見出し画像

佐宗邦威『キャンベル 千の顔をもつ英雄』/ジョナサン・ゴットシャル『ストーリーが世界を滅ぼす――物語があなたの脳を操作する』

☆mediopos3518  2024.7.5

NHK100分de名著で
ジョーゼフ・キャンベル
『千の顔をもつ英雄』がとりあげられている

とりあげているのは
「戦略デザイナー、多摩美術大学特任准教授」の
佐宗邦威(さそう・くにたけ)

企業や組織向けの「戦略デザイン」や
マーケティング関係の仕事をされている関係で
ビジネス啓発調の語り口がベースとなってはいるものの
わかりやすく解説がなされている

『千の顔をもつ英雄』については
mediopos-415(2016.1.5)で紹介しているほか
キャンベル関係についても以下のとおり
これまで何度かとりあげたことがあり
それをふまえながら『千の顔をもつ英雄』が
示唆していると思われる重要な点を挙げておきたい

mediopos-160(2015.4.24)
ジョーゼフ・キャンベル+ビル・モイヤーズ『神話の力』
mediopos-745(2016.11.30)
ジョーゼフ・キャンベル『生きるよすがとしての神話』
mediopos2974(2023.1.8)
ジョーゼフ・キャンベル『時を超える神話』
ジョーゼフ・キャンベル『生きるよすがとしての神話』

さらにキャンベル関係ではないが
キャンベルの示唆する「物語」の重要性を考える際
「物語」がネガティブに働く場合のことをふまえ
mediopos2934(2022.11.29)でとりあげた
ジョナサン・ゴットシャル『ストーリーが世界を滅ぼす
――物語があなたの脳を操作する』からの視点も少しばかり・・・

まず佐宗邦威のとりあげている
『千の顔をもつ英雄』について
その主要な論点についてまとめておきたい

キャンベル『千の顔をもつ英雄』は
「古今東西の膨大な神話を比較・分析し、
世界の神話が持つ共通の構造を明らかに」していると同時に

「神話に見られる共通のパターンを詳しく解説し」
「その物語に仮託された人間の普遍的な欲求に迫」っている

キャンベルはユングの影響を深く受け
「ヒトの夢に代表される無意識の中には、
共通する「原型」があると考え」
「「神話」という物語群もまた、同様に
ある共通のパターンを内包しているということを、
世界中の膨大な神話の比較研究を通して分析」した

その共通のパターンとは
「主人公が日常から非日常へと旅立ち、
そこでいくつもの試練を乗り越え、
宝を手に再び日常へと帰還する」という物語の構造」で
その「英雄神話の一連の流れを整理した」
「「英雄の旅」の理論」は
スターウォーズなどの「「物語」のクリエーターに
幅広く影響を与えたと言われて」いる

「英雄の旅」の基本構造は
「行きて帰りし物語」とも呼ばれていて
以下の三つの段階に分けられている

 (A)「出立・旅立ち(セパレーション)」
     ↓
 (B)「通過儀礼の試練(イニシエーション)」
     ↓
 (C)「帰還(リターン)」

英雄はまず危険を冒しながら日常世界を離れ(A)
そこで「超人的な力に遭遇」する試練を乗り越え(B)
もとの世界に帰還しその得たものを還元する(C)

佐宗邦威はこうした「英雄の旅」の理論を紹介し

「大きな物語」をもたなくなり
「すべての意味は個人の中にある」時代を迎えている私たちが
「自分自身の物語」を描くことで
「内面的な成長」へと向かっていくためのヒントとなるようにと
テキストの巻末には
「「あなた版英雄の旅」デザインワークシート」
なるものが添えられている
(コンサル的なワークショップ風)

最初に少しふれたように
こうした「物語」化は役に立つと同時に
その陥穽の側面も意識しておく必要があると思われる

キャンベルは仏教的な視点もふまえてはいるが
あくまでもキリスト教的な(しかもプロテスタント的な)視点が
その根底にあるともいえるので
こうした「英雄の旅」をそのまま
無批判に受け取ることを控えておくことで
日本人にとっての「内面的な成長」にとっての齟齬が避けられる

「英雄の旅」にはエディプス・コンプレックスが
そのイニシエーションにおいて重要だとされているが
河合隼雄も日本人の「物語」について示唆しているように
欧米のそれと同様に受容できない側面がある

