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「対談=川内有緒×若松英輔「わからなさを共に生きる」」/川内 有緒『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』

☆mediopos-2524  2021.10.14

ひとつを知ると
たくさん知ったと考えるひとと
むしろ知らないことが
たくさんふえたと考えるひとがいる

リテラシーという言葉が
最近ではよく使われるが
おそらくそれをどのようにとらえるかも
そのふたつの受け取り方に似ているかもしれない

そこに書かれてあることが
とりあえず表面的な意味で読める
そのことだけで満足するひとがいて
むしろそこに書かれていないことについて
考えたり調べたりするひとがいる

とくにマスメディアで多く流されている情報は
学校で与えられる教科書の類いも同じだが
最初にずいぶんたくさんのフィルターがかかっている
それを信じて疑わないひともいれば
そこに多くの真実が隠されていることに気づき
フィルターの下にあるものに目をむけるひとがいる

見えるということで
見えなくなっていることは多い
見えているという思い込みは
ほんとうは見ていないもの
わかっていないものを隠してしまうからだ

『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』の
著者・川内有緒と若松英輔の対談のなかで若松氏が
白鳥さんの知人のホシノマサハルさんが
「アイマスクをつけて、目が見えない人の気持ちに
なるなんてバカバカしい」と話されていたことに
共感したことを語っているが

「私たちはすぐに何かをわかった気になるし、
違う立場の人のことを思いやるべきだ、
わかることはいいことだと思い込んでいる」

このわかった気になるということほど
「共に生きる」ことを損なうことはない

ひとつわかった気になったとしたら
そこにたくさんのわからなさを見つけること
他者にたいしても
ものごとや情報に対しても
「開かれている」ということは
そういうことではないだろうか

わからないということ
そして問うということ
そこからしかなにもはじまらない

■「対談=川内有緒×若松英輔「わからなさを共に生きる」」
  『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』刊行を機に
 (週刊読書人 2011年10月8日 第3410号)
■川内 有緒『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』
 (集英社インターナショナル 2021/9)

(「対談=川内有緒×若松英輔「わからなさを共に生きる」」より)

「若松/読みながら思い出していたのが、石牟礼道子さんのことです。石牟礼さんと何度かお会いしましたが、話を重ねるうちに思うようになったのは、私たちは多くのことを言葉にできるようになったからこそ、言葉にならないことがわからなくなったのだということでした。本当は言葉にできないことの方がこの世界には多いのに、それを見失った。それと同じことがこの本にも書かれていると思うんです。晴眼者は目が見えるからこそ、見えないものがあることを忘れてしまったと。」

「川内/少し違うかもしれませんが、私たちは白鳥さんと絵を見るとき、その絵について言葉で伝えようとするのですが、何を言っていいかわからず言葉が出てこなくて、皆が黙ってしまう瞬間があるんです。場がシーンとなって、沈黙が重なる音がするような、言いたいんだけど言えない。そういう空気が生まれます。白鳥さんは、その感じも好きなんだよね、と言うんです。沈黙の音色を白鳥さんは楽しんでいるのだと、あるとき気づきました。
 白鳥さんが美術館に通い出した二〇年前とはずいぶん変わって、最近は目が見えない人と見る美術のワークショップがあちこちで行われるようになっています。ただそうしたワークショップに、白鳥さんはあまり参加しようとしません。と言うのも、一般的なワークショップにはゴールがあって、成功の形が決まっているんです。たとえば参加した全員が意見を言えたことをよしとするというような。そういうところに落ち着くのが気持ち悪い、一言も話せなかった人がいたっていいと思う、と白鳥さんは言います。その場で、その人たちとでしか起こらない全てを、白鳥さんは大事にするから、ワークショップの主催者が、皆が意見を言えるようにしてくださいなどと枠組みを整えだした瞬間、彼は扉を閉じてしまう。沈黙という余白も味わいたい。若松さんが魁夷の絵を見て目を閉じたのとも、少し繋がるところがあるのかなと思います。

