見出し画像

細野晴臣・中沢新一 「精神の音楽を追い求めて」(『新潮』2024年9月号)/細野晴臣・中沢新一『観光』/中沢新一『チベットのモーツアルト』『精神の考古学』

☆mediopos3555(2024.8.13)

細野晴臣と中沢新一の対談
「精神の音楽を追い求めて」が
『新潮』2024年9月号に掲載されている
(2月14日、細野氏のスタジオで収録され
「波」2024年4月号に掲載されたもののロングバージョン)

話は主に
細野晴臣と中沢新一の出会い
YMOの音楽と三人の音楽性
昭和歌謡について
そして『精神の考古学』を書いた理由
といった内容で

細野晴臣の音楽と中沢新一の著作
そして二人の旅の記録『観光』など
ほぼ同時代的に享受してきた者としては
それらをつなぐエピソードの数々を楽しむばかりだが

そのなかからメモしておきたいところを
いくつかピックアップしてとりあげてみる

中沢新一はチベットから帰国して間もないころ
YMO「散開コンサート」(1983)で
編集者の後藤繁雄に連れられ細野晴臣と会う

中沢新一はチベットでの修行中
はじめてYMOの音楽を聴きそのなかでも
アルバム『BGM』(1981)が好きだったことから
最初の著作『チベットのモーツアルト』(1983)の装幀を
『BGM』のジャケットデザインを手がけた奥村靫正に依頼
あのカバーにある「オカメみたいな顔の絵」はそのときのもの

中沢新一と細野晴臣を結びつけたひとつは
精神世界への関心

当時「YMOと「ニューアカ」の繋がり」でいえば
片方には坂本龍一と浅田彰という左翼革命派がいて
細野晴臣と中沢新一はそれに対するというかたちで
メディアに仕立て上げられることになる

細野晴臣曰く「僕が精神世界に関する本を読んでいたら
「そんなの読んじゃダメだ」とよく注意された」とのこと

その後中沢新一は坂本龍一と
『縄文聖地巡礼』(2010)の旅を始めたりもするが

中沢氏によると坂本龍一は
「内面はとても素朴でナイーブ」で
「表向きこそ理論武装したいたけど、
本当は彼も昔からチベットやアフリカに関心があった人」で
「内側では不思議なもの、不合理なものが渦を巻いているのに、
そうしたものに触手を伸ばそうとするのを
外側のロゴスの鎧が防いでいるという印象があ」ったそうだ

坂本龍一は坂本龍一なりに
無意識からの働きかけのようなものを受けながら揺れていたようだ

「『縄文聖地巡礼』のときに坂本さんの内面の変化が見えて、
これからこの線を延ばしていくのかなあと予想していたら、
予想に反してその後は僕からすると
また西欧音楽に戻っていったように見え」たという
それが坂本龍一の個性でもあり限界でもあったのだろう

さてYMOの三人についてだが
中沢新一はこのように形容している

「YMOの三人は昭和歌謡の受け継ぎ方が
それぞれに違うんですね。
細野さんは昭和歌謡がかなりストレートに入っていて、
幸宏さんはもうちょっとソフィスティケートされている」

「坂本さんはやっぱり西洋音楽がベースにあって、
でも小泉文夫さんを通して知った、
プリミティヴィズムに向かう
モダニズムというもう一つの顔が覗いている。
タイプの違う三人が合体したから、
YMOがすごいものになった」と

昭和歌謡についての対話は特に興味深いし
ともすれば等閑にされがちなところかもしれない

「文藝春秋」本誌で昭和歌謡ベスト3のアンケートがあり
それに細野晴臣も中沢新一も回答したとのことだが
その記事を見て
「みんな本当の昭和歌謡を挙げていない」と
ショックを受けたという

昭和歌謡というものを「構造」として捉えてるのは
細野晴臣も中沢新一のほかには玉三郎のみ
(さすが「玉三郎」という感を強くする)

「昭和歌謡のベースになっているもののひとつは「追分」」で
「高音で歌う民謡がベース」にあり
「それを新しく発展させたのが三橋美智也や三波春夫」
「いまはその最終形態として細川たかしあたりがいる」
「演歌は朝鮮半島から入ってきた音楽だけど」
「日本人にはそれとは違う演歌が存在し」
「その代表格が八代亜紀」(中沢新一)

