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森敦『新編 意味の変容』

☆mediopos3689(2024.12.25.)

『意味の変容』『マンダラ紀行』に
『十二夜 月山注連寺にて』が加えられ
森敦『新編 意味の変容』として新たに文庫化されている

巻末に収められている柄谷行人の
「『意味の変容』論」をガイドに
「他に類を見ない数学的・哲学的スタイルで
近代日本文学の常識を覆した『意味の変容』」について
その思想を少しばかりたどってみたい

『意味の変容』は「寓話」である

幾何学的な説明が用いられているが
「寓話」とは「形式」のことであるという

『意味の変容』の最終稿においては捨象されているが
理解の鍵となるのは
「壺の中には意外にぼう大な街があり、
長安にもみられぬような綺羅な堂閣が立ちならんでいた」
という「壺中の天」の話である

さて数学は形式的であって
非ユークリッド幾何学という形式が
アインシュタインによって宇宙論に適用されたように
「幾何空間」の対象は何であってもよいことから

森敦は「外部・内部・境界」による「寓話」という形式を
あの世・この世・その境界といったことに適用する

しかしパラドックスを避けようとする
数学者や論理学者とは異なり
関心はまさに「論証の不可能性自体を根拠にする」
そのパラドックスにこそあり
「幾何学的には、いつも、内部が外部となり
外部が内部となるメビウスの帯の比喩で語られる。」

『意味の変容』の核心にあるのは
「死者の眼」の章にある以下の認識である

「内部+境界+外部で、全体概念をなすことは言うまでもない。
しかし、内部は境界がそれに属せざる領域だから、
無辺際の領域として、これも全体概念をなす。
したがって、内部+境界+外部がなすところの全体概念を、
おなじ全体概念をなすところの内部に、実現することができる。」

「全体概念をなすところの内部」こそが「壺中の天」である

カントは「もの自体」に論理として迫ることはできないとしながら
倫理的・美学的レベルにおいてその可能性を示唆しようとしたが
森敦はそうした区別を斥け
内部・境界・外部の区別のみによって
「最小の幾何学」として全領域を考察しようとする

つまり「境界がないがゆえに無限である内部に、
無限である外部が写像される(対応づけられる)」
とするのである

そして「内部=全体概念」としてとらえ
内部思考によって自明とされる
孔子の『未ダ生ヲ知ラズ。焉ゾ死ヲ知ラン』を外部思考に変換し
『既ニ死ヲ知ラバ何ゾ生ヲ知ラザラン』という対偶命題により
「主観客観の一致を考える」

森敦はこの「生」という内部空間に
「無限である外部を写像(対応)」する

つまり「あの世」を「この世」において実現することで
「死者の眼」を所有しようとするのである

しかし森敦が目指しているのは
「不死ではなく、生を生たらしめることである」
それこそが「意味の変容」にほかならない

まだ生を知らないがゆえに死を知りえないのであれば
すでに死を知りえていえば生が知られないことはない

壺中の天のごとく
「生」という内部には
無限である外部の「死」が射影されている

ここではふれられなかったが
『マンダラ紀行』はこうした「意味の変容」を
胎蔵界・金剛界の両マンダラにおいて
求めようとした紀行である

■森敦『新編 意味の変容』(ちくま学芸文庫 2024/12)

**「壺中の天」について

*「あるぼう大な支那の首都————たぶん長安かどこかの街の檐下でいつもひとりの老人がそばに壺をおいて休んでいる。そして、街々にランタン(支那桃燈)がともされるころになると、この老人は壺を檐下にかけてすうっとその口から吸われるようにとびこんでしまう。だれも気づくものはなかったが、たまたま通りかかった青年がそれを認めて不思議さのあまり老人のただすと、老人は笑って青年を壺の中に連れて行った。なんと小さなその壺の中には意外にぼう大な街があり、長安にもみられぬような綺羅な堂閣が立ちならんでいたという————」

