清水高志『空海論/仏教論』/奥野克巳・清水 高志『今日のアニミズム』/『モア・ザン・ヒューマン マルチスピーシーズ』
☆mediopos3198 2023.8.20
昨日のmediopos3197(2023.8.19)でとりあげた
郡司ペギオ幸夫の「天然知能」で
「外部」を召還する装置である「トラウマ構造」
についてとりあげた
それは二項対立的なものが支配的なとき
「対立する二項を共に成り立たせる肯定的矛盾」と
「共に否定する否定的矛盾」が共立することだが
今回とりあげた清水高志の
「トライコトミー(三分法)」という
三種類の二項対立を組み合わせ
それを変化させることで二元性を調停するという方法論も
「外部」を召喚する「トラウマ構造」と
通底しているのではないかと思われる
どちらも二項対立的なありようを
二項対立によって克服する道を示唆しているからだ
清水高志の「トライコトミー(三分法)」に関連したことは
mediopos-2591(2021.12.20)
清水高志「トライコトミー(三分法)、禅、アニミズム)」や
mediopos2646(2022.2.13)『モア・ザン・ヒューマン』で
すでにとりあげているが
清水高志『空海論/仏教論』の第一部に収められている
「二辺を離れる————上七軒講義」
(清水高志×師茂樹/亀山隆彦(聞き手))では
そのテーマがさらにわかりやすく講義されている
インドでは西洋的な二者択一に対し古くから
「Aである」「非A」であるという命題に加え
「Aであり、かつ非Aである」
「Aでもなく、かつ非Aでもない」という
二つの命題が加えられたテトラレンマが説かれてきたが
それをふまえながら清水高志は
「主体/対象」「一/多」という二つの二項対立に加え
「内/外」という二項対立を加え組みあわせた
「トライコトミー」という思考法を提案しているのである
それは超越的な「一」なるものに
原因が還元されてしまうことなく
仏教的な縁起のように
何らかの様態や属性に対し主語を立てず
無自性で「空」であるとすることで
二元性が調停される視点が示唆されている
そうすることで西洋的な論理に見られる
矛盾律に囚われた思考・経験を
拡張させていくことが可能となっていく
「二項対立」をただ否定するのではなく
「二項対立」をふまえながら
複数の「二項対立」の二項の「関係を、
逆転させたり、ツイストしたり」することで
二項対立から自由になろうとする
そんな思考法はおそらく
二項対立的な矛盾を抱えている思想に
出口を示すという意味で
想像以上に豊かさと可能性を持ちえている
ウィトゲンシュタインは
「ハエ取り壺のハエに出口を示してやること」を
哲学の目的として示唆したが
トライコトミーはまさにその出口のひとつでもありそうだ
■清水高志『空海論/仏教論』(以文社 2023/4)
■奥野克巳・清水 高志『今日のアニミズム』(以文社 2021/12)
■奥野克巳・近藤祉秋・ナターシャ ファイン (編集)
『モア・ザン・ヒューマン マルチスピーシーズ/人類学と環境人文学』
(以文社 2021/9)
(清水高志『空海論/仏教論』〜
清水高志×師茂樹/亀山隆彦(聞き手)
第一部「二辺を離れる————上七軒講義」〜「唯識、二項対立、三項構造」より)
「清水:『今日のアニミズム』でも触れたんですが、いわゆる二元論の問題をどう克服するか、ということは人類にとって非常に大きなテーマであり、西洋でもそれを考えてきたし、日本でも、仏教においてもつねに問われてきた。自分がこの問題を考えるなかで気がついたのは、二元論の二元性、二項対立性というのが生み出される背景には、異なった種類の二元論が複数混ざり合ってしまっている、ということがあるんですよね。それが優性の項、劣性の項を固定化する傾向を生み、それによって二元性が解消できなくなっていく。そしてまた、このように無自覚に混じり合っている二元性を、丁寧に分離していくというのが、哲学が昔からやってきたことでもある。
(・・・)
