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堀江敏幸『バン・マリーへの手紙』

☆mediopos3452  2024.4.30

堀江敏幸に「バン・マリーへの手紙」という
連作のエッセイがある
二〇年前の二〇〇四年四月に「図書」に掲載されはじめ
連載となったものが二〇〇七年に刊行されている

「バン・マリー」は人名ではなく
フランス語で「湯煎(ユセン)」のこと

「鍋で湯を沸かし、中に小さな鍋を浮かべて
ゆるやかな温度で調理したり、
ソースやポタージュを保温したりすること」である

「バン・マリー」の語源は一節によれば
このユセンが考案された一四世紀ごろ
「マリア信仰が盛んで、そのやさしさを
bain「浴、風呂」に例えて
「マリアの風呂=湯で加熱すること」とした」
ことからくるともいわれている

この話は堀江敏幸が子どもの頃印象に残った
給食の牛乳についてのA先生のことからはじまる

A先生は「牛乳は、噛んで飲むものよ」
「牛乳はこのくらいのほうがあまくておいしいわね、
ユセンにしないと出てこない味なのよ」と
「給食のたびにかならずそう繰り返し」ていたという

その後「学生時代のある晩、酒席の与太話ついでに、
先の牛乳にまつわる思い出を披露してみたところ」

「いまだなまぬるい牛乳に執着していることに
心底呆れたふうの友人のひとりが、
だからおまえはいつも
白黒をつけずに平気でいられるんだな、
煮え切らないのがいちばんよくない、きりっと冷えているか、
湯気がほくほく立ったホットにするか、どちらかに
決められないようなやつはろくな人間にならない」
そう説教をはじめた・・・

ヨハネの黙示録にも
「かく熱きにもあらず、冷かにもあらず、
ただ微温(ぬるき)が故に、
我なんぢを我が口より吐き出さん。」
という神の言葉がでてくるというが

その「冷たい・熱いの二分法はたとえ話にすぎない」ものの
堀江氏は「あの酒の席での私には、
そういうたとえ方じたいが気にくわなかった」とし

「熱いものが冷めてぬるくなったのではなく、
はじめが冷たかったものに熱を与えて
そこまで温度をあげていくことがだれの目から見ても
積極的な行為であることはあきらかだし、
微温状態の維持だってかならずしも容易なことではない」
と「バン・マリー」の積極性について語るのだが

重要なのは
「意志的な、積極的な行為であることはたしかでも、
そこに浸されていた時間が、あたたかさが、
変化の過程が原則として不可視のままになり、
生まれ出てきた結果をみないかぎり
なにもわからなくなるような装置を
身体のなかにつくってやらなければならない」
ということだという

そして「慈悲に満ちあふれたマリーの浴槽」に
「すべての事象に適用可能な、
無色透明の濾過層としての役割を与え」るべく
連載は続けられていく・・・

昨今のような慌ただしく激しい世の変化のなかで
みずからを見失いそうなときこそ
白黒を性急につけてしまうようなあり方を避け
じぶんのなかに「バン・マリー」という装置を設けることで
ひとから承認を求めるためのパフォーマンスから離れ
じっくりと時間をかけ不可視のプロセスを経ながら
たいせつなものを育てていく必要があるのだろう

ほんとうにたいせつなものは
「ユセンにしないと出てこない味」なのだから

■堀江敏幸『バン・マリーへの手紙』(岩波書店 2007/5)

*「彼女(A先生)が他の先生とちがっていたのは、給食の牛乳について一家言を持っていたことで、教室でなにを習ったのかきれいさっぱり忘れてしまったいまでも、それだけは頭にしっかり刻まれている。」