また戦略デザインといったマーケティングの視点には
その啓蒙的なありようそのものにアメリカンなバイアスがある
(これは数十年にわたり広告やマーケティングなどの
仕事の現場において個人的に常に実感させられたことでもある)

「物語」化そのものの危険性についてだが
ジョナサン・ゴットシャル『ストーリーが世界を滅ぼす』は
「ナラティブは私たちが世界を理解するために使う主要な道具だ。
しかしそれはまた、危険なたわごとをでっちあげる際の
主たる道具でもある」と示唆し

「共感を呼ぶストーリーテリングは
偏見を克服する最高の道具になる。しかしそれはまた、
偏見を作り上げ、記号化し、伝えていく方法にもなる」
としている

ストーリーテリング(物語化)は「必要不可欠な毒」
つまり「人間が生きるために必須だが、死にもつながる」のである

このストーリーテリング(物語化)についての視点は
必ずしもそのままキャンベルの
「英雄の旅」に重ねる必要はないだろうが
「大きな物語」にせよ
じぶんなりの「小さな物語」にせよ
その「物語化」はつねに両義的なものであることを
意識しておく必要があると思われる

共感するということは
その「影」として必ずそこには「反感」が生まれる
英雄の旅で得た「霊薬」は同時に
「毒薬」ともなり得るのだから

■佐宗邦威『キャンベル 千の顔をもつ英雄』(NHK100分de名著 NHKテキスト 2024/6)
■ジョーゼフ・キャンベル(倉田真木・斎藤静代・関根光宏訳)
 『千の顔をもつ英雄』(上・下)(ハヤカワ・ノンフィクション文庫 2015/12)
■ジョーゼフ・キャンベル『時を超える神話』(キャンベル選集Ⅰ 角川書店 1996.8)
■ジョーゼフ・キャンベル『生きるよすがとしての神話』(キャンベル選集Ⅱ 角川書店 1996.9)
■ジョーゼフ・キャンベル+ビル・モイヤーズ『神話の力』(早川書房 1992.7)
■ジョナサン・ゴットシャル(月谷真紀訳)
 『ストーリーが世界を滅ぼす――物語があなたの脳を操作する』
(東洋経済新報社 2022/7)

**(佐宗 邦威『キャンベル 千の顔をもつ英雄』〜「はじめに」より)

*「『千の顔をもつ英雄』は、古今東西の膨大な神話を比較・分析し、世界の神話が持つ共通の構造を明らかにした神話学の名著です。

 同時に、神話に見られる共通のパターンを詳しく解説した「物語論」でもあり、またその物語に仮託された人間の普遍的な欲求に迫る、人類学的な観点からも評価の高い著作です。」

*「C・G・ユングの心理学の影響を強く受けていたキャンベルは、ヒトの夢に代表される無意識の中には、共通する「原型」があると考えていました。その共通パターンには、民族や宗教を超える普遍性があり、固有の文化を背景に成立している「神話」という物語群もまた、同様にある共通のパターンを内包しているということを、世界中の膨大な神話の比較研究を通して分析しました。

 共通のパターンとは、「主人公が日常から非日常へと旅立ち、そこでいくつもの試練を乗り越え、宝を手に再び日常へと帰還する」という物語の構造で、キャンベルはこれを「単一神話論=モノミス(monomyth)」と名づけました。その「単一神話論」に基づいて、英雄神話の一連の流れを整理したのが「英雄の旅」の理論です。(・・・)この理論は、現在に至るまで映画や小説といった「物語」のクリエーターに幅広く影響を与えたと言われています。」

*「現在は、「大きな物語がなくなった時代」と言われます。世界各地に神話は伝承されていますが、そこにリアリティを感じている人はほとんどいないでしょう。欧米諸国であれば、かつてはキリスト教が絶対的な生きる指針として存在し、日本でも神仏が心の拠り所となっていた時代がありました。しかし資本主義の時代からグローバル化の時代を経て、さらにインターネットが普及していくなかで、誰にとっても拠りどころとなる「大きな物語」は、分化・多極化し、あるいは失われてしまった————そう言ってよいでしょう。

 しかし、それでも私たちは、物語がなくては生きていけません。それは誰かが用意した「大きな物語」ではなく、私たち一人ひとりの、あるいは家族、学校や会社といったつながりとの間で生まれる「小さな物語」です。

