角 悠介『ロマニ・コード/謎の民族「ロマ」をめぐる冒険』
☆mediopos2873 2022.9.29
ロマの言語「ロマニ語」を専門とする角悠介による
ルーマニアを拠点にして
ロマニ語話者に教えを乞いながら
「ロマ」をめぐる冒険をする話
ベラルーシで「ジプシー・ショー」の
ギター演奏をしているイヴァンのロマ語方言世界では
「明日」と「昨日」も同じ「タスャ」
「さきほど」と「のちほど」も同じ「ハラ」
過去・未来にかかわらず
「今」から同じだけ離れた時間帯が同じ単語で表現される
すべてのロマ語がそうだというわけではないようだが
この時間感覚は「今の今を生きる」という
ロマ特有の世界観を象徴しているようだ
ロマニ語の辞書には
「危険な」という形容詞が載っていないとのことだが
「対象がどうかではなく、
対象に対して自分がどう感じるかが重要」なので
表現することはできても
それは「ロマニ語らしくない」と感じるのだという
またロマに「ご職業は?」と尋ねると
具体的な職業名では答えず
「〜を作っている」や「歌っている」というように
動詞で答えることが多いが
ロマにとって重要なのは
「何者でいるか」よりも「何をしているか」であって
「定義された世界」を生きてはいないからだ
ロマの「プロフィール欄」には空白が多いというが
「定義」されたかたちで
みずからのアイデンティティを示す必要がないからだろう
「誰からどんな名前を呼ばれようと、
「自分は自分、ロマはロマ」に決まっている」
言語学者が記録した角悠介の「ロマニ・コード」は
「毎日笑え、泣け、話せ、愛せ、怒れ、歌え、踊れ」である
そして「ロマの大半は特に何も考えていない」
「毎日激しく生き、死んだように眠る」
「死んだように眠ったら、生き返ったように目覚める」
管理社会化が進行し
ルールや境界にがんじがらめになり
ますます息苦しくなりながら
みずからを「定義」しないではいられない病に
慢性的に冒されている現代人にとって
ロマというボーダーレスな存在は大きなアンチテーゼでもある
いやアンチテーゼであるというような「定義」は余計だ
「定義」から自由になって生きることの可能性を問うのがいい
いろんな肩書きで埋め尽くし
権威づけるような「自分は○○」は不用だ
プロフィールは「自分は自分」だけでいい
■角 悠介『ロマニ・コード/謎の民族「ロマ」をめぐる冒険』
(夜間飛行 2022/9)
(「まえがき/言語学者とロマ民族のアカデコミックな現場」より)
「ロマに限らず、人は皆本来「明日をも知れぬ身」なのである。
しかし我々は、明日を知らぬとも今日という日を知っている。だから同じことの繰り返しのように見える毎日を異なる一日として迎え、日々学び、そして人との出会いを「次はなし」と覚悟して臨むべきなのだ。
そして私は知っている。ロマの大半は特に何も考えていないことを。
彼らは毎日激しく生き、死んだように眠る。
死んだように眠ったら、生き返ったように目覚める。
だから毎日笑え、泣け、話せ、愛せ、怒れ、歌え、踊れ!
これが言語学者が記録した「ロマニ・コード」である。」
(「まえがき/ようこそ、アカデコミックな世界へ」より)
「私の専門はロマの言語「ロマニ語」の研究である。
私は、世界でもっともロマニ語話者の人口が多いルーマニアを拠点にして、ロマニ語話者あるところどこへでも行き、誰からも平等に教えを乞う。
思い出話も、愛のささやきも、脅迫も真っ赤な嘘も、それがロマニ語で語られるのであれば私にとってすべて平等の価値を持つ。」
(「まだまだ本編が始まらない 第2章」〜「「昨日」と「明日」は同じ?」より)
「その日、私はイヴァンに使用頻度の高い単語の聞き取りをしていた。
「『明日』はロマニ語で何と言うか」とベラルーシ語交じりのロシア語で聞いた。
「タスャ」
(…)
「では、『昨日』は?」
「タスャ」
待て待て、「タスャ」は「明日」ではなかったか?
