丸山俊一『連載 ハザマの思考3 情報と教養のハザマで』(「群像」)/ダニエル・C. デネット『心はどこにあるのか』
☆mediopos3285 2023.11.15
「教養」という言葉は
啓蒙的なイメージが付着しすぎていて
普通使われる意味では好きな言葉とは言いがたいが
ドイツ語の「Bildung」が
教養・形成・陶冶と訳されるように
人間的な成長を意味する言葉でもある
昨今は「情報」をいかに効率的に取得し
それを活用するかということが
ビジネス的にも重要になっているが
「情報」をどれほど蓄積しても
「教養」を身につけることにはならない
お手軽に「教養」のいいとこ取りをする
「ファスト教養」という言葉も注目され
その安易さが言挙げされてもいるが
それはある種の対象や目的に対する
効率的なアプローチ法として
必ずしも否定されるものではない
さまざまな議論を呼んでいるChatGPTとも
関わってくる側面も少なからずあるように
それはビジネスの領域だけではなく
教育の領域においても
むしろ「自分の頭で考えられる」人間を
いかに要請するかという問いを投げかけているといえる
「自分の頭で考えられる」ということは
現代のような「科学偏重」の「脳化社会」においては
「脳を鍛えよ、「脳」力を高めよ、
という教えに直結してい」きかねないが
ダニエル・C. デネットが
『心はどこにあるのか』で示唆しているように
「脳を主人と見なすのではなく、気難しい召使ととらえ、
脳を守り、活力を与え、活動に意味を与えてくれる
身体のために働くものだと考え」る必要がある
なにかを「理解」するということが
「腹に落ちる」と表現されもするように
身体全体が関わってはじめて知識が知恵になる
つまりは情報を教養にする身体知でもあるが
得られた情報はそのまま変わらないでいるのではない
「いつも異質なものと衝突し、取り込んでもいく」
「固定化された知識、ジャンルとしての教養、
そこから逃れ越境していく」ことが重要になる
そのとき情報は「思考の過程」において
「当初の見解」とは変化し
「メタレベルの高みへと登ることで、
異なる表現の形態を取る」ことになる
「教養は、いつも動きながら、歩きなから、
全身を没入させ身体の可能性を解放していく
過程の中にある」というのである
それゆえにその過程は
「安易に「わかる」ことを知性とするのではなく
「わからない」状態を楽しめる、自由な精神の運動」
でなければならない
ほんらいの意味のBildungとしての教養は
そうしたラディカルなものであってはじめて
「教養」で有り得るということができる
ChatGPTで可能なのは既存の情報を
「脳」的な思考範囲で編集するということである
それを「ファスト教養」として活用できるしても
それはあくまでも既存の「わかる」ための教養であり
「自由な精神の運動」であるとはいえないだろうから
■丸山俊一『連載 ハザマの思考3 情報と教養のハザマで』
(群像 2023年12月号)
■ダニエル・C. デネット(土屋俊訳)『心はどこにあるのか』
(ちくま学芸文庫 2016/10)
(丸山俊一『連載 ハザマの思考3 情報と教養のハザマで』〜「情報か? 教養か? 「自己啓発」の意味が変わる時代に」より)
「情報と教養、そのハザマにあるのは何か? ひとまず、「すぐ役に立ちそう」な知識を指すのが「情報」、「いつか役に立つかもしれない」学識、ものの見方や考え方を指すのは「教養」というところか。(・・・)「情報も教養も使いこなせる大人」は、その一つの達成の姿なのかもしれない。情報と教養のハザマで、人は成長を求め続ける。」
「自らの能力を開発し、眠っている力を解放することができたなら、それは悪いはずもない。精神的な充実感に包まれて、人間的な成長を実感することができたなら、それは素晴らしいことだろう。だが同時に、デジタル経済の枠組みが拡大するビッグデータ時代、すべてが数値化され指標に置き換えられていく潮流の中、その成長もまるで偏差値を伸ばすかのような感覚に囚われ、結局相対的な競争を強いられている錯覚に陥るのであれば、本末転倒だ。成長を目指す「自己啓発」競争が激しさを増し、そうした動向がネット上でもビッグテックのマーケティングの論理に補足されるようになると、だんだん悲喜劇的な逆説の中に入っていく。
「情報」の獲得競争がある種の貧しさをもたらすように見える今、「教養」をめぐる言説も変化してきている。」
