見出し画像

岩野卓司『ケアの贈与論』(連載第3回〜第5回)/バタイユ『呪われた部分』/平川克美『俺に似たひと』『21世紀の楕円幻想論』/クロポトキン『相互扶助論』

☆mediopos3546(2024.8.2)

「法政大学出版局◉別館(note)」で連載されている
岩野卓司『ケアの贈与論』

第1回・第2回については
mediopos3479(2024.5.27)でとりあげているが
今回は第3回〜第5回について

まず前回の内容をふりかえっておく

連載は「ケア」の倫理が「贈与」の思想と結びつけられ
「来るべき共同体」の可能性について考察されている

「ケア」の問題を探求する際には
障がい者との関係における
「根源的な共同性」に向き合わざるをえないが

それが成立するためには
「他者との非対称な関係」
「ケアの倫理」
「共同体(性)をもたない者たちの共同体(性)」
という三つの条件が必要となる

ケアは単に貸し借りのような
互酬的なものとしてはとらえられない

そこに「根源的な共同性」を見出すためには
私が私であるという自己同一性そのものが
根源において贈与の産物にほかならず
私は「呼びかけ」という贈与によって
他力的に自己を成立させているという視点が必要となる

さて第3回・第4回ではジョルジュ・バタイユに焦点があてられる

バタイユは「ヤングケアラー時代」に父に介護を強いられ
「幾度となく父の排尿と排便を目撃」し
そこに「贈与の本性に潜む破壊的な傾向を手繰りだ」す

モースのような「贈与交換の理論は
贈与を交換を通して利益を得るものと見なすが、
こういった理論によっては見過ごされがちな贈与の危うい面を、
ジョルジュは鋭く見て取」り
「贈与論は本質的にスカトロジーと密接な関係にある」
とみなしている

そのようにバタイユは「消費の概念」論文では
贈与と肛門サディズムの関係に注目しているが
その後「贈与と消費についての経済学の考えをさらに進め、
「太陽の贈与」の構想を抱くようになる」

この「太陽の贈与」の理論にも
「憧れる太陽と破壊的な太陽、
誇るべき父と糞を垂れる父」というかたちで
「父の二重の影がつきまと」っている

「ヤングケアラー時代の思い出に苦しみながら、
太陽と肛門を同一視することで、
ジョルジュは一種の父殺しをおこなっている」のである

「ジョルジュという名のヤングケアラーは、
その後オイディプスとして生きざるをえなかった。
彼は近親相姦の欲望を抱きつつ、
王、神、太陽に至るまで父殺しを徹底していった。
しかし、そうであるから、
贈与を安易に利他に結びつけることなく、
その危ない本質についての鋭い考察」を
行うことができたのだという

続く第5回は平川克美の視点を出発点とし
「贈与の秘密」及びクロポトキンの「相互扶助」
そしてギリガンの「ケアの倫理」が同じ俎上に載せられ
これからの「贈与論」のあり方が示唆されている

平川克美は経済や社会についての著作のかたわらで
『俺に似たひと』という介護についての本も書いている

一年半にわたって父親を家や病院で介護するのだが
そのなかで料理をつくることについて書かれているところがあり

「それまで料理をしたことのない「俺」であったが、
介護を通して料理の腕をあげて、
父親に褒められるほどに上達した」というのである

その後日談が『21世紀の楕円幻想論』のなかで
「父親の死を機に、ほぼ外食の日々となってしまった」
「自分のために、料理を作ろうという気持ちが
まったく萎えてしま」ったと書かれているが

岩野卓司はこれを「贈与とケアの関係を考えるうえで、
これは大変貴重な証言である」としている

「介護をしているとき、自分の料理を喜び
待ち望んでいる人がいるから、
彼は料理をつくることに喜びを感じて、
一生懸命料理をつくったのだ」

「平川はここに「贈与の秘密」を見ようとする」

そこに「相互扶助」の視点が浮かびあがってくる

「人はお互いに助け合って生きてきたのである。」
「動物ですらお互いに助け合っているのだ。
そういった記憶が受け継がれて
現代の僕らの心のなかにも宿っている」

そのことを体験的に論じたのが
クロポトキンの『相互扶助論』である

「ケアの喜びを考えていくと、
そこには他者を助ける関係、
いや思わず助けてしまう関係が存在している。
そして、これはまたケアにおける
「贈与の秘密」なのである」

こうした他者とのつながりには
「ギリガンの主張する、
「取り残されたり傷つけられる者は誰ひとり存在しない」
「ケアの倫理」を見出すことができる」
(キャロル・ギリガン『もうひとつの声で』)

