石井ゆかり「星占い的思考51 より高きもの」(『群像』)/住吉雅美『ルールはそもそもなんのためにあるのか』
☆mediopos3462 2024.5.10
石井ゆかり「星占い的思考51」のテーマは「より高きもの」
(『群像』2024年6月号)
シャーロック・ホームズは
ときに犯人の罪を見逃すことがある
「神の名のもとに、地上の法を踏み越える」のだ
「神の名のもとに」ということは
「人間が決めたルールの上に、
もうひとつ別の、高次の価値観」があるというのである
そうした高次の価値観を認めないとしたら
ルールそのものが「神格化」されることになってしまう
そのとき人間のルールの「外部」は存在しないで
「「法律に違反した」というだけで、
絶対的悪がなされたと断ずる」ことになる
そして「多くの人が共有できる「より高きもの」が、
現代社会では、簡単には見つからない」
しかし言うまでもなく
「ルールは人間が作ったものであり、
間違っている場合もあれば、無効になることもある。」
星占いでは5月26日に木星が双子座入りする
双子座は「すでにあるルールを相対化する、
そのまなざしを管轄する。」というが
かつてフランスのアナーキストである
ピエール・ジョセフ・プルードンが
「法律は、金持ちにとっては蜘蛛の巣。政府にとっては漁網、
人民にとってはいくら身をよじっても脱けられない罠」
といったように
今や法律そのものを超え
あるいは法律を勝手になきものであるかのようにして
その上にある「もうひとつ別の、高次の価値観」が
あからさまなかたちで政治や司法そしてメディアの世界で
愚かなまでにまかりとおってしまっている
シャーロック・ホームズの場合とは真逆であり
正確には「もうひとつ別の、低次の価値観」だが・・・
少し前に住吉雅美『ルールはそもそもなんのためにあるのか』
(ちくまプリマー新書)がでているが
人類が集団生活をしている以上ルールは必要不可欠だが
「人間社会にはさまざまな局面に則して
多様なルールが発見されたり作られたりしてきた」という
平常時には世界や社会を円滑に回すためのルールが適用されるが
災害時には弱者を優先して救済するためのルールがあり
ときには「救える者を優先して救う」というルールがとられる
しかし国家や社会が崩壊するような緊急時には
「自分が生き延びる」ルールも合理的なルールとなったり・・・
さて双子座のルールを相対化するまなざしは
どのように働くだろうか
そしてそこで働くかもしれない
「もうひとつ別の、高次の価値観」は
はたしてだれにとって
どのようなかたちで働くことになるだろうか
ちょうどNHKの朝ドラはいま「虎に翼」
日本史上初めて法曹の世界に飛び込んだ
女性の実話に基づく物語であり
ルールが歴史的にどのように世の中で
人間によって適用されてきたかについて考える機会ともなる
いまの世の中は「平常時」とは言いがたく
国家や社会が崩壊するような緊急時すれすれかもしれない
そんななかにあるいまこそ
「ルール」とルール「より高きもの」が
どのように働くのかをみていく重要な機会となるかもしれない
■石井ゆかり「星占い的思考51 より高きもの」(『群像』2024年6月号)
■住吉雅美『ルールはそもそもなんのためにあるのか』
(ちくまプリマー新書 2023/11)
■花本 武『ルールはそもそもなんのためにあるのか』書評(webちくま)
**(石井ゆかり「星占い的思考51 より高きもの」より)
*「〝ホーソーンが下した決断は、本当に正しかったのだろうか?
