中沢新一『構造の奥 レヴィ=ストロース論』/『対称性人類学(カイエ・ソバージュⅤ)』/『緑の資本論』
☆mediopos3564(2024.8.22)
中沢新一の「対称性人類学」は
レヴィ=ストロースの構造主義から
さまざまに影響を受け展開されている
それは分裂してしまっている
「人間と自然の再統合という構造主義の夢」の
実現に向けられている
その夢の実現のためには
「その基礎に対称性の原理を据える必要がある」
というのである
その「対称性」を表しているのが
「互酬性の理論」である
そこには「構造の奥」があり
私たちが「未来」へ向けて
見つけ出さなければならない
レヴィ=ストロースのいう「隠れた輪」がある
三次元空間において私たちが見出している
「二元論的構造」より高次元の
「三元論的構造」を見出すためには
トポロジーで表現される「二元論的構造」としての
表と裏が分離されている球面またはトーラスの視点に
「裏と表を「媒介して」つなぐ第三項」によって
「切れ目を入れた表面で向かい合っている辺をねじって、
自己交叉を起こさせ」る
「射影平面」と「クライン管」の構造をつくらなければならない
レヴィ=ストロースが神話における「隠れた輪」を
見出そうとしたのは
神話はクライン管の構造をしているからである
そうした「隠れた輪」を利用して
「神話は複雑な変換をやすやすとこなしていく」
「二元論的構造では起こり得なかった価値転換が、
三元論的構造の上ではやすやすと実現されていくのである」
神話だけではなく
「精神分析学も射影平面やクライン管のイメージを利用して、
心の解明をおこなってきた」
「贈与」においても
「三元論的トポロジーの介入」が起こっていて
そこには二元論的構造では矛盾でしかない
「別のはるかに複雑な構造」をした「構造の奥」において
無意識的な対称性の原理が働いている
『対称性人類学』において中沢新一は
「対称性無意識とは、私たちの「心」の働きを生み出している
「自然」」にほかならないと述べている
そしてその前の著作『緑の資本論』において
「モノとの新しい同盟関係の創造が、いまこそ求められている。」
と精神と物質の分裂を根源的な「モノ」を
見直すことがすでに示唆されていた
ここからは中沢新一の議論からを踏み越えることになるが
おそらく『構造の奥』にあるのは
仏教でいう「縁起」と神秘学的なカルマ論とが交叉する
「別のはるかに複雑な構造」ではないか
それは「与えるものが与えられる」原理が
物質・エーテル体・アストラル体・自我といった構造において
交差し「縁起」しながら展開されている現象ではないかと
私たちは地上的な物質世界におけるあらわれを
「二元論的構造」としてしかとらえることができず
さまざまな矛盾を抱えながら生きているが
そこにあらわれているのはより高次元の「三元論的構造」
さらにはそれより高次の諸構造からの「射影」であり
さまざまなかたちにおける「構造の奥」を見出すためには
それに応じた認識が求められるということにほかならない
「人間と自然の再統合という構造主義の夢」は
あらゆる諸存在における宇宙進化の夢としても
さらに展開されていく必要があるのではないか
■中沢新一『構造の奥 レヴィ=ストロース論』(講談社選書メチエ 2024/4)
■中沢新一『対称性人類学(カイエ・ソバージュⅤ)』(講談社選書メチエ 2004/2)
■中沢新一『緑の資本論』(集英社 2002/5)
**(中沢新一『構造の奥 レヴィ=ストロース論』〜「第三章 構造の奥」より)
*「人間をめぐるさまざまな科学の中でも、互酬性の理論こそは、対称性と記憶の原理の根本的な結合を明らかに示しているものにほかならない。それは物質界を支配している原理と心的構造の原理の両方で、きわめてよく似た、強力な働きをおこなっている。二つの原理をつないでいるまだ見い出されていない「隠れた輪(リング)」は確実に存在している。レヴィ=ストロースの示した重力理論と互酬性の理論との興味深い並行関係には、おそらくこの「隠れた輪」の働きが関与しているに違いない。
互酬性はまた社会の起源にも深く関係している。人間の心に互酬性の原理が生まれていることによって、人と人の結びつき、すなわち社会なるものがつくられるのだ。そこには生命過程と物質過程の根本をなしている、対称性の原理が大きな働きをしている。
つぎのように書くとき、レヴィ=ストロースはこのような「隠れた輪」のことを考えている。