清水:プラトンの対話篇を見ても、ソクラテスやパルメニデスが出てきて議論しているのは、たとえば「一なるもの」がある、そして「多なるもの」がある。「一なるもの」というのは、実は「同じ」「同」ということではないだろうか? 「多なるもの」というのは「異」ということじゃないか? といったようなことなんですね。「そうかもしれない」というので吟味を進めていくと、微妙に違ったりするところがあり、これらの概念をまた別の概念対として区別しようということになる。そうやって、次々にばらばらにすることで、哲学のもろもろの概念が生まれてきたわけです。
また、西洋哲学には、複数の二項対立を扱う独特の傾向というものがあり、それらが分離しきっていない部分や長年かけて癒着してきた部分がある。二項対立が解決できそうなある二項対立があると、それに「相乗り」させるようにして別の二項対立を結びつけて解いていこうとするので、どうしても癒着してしまうのです。西洋の哲学の発想では、たとえば主体と対象という二項対立であれば、主体と一というものと、対象と多というものの性格が、比較的癒着する傾向にあって、主体の側は合理的に、対象世界のもろもろの現象を整合する、という関係がしばしば固定されているんです。
亀山:統合体としての主体ですね。
清水:一方ではそのように受動的に統合された果てに、世界はあると思っているので、客観的な世界は一つだと思っている。これが近代西洋の考え方で、今述べた仏教とは違うわけです。ところが、今西欧でもそれが逆転した関係になていることに注目が集まり始めています。対象がまずあって、それに向かう主体的なアプローチが複数あって競合する、という構造からモノを考えた方が、実際にはモノの能動性を読み取れるのではないか、というものですね。これが、ブリュノ・ラトゥールらが方法論的に提示した、アクターネットワーク論(Actor Network Theory,ANT)ですね。科学や技術の対象が生まれるにあたって、モノのエージェンシー、能動的作用がどう働いているか、また複数の主体の側の相互作用がどのようになっているのかをネットワーク的に考えるのが、この科学人類学の方法論です。こうした例では、一と多、主体と対象という二種類の二項対立の関係が逆転しているわけですよ。それらの結びつきが従来とは逆転している。こうした構造のほうが、一つの主体のアプローチに還元されない、対象の意想外な働きというものもはっきりと分かる。主体と一、対象と多が結びついていたときには、多様性はどんどん回収される要因としてあるだけで、そこを増やしてもこの構造が仕切り直されるだけで、どんどん主体性が強くなってしまう。二元性が強くなっていく。それでこうした関係を、逆転させたり、ツイストしたりしてみようというのが僕の考えです。」
(清水高志『空海論/仏教論』〜
第一部「二辺を離れる————上七軒講義」〜「「野生の思考」とテトラレンマ」より)
「清水:(「トライコトミーと離二辺」は)三種類の二項対立を組み合わせて、それを変化させることで、それらの二元性を調停するという方法論ですね・・・・・・。最初に図で三つのポイントをあげておきます。
※図2 トライコトミーと離二辺
①tricotomyトライコトミーは、三種類の二項対立を組み合わせ、その結びつきを変化させるこyとで、それらの二元性を調停するという方法論である。
②仏教では「離二辺の中道」で説かれている思想、テトラレンマ(「A」「非A」「Aかつ非A」「Aでもなく非Aでもない」)が、それによって定義される。
③「含むもの(外)」と「含まれるもの(内)」、「一なるもの」と「多なるもの」。「主体」と「対象」という三種の二項対立がそこでは扱われる。
清水:仏教ではよく「離二辺の中道」という形で説かれている、テトラレンマという発想があります。これは、伝統的に四句分別(しくふんべつ)ともいいますが、インド人が非常に古くから用いてきた独特の論理のあり方ですね。
