとえばあのようなものである。カネで計算できる価値など、どうでもいいのである、」
**(夏目漱石『坊っちゃん』より)
・二
*「道中をしたら茶代をやるものだと聞いていた。茶代をやらないと粗末に取り扱われると聞いていた。こんな、狭くて暗い部屋へ押し込めるのも茶代をやらないせいだろう。見すぼらしい服装をして、ズックの革鞄と毛繻子の蝙蝠傘を提げてるからだろう。田舎者の癖に人を見括ったな。一番茶代をやって驚かしてやろう。おれはこれでも学資のあまりを三十円ほど懐に入れて東京を出て来たのだ。汽車と汽船の切符代と雑費を差し引いて、まだ十四円ほどある。みんなやったってこれからは月給を貰うんだから構わない。田舎者はしみったれだから五円もやれば驚ろいて眼を廻すに極っている。どうするか見ろと済して顔を洗って、部屋へ帰って待ってると、夕べの下女が膳を持って来た。盆を持って給仕をしながら、やににやにや笑ってる。失敬な奴だ。顔のなかをお祭りでも通りゃしまいし。これでもこの下女の面よりよっぽど上等だ。飯を済ましてからにしようと思っていたが、癪に障ったから、中途で五円札を一枚《まい》出して、あとでこれを帳場へ持って行けと云ったら、下女は変な顔をしていた。それから飯を済ましてすぐ学校へ出懸けた。靴は磨いてなかった。」
・六
*「ここへ来た時第一番に氷水を奢ったのは山嵐だ。そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、おれの顔に関わる。おれはたった一杯しか飲まなかったから一銭五厘しか払わしちゃない。しかし一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師の恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。あした学校へ行ったら、一銭五厘返しておこう。おれは清から三円借りている。その三円は五年経った今日までまだ返さない。返せないんじゃない。返さないんだ。清は今に返すだろうなどと、かりそめにもおれの懐中をあてにしてはいない。おれも今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちを付けると同じ事になる。返さないのは清を踏みつけるのじゃない、清をおれの片破れと思うからだ。清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だろうが、甘茶だろうが、他人から恵を受けて、だまっているのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。割前を出せばそれだけの事で済むところを、心のうちで難有いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。無位無冠でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは百万両より尊といお礼と思わなければならない。
おれはこれでも山嵐に一銭五厘奮発させて、百万両より尊とい返礼をした気でいる。山嵐は難有いと思ってしかるべきだ。それに裏へ廻って卑劣な振舞をするとは怪しからん野郎だ。あした行って一銭五厘返してしまえば借りも貸しもない。そうしておいて喧嘩をしてやろう。」
・八
*「教頭さんが、そうお云いるのはもっともじゃが、古賀さんのお往きともないのももっともぞなもし」
「そんなら両方もっともなんですね。お婆さんは公平でいい。一体どういう訳なんですい」
「今朝古賀のお母さんが見えて、だんだん訳をお話したがなもし」
「どんな訳をお話したんです」
「あそこもお父さんがお亡くなりてから、あたし達が思うほど暮し向が豊かになうてお困りじゃけれ、お母さんが校長さんにお頼みて、もう四年も勤めているものじゃけれ、どうぞ毎月頂くものを、今少しふやしておくれんかてて、あなた」
「なるほど」
「校長さんが、ようまあ考えてみとこうとお云いたげな。それでお母さんも安心して、今に増給のご沙汰があろぞ、今月か来月かと首を長くして待っておいでたところへ、校長さんがちょっと来てくれと古賀さんにお云いるけれ、行ってみると、気の毒だが学校は金が足りんけれ、月給を上げる訳にゆかん。しかし延岡になら空いた口があって、そっちなら毎月五円余分にとれるから、お望み通りでよかろうと思うて、その手続きにしたから行くがええと云われたげな。——」
「じゃ相談じゃない、命令じゃありませんか」
「さようよ。古賀さんはよそへ行って月給が増すより、元のままでもええから、ここに居りたい。屋敷もあるし、母もあるからとお頼みたけれども、もうそう極めたあとで、古賀さんの代りは出来ているけれ仕方がないと校長がお云いたげな」
「へん人を馬鹿にしてら、面白くもない。じゃ古賀さんは行く気はないんですね。どうれで変だと思った。五円ぐらい上がったって、あんな山の中へ猿のお相手をしに行く唐変木はまずないからね」
「唐変木て、先生なんぞなもし」
「何でもいいでさあ、——全く赤シャツの作略だね。よくない仕打だ。まるで欺撃ですね。それでおれの月給を上げるなんて、不都合な事があるものか。上げてやるったって、誰が上がってやるものか」
「先生は月給がお上りるのかなもし」
「上げてやるって云うから、断わろうと思うんです」
「何で、お断わりるのぞなもし」
「何でもお断わりだ。お婆さん、あの赤シャツは馬鹿ですぜ。卑怯でさあ」
「卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、大人しく頂いておく方が得ぞなもし。若いうちはよく腹の立つものじゃが、年をとってから考えると、も少しの我慢じゃあったのに惜しい事をした。腹立てたためにこないな損をしたと悔むのが当り前じゃけれ、お婆の言う事をきいて、赤シャツさんが月給をあげてやろとお言いたら、難有《うと受けておおきなさいや」
「年寄《の癖に余計な世話を焼かなくってもいい。おれの月給は上がろうと下がろうとおれの月給だ」