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スティーブン・ジョンソン『音楽は絶望に寄り添う/ショスタコーヴィチはなぜ人の心を救うのか』

☆mediopos-3142  2023.6.25

ぼくはある意味で
音楽に救われてきたといっても過言ではない
音楽には不思議な力がある

二番目の自我の危機と思える中学生の頃には
(最初の危機は9歳前後の頃だったがそのときはまだ
音楽が大きな役割をもってはいなかったようだ)
ロックとポップスに浸ることで魂の平衡を保ち

魂の危機そのものでもあった高校の頃には
バッハとバロックそして現代音楽のおかげで
毎日を生き延びてきた

その後はジャズを日々の活力とし
さらにクラシック音楽とあわせながら
魂のたいせつなたべものとして
養分をそこから得てきている
ネットで毎日さまざまな音楽を渉猟し
紹介したりしているのも同様である

本書は双極性障害と診断され
母との葛藤に苦しんできた著者が
ショスタコーヴィチの音楽作品に触れ
救われていく物語(実話)となっていて興味深い

タイトルは『音楽は絶望に寄り添う』となっているが
ショスタコーヴィチはスターリンによる恐怖統治時代に
作曲を続けた稀有ともいえる作曲家で
その作品の多くは「苦悩に満ちた音楽」である

重篤なうつ状態に沈む人たちにとっては
明るく楽しい音楽はやすらぎや慰めにはならず
ショスタコーヴィチのような音楽が効果的だという

明るく楽しい音楽はそれはそれで
日々の生活のなかでの潤いとはなるだろうが
魂の深みへ降りていき
そこで得られる不思議な力を得るためには
たしかにこうした「苦悩に満ちた音楽」
あるいはそれに類した深みへ降りる音楽が必要となる
(もちろん「苦悩に満ちた音楽」であればいい
というものでは決してないけれど)

著者も示唆しているように
実際の救済のためには
「われわれを見つめて、わかってくれ、
まだ救済するに十分な価値のある人間だと
伝えてくれる人」のまなざしが必要なのはたしかだが

それでも音楽が鳴っている間だけは
そこに「悲しみの、怒りの、そして生き延びる決意の
大唱和があって、私もそれに参加できる」ような
そんな「われわれ」の「コミュニティー」が
存在していることを感じさせてくれる
(もちろん実際の「われわれ」でも
「コミュニティー」でもない)

ぼくにとっての魂の危機の時代も
おそらくはそうした魂の共振できる世界を
バッハの音楽などのなかに見出し
救済されてきていたのだろう

そういえばここ10年ほど
ショスタコーヴィチの音楽を聴く機会がなかった
主に聴いていたのは30〜40代の頃で
その頃はショスタコーヴィチの伝記など
いろいろ調べたりしながら聴いていたが
この機会にあらためて聴き直そうと思っている

以前聴いていたCDもまだずいぶん手元にあるが
今回はこうして記事を書きながら
YouTubeで「交響曲第4番」と
「弦楽四重奏曲第8番」を聴いている
前者がゲルギウス指揮(この指揮でははじめて)
後者がボロディン弦楽四重奏団である

以前何度も聴いていた頃とも
またずいぶん印象が変わってきているよう感じられる
「苦悩に満ちた音楽」というよりは
魂にずっと「寄り添っ」ってくれているような・・・

■スティーブン・ジョンソン(吉成真由美訳)
 『音楽は絶望に寄り添う/ショスタコーヴィチはなぜ人の心を救うのか』
 (河出書房新社 2022/10)

(「訳者まえがき」より)

「この本には、自身が双極性障害〔そううつ病〕と診断され、精神障害を背負った母親とのつらい葛藤に苦しむ、作曲家にして音楽ブロードキャスターである著者が、スターリンによる恐怖統治時代をかろうじて生き延びながら作曲し続けたショスタコーヴィチの音楽作品に触れるうち、次第に救われていく過程が鮮やかに描かれている。」

「著者は、音楽が持つ力とは、「われわれに生きていくための意味を与える力」なのだと提唱する。まだ科学で説明できない、ミステリアスな力。特にショスタコーヴィチの苦悩に満ちた音楽は、著者も含めて数えきれないほど多くの人々の命綱となってきたという。それは、スターリンによる恐怖統治下を生き抜いてきた人々や、想像を超える困難に遭遇しれきた人たちが、人生に意味を見いだすための礎となり、著者自身が出口のない孤独に陥っている時、ショスタコーヴィチの音楽が「生を続けていくための理由」を与え続けてくれたのだと、ショスタコーヴィチ自身とても繊細で、まったくタフなタイプではないのだが、それでも恐怖統治下にあって、四方から降り注ぐ矢をかわしながら作曲を続けていく、その苦悩と葛藤と抵抗とユーモアを、著者を含めて聴く者たちに音楽を通してコミュニケートすることで、聴く方は一種の連帯感のようなものを感じて救われるのだという。」

(「Ⅲ」〜「ネガティヴ・ケイパビリティ『ミケランジェロ組曲』」より)

「詩人ジョン・キーツ〔英国〕は「ネガティヴィ・ケイパビリティ〔端的な答えの出ない不確かで不可解な状態を受け入れる能力〕について語っている。キーツによると、人間は「事実と理由をせわしなく追い求めることなしに、不確かさや不可解さや疑問の中にいることができる時にこそ、最もクリエイティブになる」という。ショスタコーヴィチの作品、特にフィナーレの部分には、「不確かさや不可解さや疑問」が全開で、これらの部分についての政治思惑に基づく解説の多くこそ「事実と理由をせわしなく追い求め」ているように見える。ポール・ロバートソンが勧めるように、この音楽に意味を見出そうとするなら、それは理屈にならない不確かさを受容するような、別の種類の意味でなければならない(「人間がどんなつらいことでも『意味』さえ見出せれば、それに堪えられるようになる」〕。」」