「ここにケアにおける贈与と
「根源的な共同性」が結びつくひとつの手がかりがある」
そう岩野卓司は第5回を締めくくっている

与えるということ
ケアするということは
一方向的な行為ではない

与えることによって与えられ
ケアすることによってケアされる
その根底には「根源的な共同性」とでもいえるものが
存在している

しかしそれはバタイユが見出したように
破壊的な「危ない本質」として
あらわれることもあることをも忘れてはならないだろう

憎しみさえも
与えることで与えられもするからだ

白魔術と黒魔術が
異なったもののためにあるにもかかわらず
同じ原理のもとで働くように・・・

■岩野卓司『ケアの贈与論』
 連載第3回『ケアの贈与論/あるヤングケアラー』
 連載第4回『ケアの贈与論/あるヤングケアラーのその後』
 連載第5回『ケアの贈与論贈与の秘密/贈与の秘密』
 (2024年5月31日・6月28日・7月26日 法政大学出版局◉別館(note))
■バタイユ(酒井健訳)『呪われた部分』(ちくま学芸文庫 2018/1)
■平川克美『俺に似たひと』(朝日文庫 2015/2)
■平川克美『21世紀の楕円幻想論──その日暮らしの哲学』(ミシマ社 2018/1)
■ピョートル・クロポトキン(大杉栄訳)
 『相互扶助論 新装〉増補修訂版』(同時代社 2017/2)

**(連載第3回『ケアの贈与論/あるヤングケアラー』より)

*「現代社会を考えるうえで試金石となる「ケア」の倫理。明治大学の岩野卓司先生が「贈与」の思想と「ケア」とを結びつけ、「来るべき共同体」の可能性を根源から、ゆっくりと探っていきます。

 第3回は「あるヤングケアラー」と題し、ジョルジュ・バタイユに焦点をあてます。「贈与論は本質的にスカトロジーと密接な関係にある」とは……?」

・ケアラー時代

*「1897年9月10日、フランス中部のピュイ゠ド゠ドーム県のビヨンという町にひとりの子どもが生まれた。

 その子はジョルジュと名づけられたが、その生誕は不幸の始まりをも予告していた。彼の父はすでに失明していたが、それは梅毒の進行によるものであったからである。

 ジョルジュが3歳のとき、病魔は進み、父は四肢の自由を失った。彼は母とともに父の介護をすることになったのだ。」

「少年は父が糞をたれるのを幾度となく目撃した。盲目で体の不自由な老人を彼は助け起こし、便器の上に座らせ、排便に立ち会った。梅毒は脊髄を犯し、突然襲ってくる苦痛に父は耐えきれず、排便のとき腕で抱え込んでいた脚を投げ出してしまい、獣のような恐ろしい叫び声をあげるのだった。これがなんともいえずやりきれなかった、と彼は告白している。」

「第一次世界大戦が始まったころ、ジョルジュの家族はフランス東部の都市ランスに住んでいたが、侵攻してきたドイツ軍の砲撃に晒されるようになった。身の危険を感じた母と彼は、盲目で動けない老人を見捨て町を逃げ出した。介護放棄である。1年後ランスに戻ってくると、父は棺のなかにいた。2、3日前に子どもたちの名前を呼びながら息を引きとったそうである。この遺棄は彼の心に深く罪悪感を刻むことになる。」

・甦るケアの記憶

*「成長したジョルジュはこの体験から逃れようとしてカトリックに入信する。救いを求めたのだろう。熱心な彼は、一時は司祭になろうとも考えていたが、その道はあきらめ図書館の司書になった。だが信仰のほうはしだいに失われていき、ニーチェの「神の死」の影響で棄教するに至る。

 信仰による抑圧から解放されると代わってあらわれてきたのは、エロティシズムとスカトロジーである。エロティシズムは、「おい、先生(医者のこと)、俺の女房といつまでやってんだ!」という妄想が、少年が受けてきた厳格な教育を粉砕したことに結びついているのかもしれない。スカトロジーのほうは、どうしようもない糞尿の記憶であろう。」

*「スカトロジーやエロティシズムの嗜好は、ジョルジュに文学テキストを執筆させただけではない。彼はマルクスの影響を受けつつ社会学や人類学も研究していたが、社会の出来事の考察にもこの嗜好は深い影響を及ぼすことになる。」