 物語という枠組みを一切持たずに漠然と生きるのは、人生を目的なしに生きるようなもので、ともすれば迷子になりかねません。「自分自身の物語を生きている」と感じられることで、人は自分の日々に意義を実感することができます。結果として、生きることの手応えが得られ、人生の充実度・満足度は確実に高まるでしょう。

「英雄の旅」のモチーフは、神話に登場する英雄が直面する(異世界も含む)遠い世界の冒険ですが、それは実は、人間の「内面的な成長」の過程と捉えることができるのです。」

**(佐宗 邦威『キャンベル 千の顔をもつ英雄』〜「第1回 神話の構造「行きて帰りし物語」」より)

*「神話に登場する英雄は、慣れ親しんだ世界を出て、数々の試練を乗り越え、帰還をするプロセスの中で霊薬を得ます。霊薬とは、試練を乗り越えることで勝ち得た報酬、宝物のようなものです。英雄にとってより重要な報酬は、自分の内面に眠るビジョンであり、これを発見し、ない目的な成長を果たすという物語こそが「英雄の旅」なのです。

 ということは、「英雄の旅」という神話は、決して古の神々や英雄、あるいはスティーブ・ジョブズのような「現代の偉人」たち〝だけ〟の物語ではなく。私たち一人ひとりの内面をめぐる旅、内面的な成長の物語として捉えることができるのではないでしょうか。」

*「キャンベルは各国の神話、なかでも説くに「英雄」の登場する神話を比較・分析し、共通の普遍的構造=パターンがあると述べています。それが「英雄の旅」と呼ばれるもので、一言で言えば「行きて帰りし物語」という大きな構造のことです。」

*「「行きて帰りし物語」とは、「現在の世界」から「彼岸の世界」や「夢の世界」など、慣れ親しんだ「今・ここ」とは別の世界へと赴き、さまざまな成果や宝物を手に帰還する旅の道程です。この基本構造が世界中のさまざまな神話の物語に共通していることは、『千の顔をもつ英雄』で明らかにされていきます。

「英雄の旅」の基本構造である「行きて帰りし物語」は、大きく三つの段階に分けられます。

(A)「出立・旅立ち(セパレーション)」
     ↓
(B)「通過儀礼の試練(イニシエーション)」
     ↓
(C)「帰還(リターン)」

 英雄はまず、危険を冒してまでも、日常世界から人為の遠く及ばぬ超自然的な領域に出掛けていきます(A)。次いで、そこで超人的な力に遭遇し、さまざまな変転はあるものの、最期は試練を乗り越えて決定的な勝利を収める(B)。英雄は、この不思議な冒険から帰還し、試練を乗り越えたことで得た報酬をもとの世界に還元するのです(C)。」

**(佐宗 邦威『キャンベル 千の顔をもつ英雄』〜「第2回 冒険への合図にどう気づくか」より)

*「私たちは、つい自分がよく知っている世界に安住してしまいがちです。そんな人間の本質を理解していたからでしょう、先人は、若い人を異なるステージへ送り出すことで成長させるさまざまな「儀式」を用意してきました。(・・・)若者たちは、慣れ親しんだ世界から出立せざるを得ない儀式があることによって、自立する契機を得て、共同体に受け入れられていくのです。

 しかし現代社会は、多くのところで儀式なき時代を迎えたと言ってよいでしょう。社会の近代化に伴い、そのような儀式は前時代的であるとして退けられ、忘れられつつあります。加えて、平均寿命が伸びたことで、明確な自立を自覚することなく、長い人生を惰性的に過ごすことを余儀なくされている側面もあるかもしれません。」

「そんな儀式なき時代を生きる私たちは、時に、自分を変化させるための手段を自分で考え、実行するように努めることが必要なのではないでしょうか。そのように意識的になることで、仮に退屈で変わらぬ日々を送っていたとしても、自分の身の回りにある旅立ちのサイン(冒険への召命)に気づき、「新しい自分」への一歩を踏み出すきっかけが得られるかもしれません。」

**(佐宗 邦威『キャンベル 千の顔をもつ英雄』〜「第3回 イニシエーション————試練をどう乗り越えるか」より)

*「神話におけるイニシエーションは、主人公にとって、時に死の淵をさまようようなハードなものです。この「死」とは、私たちの現実に置き換えて読むならば、これまでの人生をリセットさせるほどのインパクトを持った体験をすること、いわば「仮想的な死」として捉えることができます。」