あのまま、黙っておくことだってできただろうに。〟
(アンソニー・ホロヴィッツ著 山田蘭訳 『殺しへのライン』創元推理文庫)」
*「「シャーロック・ホームズ」シリーズでは、ホームズ先生(・・・)は時に、犯人の罪を見逃す。警察や公権力に対して「そのまま黙っておく」ことを選ぶのである。(・・・)これに比べ、ホロヴィッツの描く名探偵・ホーソーンは、全く別の道を選ぶ。ホーソーンがこうした「温情解決」をすることなど、想像もできない。彼は冷厳に、または淡々と、リーガルな判断に徹する。
ホームズ先生が法律を逸脱した判断をする時、彼は必ず「神」や「より高きもの」の存在をほのめかす。神の名のもとに、地上の法を踏み越える。そこで裁かれているのは、自分自身でもある。「より高きもの」の目に照らして、自分がここで警察に彼を引き渡すことは、果たして正しいことなのだろうか? という視線が働いている。人間が決めたルールの上に、もうひとつ別の、高次の価値観がある。社会全体に宗教的道徳観が深く浸透していた時代だからこそ、渾身これ科学的理性のようなシャーロック・ホームズであっても、それだけの敬虔さを体現することになる。
人間の決めたルールの上に、より高次の価値観を認めない場合は、どうなるか。ルール自体が神格化する。それ以上の価値がないので、何に照らすこともできないのだ。ホーソーンの活躍する現代社会では、科学的捜査が発達しきっている。あらゆるところに防犯カメラがあり、人々の手にスマホがありSNSがあり、動画撮影や録音の機能がある現代では、「知り得ぬこと」の設定が難しい。神の存在は「人間には知り得ぬこと」と強く結びついている。人間の知力では決して届かない場所、不可知の世界を皆が認め合っていれば、「より高きもの」への畏れ、敬いが生まれ、人間のルールの「外部」が生じる。一方、全てが知り得るように思われる世界では、ルールの「外部」は生じようがない。昨今、ただ「法律に違反した」というだけで、絶対的悪がなされたと断ずる向きが見られるのは、そのあたりに原因があるのかもしれない。多くの人が共有できる「より高きもの」が、現代社会では、簡単には見つからないのだ。」
*「5月26日、木星が双子座入りする。双子座は古い時代には宗教と結びつけられており、たとえば宗教論争などは双子座の感覚だった。他に宗教と関係が深い星座は射手座、魚座だが、どれも「ダブルボディ・サイン」なのが興味深い。双子座、魚座(双魚宮)はハッキリと、2つボディがある。射手座が人間と馬の2つの動物が組み合わされたケンタウルスである。双子座の「ダブルボディ」はカストルとポルックスで、一方が人間の子供、もう一方が神の子供である。この双子座を支配する水星はマーキュリー、ギリシャ神話ではヘルメス神である。ヘルメスは泥棒の神様とも言われ、幼い頃に「足跡のトリック」を使ってアポロンを欺くなど、ミステリとも関係が深い。世の中にルールがあり、一般にはそれを「守る」ことが求められる。しかし世の中には、ルールを見るとこれを「ハックする」「使う」「攻略する」ことを目指す人々がいる。たとえばスポーツの慧海、チェスや将棋の世界など知的ゲームの世界では、いかにルールを攻略するかで勝敗が決する場合も多々ある。ルールは絶対視されるべきものではなく、相対化し、穴を突き、場合によってはひっくり返す対象と捉えることもできるのである。ルールは人間が作ったものであり、間違っている場合もあれば、無効になることもある。ルールを外側から操作しようとする試みは、「もうひとつのまなざし」があるからこそできることではないか。たったひとつの目だけでは、ただの人為に過ぎないルールの外側に出ることも叶わないのである。双子座は、すでにあるルールを相対化する、そのまなざしを管轄する。」
**(住吉雅美『ルールはそもそもなんのためにあるのか』〜「はじめに」より)
*「ルールは、そもそも何でそういうルールが作られたのかという目的を考えなければ理解できないし、また、それを忠実に守ることによって自分が得られる利益と、それを破ることによって得られる利益とを天秤にかける必要も出てくる。……
私は、守った人が損をするルールはダメルールだと考えている。その意味では日本の議会、政府、自治体は、ルール作りがヘタッぴだなーと思っている。そういう怒りを込めて、この本を書こう。」
*「フランスのアナーキスト、ピエール・ジョセフ・プルードンは言った、「法律は、金持ちにとっては蜘蛛の巣。政府にとっては漁網、人民にとってはいくら身をよじっても脱けられない罠」だと。まさに今の日本の状況そのものじゃないか!……
こんな日本でルールをどう語ったら良いのか。政府や役所を信頼してもしょうがないから、庶民が各自の生活と命を守るための自生的なルールの可能性を考えてみよう。」