構造主義は人間科学に、それが以前にもっていた主張とは比べられないほどに強力な認識論的モデルを与えることになる。構造主義は、物事の背後に、知識のまなざしのもとに平板化され秩序なく散乱した事象の単なる記述が表しえないようなまとまった統一性を発見するのである・・・・・・究極的な正確は依然として理解できないかもしれないが、この一時的あるいは決定的な不透明さは、以前のようにその現象の解釈の妨げとはならなくなることをしめし、確認する・・・・・・構造主義は人間を自然に再統合する。
人間と自然の再統合という構造主義の夢が実現されるためには。その基礎に対称性の原理を据える必要がある。自然現象の奥に、自然科学者は多様な形態をとり対称性の原理を見出してきたが、人間科学もその範にしたがって、互酬性の原理の上に立つ「全体的社会事象」の中に、同じ「対称性」の名前で呼ばれる一原理を据えるとき、これまで見えてこなかった新しい統一性があらわれてくる。そのときいままで言語学のモデルをとおして理解されてきた事柄の多くが、別の相貌を見せるようになるだろう。対称性の原理とは、構造の奥であり、未来なのである。」
*「二元論的構造(双分制)は、トポロジーで表現すると、球面またはトーラスに対応している。この構造では表と裏が分離されているため、通り抜けができず裏が表に変わることはありえないから、各表面では「方向づけ」ができる。
どこかに切り口を入れても、向かい合った頂点を自然な形で貼り合わせて同一視すればできる図形なので、裏と表がねじれてつながったりしないのである。しかしそこに、裏と表を「媒介して」つなぐ第三項があらわれると、三元論的構造に移行できるようになる。
裏と表をつないで一つの表面にするには、切れ目を入れた表面で向かい合っている辺をねじって、自己交叉を起こさせることが必要である。そこでつくられるのが、三元論的構造に対応する「射影平面」と「クライン管」の構造である。
このトポロジーにはねじれが含まれていて、これを三次元空間で実現するにはどうしても平面に傷をつけなければならない。これによって、表と裏はひとつながりになって、「方向づけ」ができなくなる。つまり三元論的構造では事象をはっきりと白と黒に分離できなくなり(非分離)、両義性(あいまい性)の領域が発生することになる。
射影平面やクライン管の構造をした三元論的構造のほうが、より対称性が高いからである(表と裏の見分けがつかない)。この意味で、二元論的構造よりも三元論的構造のほうが、より根源的であると言える。それというのも三元論的構造を二元論的構造に移行させるのは簡単だが、逆をおこなうためには、表面に自己交叉の傷をつけなければならないからである。二元論的構造があるところには、かならずその奥に三元論的構造が隠れている。二元論的構造では心の表面のことしか表現できないので、人間は三元論的構造に触れて変容した文化の諸形態をつくって、魂の希求に応えようとしてきたのである。レヴィ=ストロースが「双分組織は実在するか?」で示したように、人間の文化はこの二つのトポロジーの間を行ったり来たりできる、さまざまな表現を生み出してきた。
そうした表現の機構について、私は『対称性人類学』という著作で、多くの実例をあげて、詳しい説明をしておいた。
たとえば、神話はクライン管の構造をしている。そのことを利用して、神話は複雑な変換をやすやすとこなしていくのだ。内側と外側、表と裏をひっくり返していくクライン管の構造を使った。神話は話の発端部にあった状況にねじれを加えて、万事の価値が反転していく集結部をつくりだしていくのだ。このことを彼の「神話の公式」は表現しようとしている。状況にねじれを加えて、価値や機能の反転を起こさせるのだ。
このクライン管のねじれ構造がなければ、物語は球面あるいはトーラスの上で飛躍も矛盾もなく、穏やかに進行していくことになるだろうが、それではただの言説である。神話はねじれをつくりだすこの構造を用いて、世界の様態を一転させていく。つまり、二元論的構造では起こり得なかった価値転換が、三元論的構造の上ではやすやすと実現されていくのである。
精神分析学も射影平面やクライン管のイメージを利用して、心の解明をおこなってきた。」
「贈与の現場でも、三元論的トポロジーの介入が起こっている。ここでは対称性の原理は、まず「贈り物」という物質材を介して、現実世界に顕在化する。それがパートナーとなるべき相手に受け取られたとき、対称性の原理は同じ価値をもった品物を「お返し」として、最初の送り主へと送る。この品物どうしの交換が、主体間に(見かけ上の)お互いを引きつけ合う「力」を発生させたように思われる。」