ちなみに中沢新一の上げたベスト3は
細川たかしの「望郷じょんから」
八代亜紀の「カスバの女」
藤圭子の「北の蛍」

細野晴臣は
島倉千代子「からたち日記」
花村菊江の「潮来花嫁さん」
春日八郎の「山の吊橋」
を挙げている
中沢新一曰く「昭和歌謡の責任を負っているような」
そんなところからベストを選んだようだ

「自分が生まれる前の時代の音楽の豊かさは、
掘っても掘っても掘りきれない宝の山」(細野晴臣)で
「一人の人間が体験した、たかだか十数年の間の
音楽なんかを持ち上げて語っちゃいけない、と思います。」
という

さて最後に
中沢新一が『精神の考古学』を書いた理由について

オウム事件の影響等もありこれまで書かなかったのを
「三年くらい前にちょっと体調を崩したとき」
「チベット人たちが僕に伝えたものが」
永遠に失われてしまわないようにと書き記した

とはいえあくまでも
宗教としてそれを伝えるのではなく
「低成長の時代に生きていくこれからの人のために、
ものを考えるためのベースを提示しておかなくちゃいけない」
そういう思いもあったという

■細野晴臣・中沢新一
 対談「精神の音楽を追い求めて」
 (『新潮』2024年9月号)
■中沢新一『チベットのモーツアルト』(せりか書房 1983/11)
■細野晴臣・中沢新一『観光』(角川書店 1985/6)
■中沢新一『精神の考古学』(新潮社 2024/2)

**(細野晴臣・中沢新一「精神の音楽を追い求めて」
   〜「最初の出会い」より)

*「中沢/細野さんに初めて会った頃、僕はまだチベット臭がプンプンだったでしょう?

 細野/もう随分前のことだよね。その頃の中沢さんはまだ学生っぽかった記憶がある。突然目の前に現れて。

 中沢/ぼくは帰国したばかりで、全然、日本にハマってなかったんですよ。あれはYMOの「散開コンサート」じゃなかったかな。1983年に武道館で行われた。

 細野/そう、中沢さんはそこに来てくれたんですよね。

 中沢/終演後に、編集者の後藤繁雄さんに連れられて舞台裏に行ったら、細野さんが楽屋の方から出てきてね。楽等から光がブワーっと射すような感じだった。輝いていましたよ。

 細野/そんなふうに見えてたんだ。でも、そんな感じで出会って、以来ずっと付き合いが続いているよね。一緒に何度も旅行しているし。

 中沢/実は僕はチベット修行に出かける前から、ずっと細野さんの音楽が好きだったんですよ。『トロピカル・ダンディ』(1975)や『はらいそ』(1978)をレコードで繰り返し聴いていた時期もある。当時、ブライアン・イーノもロキシー・ミュージックから脱退してソロで『Ambient 1:Music for Airports』を発表したりして、音楽が変わり始めてるな、というムードを感じていたんです。

 細野/まさにその時代だよね。」

「中沢/そんな意識でチベットで修行に入ったら、いきなり「音楽なんて聴くな」と言われてしまってな。「踊りもやるな」「本も読むな」と。

(・・・)

 中沢/最初はつまらないなあ、と思いながらもその教えに従っていました。ただ、僕は観光ビザで入っていたから、三ヵ月に一度はネパールを出なきゃいけなかった。(・・・)あるときインド北東部のダージリンという町に行ってみようと思ってね。
(・・・)
 町でカフェバーに入って、コーヒーを飲みながら本を読んでいたら「チャンチャンチャーン」というメロディが流れてね。結構いい曲じゃん、って思ったわけ。曲調はアジアっぽいけど、すごく新鮮な音で、それで店員に「これは誰の曲?」と聴いたら、彼は「あんな日本人でしょ、なに言ってんの?」って。「Y、M、O。いま大人気なんだよ」と、インド人から教えられたんです。
(・・・)
 面白いもので、そのあとネパールのカトマンズに戻ってお寺で話を聴いていたら、そこの人が「このあいだブライアン・イーノって人が来たよ」というんです。録音機を持ってね、と。
(・・・)
 僕もすっかり、インドで出会ったYMOのファンになってしまって。中でも『BGM』(1981)というアルバムが好きだったから、そのジャケットを手がけた奥村靫正さんに、日本に帰ってきてから書いた最初の本『チベットのモーツアルト』(1983)の装幀を頼みました。