「Aである」とか「非Aである」とか「Aかつ非A]、ある命題Aについて、そこから考えられる命題を四つ列挙していくわけです。これを順番に第一レンマ、第二レンマ、第三レンマ・・・・・・と言いますが、西洋では第一レンマとその否定である第二レンマを考え、第三レンマは排中律によって否定されるわけですね。ところがインドでは、第三レンマはおろか「Aでもなく非Aでもない」という第四レンマというものまで定義しようとします。
不生不滅など、仏教ではそういうものが一番安定的な形だというふうに言われているわけですが、『今日のアニミズム』で僕が提示したトライコトミーtricotomyという理論は、複数の二項対立の結びつきのなかで、もっとも絞られた形で理論が一巡し、すべてが第四レンマ、すなわち二項対立のどちらの極でもないという構造をつくろうとしたものだったんです。そのために結びつけられる、重要な二項対立の要素としてチョイスしたのが、「一なるもの/多なるもの」「主体/対象」、これはこの本のテーマが人間と自然の問題、アニミズムの問題だったからというのもあります。そして僕の考えでは、「含むもの/含まれるもの」の関係、言い換えると「内/外」の二項対立っていうのは非常に本質的なんです。この関係は、今のパルメニデスとソクラテスの話でも、まさにこれが最大のアポリア(難題)になったんですね。ここがギリシャ人たちが分からなくなったところで、それが解決できないと、イデア界と感性的世界が分離したままになってしまう。
これは人類全体の問題として、レヴィ=ストロースが語っていることでもありますね。文化と自然の分離とか、そうした主題を、色々な文化圏の人々が執拗に考えている。「含むもの」と「含まれるもの」が分離したり、入れ替わったりするという話は、たとえばレヴィ=ストロースだと『神話論理』の二巻によくそういう話が出てきます。」
「清水:エンペドクレスや「野生の思考」がやっていることは何かというと、まず二項対立があります。その二項対立を別の二項対立に分裂させます。それを感性的なものに寄せます・・・・・・。そしてそれらが、全体として環を描くようにして調停されるということが大事なんです。媒介となる第三項が次々と出てきて、結果としてどこにも《始点》が来るわけではない構造ができる。そうやってできるのがテトラレンマなんです。
(・・・)
清水:ようするに、第三項が先に繰り延べられていく。そうしたどの項もその役割を負うという形で、第三項の位置が一巡すうrと、そこで《原因はどの項でもない》という、第四レンマが言える。レヴィ=ストロースが自分で構造という概念を説明して、サイエンス————これは多分、フランス語のScience、つまり「学問」のことだと思うんですが————学問には、還元的な方法化構造的な方法の二通りしかない、と語ったことがありました。構造的な方法というのは、レヴィ=ストロースの場合には、第三項的なもの、つまり二項対立をまずつくっておいて、それらを共存させる具体物、これを《媒介》と言いますが、その具体物、《媒介》の位置をただ先送りにするだけじゃなく、順繰りに取り換えて一巡させることで、すべてを説明する形をつくる、ということだったのではないかと思うんですよ。」
(清水高志『空海論/仏教論』〜
第一部「二辺を離れる————上七軒講義」〜「《相依性》は巡る」より)
「亀山:レヴィ=ストロースの『神話論理』だと、ジャガーと何かが対立しているとか、その対立を兼ねた第三項が出てきたり、またその第三項に対立するものがでてきたりして・・・。結局、それらの構造が閉じるんですよね。神話っていうのは。
清水:環を描いて閉じる。まさにそう。そうすることによって、無限に第三項が繰り延べられていくというだけではない論理が作られるんです。
亀山:そうすることがまた還元主義の、乗り越えにもなるのか。
清水:乗り越えられるわけです。縁起について語ったところで、吉蔵が他の原因によって結果が招来するというだけの考えだと、縁起が無窮(むぐう)になる(原因の無限遡行になる)から駄目だと言っていますが、それと一緒なんですよ。