「こうした理論や表現によって表象可能なトポロジーのさらに奥に、「別のはるかに複雑な構造」をした「構造の奥」たる互酬性の本性は潜んでいるのである。それは高次元な対称性としてできた実体であり、そこに含まれる対称性が破れていくことによって、三元論的構造が生まれ、さらにそこから二元論的構造が生まれ出て、現実の社会をつくりなす諸機関が形成されていく。構造の奥にあるもの、それは対称性の原理そのものである。重力理論におけるアインシュタインの相対性理論に照応する互酬性の理論は、こうして物質界のものと同じ「対称性」の概念に基礎付けられることになる。」
**(中沢新一『対称性人類学』〜「終章 形而上学革命への道案内」より)
*「神話的思考に見い出された対称性の見いだされた対称性の論理は、じつは無意識のおこなう作動から生み出されたものであり、その無意識はホモサピエンスの「心」の基体をなすものとして、どのような抑圧や情報化の操作や非対照的論理による組み換えが加え続けられようとも、人類の「心」の中で不変の作動を続けています。そのため、この無意識のおこなう対称性=高次元性=流動性=無限性をひめた潜在能力は、たしかに形而上学化された世界の中で自由な活動を奪われているようにも見えるけれども、それがひめもつ潜在的な能力を豊かに発達させていく可能性は、少しも損傷を受けていないのです。
しかも仏教の例をみてもわかるように、対称性無意識の働きを抑圧したり、形而上学化することなしに、その能力を全面的に発達させていくことのできる文明を構想することは、けっしてユートピア的な夢想なのではありません。ホモサピエンスとしての私たちの「心」
の基体は、すべてのものを商品化していく資本主義によっても、無意識の大規模な抑圧の上に建築されたキリスト教的一神論によっても、満足を得ることがありません。「心」の基体である対称性無意識は、形而上学化された世界をつくりあげているあらゆる組織体を動揺させながら、いつしかそれを別のものに変容させてしまおうと、いまも活動を続けているのです。
対称性無意識とは、私たちの「心」の働きを生み出している「自然」にほかなりません。形而上学化された世界をもう一度、対称性無意識の働きによって「自然化」する必要があるのです。「自然」を抑圧した一神教の神をふたたび「自然」に接合していくとき、新しい「神即自然」というスピノザ的な概念が、生き生きとよみがえってくるでしょう。そのとき、人間は自分たちに最初の飛躍をもたらしたのと同じ流動的知性の力によって、未知の形而上学革命を実現していくことでしょう。対称性人類学は、そのような形而上学革命の出産を助ける者でありたいと願うのです。」
**(中沢新一『緑の資本論』〜「モノとの同盟」より)
*「モノとはなにか。モノとはなにか。現代でもっとも重要な問いのひとつが、そこにある。二十世紀をとおして、はじめは少しずつ、あとのほうになると滝を落下するようなスピードで、生きた人間がモノになろうとするプロセスが進行し、それと歩調をあわせるようにして、モノを生きた存在として取り扱うことを、「ヒト」はしだいに受け入れるようになってきている。臓器移植や遺伝子技術を利用した医学の発達が、ますますその傾向を加速している。生命はしだいに、複製可能な商品物として取り扱われるようになっているし、もしも、現代の多くの生物学者たちが主張するように、人間の固有性というものが、ゲノムの配列に還元されるものであるならば、いったいモノとヒトとの間には、どのような差異があるというのだろう。
私たちのかかえる最大の問題とは、モノなのである。しかし、そもそもいったいモノとはなにか。この日本語のことばが意味するものは、じつに広大で深い。」
*「日本語の深みのなかで、「存在(ある)」という概念を探っていくと、「モノ」にたどり着いていくのである。」
「このとき「モノ」は、三つの仕方でこの「ある」の事態にかかわっている。まずそれはタマ=霊力の強度を包み込み収める容器のことを指している。ない法的な強度を収める容器のことは、象徴といってもいいから、このモノは象徴の形態面をあらわしていて、その内容がタマなのである。
つぎにモノは、物部氏の技芸のことやタマ増殖の儀礼である「冬(ふゆ=ふえる)」のことを考えてみてもわかるように、内包空間で充実しきったタマの霊力を、外の世界に引き出したり、人体に付着させてその人の威力としたりするさいに、霊力の引き出しや付着を媒介する道具として用いられるもののことでもある。このとき、モノはみずからダイナミックな変転をはらんだひとつの運動を誘引するために、横断的な運動体そのものを化している。つまりここでモノは技術の本質を指ししめしている。