「その鍵は、「自分の限界に挑戦する」ところにあると思います。何をきっかけにするか、何に取り組むかは人それぞれだと思いますが、「召命」のサインを探すのみならず、自分から変容のきっかけを作り出すことにも挑んでみてください。」

**(佐宗 邦威『キャンベル 千の顔をもつ英雄』〜「第4回 帰還————社会への還元」より)

*「かつては、「宗教」のような大きな物語の存在によって、あるいは、それに依拠することによって、私たちの社会は安定し、集団が保たれていた。しかし、すべての意味は一人ひとりの内にある時代になり、その内容自体も完全に見失われ、ゆえに現代人は迷子になっているのだ————キャンベルはそのように主張しているのだと思います。」

*「「すべての意味は個人の中にある」時代において、英雄とはどのような存在なのか————。それについてキャンベルは、この本のいちばん最後に、ニーチェの言葉「生きよ、あたかもその日が来たかのように」を引用しつつ、非常に凝ったレトリックで綴っています。

 私なりにそれを解釈すると、「大きな物語」が存在しない時代においては、私たちは、それぞれが自分の運命のようなものを探しつつ、個人として試練に耐えながら旅をする必要がある。そして最終的には、試練の旅によって得た宝を社会に還元し、恵みをもたらす存在となる必要がある————そのように述べているのだと思います。つまり英雄とは、自分の身を投げ打って社会に恵みをもたらし、利他的存在だと定義することができます。」

**(ジョーゼフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』より)

*「現代に生きる人間の課題は、絶大な統合機能を持つ神話ーー現代では「作り話」とされるーーが語られていた、相対的に安定した時代を生きた人間の課題とは正反対なのである。かつて、意味はすべて集団の内部、巨大で無名のかたちの中にあり、自己表出する個人の中にはなかった。ところが現代社会では、意味は集団の内部にはなく、世界にもない。すべての意味は個人の中にある。しかし、その意味も完全に見失われている。そのため現代人は、どこに向かって進めばよいのかわからない。自分を駆りたてるものが何なのかわからない。人間の意識と無意識の領域をつなぐ線はすべて断ち切られ、私たちは二つに分断されている。

 現代においてなされる英雄の偉業は、ガリレオの時代におけるそれとは異なっている。かつて暗かった場所は、いまでは光がさして明るい。ところが、かつて明るかった場所は、いまでは暗い。調和する魂は住まっていた、失われたアトランティスに、再び光をともす旅に出る行為こそ、現代の英雄がなすべきことなのである。/現代の英雄がこの任務を遂行するとき、近現代の革命によって達成されたものに背を向けたり、目をそむけたりするわけにはいかない。なぜなら、英雄の課題はまぎれもなく、精神的に意味あるものを現代社会にもたらすことだからだ。あるいはむしろ(同じことを別のいい方で言えば)、男性・女性を問わず、現代の生活を通して人間的に十分に成熟させることだからである。現代の生活では事実上、古代のやり方を役に立たないもの、人を惑わせるもの、あるいは有害なものとさえみなしてきた。現代の共同体は、いわば地球共同体であり、国境で区切られた国家ではない。そのため、かつては集団内のグループを調整するのに役だっていた攻撃パターンが、現代では逆にグループを分裂させるものとなっている。トーテムのように国旗を掲げる国家の理念は、幼児的な状況を打ち破るのではなく、幼児的なエゴを増幅させるものとなっている。軍事パレードの会場で見られるパロディ的な儀式は、「権力亡者」である専制君主の龍が目的を遂げるには役立つが、利己心を滅ぼす神の役には立たない。無数の反儀式聖者、つまり自分の写真を旗で飾り、公式的な聖画としてどこにでも飾りたがる愛国者たちは境界の番人であり、これは英雄が最初に克服しなければならない問題でもある。」