(丸山俊一『連載 ハザマの思考3 情報と教養のハザマで』〜「「ファスト教養」の時時代へと到った理由」より)
「ファスト教養と名づけられることになった、二〇二〇年代に生まれた現象。それは、社会と個人との間にいかなる関係性を生むべきかという、実に古典的な、長い歴史の問題、近代社会以降の啓蒙の歴史の問題とも深く関わっているように感じる。
社会の潮流の変化の中、人は揺れる。個人は個人としてあるのではなく、様々な社会規範の中で人々の意識は形成されていく。手っ取り早い知の消費化へと人々が流され、知の「ファスト商品化」も進む。文明論的な転換期にあるという視点で、俯瞰して現状を眺める時、「ファスト教養」の話題を引き継ぐかのように、今年前半はあの新たなテクノロジーの登場がビジネス誌の特集記事でも持ちきりとなった。ChatGPTだ。」
(丸山俊一『連載 ハザマの思考3 情報と教養のハザマで』〜「「脳は主人ではなく、気難しい召使」に過ぎない?」より)
「画期的な新技術(ChatGPT)をめぐって議論百出。この人間の代わりに答えを出してくれるかの如き存在をめぐって、様々な識者たちから授けられる対抗策が誌面を飾った。そしてそれらの提言は、自ずからビジネスの範疇から教育の領域へも及び、「自分の頭で考えられる」人間の要請が肝要だという、ある意味、ずっと繰り返されてきたメッセージに再び光が当たった。
実際、「自分の頭で考える」というその感覚自体が、少しずつ失われていく世の中なのだ。(・・・)様々な知を外部化させ、情報取得の機能の少なからざる部分を頼ることが日常化している現代人。やはり、ここは、「自分の頭で考える」ことが大事だと再び言いたくなるのはよくわかる。
だがこのメッセージも奥行きと膨らみをもって捉えねば、ある種の罠となる可能性がある。そこで思い起こすのが、一人の異色の哲学者の言葉だ。
脳(つまり心)は数多い臓器の一つであり、比較的最近になって支配権を握ったという考えである。つまり、脳を主人と見なすのではなく、気難しい召使ととらえ、脳を守り、活力を与え、活動に意味を与えてくれる身体のために働くものだと考えないかぎり、脳の機能を正しく理解することはできないのである。
(『心はどこにあるのか』ダニエル・C. デネット 土屋俊訳 筑摩学芸文庫)
「脳化社会」とも呼ばれて久しい今という時代は、様々なビッグデータによる情報処理、そうした数値が、すべての真実であるかのように一人歩きして社会を席巻する。行き過ぎた「科学偏重」に対して一部では人文系の知の復権を唱えるような議論も生まれ、錯綜した様相も呈しているが、その多くの場合、脳を鍛えよ、「脳」力を高めよ、という教えに直結していく。
しかしそこに、「心の哲学の第一人者」と言われるデネットは、疑義を呈する。「脳を主人と見なすのではなく、気難しい召使」に過ぎないとするのだ。デジタルと人文知と、情報的領域と教養的感性のハザマを考えようとする時、「自分の頭で考える」=脳の反応/機能だけではないことを思い起こし肝に銘じよ、というわけだ。」
「人は無意識のうちに、心の、人格の所在を脳に求めるのだ。だが、そこから零れ落ちるものがある。
(・・・)
単に知識だけでなく行動に移せてこそ教養だ、という言い方が時になされるが、こうした身体性の議論まで視野に入れると、また別の納得感が生まれるだろう。ちなみに日本語のレトリックは奥深いもので、ちゃんと深くものごとを理解する時に、脳の格納庫である「頭」ではなく、〝「腹」に落ちる〟と表現する。知識が知恵になり、信頼全体に浸透していったこそ、情報が教養として熟成されるイメージがそこにある。」
(丸山俊一『連載 ハザマの思考3 情報と教養のハザマで』〜「「設計なき適応」による進化の中で「思考の形態」を発見する時」より)
「異色の哲学者デネットの論を通して、精神と身体の、情報と教養のハザマを考えてみたわけだが、数年前Eテレの特別番組でAIと人間の関係性をめぐって彼にインタビューを試みた際には、さらなる興味深い言葉を口にしてくれた。
「設計なき適応」こそが人類の進化の歴史の中心にあるというテーゼだ。デネットの着想の本質が集約されたこの言葉は、「脳化社会」への大いなる批判であり。脳の情報処理ですべての意思決定を行っているかのように思いがちな現代人へのあらためての警告だった。あくまで環境への適応を試みようとした「結果」が進化であり、脳の複雑化であるという順序を間違ってはいけない、というわけだ。だからこそ、そこで発揮されているのは、「理解力なき有能性」であるというユニークな表現もそこに加えられた。