**「寓話という幾何学」について

*「もうだいぶ前のことになりますが、わたしはたしか窪田博士の著書のなかでベブレンとヤング————これもさだかではありません————の提示した「最小の幾何学」といったようなものが紹介されているのを読んだことがあります。彼らによればわたしたちがひとつの「幾何空間」を構成するためには必ずしも多くの「要素」を必要とするものではない、最小の七つの「点」が与えられれば立派にそれを構成することができるというのです。いささか比喩的ないいかたをすれば、それ自身ひとつの「世界」としてその「内部」にわたしたちを閉じこめることができるというのです。わたしはこの「最小の幾何学」を近代の智脳のつくったすばらしい「寓話」だとおもい、「寓話」もまた一種の「最小の幾何学」だと思いました。」

**「宗教と生」について

*「宗教はすくなくとも内部をなすところのこの世なる領域に、外部をなすところのあの世なる領域を想念することによって、まさにこの生の生なるゆえんを証明するものだ。いた、ぼくたちは知らず識らず、そのようにして生の生たるゆえんを、想念しているのではないだろうか。」

**(『意味の変容』〜「寓話の実現」より)

*「わたしは知った。内部が内部といわるべきものになったとき、それもまた全体概念をなす。とすれば、当然反対概念が含まれて来なければならぬ。このようにして、壮齢なるに似た蛇も内部へと密蔽することによって、壮麗な蛇となる。寓話の実現者の恐るべき幻術! あるいは大鎌を月光に耀かせて突ツ立った男、あれこそはその実現者ではなかったか。」

*「類も稀な壮麗な蛇、わたしはわたしの中に幻術があると思っていた。ところが、まさにわたしが幻術の中にあろうとしているのだ。おお、木々を裂く嵐から、潮騒のどよもす吹雪かた、荒涼とした岩石の山頂から、光の柱の立つ密雲から哄笑が聞こえる。」

**(『意味の変容』〜「死者の眼」より)

*「内部+境界+外部で、全体概念をなすことは言うまでもない。しかし、内部は境界がそれに属せざる領域だから、無辺際の領域として、これも全体概念をなす。したがって、内部+境界+外部がなすところの全体概念を、おなじ全体概念をなすところの内部に、実現することができる。つまり壺中の天でも、まさに天だということさ。いつか『壮麗な蛇』の話をしたね。覚えていてくれただろうか。あれはこれを寓話化したもんだ。」

*「主観と客観が一致すれば空になるという。ところが、二つのベクトルは互いに向きが反対で、しかも相等しく、一直線上にあるとき0になる。空はこの0である。

 よく言うじゃないか。『孔子ハ人間デアル』といえるとき内部思考を外部思考に変換し、対偶命題をとって『人間デナイモノハ孔子ではない』といえる。このとき、『孔子』および『人間』はいずれも境界がそれに属せざる領域で内部であり、『人間デナイモノ』及び『孔子デナイモノ』は、いずれも境界がそえに属する領域で外部である。一歩を進めて、内部思考が自明とされる『未ダ生ヲ知ラズ。焉ゾ死ヲ知ラン』といえるとき、これを外部思考に変換し、対偶命題をとって『既ニ死ヲ知ラバ何ゾ生ヲ知ラザラン』といえる。言うまでも無い。『未ダ生ヲ知ラズ。焉ゾ死ヲ知ラン』は境界がそれに属せざる領域で内部であり、『既ニ死ヲ知ラバ何ゾ生ヲ知ラザラン』は境界がそれに属する領域で外部である。ぼくは主観がわからないと言った。しかし、極致としての主観はわかった。『未ダ生ヲ知ラズ。焉ゾ死ヲ知ラン』がこれである。ぼくは客観はわからないと言った。しかし、極致としての客観はわかった。『既ニ死ヲ知ラバ何ゾ生ヲ知ラザラン』がこれである。これらの対決において、ぼくは主観客観の一致を考える。

