
田村正資「あいまいな世界の愛し方 2.ひとつの世界に住まうこと」(『群像2025年2月号』)/浦沢直樹『MONSTER』/サン=テグジュペリ『ある人質への手紙』/メルロ=ポンティ(中島盛夫訳)『知覚の現象学』
☆mediopos3702(2025.1.7.)
『群像2025年2月号』から始まった
現象学(メルロ゠ポンティ)と
知覚の哲学を専門としている哲学者
田村正資による連載「あいまいな世界の愛し方」
第2回目は「2.ひとつの世界に住まうこと」
(第1回はmediopos3683/2024.12.19.)
記事は浦沢直樹『MONSTER』から
引退したプロの暗殺者・ロッソの
エピソードからはじまっている
暗殺者ロッソはスナイパーライフルのスコープのなかで
「どこの誰かも分からないその対象」が
コーヒーに砂糖を入れ始める様子を眺め
「五回目に砂糖を掬ったとき、ロッソの口のなかに
いつも飲んでいるコーヒーの味がじんわりと広が」り
「生業としていた殺し」をやめる
「そのとき、殺害する「対象」であったはずの誰かは、
殺すことのできない「他者」になった」のである
それまで「「モノ」だったり「他人」だったりしたものが
「他者」になる」そんな瞬間がある
サン=テグジュペリのエピソードも紹介されている
これは「「殺される側」から覗き込むような例」である
内戦渦中のスペインにジャーナリストとして赴いていたとき
無政府主義者の民兵によって不審な人物として捕らえられ
「単なるモノ」として扱われ処刑されようとしているうち
たばこを切らしていたサン=テグジュペリが
言葉も通じない見はりの兵士に
「身振りでたばこをくれないかと訴えて、
ささやかにほほえんだ」ときその兵士にとって
サン=テグジュペリは「ひとりの他者」となった
「それまで言葉も通じなかった匿名の誰かと誰かが、
たばこの火に照らされて、
同じ世界の住人であることが明らかになった」
「私たちは自らの身体によって世界に住み着いており、
その身体を共振させるものもまた、
同じ世界に住み着いているはずだ。
そのような身体間の出来事が、
「傷つけるな」というメッセージを引き出した。」
そこではコーヒーやたばこといった文化的な道具たちが
他者が他者として認知されるために働いたのだといえる
なぜ「道具」なのか
人と対するとき
その人がただ「対象」でしかないことがあるが
「道具」によって「私の世界のなかに
他者を導き入れることができ」ることもある
「それを私も使うことができる」・・・と
「他者の痕跡を留める道具を
私も使うことができるからだ」
私が使うことのできるものを使っている誰かは
すでにただの「対象」ではなくなっているのだ
重要なのは「私と同じように」ということだろう
じぶんも使っている「道具」は
その「同じように」によって
「私と同じ「ひとつ」の世界に住んでいること」を
身体において共振させてくれる
「身体において」というのは重要である
「同じ「ひとつ」の世界」に
同じ「道具」を使っている「他者」とともに住んでいる・・・
この地上に生まれてくるということは
まさにそのことを通じてしか得られないものを
得るためではないだろうか
そんなことを思う
おそらく「倫理」というのは
そのことと深く関わっている
誰かを「傷つけるな」というメッセージも
そうした「ひとつの世界に住ま」い
身体をもっている「他者」の存在を
みずからの身体の内側から呼び起こすことで
聞こえてくるからである
■田村正資「あいまいな世界の愛し方 2.ひとつの世界に住まうこと」
(『群像2025年2月号』)
■浦沢直樹『MONSTER』 (ビッグコミックス)
■サン=テグジュペリ『ある人質への手紙―戦時の記録〈2〉』(みすず書房 2001/3)
■モーリス メルロ=ポンティ(中島盛夫訳)『知覚の現象学』(法政大学出版局 2015/12)
**(田村正資「あいまいな世界の愛し方 2.ひとつの世界に住まうこと」)
*「真っ昼間のカフェだった。
何人目になるか知らないどこかの誰かさんに、俺は照準を合わせたんだ。その誰かさんはコーヒーを頼んでいた。
そして、砂糖を入れ始めたんだ。一杯、二杯、三杯、四杯・・・・・・。その五杯目の砂糖を入れたところで、俺がいつも飲んでいるコーヒーの味が口の中に広がったんだ。
誰かさんはそれを美味そうに飲みやがった。
それで俺は銃を下ろした。
浦沢直樹『MONSTER』
冒頭に引いたのは、浦沢直樹のマンガ『MONSTER』に登場する引退したプロの暗殺者・ロッソの台詞である。ロッソは、本作のヒロインであるニナ・フォルトナーがアルバイトをしているレストランの店長だ。いまは陽気なレストラン亭主として振る舞っているが、殺し屋として生活していた過去がある。自らの兄・ヨハンの殺害を目論むニナは、ロッソが超一流の殺し屋だったことを知っていた。彼女は自分の目的を果たすために殺人の技術を教えてもらおうと画策し、ロッソの店で働き始める。だが、すでに殺し屋稼業から足を洗い、地域の人々に愛されながら生活しているロッソを巻き込んではいけないと感じたニナは、何も言い出せないまま半年間を過ごしていた。そんななか、ニナの目的を察知したロッソは、自分が殺し屋を廃業した日のこと、つまり、彼が「人を殺すことができなくなった日」の出来事について語り始める。