 細野/『BGM』がYMOの最高傑作だというのは、僕も同じ意見です。確かにあればジャケットも良かったね。

 中沢/『チベットのモーツアルト』の打ち合わせのときに、奥村さんが僕の顔をじーっと見ていてね。しばらくして「思いついた」と彼が描いてきたのが、カバーに使ったオカメみたいな顔の絵でした。『BGM』とは全然ムードが違うんだけど、これはこれでいいなと思ってOKした。

 細野/あれは斬新だったな。

 中沢/そんな縁もあって、細野さんとは面識を得る前から、一度会っておかないと、と思っていたんです。」

**(細野晴臣・中沢新一「精神の音楽を追い求めて」
   〜「集合的無意識の現れ」より)

*「中沢/僕たちを結びつけた共通項のひとつは、精神世界への関心ですよね。

 細野/そう、僕がどの頃に一番読んでいたのは、人類学者であるカスタネダの著作でした。

 中沢/当時、YMOと「ニューアカ」の繋がりで言うと、一方には坂本龍一さんと浅田彰さんのペアがいた。彼らが左翼革命派で、それに対して細野さんと中沢は右派傾向を持つ派閥だというふうに、メディアに仕立て上げられちゃったわけです。坂本さんもかなり僕らのことを意識していましたよね。

 細野/批判されましたよ。僕が精神世界に関する本を読んでいたら「そんなの読んじゃダメだ」とよく注意された(笑)。

 中沢/僕は全然危険だと思ってませんでしたけどね。そもそも細野さんは左翼の洗礼を受けていない人でしょう?

 細野/そうなんだよね。学生時代も音楽のことしか考えずに、ずっとノンポリで生きてきた。

 中沢/それに比べると僕は父が共産党員だったし、家系的にも左翼の影響はあったわけですよ。でも自分の中には、日本の精神性や霊性、アジア的なるものに対する関心と、マルクス主義に対する関心が同時に存在していた。だから一方だけを切り取って「右翼」だとか「日本思想に傾倒している」だとか言われてしまうことには抵抗がありました。つまり、そんな形で細野さんと坂本さんの思想の対立があって、僕は断固として細野さんの側に立とうと思ったんです。

 細野/僕の方はたいして、対立してるなんて意識もなかったんだけどね(笑)。YMOの活動が終わってからは、奈良県の天川村に通って水の音を録って『マーキュリック・ダンス』(1985)を作ったり、楽しくやっていた。

 中沢/『マーキュリック・ダンス』なんて、まさにイーノだよね。やっぱり影響されていたわけですか?

 細野/影響されたよ、それは。それまで音楽の中で「アンビエント」という概念がなかったからね。アンビエントはイーノの発明でしょう。(・・・)

 中沢/そうやって、細野さんの音楽もまたすごいスピードで変化しつつある頃に、僕らは一緒に旅をしてきたわけですね。のちに『観光』(1985)としてまとまる企画ですが。」

*「中沢/思想や哲学がブームになったのも、当時の集合無意識の現れなんだと思います。左右を問わず、ずいぶん賑やかでしたよね。右の方からはその後、「新しい教科書をつくる会」がでてきて、話が妙に現実に引き戻されて味気なくなってしまったけど、元々は神道が入り混じったりする、活発な想像力があった。

 細野/奥深くて、論理化できない面白さがあったよね。今の若い人たちの「縄文ブーム」を見ると、昔の感覚がちょっと復活してきてるのかな、と思ったりもするけど。なんか熱気を帯びてるんだよ。」

**(細野晴臣・中沢新一「精神の音楽を追い求めて」
   〜「坂本龍一と高橋幸宏」より)

*「中沢/坂本さんは表向きこそ理論武装したいたけど、本当は彼も昔からチベットやアフリカに関心があった人でした。それを象徴するのが矢野顕子さんとの結婚で、彼女は、三味線を持ったシャーマンみたいな存在だったじゃないですか(笑)。

 細野/それは僕も思っていたけど、さすがに言わなかったな(笑)。確かに坂本くんは、理論で固めた表側に反して、無意識にそういったところに近づいていたのかもしれないね。

 中沢/僕からすると、内側では不思議なもの、不合理なものが渦を巻いているのに、そうしたものに触手を伸ばそうとするのを外側のロゴスの鎧が防いでいるという印象がありました。