「そうだ、きみは内部と外部が対偶空間をなす、と言おうとしているんだな」

 ちょうど、そこに台に取り付けた望遠鏡が出してある。すこし暗くなっらたが、出てみよう。

望遠鏡は、これによって内部をなすところの領域の中に、外部をなすところの領域を実現し、この内部をなす現実が、まさに内部であることを証明しようとするものである。」

**(『意味の変容』〜「宇宙の樹」より)

*「任意の一点を中心とし、任意の半径を以て演習を描く。そうすると、円周を境界として、全体概念は二つの領域に分かたれる。境界はこの二つの領域のいずれかに属さねばならぬ。このとき、境界がそれに属せざるところの領域を内部といい、境界がそれに属するところの領域を外部という。

 なんでもない、この内部なるものが近傍なんだ。ただし、ここでは全体概念と呼ばず、いつぞやきみが言ったように世界と呼ぼう。また、中心と呼ばず原点と呼び、外部と呼ばず
域外と呼ぼう。理由はやがて分かってもらえると思う。

任意の一点を原点とし、任意の半径を以て円周を描く。そうすると、円周を境界として、世界は二つの領域に分かたれる。境界はこの二つの領域のいずれかに属さねばならぬ、このとき、境界がそれに属せざるところの領域を近傍といい、境界がそれに属するところの領域を域外という。

 いや、こんなことも言わなかっただろうか。

 内部は境界がそれに属せざる領域なるが故に密蔽されているという。且つ、内部は境界がそれに属せざる領域なるが故に開かれているという。つまりは、密蔽され且つ開かれてさえいれば内部といえるのだかた、内部にあっては、任意の点を中心とすることができる。」

**(『意味の変容』〜「アルカディア」より)

*「大小はただ外部から見て言えることであって、内部にはいれば大小はない。なぜなら、境界は外部に属し、外部から見た内部の大小は、この境界によって判断される。しかし、内部には境界が属しないから、いわば無限であり、無限には大小はない。」

*「だって、きみも作品を創造するのは境界がそれに属しない、大小のない無限の内部を実現しようとしているんじゃないのかね。そうであればこそ、光学工場も書いて、内部といわれる世界になる。ダムの現場も書いて、内部といわれる世界になる。小さな印刷屋も書いて、内部といわれる世界になろうというものじゃないか。外部から見て大小を言う読者を内部といわれる世界に引き入れて、大小を言わせぬようにしなければならない。これを魅了するというのだ。

「その魅了するというのがまたむずかしい」

 そりゃア、そうだ。きみがただ、ぼくがこのコップをとってコーヒーを飲んだと書くなら、それでいいのだし、なんのことはない。それはきみにとっての関係はただこのぼくだけであり、コップはたんなる対応をなすもので、きみとなんら関係をなすものではない。しかし、ひとたびきみがコップそのものを書こうとするなら、話はまったく違って来る。

「そうだな、卒然として見ればなんでもないものも、これを書こうとして立ち向かえば全然違った相貌を呈して来る」

 そうだろう。そうなればこの私と私以外といえば全世界であるように、このコップとコップ以外といえば全世界になるんだ。書こうとすると書かせまいとするコップのために、幻術が必要になって来るのさ。」

*「関係とはたんなる対応ではない。おのおのそれみずからが矛盾を孕む実存として対応するとき、はじめて関係となる。」

*「この有為転変、諸行無常も円環してなんとかなると思った。ちょうど、諸行無常が、実は輪廻になるようにね。そうそう、

円周上に一点を取り、これを回転させれば、この一点は時間軸にそってサイン線を描く。有為転変、諸行無常はしかく単純ではない。しかし。これを合成して行けば、限りなくそれに近づくことができる。」