*「彼によれば、社会の出来事は聖なるものと俗なるものに分けられる。俗なる出来事とは、僕らの日常のそれで、労働、生産活動、功利性などによって特徴づけられているが、その根本にあるのが「同質化」と「獲得」である、とジョルジュは考える。人間は周囲の物を認識し名指し同一化することで同質のものとしながら支配していく。また、物を材料として加工しながら自分の役に立つものに作り変えていく。これが「獲得」にほかならない。ジョルジュの考えでは、この「獲得」は、人体が食物を体内で同化吸収して血や肉にしていくのと同じである。しかし、人体では役に立たないものは外に排出される。その典型は、糞尿である。それと同じように、俗なる社会にとって有用でないものは、外に「排除」される。彼はそれを「異質なもの」と呼ぶ。神や天使のような宗教的な存在は日常の外に位置し、僕らが所有したり支配したりできない異物なのだ。ただ、「排除」されるのは、高貴なものばかりではない。生殖目的をもたないエロティシズム、糞尿を愛好するスカトロジーも「排除」の対象であり、これらも聖なるものにほかならない。ジョルジュは人体からの糞尿の排出と社会からの聖なるものの排除をアナロジックにとらえるのだが、それも幼少期のケアの体験に由来しているのだろう。」

・スカトロ贈与論

*「この「排除」された「異質なもの」を、ジョルジュは1933年に「消費の概念」という論文で消費という観点から分析している。「異質なもの」は、「獲得」して利益をあげるものではなく、むしろ経済的損失を招くものだからである。この論文ではモースの『贈与論』も取り上げられているが、それは贈与がその動機は別にしてひとつの経済的な損失だからである。そして「消費の概念」で目を引くのは、『贈与論』がスカトロ嗜好によって汚されながら再解釈されている箇所である。」

「ジョルジュは『贈与論』のなかのポトラッチに特に関心をもっている。ポトラッチとは北米先住民の儀礼で、闘争的贈与交換とも呼ばれる。子供の生誕や結婚といった特別な行事のとき、ある部族の首長は別の部族の首長たちを招待し贈り物をする。受け取った首長たちは別の機会にこの首長や他の首長を招きそれ以上の贈り物をする。こういった贈与の応酬を通して、最も財を犠牲にした首長が部族間で最も高い地位につくことができるのだ。ポトラッチは経済的損失を通して名誉と地位を得るものなのである。

 こういった一般的な解釈に対して、ジョルジュはポトラッチの損失の面を重視する。ひとつ間違えると、名誉を求めて無謀な散財をすることによって身を滅ぼす危険が、ポトラッチには潜んでいるからである。この点、ポトラッチは賭けに似ている。勝負に勝つためにずるずると引きずり込まれ多額な負債を抱え込んでしまう危険と背中あわせだからである。

 ポトラッチは、必ずしも相手に贈与しなくてもよく、自分の所有物を破壊することでもかまわない。それは、相手からのお返しを期待していると思われたくないからである。部族にとって大切なカヌーをいくつも破壊したり、場合によっては自分の住んでいる家を焼くことで自分の力を誇示しようとしたのである。

 ここからジョルジュは、贈与の破壊的な面に注目する。」

「ジョルジュはフロイトの精神分析による肛門サディズムの考え方に触発されている。肛門は腹のなかの財産を糞のような無価値なものにしてしまう破壊性をもっている。これが無意識におけるサディズムの原因となっていくというのがフロイトの考えだが、ジョルジュはこれを贈与論に応用している。」

*「贈与の本質は、今まで所有していたものを人に与えることで、自分にとって〈無いもの〉にしてしまうことにある。それは腹のなかの財産を糞にしてしまうのと同じなのである。

 ヤングケアラー時代に幾度となく父の排尿と排便を目撃したジョルジュは、贈与の本性に潜む破壊的な傾向を手繰りだした。贈与交換の理論は贈与を交換を通して利益を得るものと見なすが、こういった理論によっては見過ごされがちな贈与の危うい面を、ジョルジュは鋭く見て取っていたのだ。この発見は、ケアを彼に強いた父のおかげとも言うべきであろうか。

 贈与論は本質的にスカトロジーと密接な関係にあるのだ。」

**(連載第4回『ケアの贈与論あるヤングケアラーのその後』より)

*「第4回は、ジョルジュ・バタイユを取り上げた前回の続篇「あるヤングケアラーのその後」です。「オイディプス」「神殺し」「太陽」という主題が幼少期の記憶につながっていき、ジョルジュの家族の物語が紡ぎだす「贈与論」が浮かび上がってきます。」