三つ目にモノは、「ある」がはらんでいる否定性を受けれるために用意された、記号的な容器にもなっている。純粋な肯定性であるタマは、成長して内包空間を出るのであるが、外気に触れた瞬間に、そこには避けがたい衰え(ケ)が発生する。タマ=霊力はそのときから善悪の価値をになった二元論の世界に踏み込んでいく。否定性と不調和が、円満完全なタマの働きに陰りをもたらすのだ。それをモノが引き受けるのである(モノノケ)。このようなモノに変質をとげたタマは、陰陽師などの芸人のモノ(道具)によって操作されることもおこるようになる。」
*「タマ-モノについても(・・・)、古典や民俗のなかで、タマは多産性の原理のことをあらわしていたが、人類学者によって記録されたハウの現実的な用例に照らし合わせてみると、この多産性のもたらす「儲け」の部分が、のちに幸福をも意味するようになった「さち」に相当していることになるだろう。このことばに、神道の言霊家や民俗学者にはよく知られている語源的(言霊的)な分析をほどこすと、それは「さ」音と「ち」音に分解される。「ち」は広く霊的な威力を表現することばである。ところが、「さ」のほうは、先端、岬、分岐点、頭部など、ものごといっさいの先端部分にかかわっていることが、知られているのだ。
文字通り、「さち」とは「資本(capital)」のことを意味しているのである。西洋古典学者オニアンスによれば、資本の語源はラテン語caputであるが、このことばは利子によって増えていく金銭をあrわすと同時に、人間の頭部や地理でいう岬の突端部などをあらわしていたことばだった。」
「「ある」ものの世界では、いっさいの増殖はものごとの先端部分でおこるのであるから、利子によって金銭が増えていくときも、貨幣の頭つまりキャピタルの部分で増殖がおこるという思考法は、じつに道理にかなったものだと言える。(・・・)増殖の現実は、同一性なるものからの「越え出し、溢れ出し、過剰」などから生まれるものであるから、それを扱う論理としては、ギリシアの合理的な哲学では手にあまる。それを取り扱える論理こそ、じつはキリスト教の三位一体論の構造であったのだ。三位一体論では、深遠んる同一性の場所(御父)から、同質の「御子」が生まれたという信仰上の事実を、聖霊の働きを仲立ちとする、精妙な(パラドックス)論理によって説明することができた。」
「資本主義は、同一性と増殖性との複雑な結合からできあがっているシステムである。その社会は、あらゆるものの商品化を押し進めようとするから、すべてのものごとを等価交換の原理のもとに従わせようと強制する。そのために、徹底した合理化が、人々の暮らしのすみずみにまで浸透していくことが、さまざまな方法を通してゆきわたっていくことになる。」
*「森のハウは人々に富をもたらし、タマの活動の先端部(そこでタマは身体性の容器であるモノに変容をとげた)では「さち」があらわれた。ところが、資本の生み出す「幸福」とは、ハウやタマや聖霊の亡骸を堆積した、みかけの増殖のうえになりたった幻想なのである。そこには「さち」にはあったようなリアルは最早ない。キリスト教の三位一体論は、資本の出現を準備した。しかし、それが出現してしまったあとでは、古代的な豊穣さを抱えたまま、三位一体論そのものが沈黙のなかに没していくのである。」
*「そこで、モノとの同盟が必要だ。」
「モノとの新しい同盟関係の創造が、いまこそ求められている。モノは理性(ことわり)の敵などではないし、ましてや精神に対立する物質性の体現者でもない。モノは瞑く暗い光の中から生まれて、ものごとに「ことわり」をもたらすアレーテイアの明るい光の世界に向かっていったかと思うと、踵を返して、ふたたび瞑い光の奥に引きこもっていこうとする。」
「変わってしまったのはピュシスのほうではなく、人間のほうだったのではないか。それなのに、まるでピュシスが自分の内部にはらんでいた命運(挑発的なテクネーへと必然的に向かっていくという)にしたがって、人間の命運も決定づけられてしまったような言い方がされている。おそらく、モノにもピュシスにも、決定づけられた命運などというものは、もともとないのである。
この同盟関係の樹立にさいしては、「技術」というものが大きな意味を持つであろう。」