*「彼女の思想がもっとも美しく実践されたのは、冬である。寒いときに冷たい牛乳を飲むのはお腹にも悪いし身体が冷えるというので、石油ストーブのうえにのせた湿度保全のための銅メッキのたらいのなかにもうひとつ水を張った鍋を入れて二重底にし、そこに通常の半分のサイズのちびっこい牛乳瓶を、口のところについている青や紫のビニールだけとってずらりとならべる。たらいのお湯に直接入れると熱くなりすぎて飲めないから、こうやってあいだにひとつちいさなプールをつくってあげるのよ、そうすると熱すぎもしないし冷たすぎもしない、春夏とおなじような、自然なあたたかさの牛乳が飲めるでしょう? そんなふうに彼女は言って、給食のときには先生用の机に置いたアルミのプレートからしずかに牛乳瓶をとりあげ、小指を立ててゆっくり中身を流し込むと、こんどは口を閉じた状態であたかもそれが固体であるかのように二度三度「咀嚼」してから、無声映画の女優さながら音も立てずに飲むのである。

 牛乳は、噛んで飲むものよ。いったいどこで習ったのか、彼女は給食のたびにかならずそう繰り返して、子どもたちがごくごく飲み干してしまわないよう監視し、唇のまわりの薄い産毛についた牛乳の膜を、それよりも白いハンカチでぽんぽんとはたいて吸い取り、しかるのちに笑みを浮かべて、ああ、やっぱり牛乳はこのくらいのほうがあまくておいしいわね、ユセンにしないと出てこない味なのよ、と言うのだった。

 子どもも耳にもなぜか印象深く入り込んだこのユセンという言葉が、どうやらL字型に煙突をのばしている石油ストーブのうえでおこなう先生独特のあたため方を意味するらしいことは理解できたのだが、後年、その音を湯煎の二文字に対応させて、「鍋を二重にして内側のほうに材料を入れ、外側の鍋に水を入れて間接的に加熱すること」という定義を知ったとき、牛乳瓶は材料ではないし、内側の鍋にもさらに水が張られているのだから、厳密に言えば湯煎ではなく一種のお燗だったと気づいた。けれども、気づけば気づいたでまた、まわりの人々に同種の経験があるかどうかたしかめてみたくなり、学生時代のある晩、酒席の与太話ついでに、先の牛乳にまつわる思い出を披露してみたところ、アルミの弁当箱をスチームのうえであたためたことはあっても、さすがに牛乳はないなあという意見が大勢を占めた。さらには、私が幼稚園の先生の影響をいい年になるまで引きずっていて、いまだなまぬるい牛乳に執着していることに心底呆れたふうの友人のひとりが、だからおまえはいつも白黒をつけずに平気でいられるんだな、煮え切らないのがいちばんよくない、きりっと冷えているか、湯気がほくほく立ったホットにするか、どちらかに決められないようなやつはろくな人間にならないと、酒まじりとは思えない真剣さで説教をはじめたのである。

 自分自身の行動や性格を冷静に判断すれば、友人の指摘はまことにそのとおりだったし、たかだか牛乳の飲み方ごときで言い争う必要もなかったからべつに反論もしなかったけれど、なんだかしっくりしない思いが胸に残った。たぶん、子ども好奇心を刺激したのが、なまあたたかい牛乳そのものであると同時に、直接鍋に入れて火にかけないという、お湯の緩衝地帯をもうけるあの石油ストーブ上で公開された秘蹟でもあったからだろう。外側のたらいにはぶくぶく気泡がわきあがっていかにも熱そうなのに、まんなかに沈められた小鍋の水は湯気を立てるか立てないかの微妙な温度を保ち、牛乳瓶らにやさしい半身浴の機会を提供していた。あんなふうに、なにかの生成過程でワンクッション置いてみるという発想はなかなかできないもので、いつのまにか私は、そこにきちんとした思考の跡を見たいと考えるようになっていった。」

*「給食の冷たい牛乳を子どもたちの口にあうようあたたかくあまい飲みものに変容させてくれた湯煎のことを、もしくは湯煎鍋じたいのことを、フランス語で「バン・マリー」bain-marie という。浴槽、お風呂を意味する「バン」はごく基本的な単語だから、初級文法の例文を読んでいるとき仏和辞典で引いたのだと思うが、その下につづいている単語のなかに、高貴にも卑賤にもなる女性名「マリー」と「浴槽」のむすびついた事例を見出し、さらにその定義を読んでおおいに感動したことをよく覚えている。(・・・)白水社の『フランス 食の事典』の表記にしたがえば音引きにはならないのだが、その定義を以下に引いておこう。

