木村陽二郎『ナチュラリストの系譜/近代生物学の成立史』
☆mediopos-2309 2021.3.13
はじめ
名はただ名でしかない
そう思っていた
名を知ることは意味がない
けれど
たかが名
されど名なのだ
名づけることによって
つまり分けることによって
はじめて分かることができる
もちろん混沌に穴を空ければ
混沌は死んでしまう話のように
名づけることは
名のないそれを
ある意味で殺してしまうことにもなる
しかしそれを避けることはできない
名がなければ
名を超えることはできないからだ
はじめに
言葉があった
ともいわれるように
名には名なりの役割がある
言葉といわれた神が生まれ
やがて十字架上で死に復活したように
名は変容したかたちで復活しなければならない
分類するということも同じだ
分けられないことを分かるためには
分けることができなければならない
分類できないままでは
世界はあらわれてこない
混沌のままだ
道のない世界は行方がみえない
道は道のためにあるのではない
道は歩くためにある
そして道はさまざまに変わってゆく
そのように
ナチュラリストたちは
自然を名づけ体系化し
分けながら分かり
道をつくっていくが
その道はひとつではなく
どの道も交錯し変わっていきながら
さまざまな場所へと私たちを導いてくれる
やがてみずからが道を超え道をつくり歩めるように
■木村陽二郎『ナチュラリストの系譜/近代生物学の成立史』(ちくま学芸文庫 2021.2)
「わたしたち日本人ほど自然を愛し、草木鳥獣を愛する民族はない、と思われてきた。しかし、はたしてそうであろうか。たしかに、花に関する詩歌は数多く、花を育てる腕前でも日本人の名声は海外に広く伝えられている。しかし日本人は、花そのものを愛しているのだろうか。花に托して自己の感情にひたっているのではなかろうか。」
「ルソーのように、野外に出て、自然のなかに草木の花を見て楽しむことは大きなよろこびだが、植物の名を知らなければ、その植物に親しみがもてない。それでルソーは、リンネの『自然の体系』を小脇にかかえて野外を歩くのである。」
「動植物に関する知識は、時のたつにつれて膨大なものとなっているが、しかし、現代より原始の時代のほうが個人としては動植物をよく知っていたかもしれない。自然のなかにあっては、都会人とは異なり、それを知らないでは生きていられないからである。
植物・動物・鉱物を一括した自然の話や記述を、「自然誌 Natural history」という。われわれは自然のなかに住んでいるが、目にふれるのは個々の植物であり動物である。ヒトもまた動物の一員として見れば、その記述は自然誌にふくまれる。人間の自然物を観察する目はしだいに発達してきたが、それが科学として成立するのは、さらにのちのことである。少なくとも、それらの知識がことばになり文にされて、つまり記事が書かれて、自然誌は成り立ったのである。」
「西欧の自然誌の研究の中心は長くパリの植物園にあって、ここで多くの著名なナチュラリストたちが研究を発展させていった。各国がその研究を競っている現在でも、ここが一つの大きな中心であることが否定できない。本草学の時代から十九世紀前半までの近代科学の時代に至る長い道のりのなかで、広い意味での自然誌、すなわち、本草学から植物学・動物学、そしてのちには「生物学」とよばれる分野が、どのように成立し発展したかを見ていくことにする」
「わたしたちが自然のなかにあるとき、植物や動物の多種多様性に気がつくのである。自然を探究するナチュラリストたちはこの千変万化の植物や動物を知ろうとする。生物は多様性とともに統一性が見られるから、無数ともいえる多くの種を分類体系をたててまとめ、のちには進化の道筋、系統を明らかにしようとする。このナチュラリストたちの努力の跡を、パリで一般に「植物園」と呼ばれているフランス国立自然誌博物館を中心としてたどってみた。」
「ツルヌフォール、リンネ、アダンソン、ド・カンドルは、植物体系の歴史的歩みを見た結果、独自の分類体系をたてた。その歴史的歩みをこれまでわたしも見てきたので、自分の分類学原理と分類体系を示そうと思う。
ド・カンドルにならって、わたしなりに分類体系を分類すると、次のようになる。
一、便宜的体系。人為的分類であって、植物名を見出すのに便利な体系、または人間の用途による体系である。検索表も一般にはこれに入る。これも必要な体系である。
二、無原理体系。自然群にまとめるが、それを並列し、そこに原理を見出せない体系である。各群を区別するためにとりあげる形質は、そのときどきで異なり、一様ではない。したがって、進化の道すじ・系統をたどることは難しい。リンネの「自然分類法断片」やエングラーの分類もこれに入る。これを「系統分類体系」というのは疑問である。
三、目的論的体系。アリストテレスいらい、西欧に伝統の分類体系で、何が植物にとって目的であるかによって分けるもので、チェサルピノは、果実・種子、ツルヌフォールは花冠、リンネは雌雄蕊を形質としてとった。完成した体、または子孫を残すための重要な器官を形質としてとるものである。目的を考慮すれば、形質の重要度に差があり、アントワーヌ・ロラン、ド・シュシュー、ド・カンドルの体系もこれに入る。リンネの雌雄蘂分類体系は、よくいわれるような人為分類ではけっしてない。子孫を残すために、雄しべ、次いで雌しべが最重要と考えた分類で、目的論的体系の一つである。リンネの分類は一般の人にわかりやすいからといって、便宜的分類とはいえない。
四、全形質体系。アダンソン、早田文蔵の体系がこれに入る。最近の数量分類学もこれである。
右に述べた四つの型の体系に対し、わたしのとる体系は、全形質を価値観なしにとり、群をつくる。その点、第四の型に似ているが、自然群にあつまる点は、無原理体系に似ている。しかしこれと異なり、その群を分類すうr原理をはっきりすることで異なる。原理をはっきりするためには、できるだけ少数の形質を基準としてとる。一つの形質では、その進化の道すじが想定できるので、少数の形質をとれば、それでできあがった群によって系統樹をつくることが比較的容易である。強調したいのは、分類体系にあ、その原理が必要であり、分類体系から系統、すなわち進化の道すじをおしはかれるということであって、その逆ではない。「システム」という字は「体系」と訳すべきで、「系統(ファイロジェニー)」と訳すべきではないのである。」