私はイヴァンにもう一度確認したが、やはり「昨日」も「タスャ」らしい。
そう、不思議なことに彼のロマ語方言世界では「明日」と「昨日」は同一の概念であり、どちらも「タスャ」で表されるのである。
これだけではない。イヴァンの方言では、「さきほど」と「のちほど」も「ハラ」という語彙で示されるのだ。
過去・未来に拘わらず、「今」から同じだけ離れた時間帯を同一の単語で表現するというには非常に興味深い。「今の今を生きる」という彼らの哲学を反映しているのだろうか。
おもしろいことに、インドで話されている「ヒンディー語」でも「明日」と「昨日」は単一の単語で示されるらしい。
だが、すべてのロマが、イヴァンや「ヒンディー語話者」と同じ時間感覚を持っているわけではない、他のロマ語方言では「昨日」と「明日」に異なる語彙が用いられる。
余談になるが、昔「危険な」という形容詞がロマニ語の辞書に載っていなかったので、ゾリに尋ねたことがあった。ゾリは少し考えて「こわいよ〜!」と言った。対象がどうかではなく、対象に対して自分がどう感じるかが重要なのだ。ロマニ語で「危険な」という形容詞を表現できないことはない。しかし、それをロマは「ロマニ語らしくない」と感じるのである。
言語には民族の生活や文化、そして「物事の捉え方」が強く反映される。さまざまな言語を学びかじってきたが、特にロマニ語の場合、他のヨーロッパ言語からの直訳が難しい状況が多い。
イヴァンのロマニ語は多くの外来語に頼っており、やや語彙に乏しい印象があるが、放浪ロマ独特の世界観は非常によく保たれている。
例えば「『ドイツに行く』はなんというか」とイヴァンに聞けば、「『ドイツ人たちのもとへ行く』」と答える。何百年も放浪生活を送ってきたロマに国境などない。そこにドイツ人がいるから行くのだ。
では、もしドイツ人がいなければ、そこには何があるのだろうか。
正解は「野原」とか「森」とか「道」の類である。「国」は彼らにとって「青春」と同じくくらい抽象的な概念なのである。
「『朝ご飯』は?」と尋ねれば、「テントを張って寝て起きて、近くの村に仕事に行くなり恵んでもらうなりして、そこではじめて食事にありつけるのだから、『朝ご飯』だ『昼ご飯だなどという単語がない。腹が減ったから食う。食えたら食う、あるのは『食事』という単語だけだ」と返される。
彼らには生物としての人間の感覚がしっかり残っていて。それが言語に反映されている。
私は最初、ロマノ感覚が特殊なのかと思ったが、よく考えるとおなしいのは自分の方であった。いつからか○時を「明日」になると決めつけ、国境をまたぐと別世界になると思い込み、定期的にも食事をとるようになったのか。
また、ロマに「ご職業は?」と尋ねると、「〜屋です」ではなく「〜を作っている」や「歌っている」というように、動詞で答えることが多い。彼らにとって重要なのは「何者でいるか」よりも「何をしているか」である。
私はずっと「定義された世界」を生きてきた。
それは一種の「仮想世界」であり、彼らが生きる「実世界」とは異なるものであった。
成績だとか肩書きだとか、見えないものに一喜一憂する我々の姿は、彼らの目にはさぞ滑稽に映っているのだろう。
このように、我々と大きく異なる感覚を持ち、異なる世界感で生きる人間は、ジャングルの奥地や孤島や砂漠を探せばいくらでもいるだろう。
しかし、ロマの面白いところは、そんな遠い所でなく、彼らがしれっと他の民俗の間で生活しているところにある。ロマはそれぞれが住む国や地域の言葉を話し、さも同じような感覚を持っているかのようにふるまっているが、実は己の感覚でまったく違う世界を生きている。家や国を基軸に生活する我々の間で、ロマは地球のど真ん中に中心軸を隠してボーダーレスに生きているのだ。
かつて、物心ついたときにはどこかで馬車に揺られていた放浪ロマ。
旅の始まりも、終着点も、独自の国籍もない。
彼らの「プロフィール欄」には空白が多い。しかし、たくさんの言葉で定義されなくても、今ここに身体がある。自分を感じる。そして、「感覚」に従い「定義」に振り回されない彼らのアイデンティティは決して揺らぐことはない。
誰からどんな名前を呼ばれようと、「自分は自分、ロマはロマ」に決まっている。
そんな彼らは自分を見失わない。いや、むしろ、「自分を見失えない」のである。
「放浪の民」にとっては「自分探しの旅」など世迷い言であり、正気の沙汰ではないだろう。」
◎目次
まえがきーー言語学者とロマ民族のアカデコミックな現場
ようこそ、アカデコミックな世界へ
●まえがきの続きのような 第1章
インドよりさらに東から来た男
千夜一夜自己語り/ルーマニア留学のススメ/「ロマ」、「ツィガン」、「ジプシー」/「ロマ」と「ガヂェ」/「ロマ学」と「ジプシー学」/触れてはならぬ者/栄養不足の先生/誕生日と悲痛な一言/「黄金の手」と呼ばれる男/ロマニ語の父/「あんたのブリバシャは誰だい?」…etc.
●まだまだ本編が始まらない 第2章
ロマは自分を見失えない
べラルーシのちっちゃいおっさん/「昨日」と「明日」は同じ?
●いよいよ本編 ! ? らしき第 3章
あれもロマ、これもロマ
ロマとトランシルバニア
ドラキュラ伯爵/大人の隠れ家
ロマと食
箸もフォークも使わない/ハリネズミを食べ……るない! /「清浄」と「不浄」
ロマと住まい
やっぱりお家がいちばん! /パイプの人/テントという「寝間着」に包まれて/そびえ立つ富の象徴「ロマ御殿」
ロマと病
所詮都会のもやしっ子/九つの病魔
ロマと魔術
文学少年のほうがモテる/カエルと郷愁/翌朝、ミハイは死体で発見されたetc.
ロマと司法
王様と寄り合い/望むところで切るがい/ロマは隣人の一人
ロマと差別
半非ロマ/絶対に触れてはいけない話題/凍りついた教室で
ロマと犬
檻の中のジプシー/犬派? 猫派?/忠実な怪物「犬男」/ロマニ語がわかる犬 etc.
ロマと秘密諜報員
トリップする女と男/「六階」の記憶/開かない正門
ロマと酒
「どのように生きているか?」/大怪獣サマゴン/酒とバーニャと湖の夢etc.
ロマと戦争
馬車から戦車へ/撃たれてみるのが一番だ/空爆の記憶/老兵は死なず
ロマと奇談
トランシルバニアの呪われた森/災いをもたらす「ムロ」
ロマと先生
インド人の死因/離婚すべきか/神さまに喜ばれる人/まるで、そして物乞いetc.
ロマと踊り
私がもっともふさわしい/ロマの武術/血で踊るのだetc.
ロマと冬
スニェグーラチカ(雪娘)への手紙/ベシペンにいた男/聞き取れない祈り/大怪獣サマゴンの逆襲
ロマと新天地
あなたがもしドイツへ来たら/待っていた暴力/聞き取れない祈り/優しいピエロ/悲しい現実etc.
あとがき
これで最後のあとがき――最終試験