・オイディプス

*「第一次世界大戦が始まり、ドイツ軍が攻め寄せてくると、彼と母は介護を放棄して逃げ出し、置き去りにされた父は、二人が戻ってくる数日前に死んでいた。この遺棄は終生ジョルジュの心に重くのしかかり、彼は自分をオイディプスになぞらえることになる。古代ギリシアのオイディプスが、知らず知らずのうちに父ライオスを殺害し、母イオカステと結婚したように、彼は父を置き去りにして殺し、愛する母を独占したのである。」

「ヤングケアラーのその後は、オイディプスを生きることにあったのである。」

・神殺し

*「母への近親相姦の願望とともに、ジョルジュの心を捉えるもうひとつのオイディプス的な欲望は父殺しである。現実の父が死んだ後も、ジョルジュは父殺しを繰り返すことになる。

 それは、神殺しというかたちであらわれる。前回説明したが、『眼球譚』執筆のペンネーム、ロード・オーシュは「便所の神」という含意がある。糞を垂れる父は、神に重ね合わされているのである。

 ジョルジュは、ニーチェの「神の死」の影響でキリスト教の信仰を失ったが、それは単に神を信じなくなったというだけではない。彼がこだわり続けるのは、神を殺すことなのである。」

*「1930年代後半にジョルジュは、アセファル共同体なるものを構想する。アセファルとはフランス語で「頭がない」という意味である。このコンセプトのもとで、彼は頭脳の支配からの身体の欲望の解放、王や独裁者のような「頭」による支配のない共同体、キリスト教の神のような「頭」のない宗教を提唱する。その際、彼のイメージにあるのは、単なる「頭」の不在ではなく、フランス革命のように王を処刑することや、ニーチェのように神を殺害することなのだ。政治や宗教の共同体構想でも、彼は父殺しを徹底するのである。

 1940年代になると、ジョルジュの関心は神秘的経験(エクスターズ)の探求や実践に移り、キリスト教神秘家やニーチェのテキストなどを研究し始める。その成果は、『内的経験』をはじめとする『無神学大全』三部作に結実する。この神秘的経験にも神のイメージがつきまとっているが、その神を殺して「未知なるもの」に至るのが、神秘的経験の本質だと彼は説く。そして、神を殺した瞬間、自分も脱我(エクスターズ)という小さな死を迎えるから、神を殺すとともに自分も殺される、そんな経験を繰り返すのだ。ここでも父殺しに彼はこだわるのである。」

・太陽

*「父や神のイメージと関係が深いのは、太陽である。太陽は直視すると目を焼き尽くし、盲目にするからである。父殺しと近親相姦の罪に耐えられず、オイディプスは自分の目を潰したが、太陽との関係はそれと同じである。

 若い頃のジョルジュが好んだ太陽のイメージは、古代ギリシアのイーカロスの神話である。イーカロスは蜜蝋で固めた翼をまとって自由に天空を飛翔できるようになったが、太陽に近づきすぎて熱で蜜蝋が溶けてしまい、墜落して死んでしまった。

 ジョルジュにとって太陽は、一方で憧れの対象であり、人間の生を高揚させ、恵みを与えてくれる美しい存在である。しかし同時に、イーカロスのように近づきすぎたり、直視しようとすると、焼き尽くされたり、死が与えられるような恐ろしい存在でもある。だから、いくつもの神話のなかで、太陽は首を掻き切る男や首なし人間として描かれていたりする【2】。高揚感の極致は、失墜と去勢なのである。

 この二重な性格から、ジョルジュの頭のなかで太陽は肛門と結びつく。『太陽肛門』という詩的なイメージを炸裂させた奇書のなかで、彼は光り輝く美しい太陽と糞を垂れるだけの醜い肛門を重ね合わせたのだ。ヤングケアラーのジョルジュが排便の世話をした父の姿も、そこに重ね合わされるだろう。リスペクトされ愛される父と情けなく糞を垂れる父。ジョルジュにとって、太陽のもつ二面性は、父の二面性、太陽と肛門の一致にほかならない。

 そして、輝く太陽を糞でまみれた肛門で汚すことも、ひとつの父殺しなのである。

・太陽の贈与

*「1933年に発表された「消費の概念」という論文で、ジョルジュは贈与と肛門サディズムの関係に注目したが、その後、贈与と消費についての経済学の考えをさらに進め、「太陽の贈与」の構想を抱くようになる。この構想は第二次大戦のさなかにすでに懐胎されていたのであるが、最終的には1949年の『呪われた部分I 蕩尽』で開陳される。時代はすでに東西冷戦に入っており、ひとつ間違えれば米ソによる第三次世界大戦となる危険も迫っていた。そういった危機を回避するために、ジョルジュはひとつの案をこの著作で提示したのだ。」