*「新たな象徴が可視化されるとき、その象徴は地球上のさまざまな場所で違って見えるということである。生活のありかた、暮らしている人、伝統といった環境的要因が、すべて効果的に組み合わせられねばならない。その結果、さまざまな象徴を通じて誰にでも同じ救済がもたらされることを理解し、見抜くことが必要になる。『ヴェーダ』には次のように書かれている。「真実はひとつ。人はそれにたくさんの名前をつけて語る」一曲の歌があらゆる音階で歌われている。したがって、部分の解決に役立つものをいくら喧伝しても意味がない。それは逆に脅威となる。あらゆる人の顔に神の顔を見ることが、人間となるための方法なのである。」

**(ジョーゼフ・キャンベル『生きるよすがとしての神話』より)

*「「要するに神話とは、いや、神話と宗教とは、偉大なる詩です。そのように認識することができれば、それらは事物を超えて、あらゆるところに散らばっている「聖なる存在」や「永遠性」を当然のように指し示すのです。そして、そのような「永遠性」は各個人のなかで完全なる全体として存在しています。すべての神話や偉大な詩、すべての神秘的な伝統は、このような態度を持っているという点で同じものなのです。そして、こんなふうにインスピレーションを与えてくれるヴィジョンがまだ効果的に生きている文明においては、すべてのもの、すべての生き物は、その範囲内でいきいきと活動しています。」

「新しい神話とは、昔から語り継がれてきた、永遠性のある、不朽の神話を、それ自体の<主観的な意味で>詩的に再生したものです。それは記憶に残っている過去のことや、予想される未来のことではなく。現在のことを詩的に語ったものでなければなりません。このことは、私たち人類が地球に存在する限り変わらないでしょう。新しい神話は、ある特定の「民族」のちょうちん持ちをするために書かれたものではなく、人々を目覚めさせる神話です。人間がただ(この美しい地球上で)領域を争っているエゴどもではなく、みなが等しく「自在な心」の中心なのだと気づかせる神話です。そのような自覚に目覚めるとき、各人はそれぞれ独自のやり方で万人や万物と一体となり、すべての境界は消失するでしょう。」

**(ジョーゼフ・キャンベル『生きるよすがとしての神話』
   〜「月報2[対談]河合隼雄・中沢新一」〜「多神教の倫理」より)

*「中沢/日本や中国は、モナドを自分の中に内包したまま、長いこと歴史の中で発展してきた。それがいま窓を開け始めている。窓を開けると当然、モナドが持っていた独自性は解体を起こすわけです。地球全体がグローバル・ヴィレッジに向かっている。その時、人類にとっての神話形態はどうなのかというのを作り出さなければいけないというのがキャンベルの主張だと思うのね。科学技術と神話が背中合わせの関係にある現在、ある種の神話形態は科学技術で作られているわけです。たとえばインターネット。

 河合/そうそう。

 中沢/この世界は第一言語みたいなものを生んでいる。ぼくらはいま日本語で考えているけれども、十数年前からものすごく変わってると思うんですね。以前の日本語の表現だと、もっとまどろっこしい、複雑な感情伝達をしていたと思うんです。それがみんな消えているんですね。チョベリバ、なんて言われちゃったら、あれ? みたいあね(笑)。以前はそてに相当することは、かなりぐちゃぐちゃ言わないと言えなかったから、あの女の子たちはまどろっこしいと思って、チョベリバ、にしちゃってるんだと思うのね、それを聞いて日本語の崩壊とか解体という危機感を持つよりも、むしろ日本語はそういう欠点を持っていたんだと思ったほうがいいと、ぼくは思います。異本語は、ある部分が消えはじめてて、英語とコンパティブルがきく部分だけが通用する言語になりつつある。だから文学も変わりはじめているわけですね。今までみたいなニュアンスの部分や日本語のモナドの中にしか意味を持たない部分の表現は、読者がそれを何か自分の人生にとって意義あるものとは認めなくなっちゃってるわけですね。それはさっき言ったグローバル化ということと関わっている。だけど、キャンベルが言わんとしているグローバル化というのは人間の心の内面の普遍性ということです。ここがものすごく難しいところで、人類の普遍性を神話の形で表現しようとしたとき、果たして人間の心の普遍性を掴み出すことができるのかどうか。確かにキャンベルの思想はいま地球上で実際に起こっていることと対応しているんですが、それには裏の面が必ずついてまわる。それが最初に起こったのは、十六世紀でしょう。イエズス会師たちが南米へ出たとき、全人類が同じ言語で同じ論理で語るような世界をつくり出すというのが啓蒙の理想だったわけだから。それが、まあ、挫折しましたね。河合さんは人類の心というのは何国人であろうが普遍的なある心の層を抱えているとおっしゃってますよね。

