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東辻賢治郎「地図とその分身たち㉔カルトグラフィック・シネマ」(「群像」)/ティモシー・フェリス『銀河の時代』

☆mediopos3276  2023.11.6

地図とはなにか
地図に示されている地点とは
なにを示しているのか

東辻賢治郎「地図とその分身たち」の連載24回目は
映画『未知との遭遇』の物語から
わたしたちの地図との関係を考えさせてくれる

映画『未知との遭遇』では
「予定されたある時点、ある地点で三つの集団が合流する」

「三つの集団とは、
形象(イメージ)によって
その地点を指示された者(ロイ)の集団、
座標によって指示された者の集団、
および前者にそれらの指示を与えた者」

最初の集団は
「UFOとの接近遭遇への
オブセッションを抱えることになった人びと」
ふたつめの集団は
フランス人のUFO研究者の集団
そして三つ目の集団は
宇宙船で地球を訪れた知的生命体である

「ロイの車がまともな方向に走り出すのは、
彼が地図を見ることを放棄したときだけ」であるように
私たちは「地図と世界を同時に見ることができない」

GPSにせよ紙の地図にせよ
「投影と編集とフレーミングの産物」としての
虚構(フィクション)である

どんなにそれらが役に立つものであろうと
それは抽象化された虚構であり
それはいま目の前に現れている
あるいはじぶんがいまここにいることとは
「同時」には成立しない

少し飛躍するが
「予定されたある時点、ある地点」へ至り
「未知」と「遭遇」するということ
そして「遭遇」するために導かれるということは
ある意味で禅でいう「啐啄同時」的なことだろう
あるいは禅僧が指先で「月」を指すようなこと

導くための地図は
あくまでも地図に過ぎない
言葉や概念そして理論なども同様だろう
「遭遇」するためには地図から離れなければならない

「汝スプーン(匙)となるなかれ」
という言葉のように
スプーンはスープを口に運ぶが
みずからスープを味わうことはできないままなのだ

宇宙に視線を向け
宇宙の起源やさまざまな謎を探求する際
宇宙のどこかにいるかもしれない
知的生命体との接触も想定されていたりもし

ビッグバンからの宇宙の起源から現在までや
宇宙の地図も描かれたりもするが
そうした探求もまたおそらく同様ではないか

宇宙への探求は
人類が宇宙のなかでいまどこにいるのかを
明らかにしたいということからなされるのだろうが

人類がどこにいるのかを
GPS的な地図で確認し示したところで
その「場所」が「どこ」なのか
意味を持ち得るだろうか

そもそも私たちにとって
宇宙のなかでの「いま」「ここ」は
いったい「いつ」で「どこ」なのか
たとえ座標軸のようなもので示されたとしても
その座標軸そのものが何を意味しているのか
それがわからないかぎり「遭遇」にはならないだろう

ひょっとしたら私たちは
いまここで常に
「未知」と「遭遇」を続けているにもかかわらず
それに気づけないままでいるのかもしれない

それに気づくために「地図」はあるが
「地図」が示してくれるだけでは
「遭遇」するには至らないのだから

■東辻賢治郎「地図とその分身たち㉔カルトグラフィック・シネマ」
 (群像 2023年11月号)
■ティモシー・フェリス(野本陽代訳)
 『銀河の時代(上・下)』(工作舎 1992.6)

(東辻賢治郎「地図とその分身たち㉔カルトグラフィック・シネマ」より)

「予定されたある時点、ある地点で三つの集団が合流する。三つの集団とは、形象(イメージ)によってその地点を指示された者の集団、座標によって指示された者の集団、および前者にそれらの指示を与えた者である。三者にはその地点を目指す三者なりの理由が与えられている。映画『未知との遭遇』(スティーヴン・スピルバーグ、一九七七年)はそんな物語である。
 第一の集団は、この映画の実質的な主人公ロイ・ニアリー(リチャード・ドレイファス)を含む、UFOとの接近遭遇へのオブセッションを抱えることになった人びとである。彼らにはその岩山が何を意味しているのかわからない。にもかかわらず、あるいはだからこそ、その岩山の実在を知った彼らは是が非でもそれを目指そうとする。
 第二の集団は、フランス人のUFO研究者ラコーム(フランソワ・トリュフォー)を代表とする研究者たちの集団、および彼らに現実的なオーソリティを与えている政府と軍である。彼らはUFO事象の調査や地球外の知性との接触に血道を上げているが、その意図や目的は、少なくとも彼ら自身のコミュニティを除いては映画の観客を含めて誰も明らかにされない。彼らは平時の市民的理性とは異質の企みを抱いた、匿名的で不透明な集団として描かれている。
 そして第三の集団は宇宙船で地球を訪れ、場所を指定して人類との接触を準備する知的生命体だが、彼らの意図や目的もまた明らかにはされない。彼らが「呼ぶ」前期の二つの集団および映画を観る者にとっては、彼らの存在こそが謎であり、すべてのオブセッションの源である。
 つまり彼らはみな、それぞれに特殊で説明のされない欲求や行動原理をもっている。それは最大公約数的かつ人間的ないい方をすれば好奇心なのかもしれない。」