「太陽は何も受け取らずにエネルギーを地球に与えている。太陽のおかげで生物は繁殖し、農作物も実るのだ。この贈与は、あらゆる生の維持発展を支える源泉なのである。古代人や先住民の人たちは、この太陽を崇めて、受け取らずに与えること、利益を求めずに消費することに価値をおいたのである。この太陽のイメージは、恵みを与えてくれる美しい太陽のそれと言えるだろう。」

「太陽は間断なくエネルギーを与え続けるので、地球上のエネルギーは過剰なのである。この過剰エネルギーを生物が成長に使っているあいだはいいのだが、成長が限界に達して余ってしまったらどうなるのだろうか。そうなると反転して、生物はこの過剰を浪費しはじめるのだ。これを蕩尽という。」

*「人間は生物のなかでいちばんエネルギーを使い成長進歩したが、その反面いちばんエネルギーを蕩尽している。この蕩尽の最たるものは、戦争である。戦争は莫大なエネルギーの消費なのだ。とりわけ、二つの世界大戦は、ジョルジュから見れば、過剰エネルギーの爆発にほかならない。太陽の贈与は、ただ生物の成長を可能にしてくれるだけではなく、生物をエネルギーの蕩尽や死の破壊に導くものでもあるのだ。

 だからジョルジュは、蓄積した余剰エネルギーが集中して爆発しないように、人間も無償の贈与をしたりして富を分散させなければならないと説き、第三次世界大戦の爆発を避けるために、マーシャル・プランのようなアメリカ合衆国によるヨーロッパへの無償援助はもちろんのこと、さらには途上国への無償援助が必要だと述べている。」

*「太陽はただ地球にエネルギーを贈与するだけなのだが、このエネルギーは一方で生物の繁殖と成長のために使われ、もう一方で蕩尽や破壊をもたらす。この贈与は、生の源泉であるとともに、死のそれでもある。ジョルジュは太陽の二面性を忘れてはいない。生の高揚を促す太陽は、その失墜をもたらす太陽でもある。だから、輝かしい太陽は、サディスティックな肛門でもあるのだ。たしかに、ジョルジュの構想した「太陽の贈与」からは、一見すると、肛門の贈与はまったく抜け落ちているように見える。しかし、そのエネルギーの性格を注意深く観察すれば、肛門の破壊性が暗黙の前提になっていることがわかる。」

*「このように「太陽の贈与」の理論にも、父の二重の影がつきまとっている。憧れる太陽と破壊的な太陽、誇るべき父と糞を垂れる父。ヤングケアラー時代の思い出に苦しみながら、太陽と肛門を同一視することで、ジョルジュは一種の父殺しをおこなっている。そして、それは「太陽の贈与」の発想にも受け継がれている、と言えるだろう。

 ジョルジュという名のヤングケアラーは、その後オイディプスとして生きざるをえなかった。彼は近親相姦の欲望を抱きつつ、王、神、太陽に至るまで父殺しを徹底していった。しかし、そうであるから、贈与を安易に利他に結びつけることなく、その危ない本質についての鋭い考察を、僕らに届けてくれたのである。」

**(連載第5回『ケアの贈与論/贈与の秘密』より)

*「第5回は、平川克美さんの本を出発点として「贈与」と「ケア」の関係を考えます。平川さんが指摘する「贈与の秘密」、クロポトキンの「相互扶助」、そして、ギリガンの「ケアの倫理」を同じ俎上に載せることで見えてくる、これからの「贈与論」のあり方とは?」

・贈与の秘密

「平川克美という文筆家がいる。」

「経済や社会についていくつもの著作を世に問い続けている。」

「そういった著作のかたわらで、彼は介護についての本も書いている。」

・「俺」の手料理

*「彼は一年半にわたり父親を家や病院で介護したが、その体験を『俺に似たひと』という一冊の本にまとめている。平川によれば、この本は「わたし」が語る手記ではなく、「俺」というフィルターを通して自分の介護の体験を綴る「物語」なのである。「物語」といっても、これはフィクションではない。このフィルターを通すことで、作者は介護体験の生々しさやそれを語る気恥ずかしさに、一定の距離をもって接することができたのだ。いわば、作者が距離をおいて見つめた自分の分身が語る「物語」なのである。」