**(住吉雅美『ルールはそもそもなんのためにあるのか』〜「第1章 ルールは何のために生まれたのか」より)
・ルールは何のために生まれたのか
*「人類が集団生活をしている以上、ルールは必要不可欠だと思われている。」
「人間と動物に共通するルールの発端は、「縄張りの画定」と「序列付けの必要」にあった。縄張りは弱い種が他の個体や集団から自らを防衛し絶滅を免れることに役立ち、序列付けは仲間内での破滅的な争いを防ぎ、種の生存能力を増大させるために役立つ。これらのルールの原型を、言語が発達していない段階の生き物は積み重ねられた経験や遺伝子情報で獲得したのだろう。
しかしその後、感情や知性を「余計に」持つようになった人間は、独自にルールを発展させていった。集団内での序列を守るために、上位者に反逆する者には罰が科されることとなった。また各人の財の所有を確実にするために「所有権」が生み出された。
そして人間が他の動物たちと決定的に違っていたのは、自然的な秩序に飽き足らず、それを解体して人為的な秩序を作り、その新秩序を維持するためにこれまた人為的なルールを作ったことだった。
こうして人間社会にはさまざまな局面に則して多様なルールが発見されたり作られたりしてきた。」
・平常時のルール:世界や社会を円滑に回す
*「「法律(ルール)ってのは世界を回すためにある。お前を守るためじゃない」
これは私の大好きな漫画『ワールドトリガー』の主人公・空閑遊真が、亡き父から受けた言葉である。たしかに原型的なルールは、個人よりは集団生活を秩序づけ、円滑に「回す」ためのものである。
わかりやすい身近な例は、交通ルールである。自動車も歩行者も信号の「進め・止まれ」や進行方向を守らなければ事故が多発して混乱する。だから交通ルールには道徳的な善し悪しや個人の思想信条は関係なく、皆従わねばならない(あおり運転犯になりたいなら別として)。
このように、集団行動を衝突なく整然と進める技術的なルールというものがまずある。これらは社会や世界を円滑に回すためのものだが、同時に、各人が安全に暮らせることにもつながる。」
「個人の自己主張や特殊性よりも、全体の秩序を尊重する思想もある。古代ギリシアのアテナイというポリス(都市国家)の市民裁判で、不当判決で死刑を命じられた哲学者ソクラテスは、不当判決に従わないという闘いをするのではなく、祖国の裁判が命じたことにあえて従うことこそが国の秩序を保つとして、死刑を受け入れた。彼がそうした理由は、次のような考えにあった。ひとつは、自らも含めアテナイの市民ひとりひとりに、こんな不当判決を出すほどに堕落した自らの責任を反省してほしいということ、もうひとつは、祖国の法や判決への不服従はやがて法秩序を破綻させることにつながるから、とりあえず私情を捨てて服従すべきだということ(悪しき法は破ることによってでなく、議論と説得によって改正すべきである)である。
現代の個人主義的な考え方からすれば、腐敗した祖国の秩序維持のために罪なき個人が犠牲になるなんて、信じられないことだ。私なら絶対逃げる。だが秩序とルールが遵守されてこそ国は安定する。やはり集団生活を整然と送ることを個人の事情より優先するという思考もある。
とはいえ、全体の秩序とルールを守るために、個人がどこまでも犠牲になっていいわけではない。国のルールが個人よりも優先されるべき限度とは、はたしてどこまでなのだろうか?」
・弱者を優先して救済するためのルール
*「財や資源が充たされていて、人々に余裕がある平常時には、相対的に「弱者」と見なされる人々を「強者」が優先して救済することが不文(文字には書き表されないこと)のルールとされる。共和政ローマの時代には、裕福な貴族が平民に娯楽などのサービスをすることが当たり前という、ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)という道徳的ルールがあった。また、京都大学の研究チームが、前言語期のヒト乳児を対象とした複数の実験から、乳児は弱者を助ける人を肯定する傾向をもつことを明らかにした。弱者を助けることを肯定する傾向は、ヒトに生来的に備わっている性質である可能性が高いという。
災害時に強者が弱者を優先的に助けるという例で典型的なのは、映画にもなってよく知られているタイタニック号沈没事故である。1912年の4月、イギリスからニューヨークに向かっていた当時世界最大の豪華客船タイタニック号は、2224人の客を乗せたまま氷山に衝突し沈没、結果的に1514人が亡くなった。衝突から40分たった後、航海士が船長に「女性と子供を救命ボートに乗せましょう」と提案し、結果的に女性と子供は救命ボートに乗った(ただこのときの航海士同士の思惑が異なっていて、余裕がある救命ボートに男性を乗せた航海士もいたらしい。男性を後回しという考えで一致していたかどうかは疑わしい)。いわゆる、海難事故などの場合の「Women and Children first(女子供が先だ)の典型である。