その日も依頼を受けた暗殺者は、スナイパーライフルのスコープをのぞき込み、照準を合わせてタイミングを窺っていた。もちろん、対象を殺害するためだ。どこの誰かも分からないその対象は、コーヒーに砂糖を入れ始めた。甘い珈琲が好みなのか、一杯、二杯と砂糖を掬う手はなかなか止まらない。暗殺者はその様子をじっと眺めている。彼が五回目に砂糖を掬ったとき、ロッソの口のなかにいつも飲んでいるコーヒーの味がじんわりと広がった。殺されるはずだった誰かはそのコーヒーを美味しそうに飲んでいる。ロッソは銃を下ろし、生業としていた殺しをやめた。
このときロッソのなかでなにが起きたのだろうか。確かなのは、そのときなにかが起きていたのはロッソの頭のなかではなく、彼の身体のなかだった、ということだ。ロッソはスコープを覗き込んで対象の様子を観察していた。コーヒーを注文した、砂糖を入れ始めた・・・・・・。突然、彼の口のなかにコーヒーの味がじんわりと広がり始める。対象のコーヒーの飲み方が自分と同じだと認識したのではない。ただ、目の前の光景がロッソの身体と共振し、コーヒーの味を呼び起こしたのだ。そのとき、殺害する「対象」であったはずの誰かは、殺すことのできない「他者」になった。」
***
*「私たちが他者に危害を加えたり、殺害したりすることを禁じるのは、法律ではない。私自身である。すなわち、私自身を傷つけるな、私を殺すな、という命令が反転して、内側から他者への危害を禁じる声になる。その声は無論、絶対ではない。だとえば誰かから脅されたときのように、私と他者が直接天秤にかけられてしまえば、その秤は容易に自分の側に傾いてしまうだろうし、自暴自棄になったときには、他者に対して横暴に振る舞うこともあるだろう。『MONSTER』に登場した暗殺者ロッソは、自分が人を殺せなくなった日について語ったあと、殺人技術を求めるニナに次のように言い残す。「人殺しなんて簡単だ。砂糖の味を忘れればいい」。これは、自分の身体と世界のかかわりに価値を見出そうとしないことによって、他者の価値もまたなおざりにしてしまおう、という「人殺しのライフハック」である。
たしかに、私たちは他者を傷つけることができる。誰かが誰かを傷つけたり、どこかの国の軍隊が別の国の人々を殺害したりしているニュースによって、私たちはそのことを日々再確認してる。だからこそ、ここでいまいちど「傷つけるな」という命令を私の内側から引きずりだすような他者について考えてみたい。しかし、あなたがわたしにとっての「他者」なのかどうか、私があなたにとっての「他者」たり得るのか、どの線引きを明確にしようというわけではない。つまり、殺害してもいいものかどうかの基準を設定したいわけではない。そうではなく、私たちが「傷つけるな」という命令を受け取る瞬間、それまで「モノ」だったり「他人」だったりしたものが「他者」になる。そのような瞬間について考えてみたいのだ。」
***
*「冒頭に挙げた『MONSTER』のエピソードを反対側から、つまり「殺される側」から覗き込むような例を出発点にしてみよう。登場するのは『夜間飛行』や『星の王子さま』といった作品で知られるフランスの擦過サン=テグジュペリ。第二次大戦中の一九七〇年、ドイツとフランスが休戦協定を結んだ後にサン=テグジュペリはアメリカに亡命する。その亡命生活のなかで彼は『星の王子さま』などの作品とともに『ある人質への手紙』という、自身の体験に基づいたエッセイを書く。」
「一九三七年にサン=テグジュペリが内戦渦中のスペインにジャーナリストとして赴いていたときの回想である。ある貨物駅で秘密物質の積み込みをこっそりよ見物していたサン=テグジュペリは、無政府主義者の民兵によって不審な人物として捕らえられてしまう。(・・・)無機質な無機質な沈黙のなKで兵士たちの詰め所に連れてこられたサン=テグジュペリは、特段の理由もなく放置され、そしてそのうち特段の葛藤もなく処刑される自らの運命を自覚し始める。サン=テグジュペリは、殺されることそのものよりお、匿名の存在のまま殺害されることを恐れている。
盲目のルーレットがわたしの生命をもてあそんでいたのだ。また、だからこそわたしは、現実の存在としての重みを与えるために、自分にかんして、わたしの真の運命のなかにわたしを据えなおしてくれるようななにごとかを、彼らに向かって叫びたいという奇妙な要求に駆られたのである。たとえばわたしの年齢を!ひとりの人間の年齢、それは感銘を与えるものだ!
