谷川俊太郎・田原・山田兼士 『詩活の死活/この時代に詩を語るということ』
☆mediopos-2447 2021.7.29
語り得ないものについては
沈黙しなければならない
のに
言葉はあまりにも饒舌で
科学もあまりにも饒舌で
語り得ないものが
偽の言葉で
埋め尽くされてしまう
詩は
ほんとうは言葉ではない
から
「沈黙と測りあえる」音楽のように
かぎりなく
沈黙に近づいていかなければならない
のに
語り得ないものを
語らなければならない
という
渾沌に穴をあけて
殺してしまうような
そんな野蛮を
生きていかなければならない
科学は
渾沌を殺してしまう野蛮にもなるけれど
詩は
みずからの内に
沈黙の泉を湛えることで
渾沌を生き延びさせなければならない
語り得ることなど
ほんとうはなにもない
なにもないところに
言葉という野蛮が生まれた
人間はそんな野蛮を生きている
そのことに気づけないとき
野蛮は生命力を超えた暴力となる
ファシズムとは
何かを言わせまいとするものではなく
何かを強制的に言わせるものだ
という
そんな暴力のように
■谷川俊太郎・田原・山田兼士
『詩活の死活/この時代に詩を語るということ』
(澪標 2020/10)
(「詩を書くことは私の天職である
−−−−谷川俊太郎書簡インタビュー(聞き手・田原)」より)
「田原/私はずっと、真の現代詩の言葉は騒がしいものではなく、沈黙しているものだと頑固に思っています。ここで谷川さんの若いころ書かれた「沈黙のまわり」というエッセイをふと思い出します。「初めに沈黙があった。言葉はその後で来た」と。なるほどと思うのです。「沈黙」は谷川さんの詩によく登場する言葉の一つです。例えば、佐々木幹郎さんに指摘されたように、「頼み」、「秋」、「『六十二のソネット』の「11」などの詩に用いられています。彼の言葉を借りて言えば「沈黙の巨大さに気づいたとき、詩はそのまわりを言葉で測ろうとするのだ」。その鋭い解読に感銘を受けています。現代詩と沈黙は母子関係のように見える一方、無関係のようにも見えますが、現代詩にとって、沈黙の本質は何でしょうか?
谷川/情報、饒舌が叛乱しているこの時代の騒がしさに拮抗する、静かで微妙で洗練された力とでも言いましょうか。言語を離れてさえ存続可能な広義のポエジーの源は、いつの時代にも沈黙にあると思います。禅における「無」の境地に喩えることもできるかもしれません。言語は人間のものですが、沈黙は宇宙のものです。その沈黙のうちには、限りないエネルギーがひそんでいます。」
(谷川俊太郎・山田兼士「詩について詩で語ること」より)
「山田/「苦笑い」なんかも、人類が滅びて核戦争があって、それでにポエジーは・・・・・・
谷川/詩は残ってる。
山田/活字もフォントも溶解して、最後の「世界は誰の思い出?」という疑問文が怖いですね。で、「詩はホロコーストを生き延びた」と、すごくさり気なくですけど、例のアドルノの言葉を踏まえてるんですよね。
谷川/そうです。
山田/「アウシュビッツの後で詩を書くことは野蛮である」っていう・・・・・・でもそれでも生き延びたじゃないか・・・・・・すごい回答ですね。
谷川/僕また最近、そのアドルノの言葉を引いてもう一つ書いたんですよ。短い詩なんですけど。
山田/そうですか。
谷川/それは要するに老詩人がね、文学賞をもらって演説してるんですね。まず彼はアドルノを引用して、アウシュビッツ後に詩を書くのは野蛮だと言っているけど、詩人には野蛮人の一面があったほうがいい、とその老詩人は言うんですね。僕はそういうふうにアドルノの言葉を読んでるところがある。
谷川/野蛮というのは生命力があるってことですからね。
山田/そんなことまで人間はやっちゃったんだという、それに対する批判ももちろんあるんですけど、認識の深さの問題ですね。そこを谷川さんは「ホロコーストを生き延びた」と一行で言ってしまう。次に、「核戦争も生き延びるだろう」なんて近未来を書いちゃう。しかも苦笑いしている。それから対応して、「その男」という詩があるんですね。これは、逆に詩の起源を探る−−−−「ビッグバンの瞬間に/もう詩は生まれていた/星よりも先に神よりも早く」。「その男」というタイトルですけど、そういう詩論を展開するのが「その男」なんですね。谷川さんとはイメージが違う、いかにもサラリーマン風の・・・・・どうも四元康裕祐じゃないかという気がして・・・・・・
谷川/いやいや(笑)、ちょっと違う、もうちょっと見知らぬ男で。
山田/ところがその男が語っている詩についての考えというのは、まさに谷川さんなんですね。
谷川/そうですね。僕がそういうふうに託しちゃう、というのかな。
山田/他人事のように「男はバーボンをお代わりする」なんて言いながら、実は自説を展開してらっしゃいますよね。で、「詩」が書いた−−−−つまり人間が書いたんじゃない、これは「詩」が書いた言葉だという。「詩」というのは自立した何かであって、私が書いたり誰かが書いたり、ましてやオリジナルの何かとか、そういうことではないと、これは若いころからの谷川さんの主張と重なっていますね。ネガティブ・ケイパビリティとか、ノンセルフとか、その延長と考えていいんでしょうか。
谷川/だと思います。自分の中にそういうものがあるから書けたんじゃないかと思いますね。」
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