*「生きているうちはいいから、死んだら絶対に落とさねばならない約束手形を書けといわれたら。

「死んだら絶対に落とさねばならない約束手形?」

 もはや幻術はきかない。ずいぶんながい道のりだったが、ぼくはここに至って、ようやく死生観というべきものに達したよ。生きているうちはとにかく、死んだら絶対に落とせという約束手形、そういう賭をするものは、だれだろう。ここに意味は変容して宗教となる。かかる意味の変容は、時間が驚くべき吸収性を持ち、想像を絶する濃度を有するばかりでなく、幽冥境に達しうる、したがって通過しうる唯一の道をなすからだ。百年の目を以て見る人は、十年の目を以て見る人とはおのずから違う。専念の目を以て見る人とはさらに違う。なぜなら、このようにして歴史すら意味を変容して哲学になっていく。その理はまったく同じだ。このような例は枚挙に暇がない。すくなくとも、ぼくらはまず極小において見、極大において見、はじめて思考の指針を現実に向けて、その意味を変容において捉えなければならぬ。もし、ぼくがきみの驥尾に付して、何か書くようなことがあったら、この意味の変容において書くだろう。」

**(『意味の変容』〜「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」より)

*「いま、外部とされる領域に属する境界に、時間と呼ばれる一次元空間が直交するとすれば、それは唯一の大円を描いて円環するであろう。しかし、もしそれが必ずしも境界と直交しないとすれば無数の円環の想定を可能とするであろう。ある宗教は時間と呼ばれる一次元空間が唯一の大円を描いて円環するところのものをもって世界とし、ある宗教はその無数の円環するところのものをそれぞれ世界として包含する。しかし、それがいかなる世界であったにしても、わたしがそこにいるというとき、すでに世界は内部なるものに変換し、境界がそれに属せざるものとして無限なるものちょなるから、そこに大小なく対等とされねばならぬ。」

**(『意味の変容』〜「意味の変容 覚書」より)

*「現代数学の粋といわれるトポロジーは、一言でいえば近傍の一語に尽きるとされている。わたしはそういう観点に立つことを避けて、もっともわかりやすく説くためには。どうすべきかと考えた。いま任意の点を描けば、内部といわれるものができ、外部といわれるものができる。ところで、内部といわれ、外部よいわれるものに分かった円周をなす境界は、内部、外部のいずれに属するか。境界は外部に属して、内部に属しないとするとき、この内部を近傍という。数学といってもただこれだけのことを知って頂ければいいのである。この考え方からして、『意味の変容』の「宇宙の樹」が生まれた。

 但し、この近傍は双曲線空間、すなわち非ユークリッド空間をなす。わたしたちはつねにかかる空間に、矛盾として実存するが故に、かえって理想空間としての、ユークリッド空間を構築したのである。しかし、近傍を壺中の天になぞらえたのみで、敢えてこの問題に触れなかった。譬喩を以て逃れようとしたのではない。煩を恐れたのである。」

**(柄谷行人「『意味の変容』論————「解説」にかえて」より)

*「それは、『意味の変容』が寓話だということである。いうまでもなく、「壮麗な蛇」のような部分だけが寓話なのではない。全体が寓話であり、〔『意味の変容』の〕最終稿は全体として「最小の幾何学」を実現しようとするものなのである。」

*「『意味の変容』が寓話だということは、それが近代小説ではないということでもある。近代小説は、むしろ寓話を否定するところに成立している。一般に、寓話では或る意味が先行していて、具体的なあらわれはそれを示す記号である。たとえば、「あれはこれを寓話化したもんだ」という森敦の言い方に見られるように。しかるに、近代小説では、具体的なあらわれが先行している。そこでは、ある任意の事柄がシンボルとして普遍的な意味をもつというかたちをとる。たとえば、森敦が近代小説家ならば、光学工場やダムや印刷工場での体験生活を描き、そこに普遍的な意味を見いだそうとするだろう。しかし、『意味の変容』では、それが逆転している。光学工場は或るものの「寓話化」でしかない。

 こうした寓話への志向は、近代以前への回帰ではない。実際、森敦は素材としているのは、「近代工場」なのである。この点を注意しておかねばならないのは、『月山』で世に知られたために、森敦があたかも前近代の世界へのノスタルジーを語るものであるかのような通念があるからだ。実は、『月山』も一種の幾何学=寓話であるにもかかわらず、森敦がもつような寓話への志向には、二十世紀における認識上の逆転があり、それはすうがくにおいて典型的に示されている。森敦は、若い時期数学への関心において、それをつかんだといってもよい。しかし、それは狭義の数学に限定される問題ではない。