 細野/そういえば、あるとき坂本くんに「一番怖いホラー映画はなに?」と尋ねたら、「『エルム街の悪夢』だね」という答えが返ってきて、面食らったことがある。僕からすると、あれはまったく怖くない、漫画のような映画だから。それを聞いて、すごく純粋な人なんだな、きっとまだ未経験のことがいろいろあるんだろうな、と思ったんだよね。その後、坂本くんが中沢さんと『縄文聖地巡礼』(2010)の連載を始めたときは、ちょっと驚いたけど、僕と立場が入れ替わったじゃん、って(笑)。

 中沢/坂本さんは9・11のあと、アメリカに嫌気が差して、日本に戻ってこようという気になっていたんですね。その延長線上で、縄文のような日本の土着的な文化に関心を持ったらしい。最初は坂本さんも、僕に恐る恐るコンタクトを取ってきました。昔あんなに悪口を言っちゃったしなあ、みたいな。でも、やりとりしているうちに、だんだん内面の素朴な人柄がよく見えてきて好感を持ち、一緒に旅をすることになった。外側につくっているイメージとは裏腹に、いい意味で内面はとても素朴でナイーブなんですよ。」

*「細野/僕も、YMOが83年に一度活動を終えてから、坂本くんは本来壊れやすいくらいのナイーブさを持っている人なのかもしれないなあと思うようになってきて、彼が言うことには乗ってあげようと、それからしばらくして同じ三人で『テクノドン』(1993)を作ったんです。最初は抵抗があったんだけどね。アンビエントばっかり聴いてたから。もう電子音楽なんてできないと思って。

 でも、坂本くんから「なんでもしますから」という手紙が来て、まあやってみようかと。しかし、いざニューヨークでレコーディングを始めたら、衝突が始まった。僕が作った「O.K.」という曲が、「歪んでいるじゃないか」と怒られちゃって(苦笑)。」

「中沢/ともあれ、『縄文聖地巡礼』のときに坂本さんの内面の変化が見えて、これからこの線を延ばしていくのかなあと予想していたら、予想に反してその後は僕からするとまた西欧音楽に戻っていったように見えました。別の可能性もあったかもしれないなあ、と思ったりもしました。あるいは、本当は、もっと先があったのに、残念ながら途中で終わってしまったのかもしれない。ただ、そうは言っても、坂本さんはやはり研究肌の人だから、縄文の遺跡を巡っても、細野さんとのときのような怪しげな話にはなっていきませんでしたけどね。

 細野/僕は研究はしないからなあ。そういう意味では、中沢さんは本能的なところと、研究者的なところと、両方がある珍しい人だよね。

 中沢/両刀使いなんです(笑)。一方で、高橋幸宏さんはどんな人だったんだろう? 僕は二回くらいしか会ったことがなかったけれど。とてもシャイな感じのする人でした。「僕はロッカーだから他の二人みたいに難しいことは言わない」みたいなところがあったなあ。ところで幸宏さんは90年代に、三橋美智也の「星屑の町」をカバーします。昭和歌謡史の中でもとりわけ重要なこの曲を、幸宏さんは自分流にアレンジして歌っていて。

 細野/はい、はい。やっぱり根っこにそういったものをちゃんと持ってる人だったからね。幸宏は。

 中沢/その曲を聴いて僕は、幸宏さんの中には江戸っ子が生きているんだな、と思いました。

(・・・)

 中沢/その意味でもYMOの三人はすごく面白い組み合わせだったわけですよ。細野さん自身は、おちゃらけの音楽も好きで、東京のおしゃれな部分と、江戸の土着的なおちゃらけの部分がどこかで繋がっているんじゃないかなと。

 細野/確かにね。それは自覚しているところもある。

 中沢/僕が見るに、YMOの三人は昭和歌謡の受け継ぎ方がそれぞれに違うんですね。細野さんは昭和歌謡がかなりストレートに入っていて、幸宏さんはもうちょっとソフィスティケートされているというのかな。

 細野/ロマンティックでもあるよね。

 中沢/そして坂本さんはやっぱり西洋音楽がベースにあって、でも小泉文夫さんを通して知った、プリミティヴィズムに向かうモダニズムというもう一つの顔が覗いている。タイプの違う三人が合体したから、YMOがすごいものになったんだな、と今にして思いますね。」

**(細野晴臣・中沢新一「精神の音楽を追い求めて」
   〜「ゾクチェンの奥義」より)

*「細野/なんで中沢さんは今になって、『精神の考古学』のような本を書こうと思ったの?