サン=テグジュペリ『ある人質への手紙』
あなたたちがいま何の感慨もなく処刑しようとしている男にも、何十年もの人生があり、それがその男の世界のすべてなのだ。その重みをどうにか伝えることはできないものかと、彼はもがいていた。
しかしながら、共通の言語を持たないスペイン人の兵士たちは、彼を単なるモノとして扱い続けた。いよいよ追い詰められたサン=テグジュペリであったが、ふとしたきっかけで「奇跡」が起きる。たばこを切らしていたサン=テグジュペリは、見張りのひとりがたばこを吸っているのを見つめ、身振りでたばこをくれないかと訴えて、ささやかにほほえんだ。するとその兵士は(・・・)サン=テグジュペリの顔を見つめて同じようにほほえんだ。たばことをねだる身振りとほほえみが、兵士のなかに何かを呼び起こした。その瞬間から、兵士にとってサン=テグジュペリはひとりの他者となった。それはサン=テグジュペリにとっても同様だ。」
「ロッソが証言したように、たばこを吸っていたその見張りの兵士の口のなかにも、彼が吸っていたたばこの味を上書きするなにかが広がっていったのだろうか。」
「そこには、「傷つけるな」という命令を私たちに発する身体が描き出されているように思われるのだ。それまで言葉も通じなかった匿名の誰かと誰かが、たばこの火に照らされて、同じ世界の住人であることが明らかになった。私たちは自らの身体によって世界に住み着いており、その身体を共振させるものもまた、同じ世界に住み着いているはずだ。そのような身体間の出来事が、「傷つけるな」というメッセージを引き出した。二つの身体を共振させるきっかけとなったのは、コーヒーであり、たばこである。私たちが世界に働きかけている他者がそこにいるということを、コーヒーやたばこといった文化的な道具たちが教えてくれたのである。もしそうだとすれば、それらの文化的な道具は、他者が他者として認知されるための手続きを構成していると考えられるのではないだろうか。」
***
*「 文化的な対象のうちに、私は匿名性のヴェールに覆われた他者の身近な現前を感じる。人が、煙草を吸うためにこのパイプを、食べるためのこのスプーンを、誰かを呼ぶためにこの鈴を使うのであり、文化的な世界の知覚は、人間的な行為や他の人間についての知覚を通じて検証されうるのである。
メルロ=ポンティ『知覚の現象学』
パイプやスプーン、鈴といった道具をそこに認めることは、そこに私と同じような誰かがいる(いた)ことを予感させる。それらの「文化的対象」がそこに存在するにいたったのは。誰かがそこにいたからである。そしてこの予感は、やがてその誰かが実際に姿を現すことで検証されることになるだろう。使い古されたこれらの道具はそのまま誰かの息遣いであり、分身なのだ。本来であれば、実際に息をしている他者のほうが道具よりも強力な存在感を放つに違いない。しかしながら、例外的な状態においては————あるいはもっとも日常的な場面では————この順序が逆転する・スナイパーライフルのスコープのなか、戦場の無機質な沈黙のなかで、まだ他者としての像を結ばない匿名の誰かの痕跡を、私たちは「文化的な道具」のなかに見出すことがある。」
「道具が私の世界のなかに他者を導き入れることができるのは、他者の痕跡を留める道具を私も使うことができるからだ。それを私も使うことができる。私が使うことができるものを使っている誰かが(どこかに)いる。「文化的な世界の知覚」とは、このような直観なのである。」
「もちろん、何でもいいから道具がそこにあればいいというわけではない。その道具を私が実際に使うことができるのでなければならないし、その道具を使うことがお互いにとっての大きな関心事でなければ、二つの身体が絡まり合ってお互いを求めるような「奇跡」は起こらないだろう。しかし、同じように傷つきながら同じ世界に住み着いている他者の痕跡はそこにある道具に感じられたとき、それはまだ見ぬ誰かを「傷つけるな」というメッセージを私の身体の内側から引きずり出すことがあるのだ。」
***
*「現に私たちは様々な場面で、他者を遠くに、画面の向こうに追いやることで「砂糖の味を忘れ」てしまっている。だからこそ、この身も蓋もなさに直面しておかなければならないと思うのだ。他者を最大化するための倫理的な試みはここから始まっていくと言ってもいい。私と同じように傷ついている者が、私と同じ「ひとつ」の世界に住んでいること。そこから発せられる「傷つけるな」というメッセージを拾い上げることから始めてみようではないか。」
○田村正資(たむら・ただし)
1992年、東京生まれ。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論分野博士課程修了。博士(学術)。専門は、現象学(メルロ゠ポンティ)と知覚の哲学。2017年に修士論文「知覚の逆説」で一高記念賞を、2021年に論文「メルロ゠ポンティのグールヴィッチ批判」でメルロ゠ポンティ研究賞をそれぞれ受賞。
伊沢拓司とともに、第30回高校生クイズ優勝(2010年)。東京大学の特任研究員を続けながら株式会社baton(QuizKnock)の業務にも参画。「楽しいから始まる学び」のロールモデルを模索するYouTubeチャンネル「QuizKnockと学ぼう」チャンネルのプロデューサー・ディレクターを務めた。現在は哲学研究を続けながら、同社で新規事業開発を手がける。哲学論文の執筆のほか、『ユリイカ』『群像』に論考や批評を寄稿するなどの活動にも取り組んでいる。