 現代数学の思考において重要なのは、数学がたんに形式的であって、たとえば、内部・外部・境界といったものは、具体的にどんな意味を担うかを少しも語っていないということである。たとえば、「幾何空間」の対象は何であってもよい。したがって、森敦のように、それを、あの世・この世・その境界と解釈しても不都合ではない。現に、文化記号論者(構造主義者)もそうしているのである。ただ、興味深いのは、物理学や社会科学では具体的なものが抽象され形式化されたときそれがモデルと呼ばれるのに対して、現代数学では、まず形式があり、具体的なものは形式を解釈したモデルとみなされるということである。

 実際には、数学も具体的な対象の考察からはじめるのだが、ある地点でそれが逆転され、具体的なものは、意味の無い形式の一解釈であるとみなされる。非ユークリッド幾何学の場合もそうであった。それはユークリッドの第五公理を変えるという形式的な手続きから生まれたが、他方で、それをやった19世紀の幾何学者たちはたんに紙の上で遊んでいたのではなく、天文学的な関心をもっていた。もともとそうであったがゆえに、非ユークリッド幾何学は、アインシュタインによって宇宙論に適用されえたのである。しかし、そこでは、あくまで形式が先行したのであり、その意味では、現代の宇宙論は幾何学の「解釈」でしかない、といってもよいほどである。

 森毅が「数学的」だというのはこの意味においてであり、それは「寓話」というのと同義である。寓話とは形式のことであり、それはどんな意味にでも「解釈」されることができる。むろん、それは文学作品にも「解釈」されることができる。実際、『意味の変容』は、それ自体文学論なのである。そもそもここでの対話の相手は、小説家である。」

*「近代小説の観点からみれば、『意味の変容』には、森敦の「放浪時代」の体験が抽象化され凝縮されているといわれるかもしれない。しかし、彼のような認識は「放浪」の結果ではなく、その現任である。森敦の「幾何学=寓話」においては、どのような世界も、それが無限の「内部」あるいは「近傍」であるかぎり、大小はない。これが森敦の「放浪」を支えていた認識であり、それ自体がすでに「意味の変容」である。むろん、実際の放浪なしにこれらが書かれなかったことは確かである。しかし。彼はいわゆる苦労人とはほど遠い。そこに、最初から強固な形而上学的な意志がつらぬかれている。

 『意味の変容』に存する形而上学的な意志とは何か。それは、彼が例にとった「壺中の天」やカフカの『城』の寓話でいえば、この世からあの世、あるいは内部から外部への「越境」という問題である。森敦は、これを文学や宗教に求めることはしなかった。文学も宗教もその解釈でしかないような、形式的な「空間」においてそれを見いださねばならない。したがって、それは幾何学となる。そして、この幾何学は寓話である。それに関して、私はプラトンを思い出す。近代の哲学、というよりアリストテレス以後の「哲学」においては、寓話が排除されている。それは哲学が一義的な厳密さを志向するからである。しかし、プラトンはしばしば寓話で語っている。たとえば、イデア論も、洞窟の比喩という寓話で語られている。すなわち、人間は洞窟の中に外に背を向けて閉じこめられており、イデアを見ることが出来ずそれが壁に映った影だけを見ているというものである。

 「哲学」はこうした寓話を排除してきた。しかし、それを除去しえたのではない。たとえば、カントが、人間が認識しうるのは「現象」のみで「もの自体」は知りえないというとき、それはプラトン的な寓話の変形であり、したがって、内部と外部の幾何学空間に言い換えられることができる。

