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DISTANCE media(F6 記憶のケア)【対談】谷川嘉浩 × ドミニク・チェン―記憶をとりまくメディア環境はいまどうなっているのか?/【座談】 柴崎友香 × 谷川嘉浩 × 山本貴光 × ドミニク・チェン―わたしたちはこれから記憶をどう世話していけばいいのか?

☆mediopos3568(2024.8.26)

mediopos3531(2024.7.18)でとりあげた
DISTANCE media(F6 記憶のケア)のシリーズ
山本貴光「記憶という庭を世話する」と
【対談】柴崎友香×山本貴光「記憶をめぐるトーク#1」に続き
「#2」および「#3」をとりあげる
(対談・座談の模様はYouTubeで視聴できます)

「記憶をめぐるトーク#2」は
【対談】谷川嘉浩 × ドミニク・チェン
    記憶をとりまくメディア環境はいまどうなっているのか?

対談は谷川嘉浩の著書
スマホ依存への気づきから書かれたという
『スマホ時代の哲学――失われた孤独をめぐる冒険』の話からはじまる

そこで紹介されている概念のひとつが
ジョン・キーツの提唱した「ネガティブ・ケイパビリティ」
不確実なものや未解決のものを受容する能力のこと

「私たちは、わからないことをわからないまま
一旦キープすることができなくなっている。
あるいは、人が何かを語り出そうとしているときにも、
黙ってその沈黙を見つめることができなくなっている。
そんな落ち着きのない私たちには」
「ネガティブ・ケイパビリティが必要なんじゃないかと思った」という

続いて語られるのは
「身体」という「原初のメディア」と「コンピュータ」の対比

ドミニク・チェンは
「歴史を振り返ると、
人間とコンピュータの関係には興味深い反転があった」という

もともと人間の記憶とコンピュータの記録のあり方は
根本的に異なっているにもかかわらず
「あるときから私たちは、むしろ人間を
コンピュータに引き寄せて考えるようになってきた」

「私たちの身体は壊れたコンピュータみたいなもので、
現代はそこに、非常に合理的なツールである
コンピュータというものが融合しつつも、
摩擦を起こしている部分がどうしても残ってしまっている
――それが現状なのかもしれない」というのである

対話の終わりにはドミニク・チェンの頭に浮かんだという
「スマホは精神のコンビニ」という言葉から
スマホとコンビニの共通点について語られる

続く「記憶をめぐるトーク#3」は
【座談】 柴崎友香 × 谷川嘉浩 × 山本貴光 × ドミニク・チェン
    わたしたちはこれから記憶をどう世話していけばいいのか?

座談の最初に指摘されるのは
「現代社会においてはしばしば
コンテクスト(文脈)を欠きがちだ」ということ

「文脈が失われがちな時代に私たちが生きているからこそ、
あの人と話したのがいつ、どこでだったのか──
そうした記憶がこぼれ落ちていってしまう」のかもしれないという

逆に言えば「文脈を取り戻すことができれば、
記憶とよりよく付き合っていける」と
文脈を取り戻すためのアイデアについて語られる

続いてドミニク・チェンが提案するのは「移動」
「移動することによって、相手との距離や周りを見ながら、
私たちは自分を相対化することができる」

それは柴崎友香の挙げた「身体性」ともつながるもので
「スマートフォンばかり使っていると
記憶が鈍くなってしまうのは、そこに身体性がないから」だという

さらに谷川嘉浩は
「節目を入れる、区切れを入れるという要素が、
スマホには少ないんじゃないか」と
「儀式」の大切さについてふれている

会場からの質問に対しては
谷川嘉浩が「記憶をめぐるトーク#2」で紹介した
「ネガティブ・ケイパビリティ」についてあらためてふれられ
「「すぐに答えを出さない力」はいま、
私たち一人ひとりが身に着けなくてはいけない
能力だと言える」かもしれないという

そして「現代のメディアやアルゴリズムが
私たちを「思考停止」にさせようとしてくるなかで、
一人ひとりがそれに抗い、よりよく記憶の世話をしていくための
たくさんのヒントが語られ」る

「#2」および「#3」については以上だが
「じぶんで考える」ということは
たてまえとしてはよく語られるものの
実際のところ学校教育をはじめ各種メディアでは
むしろ「じぶんで考えてはいけない」かのように
さまざまな「答え」与えられるか
あるいはそれへの誘導がなされている

そこに「スマホ」が与えられることで
ますます「問い」のない「答え」が増殖し
「私が私である」ための「記憶」が
コンピュータのメモリのなかの記憶のようなものになっていく