   鍋で湯を沸かし、中に小さな鍋を浮かべてゆるやかな温度で調理したり、ソースやポタージュを保温したりすること。この技術を考案した一四世紀ごろはマリア信仰が盛んで、そのやさしさをbain「浴、風呂」に例えて「マリアの風呂=湯で加熱すること」としたのがバン・マリの語源であるとされるが、ラテン語balneum maris「海水浴」であるという説もある。数百度になる直火や鉄板レンジでは火力が強すぎてしまうスクランブルエッグやブール・ブランなどの調理に用いる。」

「問題は湯煎のなんたるかではなく、語源のほうだ。右の事典の懇切な説明にもかかわらず、なぜバン・マリーと呼ばれるようになったかについては諸説あって、たとえば『プチ・ロベール』には、「モーセの姉ミリアムに由来する」とされているのに対し、『小学館グラン・ロベール』は、化学用語としてのバン・マリーの項で、この名称が「伝説上の錬金術師ユダヤ人、マリー」に由来するとし、「モーセの妹Miriamと同一視されることがある。後に聖母マリアと混同されたこともある」との但し書きをつけている。

*「思い出されるのが、当時話題になったF・コッポラの映画のタイトルにつられて、『新約聖書』の「ヨハネの黙示録」を読んでいたときに出会った、つぎのような一節だ。

   アァメンたる者、忠實なる眞なる証人、神の造り給ふものの本源たる者かく言ふ、われ汝の行為を知る、なんぢは冷かにもあらず熱きにもあらず、我は寧ろ汝が冷かならんか、熱からんかを願ふ。かく熱きにもあらず、冷かにもあらず、ただ微温(ぬるき)が故に、我なんぢを我が口より吐き出さん。(日本聖書協会・文語版、第三章)

 衝撃を受けたのは、もちろん最後の一文である。冷たいか熱いか、どちらかに態度を決定しない微温状態でいるような輩は口から吐き出してやると、おそれ多くも神さまがそうおっしゃるのだ。友人が聖書を読み込んで「黙示録」をさりげなく引いていたのはとても考えられないがともかく神が宣うのであれば。わが幼稚園のA先生が子どもたちのためばかりでなく自身の幸せのために示してくださったあのなまあたたかい湯煎による「微温」状態の牛乳は、みごと吐き出されてしまうのだろう。要するに、牛乳はたんなる飲料ではなく、行為そのものなのである。そして、行為としては、よけいなものを表に出さない戦闘的な微温状態なのだ。

 もちろん先の引用(・・・)、冷たい・熱いの二分法はたとえ話にすぎない。だが、あの酒の席での私には、そういうたとえ方じたいが気にくわなかったのだ。熱いものが冷めてぬるくなったのではなく、はじめが冷たかったものに熱を与えてそこまで温度をあげていくことがだれの目から見ても積極的な行為であることはあきらかだし、微温状態の維持だってかならずしも容易なことではないのだから。」

*「ここで重要なのは、バン・マリーを通過したかどうかを、外に見せてはならないという点だ。意志的な、積極的な行為であることはたしかでも、そこに浸されていた時間が、あたたかさが、変化の過程が原則として不可視のままになり、生まれ出てきた結果をみないかぎりなにもわからなくなるような装置を身体のなかにつくってやらなければならない。そのために、慈悲に満ちあふれたマリーの浴槽を調理の枠から引き出し、錬金術のものものしさをも取り払って、すべての事象に適用可能な、無色透明の濾過層としての役割を与えてみたいのである。それがあまりに抽象的だと言うなら、バン・マリーという名の、たとえば牛乳を小指を立てて飲むような女性を想像してもいい。彼女なら、「かく熱きにもあらず、冷かにもあえあず、ただ微温が故に、我なんぢを我が口より吐き出さん」などと切り捨てたりせず、私の思いあがりをやさしくただし、欠けた部分をおだやかに補ってくれるだろう。まだ見ぬ聖女バン・マリーにむけた手紙のように、これから日々の愚行を湯煎にかけていくことにしたい。」

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