 ただし、カントにおいては、いわば「近代工場」の思考がある。「もの自体」と「現象」の区別を言いだしたのはロックであるが、彼はそれを、近代テクノロジーにもとづく寓話として語ったのだ。すなわち、彼は、カメラの前身であるカメラ・オブスキュラにもとづいて、「現象」を「もの自体」の写像であると見なしたのである。実は、数学の「写像」概念も、射影幾何学から来ている。注目すべきことは、森敦が同じことを望遠鏡の譬喩で語ったことである。「近代哲学」がプラトンと異なるのは、いわば前者が望遠鏡をもっていることだといってもよい。いいかえれば、カントのいう「現象」とは、人間の先験的な形式(レンズ)によって構成されたものである。だが、そこに「もの自体」がないならば、写像という考えが成立しないであろう。

 ところで、カントは、理論的に「もの自体」に迫る論理がすべて二律背反に陥ることを示すとともに、倫理的・美学的レベルにおいてそこに迫る可能性を示そうとした。それに対して、森敦は、科学と宗教と美学というような区別を斥けている。彼がもつのは、ただ、内部・境界・外部の区別のみである。そして、それのみによって、全領域を考察しようとする。それが彼のいう「最小の幾何学」である。境界がないがゆえに無限である内部に、無限である外部が写像される(対応づけられる)ということ、そこに森の主張のすべてがある。そして、彼がそれによって果たそうとしている事柄が何であるのかは、すでに明瞭であろう。」

*「森敦が数学者や論理学者と違うのは、彼の関心が、後者が避けようとするパラドックスにしかなく、またそこからいきなり始めるということである。論理的なパラドックスは、幾何学的には、いつも、内部が外部となり外部が内部となるメビウスの帯の比喩で語られる。たとえば、「クレタ島の人間はすべて嘘つきである、とクレタ島の男が言った」という有名なパラドックスの場合、ベン図で書けば、外部にあったものが内部になり、内部は外部になって、決定不能になる。」

*「彼の論証は、論証の不可能性自体を根拠にするものである。つまり、彼はパラドックスから出発したのだ。そのことは、幾何学的にいえば、内部と外部をつなぐ道があるということである。檻篤がとりあげた先の寓話がそれぞれ示すのは、内部と外部がつながる道(境界)があるということだが、それは論理的なパラドックスの幾何学的表現である。森敦は言う。《境界に達することのできる道路が一つある。それはわれわれを幽冥境にも導く、時間という道路だ》。しかし、時間もまた空間から見られなければならない。時間とはこの矛盾を解消しようとする運動であるから、それは、結局、空間、というより論理空間の問題に帰着するのである。」

*「森敦がいうのは、第一に、そうした宗教が何を語ろうと、それは内部・外部・境界という「空間」のなかにある事実を越えるものではないということである。第二に、そこで唯一可能なのは、無限であるような「内部」を実現することである。そうであれば、そこに、無限である外部を写像(対応)しうる。そのとき、あの世はこの世であり、人は、この世において、「死者の眼」を所有できるであろう。」

*「しかし、森敦は、それをいわば宗教なしに実現しようとしている。彼が目指すのは不死ではなく、生を生たらしめることである。そして、それは「内部」たらんとすることである。「内部」であることは、森敦の言葉でいえば。「矛盾として実存する」ことである。」

「矛盾としての実存、すなわち、密閉された「内部」にとどまることこそが、それを出る唯一の道なのだ。それのみが、内部を外部の写像たらしめることによって、外部を「実現」する道である。キルケゴールが「反復」、ニーチェが「永劫回帰」と呼んだのは、そのことではなかったか。」

「それは、いわば、キルケゴール・ニーチェ・カフカを読み換えることだと言ってもよい。しかし、もっ広くいって、先駆稿から最終稿にいたる過程そのものが、「意味を取り去る」作業の反復であり、その作業自体が「意味の変容」なのである。

 そして、『意味の変容』という作品自体、一つの円環(永劫回帰)をなしている。最後の言葉葉始まりなのである。《すくなくとも、ぼくらはまず極小において見、極大において見、はじめて思考の指針を現実に向けて、その意味を変容において捉えなければならぬ。もし、ぼくがきみの驥尾に付して、何か書くようなことがあったら、この意味の変容において書くだろう。」

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