「Ⅳ」〜「もし音楽が私をこのような気持ちにさせるのなら、私はどうして耳を傾けるに値しない存在などであろうか?」より)

「16歳の私は、ウェスト・ペナイン・ムーアを、足を打ち鳴らしながらどんどん大股で歩いている。身が引き締まるような天候で、突風が空をなびく低い雲を引きちぎり、時々にわか雨が斜めに吹き付ける。自分の気持ちにピッタリな天候だ。頭の中ではショスタコーヴィチの交響曲第4番の終わりが鳴りまくり、それはまるでスタジオの中でのように鮮明に聴こえてくる。私は音楽に合わせて、半分吠えながら半分興奮して喋っている。周りに誰もいなくてよかった。しかし確かなのは、私は独りだとは感じなかったことだ。彼の音楽が、私が何を感じているのかショスタコーヴィチは知っているよと教えてくれる。おそらく私自身よりよく知っているだろう。彼はそれ以上のことも与えてくれた。半分は想像上の、半分はリアルな、彼のコミュニティだ。彼が言ったように、交響曲第4番の最終章で、かなりはっきりとそれが提示されている。そこには悲しみの、怒りの、そして生き延びる決意の大唱和があって、私もそれに参加できる。それ〔彼のコミュニティー〕はどこにあるのか、まだ知らないが、あることだけは知っている。音楽が鳴っている間、私はそれに参加している。たくさんの声の中の一つだ。どこかに私が帰属する「われわれ」が存在しているのだ。そう思うと安心感があり、持続感があり、言いようもない高揚感がある。最後の楽章が静かにフェードアウトする時、しばらくの間立ち止まる。もし音楽が私をこのような気持ちにさせるのなら、私はどうして役立たずで、卑劣で、取るに足りない、耳を傾けるに値しない存在などであろうか?」

(「訳者あとがき「まなざしの力」」より)

「芸術的誠実さとサバイバルをかけて作曲を続けるショスタコーヴィチの苦悩と矛盾とユーモアと音楽に、著者自身の双極性障害〔そううつ病〕や自死願望や母親との葛藤からのサバイバル物語が重なる。万華鏡のような内容だが、読後になぜかカタルシスと希望が残る不思議な魅力をたたえた本だとあらためて思う。
 まったく様々な角度から楽しむことができる本だ。」

「音楽には、不安やストレスや痛みのレベルを下げて人間をすうっとまとめる不思議な力があるようだ。重篤なうつに沈む人たちには明るく楽しい音楽はまったく効果がなく、むしろシューベルトの『死と乙女』やショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第8番といった、燃え上がるような感情的な音楽こそが大いなるやすらぎと慰めを与えるという指摘や、ベートーベンが弟子に施した音楽セラピーの話も印象深い。

 それでも、「音楽が広い意味でわれわれを『見つめる』ことはできない」と著者は言う。音楽は、幾年にもわたって「荒れ狂う海を漂う命の筏」となってもくれるが、実際の救済には生身の人間が必要で、「われわれを見つめて、わかってくれ、まだ救済するに十分な価値のある人間だと伝えてくれる人」の直接的なまなざしが必要なのだと。

 また端的な答えの出ない不確かさや疑問の中にいることを受容する能力「ネガティヴィ・ケイパビリティ」が創造性の源となることにも触れられている。ますます複雑性が増していく社会において、ニュアンスを排除して何につけ白黒はっきりさせようとする態度は、意味をみうしなっれ集団ヒステリーを生むことにつながるだろう。

 さらに、そううつ病が示す「夢中になって蛙跳びするような」思考の飛躍がもたらす芸術的な創造性について、当事者である著者による文学作品や脳科学の研究を踏まえた解説は、本人の繊細さと鋭い観察眼に裏打ちされて実に興味深い。誰一人として同じ脳を持った者はなく、脳障害といえば。程度の差こそあれ誰でもそれなりの脳障害を抱えているもので、そううつ病を示す脳が見ている世界は特殊な例というよりむしろ、かなりの人に多少こういった傾向があるのではないだろうか。

 「われわれはすべて生まれた時に『それぞれが異なる世界に』投げ出されるのだが、時々それらの世界が接触することがあり、一瞬だが、お互いにじっと相手の目を本気で見つめ合うことがある」と著者は言う。たとえわずかでもこういう見つめ合いの記憶があれば、生き続けていく意味を見出せるのかもしれない。」

☆ショスタコーヴィチ「交響曲第4番」
ヴァレリー・ゲルギエフ指揮
マリインスキー劇場管弦楽団」
◎SHOSTAKOVICH Symphony No 4 in C minor op 43
VALERY GERGIEV - MUSICAL DIRECTOR AND CONDUCTOR
THE MARIINSKY ORCHESTRA AND CHORUS
1° DE DICIEMBRE DEL 2013 - DECEMBER 1th ,2013
TEATRO SALLE PLEYEL IN PARIS

◎ショスタコーヴィチ「弦楽四重奏曲第8番 ハ短調 作品110」(1960)」
Shostakovich: String Quartet No.8, Borodin Quartet 1978
ボロディン弦楽四重奏団


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