若松/私たちは耳で音を聞き、目で色を見、頭でさまざま事を理解していると思ってますが、この世界の全てを認識することはできない。あるいは認識できる範囲を少し超えたところにあるものをも、呼吸しているのかもしれません。そういうものは言葉にならなくても、確かに実在する。語り得ないものは、語ってしまうと、無くなってしまうのだと思うんです。その語り得ないもののなくてはならなさが、この本には詰まっていました。
 エッセンシャルなものを、私たちはいつでもあると思い込んで見失ってしまった。何も言わずただ共にいるというようななくてはならないものを、私たちは大事にしてこなかった。これまでの日常が奪われてみて、そのことにようやく気づいても、それを取り戻す術さえわからなくなってしまっている。何かを新しく作り上げるというのではなく、自分たちがいかにカンタンに手放してきたのかを改めて思い知ること。それは絵を見ること一つとっても、そうだと思うのです。」

「若松/白鳥さんの知人のホシノマサハルさんが「アイマスクをつけて、目が見えない人の気持ちになるなんてバカバカしい」と話されていましたよね。本当にその通りだと思いました。私たちはすぐに何かをわかった気になるし、違う立場の人のことを思いやるべきだ、わかることはいいことだと思い込んでいるところもあります。それは大きな誤解なのですが。視覚障害の人どころか、人は、ほかの誰にもなれない、その上で寄り添うことが大事なんだと、ホシノさんは言う。わかったと思わせない力が、この本にはありますね。
川内/わからなさの中で生きているということは、この本を画いている間中、感じていました。白鳥さんと二年間というそれなりの時間をたびたび一緒に過ごして、電話で話したりメールでやり取りして、でもそれだけの時間をかけても、わからないことの方がたくさんある。そのわからなさがあるから、この先も関係が続いていくと思うし、わからなさを大事にしていきたいんです。」

「川内/研ぎ澄まされた言葉に惹かれるときもあるけれど、今は一言で誰かを救えるような強い言葉ではなく、どちらかというとぼんやりした正体のよくわからないものを、自分の中にため込んでいきたいと思っています。」
「若松/時間はかかるけど、ゆっくりであれば杖なしに自分の足で歩いていける。あるいは自分たちで歩いていく。これはそういう物語ですよね。確かな杖で一人颯爽と歩くのではなく、皆で支え合って一歩一歩行く。そういう歩き方でいい。一人逞しく闊歩しなくていい。白鳥さんが言う「楽になる」ってそういうことではないか。努力して人に認めてもらえて、なるほどと理解されるような生き方なんかごめんだね、という感じがいいんですよね。」

「若松/白鳥さんが「『できる』と『できない』は、プラスとマイナスじゃない」「『できる』ひともいるし、『できない』ひともいる。それでいい」と言っていましたね。できること〈I can〉と、私であること〈being〉とは、全く別のことなのに、できるということが存在証明のように、世の中が流れつつあることは否めないのですが、存在の方に立ち戻っていきたいですよね。」
「若松/人が存在するということ、私は私であることと同時に、他者に向かって開かれていることの大事さ、それもこの本に通底して書かれていたと思います。その人がその人らしくあることは、同時に他者に開かれていることなのだと。」

「川内/白鳥さんと初めて絵を見るとき、自分の意見を言うことに躊躇する人は多いんです。正しいかわからない自分の主観を白鳥さんが信じてしまったら申し訳ないと。それに対して白鳥さんは、その言葉を信じるかどうかは自分が決めるから、あなたは主観でものを見て話してください。影響を与え合いながらアートを見ればいいと思う、と言うんですね。すると皆ホッとして、初めて自分の目で見て、自分の言葉で語り始める。それは、お互いの信頼を寄せていく行為のようにも思うんですよね。
若松/白鳥さんの周囲で、これまで作り上げられてきたアートの意味や概念が崩れ去り、新たに生まれてくるものがあるんですね。
 数年前に、カナダで薬の代わりに美術館を処方するという取り組みが始まりました。これも医学の常識からすると驚きだけれど、新しいというよりは、私たちが忘れてしまったいること、失ってしまったものを取り戻す思考から生まれたように思います。」

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