かつて寺山修司は「書を捨てよ」といったが
いまや「スマホを捨てよ」と
言わなければならない時代になっているのかもしれない
ある意味ではスマホはドラッグのようにさえなっている

じっさい片手にスマホをもって歩いている人たちをみると
すでにはんぶん人間(もしくは「私」)を捨てている存在
あるいは新種の妖怪のようにも見えてくる・・・

■DISTANCE media(F6 記憶のケア)
 F6-2-2【対談】谷川嘉浩 × ドミニク・チェン
 ――記憶をとりまくメディア環境はいまどうなっているのか?
 F6-2-3【座談】 柴崎友香 × 谷川嘉浩 × 山本貴光 × ドミニク・チェン
 ――わたしたちはこれから記憶をどう世話していけばいいのか?
■谷川嘉浩『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』
 (ディスカヴァー・トゥエンティワン 2022/11)

**(「F6-2-2【対談】谷川嘉浩 × ドミニク・チェン
   ――記憶をとりまくメディア環境はいまどうなっているのか?」より)

*「第1部の「記憶と場所」に続き行われた第2部のテーマは、「記憶とメディア」。情報学研究者のドミニク・チェンさんと、哲学者の谷川嘉浩さんが、現代のメディア環境と記憶について語りました。」

・私たちには「ネガティブ・ケイパビリティ」が足りない

*「ふたりのトークは、谷川さんが書かれた『スマホ時代の哲学――失われた孤独をめぐる冒険』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の話題から始まりました。谷川さんがこの本を書かれた背景には、現代人の多くが――そして谷川さん自身も――スマホ依存に陥っているように見えたことがあったといいます。

 信号待ちをしている1分のあいだにも、友だちがトイレに行っている少しのあいだにも、スマホを取り出さずにはいられない。周りの人々がそんな行動をしていることに気付いたとき、谷川さんは愕然としたといいます。哲学は、2000年以上続いてきた長い視野を持つ学問。だからこそ別の学問分野とは違った視点で、「スマホ時代を考えるために哲学にできる仕事があるんじゃないか」――その気づきから『スマホ時代の哲学』は書かれることになりました。

 谷川さんが本書のなかで紹介する概念のひとつが、「ネガティブ・ケイパビリティ」。詩人ジョン・キーツが提唱した言葉で、不確実なものや未解決のものを受容する能力のことをいいます。

「私たちは、わからないことをわからないまま一旦キープすることができなくなっている。あるいは、人が何かを語り出そうとしているときにも、黙ってその沈黙を見つめることができなくなっている。そんな落ち着きのない私たちには、悠長さを取り戻すための旗印として、このネガティブ・ケイパビリティが必要なんじゃないかと思ったんです」

・身体は基本的にバグっている

*「続いてふたりは、人間が物事を記憶するために使う「身体」という“原初のメディア”と、現代において膨大な情報を記録するために使われる「コンピュータ」を対比することから記憶のあり方を語りました。

 歴史を振り返ると、人間とコンピュータの関係には興味深い反転があったとドミニクさんは言います。つまり、のちにAI開発につながる計算機科学の世界では、もともと“人間が考えるように”コンピュータに知性を持たせようとしてきたけれど、あるときから私たちは、むしろ人間をコンピュータに引き寄せて考えるようになってきた。だからこそ私たちは、「スペック」や「CPU」といったコンピュータ用語を人間の能力や知性を表現する際に使ってしまうのかもしれない、とドミニクさんは言います。

 ただ、元来人間の記憶とコンピュータの記録のあり方は、根本的に異なるもの。人間は簡単に物事を忘れてしまうのに対して、コンピュータは忘れることができない。コンピュータは検索やプロンプトをもとにしか情報を探せないのに、人間はふとした瞬間に、思い出したくもなかった記憶が蘇ることがある。

「だからコンピュータにたとえると、われわれの身体は基本的にバグってるわけですよ」とドミニクさんは言います。「私たちの身体は壊れたコンピュータみたいなもので、現代はそこに、非常に合理的なツールであるコンピュータというものが融合しつつも、摩擦を起こしている部分がどうしても残ってしまっている――それが現状なのかもしれないと思いましたね」

このほかにも、「吃音」から「忘れられる権利」、「文脈なきインターネット」「失われたオンラインの空間性」まで、さまざまなトピックに及んだふたりのトーク。最後には、これまでの対話を経てドミニクさんの頭に浮かんだ「スマホは精神のコンビニ」という言葉をもとに、スマホとコンビニの共通点が語られました。」