 河合/ええ。ただ、普遍的なものがあると前提するというのは、そもそもキリスト教から来てるという気はしますね。結局、ぼくらは多神教のなかにいて、神さんがたくさんいるわけだから、極端に言うと、ぼくの神さんと中沢さんの神さんはちがうわけです。ぼくがずっと課題にしているののは、背後にいる神が異なる人間はいかにして共存が可能かということなんです。つまり多神教の倫理ということなんですが、これはものすごう難しい。アメリカから一ぺん倫理について書いてくれと言われたときに、多神教の倫理を書くと言ったら、それはものすごく面白いというか、絶対に書くと言うた。けれどの、一神教の倫理では書くといったら書くけども、多神教の倫理でいくと、書くといったって書かないときもある(笑)。

 中沢/人格は変わりませんしね(笑)。

 河合/そのまま、書かなかった(笑)。書けなかったんですけどね。今でも「多神教の倫理」というのが念頭にあります。ぼくはアメリカ人によく言うんだけど、アメリカは自由主義で、個人主義の国だけれども、結果的にみんな同じことをしておられると(笑)。あの自由主義、個人主義というのは、個人が自由に唯一の正しいことをしようと思うんですね。だから皆同じになるんです。あれはもう超えないかんですね。

 中沢/その分裂というか、アジア人にはそれを受けいれない何かがあると思いますね。仏教なんかは、そういう意味では多神教の倫理を考えるのに一番いいものなんですね。

 河合/考えたら、キャンベルさんも書いてますよ。キリスト教の問題は、宗教のくせに倫理を一番はじめに押し立ててくるというところなんです。そうでしょう。アダムとイブのところで善悪というのがあるのだろうけど、日本の神話なんてどれみたって善悪は書いてないですね。

 中沢/神様たちはいいかげんですから、河合先生と同じでね(笑)。」

**(ジョーゼフ・キャンベル+ビル・モイヤーズ『神話の力』より)

*「モイヤーズ/私は先生のご本ーー例えば『神の仮面』や『千の顔を持つ英雄』ーーを読むことで、神話は人間が共通に持っているものを明らかにしてくれるという事実を理解するようになりました。神話は、われわれがどんな時代にあっても、真理を、意味を、重要な価値としを探し求めている、その物語です。みんなが、われわれの物語を語り、またそれを理解しなくてはなりません。われわれはみな死というものを理解し、死に対処しなければなりません。そしてだれもが、誕生からおとなへの、それからまた死への過程において助けを必要としています。みんな、生命の意義を知り、永遠なる存在に触れ、神秘的なものを理解し、自分が何者であるかを発見する必要があります。

 キャンベル/人々はよく、われわれみんなが探し求めているのは生きることの意味だ、と言いますね。でも、ほんとうに求めているのはそれではないでしょう。人間がほんとうに求めているのは、<いま生きているという経験>だと私は思います。純粋に物理的な次元における生命経験が自己の最も内面的な存在ないし実体に共鳴をもたらすことによって、生きている無常の喜びを実感する。それを求めているのです。結局そこがいちばん肝心なところです。私たち自身のうちにそういう喜びを見出す助けとしてこれらのかぎがあるのです。

 モイヤーズ/神話はなにかを解くかぎだといっしょる?

 キャンベル/神話は、人間生活の精神的な可能性を探るかぎです。

 モイヤーズ/自己の内面において知ったり、経験したりできることの?

 キャンベル/そうです。

 モイヤーズ/先生は神話の定義を意味の探求から意味の経験にお変えになったわけですね。

 キャンベル/生きているという経験です。意味は知性に関わるものです。(…)私たちは外にある目的を達成するためにあれこれやることに慣れすぎているものだから、内面的な価値を忘れているのです。<いま生きている>という実感と結びついた無常の喜びを忘れている。それこそ人生で最も大切なものなのに。」

**(ジョナサン・ゴットシャル『ストーリーが世界を滅ぼす』
   〜「序章 物語の語り手を絶対に信用するな。だが私たちは信用してしまう」より)

*「たしかに、ナラティブは私たちが世界を理解するために使う主要な道具だ。しかしそれはまた、危険なたわごとをでっちあげる際の主たる道具でもある。

 たしかに、物語にはたいてい、向社会的な行動を促す要素がある。しかし悪と正義の対立という筋立て一辺倒であることによって、残酷な報復を求め道徳家ぶって見せたい私たちの本能を満足させ、つけあがらせるのもまた物語だ。