 中沢/「まだだなあ」という意識があったのがひとつ。それともうひとつは、オウム事件があったからです。今、修行のことを書いてもどうせ誤解されるに決まってるからと思って、冷凍保存していました。それが、三年くらい前にちょっと体調を崩したとき、もしもこのまま死んじゃったら、チベット人たちが僕に伝えたものが永遠に失われてしまう、それじゃいけないよな、と思ったんです。ただ、宗教としてそれを伝えていくのは嫌でした。いくらそこで語られる言葉が意味深いものであっても、教団や共同体の中で人間が正しい方向に導かれることはないと考えていますから。

 細野/それは僕も常々感じていることです。特に日本の宗教は底が浅いよね。」

*「中沢/今ある日本の宗教の団体は、本来は管理できないそうした熱烈な情動を、なんとか管理しようと思って作られたものです。

 細野/特に今の時代は、宗教が熱狂の方に行くことへの懸念をみんなが持っているわけでしょう。でも、集合的無意識の世界ではきっと違うことが起こっていて、僕はそれになんと言うか、希望を見ますね。

 中沢/僕もそうで、最近20〜30代の人たちの感覚や思考が変わってきているのを感じるんです。今の若者って、お金を使わないでしょう。その思想がもっと徹底的に生活の中で展開していけば、資本主義も変わっちゃうと思います。

(・・・)

 ですから、『精神の考古学』は、低成長の時代に生きていくこれからの人のために、ものを考えるためのベースを提示しておかなくちゃいけないと思って書いた面もあります。」

**(細野晴臣・中沢新一「精神の音楽を追い求めて」
   〜「昭和歌謡の本質」より)

*「中沢/このあいだ「文藝春秋」本誌で、昭和歌謡ベスト3のアンケートをやってたじゃない。五木寛之さんが企画したもので、僕らもそれぞれ回答した。

 細野/あの特集、読んでショックだったのよ。みんな本当の昭和歌謡を挙げていないじゃん、って。

 中沢/僕もそう感じました。細野さんと僕と玉三郎さんだけが昭和歌謡というものを「構造」として捉えてるなと思いました。他の人は、自分の青春時代の思い出話として書いているだけで。ユーミンの「中央フリーウェイ」は昭和歌謡じゃないでしょう。

 細野/あの曲はニューミュージックですよ(笑)。学者ですらそんな誤解をしているんで、ちょっとびっくりしちゃった。

 中沢/昭和歌謡のベースになっているもののひとつは「追分」です。高音で歌う民謡がベースにあった。それを新しく発展させたのが三橋美智也や三波春夫で、いまはその最終形態として細川たかしあたりがいる。演歌は朝鮮半島から入ってきた音楽だけど、僕は日本人にはそれとは違う演歌が存在したと思ってまして、その代表格が八代亜紀です。あと、うまさという点では藤圭子を外しちゃ悪いなと思って、アンケートでは細川たかしの「望郷じょんから」、八代亜紀の「カスバの女」、藤圭子の「北の蛍」という三曲を挙げました。細野さんは、もっと昭和歌謡の責任を負っているような人を選んでましたよね。

 細野/僕が選んだのは島倉千代子の「からたち日記」、花村菊江の「潮来花嫁さん」、春日八郎の「山の吊橋」の三曲だね。

 中沢/「やまのつ〜いるは〜しは〜」だよね、懐かしい。」

(・・・)

 音楽の底流があるんですよね。『精神の考古学』ではそれを「アフリカ的段階」と呼んでいるけれど、国家に組織されない、目に見えない底流があって、民衆の間に生き残っている。

 細野/そこに国境はないんだよね。

 中沢/そうです。その巨大大陸から生まれたものが各国で民謡だったり、歌謡曲だったりという形で現れているのであってね。そうした構図を考えないと、昭和歌謡という音楽の本質はわからない。一人の人間が体験した、たかだか十数年の間の音楽なんかを持ち上げて語っちゃいけない、と思います。

 細野/その通り。自分が生まれる前の時代の音楽の豊かさは、掘っても掘っても掘りきれない宝の山なの。

 中沢/思えば、細野さんはそれぞずっと追求してきた人ですよね。ワールドミュージックへの関心しかり。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?