「映画の全編を通じてラコームの通訳を務めることになるデヴィッド・ロフリン(ボブ・バラバン)は、この映画の主要な登場人物の中でただひとり正気を保っているように見える。(・・・)
 冒頭で証されるのは、そんなロフリンがもともと地図製作者だったことだ。
 (・・・)
 ロフリンが地図の作製を仕事にしていたという前提は、研究者が受信した数字の羅列が経緯度であることを彼が見出すという、映画の中の少し後の出来事の体験になっている(「フランス語通訳で雇われる前には地図を読んでいたのですが、この最初の数字は経度ですね」)。ワイオミング州のその地点は、まず経緯度の数字として、次いで地球儀の上で、最終的に軍の管理をする詳細な地形図の上で確定される。それはデビルスタワーという名の岩山に一致する。
 もう少し踏み込んでいえば、地図製作者が物語の前提として登場することは、岩山の形象に取り憑かれたロイ・ニアリーが理由もわからないままにデビルスタワーにたどりつく条件にも関わっている。なぜならテレビの画面でその岩山が実在することを知ったロイは、自動車に乗り、道路地図を見ながら現地を目指すことになるからだ。地図は地図をつくる者がいなければ存在しない。ただし、それらの地図が妄執に囚われたロイのよき導き手になってくれるかといえば、必ずしもそうではない。」

「ロイの地図は常に彼を混乱させ、目の前にあるものを見過ごさせる。地図がどこかにたどり着こうとする彼を導いているのか、それとも妨害しているのかも判然としない。ロイの車がまともな方向に走り出すのは、彼が地図を見ることを放棄したときだけだ。そのことはかなり明確に画面の中に表現されている。陳腐ないい方をすれば、視界に重ねるように広げられるそれもまた、映画のスクリーンのように目を奪う虚構(フィクション)なのだ。そもそも地図もまた投影と編集とフレーミングの産物なのだから。」

「この映画には、それぞれに地図との関係を生き、それゆえに地図をつくる者によって媒介され、結びつけられる者たちの物語が内包されている。影のように随伴する通訳=地図製作者と、スクリーンにちりばめられた数葉の地図が想像させるのはひとまずそんなことだ。
 さらに連想を広げるならば、無限遠の空という、映画におけるいわゆる神の視点にあるUFOの所在が同時に地図の視点であることも指摘できるかもしれない。地球の座標系を知悉しているばかりか、地上を暗闇に変えた後、自在に光の線を復活させてゆくそれが地図を描く存在と無縁であると信じることも難しい。」

「なお一九七七年のロイの不満に端的に表現されていた、私たちが地図と世界を同時に見ることができないという事情は現代においても変わっていない。現代の車内では地図が紙からスクリーン上の図像に変わり、GPSがリアルタイムに現在地を教えるようになった。映画で流れていたカーラジオや無線の代わりに音声ナビゲーションが運転を指示し、視界を遮る不透明な地図の代わりにヘッドアップディスプレイの類が情報を投写する。しかしそれらはやはり聴覚や視覚の代償を必要とする。」

(ティモシー・フェリス『銀河の時代』(下)〜「第18章 宇宙の起源」より)

「人間は昔から、宇宙の起源についてあれこれと考えるのをつねとしてきた。それは、人間という種の出生証明がないからだ、と私は思う。私たちは自らの出生を捜すようにできており、そうする過程で、自らがその一部であるもっと広い世界の起原をも考えなければならないことに気づくのである。しかし、考え出された宇宙創造説は、それが記述しているはずの宇宙よりも、私たち自身について多くを語っている。程度の差こそあれ、すべての推論が心理状態を反映しており、走馬灯に写し出される踊る影のように、精神から空へと外に向けて投影されたパターンである。」

(ティモシー・フェリス『銀河の時代』(下)〜「第19章 精神と物質」より)

「精神と宇宙との関係をどれだけ理解できるかは、私たち自身と比べることのできる、ほかの知的な種と接触できるかどうかにかかっているのかもしれない。」

「最近地球外生命に興味が集まっているのは、ほかにも新しい理由がいくつもあるがとくに、精神といった非現実的な概念にたよらずに、事象を物質との相互作用だけで説明できるという哲学的教義、唯物論が栄え、近年大勢をしめるようになった結果であると見ることができる。」

(ティモシー・フェリス『銀河の時代』(下)〜「第20章 なくならない謎」より)

「この本のなかで私は、地球というささやかな世界の住人である私たちが、(はるかに)大きい宇宙の確かな姿を、どのようにしてつなぎあわせていったかについて述べた。私はこの過程を「思春期」と表現したが、それは、何世紀にもわたる断続的な努力によって私たちが、宇宙についての基本的な事実のいくつかを、ついに理解し始めたことを意味している。」

「それでも、私たち人間が宇宙について知れば知るほど、いかに自分の知識が限られているかがわかるようになる。」

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