このルールは差別の裏返しだという批判もある。たとえば「レディ・ファースト」などそうだ。往時の欧米の女性は男性に支配され、結婚、就職、外出などの自由がなかった。代わりに男性が、危機に瀕している女性を助ける義務を負っていた、というだけのことである。事故の場合に、屈強な男性が女性や子供を助けず先に逃げ出したら非難された(助かりたい気持ちには老若男女変わらないのにね)。
また、社会が安定していて財や資源が充たされている場合には、差別などにより歴史的に長らく不利益を被ってきた集団に就職や進学への優先的チャンスを与える、積極的差別是正措置という政策がとられる。」
・資源に限界がある場合のルール
*「突然の大災害で極めて多数のけが人が出るとか、パンデミックによって患者が増大して医療機関が全てに対応できない場合には、「救える者を優先して救う」というルールがとられる。これを「トリアージ」という。負傷の程度や緊急度に応じて、救済の順序が決められることだ。「救える者」、つまり生きる可能性が高い人を優先するのだから、すでに息絶えている人、または治療をしても死を免れない重篤な傷病者は、非情なようだが後回しにされる。重傷だが治療を急げば助かるだろう人が最優先され、続いて重傷だが命に別状のない者、軽傷者の順に救済される。
・国家や社会の崩壊時には「自分が生き延びる」ルール
*「全体の秩序を安定させるための平常時のルールなんていうのは、国家や社会が成り立っている場合にのみ意味がある。ということは、当の国家や社会が崩壊している場合には、個人が自分の生よりも全体の秩序を守ることを優先させる必要は限りなく減少する。
もちろん「正義はなされよ、よしや世界が滅ぶとも」という言葉があるように、自分を取り巻く社会や国家、あるいは世界が崩壊していたとしても、ルールを守る責務には何の関係もない、個人は誰も監視する者がいなくても、ルールを守らねばならないのだという意見もある。しかし自分だけがルールを守っている間に無秩序になった人々に出し抜かれ、強奪され、あげくの果てには殺されるのはあまりにも馬鹿げている。他の人々もルールを守っているなら自分も守るが、ルールを守る人がいなくなったら、ルールよりも自分を優先するのが生きものとしては当然だろう。」
・生き延びるために他人を蹴落としてもよいような状況
*「国家や社会を成り立たせる法をはじめとする、メンバーが守るべき共通ルールが全く存在しない状況を哲学者たちは仮想して、それを「自然状態」と名付けた。自然状態においては人々がルールを守るかどうかを監視し、守らなかった場合に処罰する機関は存在しない。人は自分が生き延びるために他人から強奪し、抵抗されれば攻撃し、逆に強奪された者は自力で取り返す。自分が生き延びるために必要なら、他人を死に追いやっても仕方がない。
「カルネアデスの板」という古代ギリシアに提起された問題はまさにその原型である。船の遭難で大海に投げだされた男が、辛うじて人ひとりが乗ることのできる板を見つけた。彼は助けが来るまで、それに乗って生き延びようとしていた。ところが遅れてもうひとりの男が、その板につかまろうとしてきた。2人目の男がこの板に乗ろうとすれば、1人目の男も共に沈んで死んでしまう。そこで最初の男は、自分が生き延びるために2人目の男を蹴り落とし、溺死させた。国家がある状態では殺人(あるいは緊急避難:現在の危難を避けるためにやむを得ずにした行為)になる行為だが、大海という無法状態で自分が生き延びるためにはやむを得ない。」
「自然状態では、個人は自分が生き延びること、すなわち「自己保存」を図る自然権を行使してよいと論じたのが、17世紀イングランドの哲学者トマス・ホッブズである。彼は自然状態を「万人が万人に対して狼である」状態、つまり各人が他人の敵意に怯え、裏切られ傷つけられ奪われ殺されることを避けようとしている状態であると考えた。それはつまり、自分が生き延びるためには、必要ならば他人を踏み台にしたり、自分に襲いかかる者に反撃し、殺しても構わないということである。戦争のように秩序が失われた状態では、各人が自分の「自己保存」を図るための自然権を行使して構わないというように。
一見するとむちゃくちゃなようだが、緊急時においては合理的なルールになる。たとえば突然の大津波が襲ってきた場合には、沿岸部に住む人々は自分の周辺の幼い子供や高齢者、病人などを助けることなく、とにかくひとりで高台を目指して逃げろというルールが起動する。老若男女誰であろうと、とにかく自分だけが助かることを考えて各自で同じ高台へ逃げるのである。