**(F6-2-3「【座談】 柴崎友香 × 谷川嘉浩 × 山本貴光 × ドミニク・チェン
   ――わたしたちはこれから記憶をどう世話していけばいいのか?」より)

*「小説家の柴崎友香さんをお招きした第1部の「記憶と場所」、哲学者の谷川嘉浩さんをお招きした第2部の「記憶とメディア」を経て、第3部では編集委員の山本貴光さん、ドミニク・チェンさんを含めた登壇者全員による座談会が行われました。第1部、第2部のトークを踏まえて、「では私たちは記憶をどのように世話していけばいいのか?」を、それぞれの体験をもとに語り合いました。」

・失われた文脈を求めて

*「登壇者それぞれも物忘れや大事な人の名前が思い出せない経験があるというなかで、まず指摘されたのは、現代社会においてはしばしばコンテクスト(文脈)を欠きがちだということでした。

 「フリクションレス(摩擦のない)」な体験が追求されたスマホやSNS。家に閉じこもり、代わり映えしないPCのスクリーンを通してしか人と話さなかった数年間。そのように文脈が失われがちな時代に私たちが生きているからこそ、あの人と話したのがいつ、どこでだったのか──そうした記憶がこぼれ落ちていってしまうのかもしれません。

 逆に言えば、文脈を取り戻すことができれば、記憶とよりよく付き合っていけるということ。座談会の前半では、登壇者それぞれが、文脈を取り戻すためのアイデアを語り合いました。

 ドミニクさんが提案をしたのは、「移動」。「移動することによって、相手との距離や周りを見ながら、私たちは自分を相対化することができる」とドミニクさんは語ります。それは、柴崎さんが挙げたキーワードである「身体性」ともつながるもの。どんなにオンラインでの体験が便利になったとしても、私たちは身体を使うことで頭も働かせている。スマートフォンばかり使っていると記憶が鈍くなってしまうのは、そこに身体性がないからでしょう。

 加えて谷川さんは、文脈を取り戻すためには「儀式」も大切なのではないかと言います。私たちは年末には1年を振り返り、春になれば卒業式や入学式を通して新たな季節を迎え、記憶をつくっていく。「そうやって節目を入れる、区切れを入れるという要素が、スマホには少ないんじゃないかと思うんです」。コロナ禍の2年間の記憶が曖昧なのも、区切りのない日常が続いたからにほかならないのかもしれません。」

・すぐに答えを出さない力

*「座談会では、登壇者たちが会場からの質問にも答えました。柴崎さんに寄せられた質問のひとつは、「震災やコロナのことを書かれている柴崎さんは、どうやって過去のことを忘れないようにしているんでしょうか?」。その質問に柴崎さんは、「忘れないようにしているのではなく、忘れられないことを書いている」と答えます。

 日々生活をしたり、人と会話をしたりするなかで、気になったこと、疑問に思ったことがあったら「ずっとそのまま置いておく」と柴崎さんは言います。そうして記憶のどこかにとどめていることが、時間を置いて育ち、別の記憶や体験とつながることで、小説になっていく。それは柴崎さんが最近取材で会った、特定できない植物をすぐに抜かずに、あえて置いておくようにしている庭師の姿勢にも近いといいます。

 わからないものと出会ってもすぐに答えを出すことなく、付き合っていく能力──それは第2部で谷川さんが紹介した「ネガティブ・ケイパビリティ」にほかなりません。素早いレスポンスや、はっきりとした意見や立場を表明することが求められがちなインターネット空間。そのなかで深く考えることなく、半ば自動的に応答し続けた先に、記憶が劣化し、分断やヘイトスピーチが助長される世界があるのだとすれば、「すぐに答えを出さない力」はいま、私たち一人ひとりが身に着けなくてはいけない能力だと言えるのかもしれません。

 一人ひとりが安易に判断を下さないためのフリクション(摩擦)を自分のなかに持ち続けること。物語を通じて、ときにバーチャルに、身体性を伴い、ときにフィジカルに、移動を続けて、他者と出会っていくこと。多岐にわたるテーマに触れられた90分の座談会では、現代のメディアやアルゴリズムが私たちを「思考停止」にさせようとしてくるなかで、一人ひとりがそれに抗い、よりよく記憶の世話をしていくためのたくさんのヒントが語られました。」

○【記憶をめぐるトーク➁】
谷川嘉浩×ドミニク・チェンーー記憶をとりまくメディア環境はいまどうなっているのか

○【記憶をめぐるトーク③】
柴崎友香 × 谷川嘉浩 × 山本貴光 × ドミニク・チェンーーわたしたちはいま記憶をどう世話していけばいいのか?


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