 たしかに、共感を呼ぶストーリーテリングは偏見を克服する最高の道具になる。しかしそれはまた、偏見を作り上げ、記号化し、伝えていく方法にもなる。

 たしかに、人間社会の善なる部分を見出すのに役立った物語の例は数えきれないほどある。しかし歴史を顧みれば、悪魔的な本性を召喚してしまったのも常に物語だった。

 たしかに、物語には種々雑多な人間たちを引き寄せて一つの集団にまとめ上げる、磁石のような働きがある。しかし物語は異なる集団同士を、ちょうど磁石の斥力のように反発させ合うのにも中心的な役割を果たす。

 このような理由から、私はストーリーテリングを人類に「必要不可欠な毒」だと考えている。必要不可欠な毒とは、人間が生きるために必須だが、死にもつながる物質をいう。例えば酸素だ。呼吸するすべての生き物と同じように、人間は生きるために酸素を必要とする。しかし酸素は非常に危険な化合物でもあり(ある科学者は「有害な環境毒」と言い切っている)、私たちの体に与えるダメージは一生の間に累積すると相当なものになる。」

*「物語が全人類を狂気に駆り立てている、という私の言葉が意味するのは、次のようなことだ。私たちを狂わせ残酷にしているのはソーシャルメディアではなく、ソーシャルメディアが拡散する物語である。私たちを分断するのは政治ではなく、政治家たちが楔を打ち込むように語る物語だ。地球を破壊する過剰消費に私たちを駆り立てているのはマーケティングではなく、マーケッターが紡ぎ出す「これさえあれば幸せになれる」というファンタジーだ。私たちが互いを悪魔に仕立て上げるのは無知や悪意のせいではなく、善人が悪と戦う単純化された物語を倦むことなくしゃぶり続ける、生まれながらに誇大妄想的で勧善懲悪的なナラティブ心理のせいだ。」

*「政治の分極化、環境破壊、野放しのデマゴーグ、戦争、憎しみ─文明の巨悪をもたらす諸要因の裏には必ず、親玉である同じ要因が見つかる。それが心を狂わせる物語だ。本書は人間行動のすべてを説明する理論ではないが、少なくとも最悪の部分を説明する理論である。

 今、私たちがみずからに問うことのできる最も差し迫った問いは、さんざん言い古された「どうすれば物語によって世界を変えられるか」ではない。「どうすれば物語から世界を救えるか」だ。」

**(ジョナサン・ゴットシャル『ストーリーが世界を滅ぼす』
   〜「第5章 悪魔は「他者」ではない。悪魔は「私たち」だ」より)

*「歴史上の悪者と加害者に対して、私たちは共感をもって想像することができない。奴隷商人、異端審問官、アメリカ大陸征服者、虐殺者たちに対しては、神の恩寵がなければ自分がああなっていてもまったくおかしくなかったということを私たちは認めようとしないだろう。悪魔は「他者」ではない。悪魔は私たちだ。彼は同じ環境に生まれていれば私が——あなたが——なっていたかもしれない人物なのだ。」

**(ジョナサン・ゴットシャル『ストーリーが世界を滅ぼす』
   〜「終 章 私たちを分断する物語の中で生きぬく」より)

*「最も重要な一歩は、私たちを分断する物語の中を歩くためのもっと寛容な規準を作ることだ。私は次のように提案したい。

  物語を憎み、抵抗せよ。

  だがストーリーテラーを憎まないよう必死で務めよ。

  そして平和とあなた自身の魂のために、物語にだまされている気の毒な輩を軽蔑するな。本人が悪いのではないのだから。

 自動的に物語を消費し制作する私たちの脳のあり方をコントロールするのは難しいだろう。結局は失敗する可能性もある。人類という種の誕生にひと役買ったストーリーテリングの本能は、私たちに牙を剝き絶滅させるかもしれない。だが、もし危険が実在せず、解決策が簡単に手に入るようなら、英雄は必要ない。

 勇者たる読者よ、これが冒険への誘いというやつだ。」

いいなと思ったら応援しよう!