(・・・)
清水:ある結果が、他のなんらかの原因から生じると言ってしまうと、そうした他因は無限遡行になるからいけない。吉蔵はこれを、「無窮になる」と言って拒絶した。なので、なんらかのものに自性がある(自己原因である)というと、縁がいらなくなって、無因論になると。だから、縁起が無窮にならないためには、縮約が生まれないといけない。こうした縮約をもっともシンプルに定義して、Aと非Aだけで作ってしまったのが、仏教で言う「相衣性(そうえしょう)」ですね、「Aがあるから非Aがある、非AがあるからAがある」「Aがないから非Aがない。非AがないからAがない」・・・・・・。
亀山:『今日のアニミズム』のナーガルジュナの解釈で出てきたものですね。
清水:そうです、絶対こういうことをやっているはずなんです。それともう一つ、『ティマイオス』のなかで、プラトン三通りに現象世界が分かれるとも言っていますね————「イデアそのもの」と「生滅の世界」がある。さらにその「生滅が起こる場所」というのがあって、この「生滅の起こる場所」というのは、イデア(形相性)を受容するもっと抽象的な土台として出てくるものです。「場所」(コーラ)というものですね。ようするに、原因やそれがどこにあるのかという話が出て来る前に、生滅の世界。第三レンマの世界を一回経由するわけですよ、仏教でも、第三レンマの世界を、生じていく方と、滅していく方で両方やってますね。十二支縁起で。
(・・・)
清水:順観と逆観(還滅門)があって、その操作を挟むと、ちょうど一巡して縮約が生まれ、おそらくこの論理は相依性になるようにできているんですよ。」
(清水高志『空海論/仏教論』〜
第一部「二辺を離れる————上七軒講義」〜「主語性から属性へ」より)
「清水:何らかの様態や属性に対して、それが属する主語を立てて納得してしまうと、駄目なんですよ。そんな風に主語を立てて、そういう主語があるから当然そういう様態なのだ、とその様態の原因を主語の側に帰してしまうのは、項に自性(自己原因性)があるということを認めて、そこからボトムアップで考えることになるので、逆にこの自性がないということが、無自性で「空」ということなんです。
(・・・)
師:ナーガルジュナというのは、ニヒリストだと言われているわけです。つまり、否定ばっかりしていると思われているんですが、実は否定が入ってこないとそもそも二項対立が出てこない、Aがあったら非Aを持ってこないと二項対立を作れないので、否定は絶対出てこざるを得ないわけです。でもそこで、すべてがないと言っているわけでは全然なくて、釈尊が語った縁起といのはこうやって説明できるんだと言おうとしているのがナーガルジュナなんです。
(・・・)
師:無限に後退するとか、無限の否定とかが嫌いな人たちが何をするかと言うと、ストップポイントを置いて、それを「真如」だと言ってしまう。それか逆を言えば、究極のなんでも受け止めてくれるストップポイントというか、最後の受け皿みたいなものをつくって、これさえあれば全部説明できるとしてしまうような仏教的な一元論になってしまう。
(・・・)
清水:あらゆる二項対立の、分節以前ということを語り始めて、ようするに二元論を「一」で解いてしまう。そうすると大体、「多」という問題が宿題のように残ってきて、というのがあるんですね。」
◎清水高志
東洋大学教授。井上円了哲学センター理事。専門は哲学、情報創造論。著書に『実在への殺到』(水声社、2017年)、『ミシェル・セール 普遍学からアクター・ネットワークまで』(白水社、2013年)、『セール、創造のモナド ライプニッツから西田まで』(冬弓舎、2004年)、共著に『今日のアニミズム』(奥野克巳との共著、2021年)、訳書にミシェル・セール『作家、学者、哲学者は世界を旅する』(水声社、2016年)、G.W.ライプニッツ『ライプニッツ著作集第Ⅱ期 哲学書簡 知の綺羅星たちとの交歓』(共訳、工作舎、2015年)などがある。