非情にみえるだろうが、人々が助け合うことで時間をとられているうちにも津波は高速で押し寄せ、多くの被害者を出すのである。自分が助かることだけに各人が専心して、1秒でも早く高い所に逃げた方が結果的に多くの人が助かって、あとで家族らと再会できる。昔から津波の被害を受けてきた東北沿岸部の住人たちが自らの経験に基づいて獲得した知恵であり、「津波てんでんこ」という。これも先ほど述べたトリアージの一例である。」
**(花本 武『ルールはそもそもなんのためにあるのか』書評 より)
*「我々はかなりルールに縛られてます。国民性でしょうか。お上が言うのであれば、と不条理がまかり通ってしまいがち。周囲の目を気にするあまり相互に監視し合う状況も生じやすいですよね。この本はそこに一抹の疑義を呈して、可能性を探る本なのかもしれません。先生はちょっぴりアナーキスト。
「ルールは破るためにある」と言われるように、ルールのキワキワのところからイノベーションが生まれるようなこともあるでしょう。サッカーの1986年メキシコワールドカップを思い出してください。私が最も尊敬し崇めているフットボーラー、故マラドーナ選手率いるアルゼンチン対イングランド戦におけるあのプレイ! 世に言う「神の手」ですよ。サッカーのルールからは逸脱していた。それは間違いない。だけど審判の目は誤魔化せた。で、平然とインタビューで自らそのプレイを「神の手」と名付けた。後悔している様子も反省している素振りも生涯なかった。それはもう清々しいほどに。
ルールは大事です。ルールがあるからスポーツは面白いわけで、みんながみんな「神の手」を使えるわけじゃない(そりゃそうだ)。だけど、ルールの揺らぎはときにスリリングで、スポーツに限らず、恋愛のシーンなんかでもドラマティックな展開は逸脱行為から生まれやすい(よく知らないけど)。平野啓一郎氏の恋愛小説『マチネの終わりに』をご存じでしょうか? 読んでて、おもわず声が出るくらいびっくりするような「すれ違い」が起こります。それが恋敵の仕掛けた意図的な罠でして、どうかんがえてもこれはルール違反だ! とおもわざるをえない展開でした。だけど終盤にかけてグイグイとそれぞれのキャラの人生が変転して、その「すれ違い」への憤りは消化されちゃうんです。
すごい脱線しましたけど、この本を読んで、ルールをかんがえることは、社会のあり方をかんがえることに直結しているとおもいました。もっと言えば、より良い社会を構想し導く手助けにもなるはず! と確信しました。いかにして数々の不条理を失くして、個人個人が幸福を追求できるのか。先生がユーモアを交えておしえてくれます。
露ウ戦争が終着を見通せないなか、中東で新たに巨大な危機的状況が発生しました。いろんなフェーズのルールがあるなかでも国際法なんてのは、最もシビアにシステムとして機能させないといけないものでしょう。が、とうてい機能しているように見えず、戦争犯罪が適切に裁かれる状況は訪れそうにありません。
ルールってそもそもなんのためにあるのか。その問いとの対峙は、数々の重たい社会課題に立ち向かうための予行演習。思考のレパートリーを増やし、柔軟に発想する力を養ってくれるんじゃないでしょうか。」
□住吉雅美『ルールはそもそもなんのためにあるのか』【目次】
はじめに
第1章 ルールは何のために生まれたのか
…さまざまな局面に則して多様なルールが作られた
第2章 ルールとして成り立つ必須条件
…人は自分が損をしてでも公平さを求める
第3章 フェアプレーの精神
…ルールに反してなければいいのか?
第4章 時代に応じて変わるべきルールもある
…いつまで異性同士の結婚にこだわる?
第5章 復讐するは誰にあり?
…世界が滅ぼうとも刑は執行されねばならない
第6章 なぜ人々は立ち止まらないのか
…利己的な人々が自ずと社会秩序を作る
第7章 こんなルールは嫌だ!
…中途半端なルールは混乱を生む
第8章 民主主義は公正じゃない
…多数決は根拠のない偏見までも温存する
○住吉 雅美(すみよし まさみ)
1961年北海道生まれ。北海道大学大学院法学研究科博士後期課程修了。博士(法学)。山形大学人文学部助教授を経て、現在、青山学院大学法学部教授(法哲学)。著書に『哄笑するエゴイスト――マックス・シュティルナーの近代合理主義批判』(風行社)、『あぶない法哲学――常識に盾突く思考のレッスン』(講談社現代新書)がある。
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