そしてこの時、この考え方に現代人が馴染むのはとても難しいだろうということを彼が付け加えていたことも印象深い。なぜなら我々近代社会の教育の基本は、ほとんどの場合「理解力こそが有能性の根源」という正反対の考え方に支えられているからだ、と。」
(丸山俊一『連載 ハザマの思考3 情報と教養のハザマで』〜「時計の針が「逆戻り」する時代の精神の運動」より)
「教養的なマインドの真骨頂は思考の過程そのものにあり、情報として捉えた当初の見解が最終的には変わってしまう、メタレベルの高みへと登ることで、異なる表現の形態を取るということではないだろうか。山道を登って行く時に、同じ方向を一段また一段と、高いところから眺めることがある。山を取り巻く螺旋状の道を登れば、同一の位相からの光景に、少し異なる視界で何度も出くわすこちょになる。その時、もう一段高いところから見ることで、見えなかったものが見えてくたり、俯瞰する視野の中での相対的な位置関係がクリアになっていく。あの感覚だ。教養は、いつも動きながら、歩きなから、全身を没入させ身体の可能性を解放していく過程の中にあるのだ。そして、いつも異質なものと衝突し、取り込んでもいく。固定化された知識、ジャンルとしての教養、そこから逃れ越境していく時が楽しい。
環境への適応がたまたま生んだ、この高度情報化社会。そこでは、ひとまず脳を主体とする情報処理が最も求められる能力であり、実際、学校でも職場でもその能力への評価に重きが置かれることである程度機能してきた。しかし、今一度繰り返すが、あくまで、近代という時代、過渡期のデジタル社会という環境への結果としての脳重視、能力=脳力とでも言いたくなる状況が生んできたものだ。まるで、IT、AIの開発が折り返し点であったかのように、時代の針が逆戻りし始めたとも思える。もちろん、それは単なる「逆戻り」ではないことは明かだが。
こんな逆走を始めた感覚が頭をよぎる面白い時代に、最近はテレビ番組ばかりでなく。WEBコンテンツの制作にも関わることがある。そこでもテーマは新時代の教養だ。「LIBERARY」なるサイトで、ビジネスパーソンたちに、それこそ頭だけでなく全身で浴びるようにリベラルアーツの海に漕ぎ出してもらいたくて、森羅万象、自然科学、社会科学、人文科学・・・・・・、あらゆる学問領域の知の最前線を語ってもらう動画を揃えようとしている。その過程でも、やはり僕自身心躍るような感覚を覚えるのは、そこにある、ある種の跳躍の瞬間だ。様々なテーマで語られる知のハザマで、テーマからテーマへと飛ぶ過程でエウレカが沸き起こる。「ダンゴムシに心はあるのか?」という問いかけを受けとめ考えているうちに、「ビデオゲームの美学」が言語化できない現代のかけがえのない感性を照射していることに思いを馳せ、精神科医によって語られる「現代人が失った働く意味の取り戻し方」の話がいつの間にかつながってしまう・・・・・・という具合に、動画から動画へ、コンテンツ・サーフィンをしているうちに、様々な話に奥行きが生まれ、立体的に響いてくる。
情報と教養のハザマを、思う存分、時代の変化を頭からつま先まで、全身で真摯に受けとめていく覚悟があれば、「成長」を越えた「進化」が生まれることだろう。その状態を表現、描写する為には、自ずから新たな言語も要請されることになるのかもしれない。「情報」で捉えた、聖俗、硬軟、様々なジャンル分け、判断の背後にある価値観を疑い、そこに亀裂を走らせる「教養」は時に野性的で反文明的にすら見えることもあるだろう。安易に「わかる」ことを知性とするのではなく「わからない」状態を楽しめる、自由な精神の運動だ。新時代の情報と教養のハザマには、ラディカルな形容矛盾の世界が蠢いているのだった。」
○丸山/俊一
1962年長野県松本市生まれ。近代経済学からマルクス経済学まで、社会思想から現代思想まで幅広く学び、慶應義塾大学経済学部を卒業後、NHK入局。時代の潮流を捉えた異色の教養番組を企画、制作し続ける。現在、NHKエンタープライズ番組開発エグゼクティブ・プロデューサー。早稲田大学、東京藝術大学で非常勤講師も務める。
○デネット,ダニエル・C.
1942年生まれ。アメリカの哲学者。ハーヴァード大学を卒業後、オックスフォード大学にて博士号を取得。タフツ大学教授、同大学認知研究センター共同ディレクター。心の哲学の第一人者であり、認知科学者としても知られる