*「母親が死んだあと、残された父親と「俺」は実家に同居して生活することになる。母親に家事を任せっきりにしていた父親は、持病をかかえて弱っていたこともあり、一人で生きていくのは難しかったのだ。

 この介護の「物語」には、「俺」が料理をつくることについての生き生きとした描写がある。実際、親の介護は最終的には死で終わり、親の体も心も弱っていく姿を目の当たりにしたり、親もそういう自分の姿に自尊心を傷つけられて自暴自棄になったり、悲しくつらい話が多い。そういったなかで、この料理の話は実に楽しい。介護の初期で父親がまだ元気で毎日の食事を楽しみにしていたころの話である。介護生活の父親にとって楽しみは、食べることと風呂に入ることだけだったのだ。

 「俺」がつくった料理は、「鍋に野菜類を放り込んで煮るだけの、コンソメ味のポトフ」、「試行錯誤を繰り返したチャレンジングなカレー」、「たくあんを細かく刻んで混ぜた特製チャーハン」、「醤油と砂糖で味付けした玉子焼き」といったものである。

 手軽にできる男の手料理であったが、父親は喜んだ。晩年の母親は料理を作る体力も気力も失い、自炊のできない父親は刺身ばかり食べさせられていた。「俺」の料理は簡単なものであったが、手をかけた料理だったから喜んでくれたのだろう。そんな「俺」に父親は「お前は料理がうまい」と何回も言った。

 嬉しくなった「俺」は、料理にさらに工夫を凝らすことになる。

 「料理本サイトを見ながら、ロールキャベツやハンバーグなどもつくった。バーニャカウダーなどという、覚えたばかりのソースをつくってみた。」

「カレーは特に創造性を要求される料理で、さまざまなルーを組み合わせたり、香辛料を混ぜたり、ときにはチョコレートやココナッツミルク、醤油などを隠し味で配合する。失敗もあったが、大方はおいしいカレーができた。」

 食後には、甘党の父親を喜ばすために、デザートに「クリームぜんざい、アイスクリームと水菓子、ジャムがけヨーグルト」などもつくった。

 最初は、父親に何を食べたいか聞いて料理をつくっていたが、途中からは父親が何が食べたいかわかるようになっていった。お互いに喜びを感じ合う料理をとおしての以心伝心であろう。

 それまで料理をしたことのない「俺」であったが、介護を通して料理の腕をあげて、父親に褒められるほどに上達した。父親に「おまえは料理がうまい」と何度も言われて、嬉しくなってさらに料理の腕に磨きをかけていったのだ。」

・贈与の秘密

*「この料理については後日談がある。それは『俺に似たひと』のなかでは語られていない。父の死後に作者の平川が、自分の介護体験を振り返って、『21世紀の楕円幻想論』のなかで次のように語っている。」

父親が死んでから、わたしはそれまで、毎日欠かさず行っていた料理をする習慣を無くしました。毎日毎日会社が終われば、スーパーマーケットに立ち寄って食材を買い込み、一週間の献立(いや、頭の中の献立らしき料理一覧)にしたがって、夕食の料理にとりかかっていたのですが、父親の死を機に、ほぼ外食の日々となってしまったのです。

 自分のために、料理を作ろうという気持ちがまったく萎えてしまいました。」

*「どうして父の死後に料理を作るのをやめてしまったのだろうか。なぜ平川はあれほど上達した料理を作って、自分の口腹の欲を満たそうとしなかったのだろうか。どんなに忙しくても毎日欠かさず買いだしをして料理を作り、父親といっしょに食べたのに、父が死んでしまうと、彼は料理をつくらなくなってしまったのだ。その理由について、彼は次のように説明している。

 そのときに、わたしが考えたこと。それこそ、贈与の秘密だったのではないかと思ったのです。つまり、ひとは自分で思うほど自分のために生きているわけではないということです。家に自分が作る料理を待っていてくれるひとがいれば、ひとは何があってもそれをやろうとするだろうし、そこに喜びも見い出せるのですが、自分のためだけに味や栄養を考えて料理をつくろうという気にはなれないのです。

 贈与とケアの関係を考えるうえで、これは大変貴重な証言である。父親が亡くなったあと、平川が料理をつくるのをやめて外食の日々を送っていたのは、料理をつくることに喜びを見い出せなくなったからである。介護をしているとき、自分の料理を喜び待ち望んでいる人がいるから、彼は料理をつくることに喜びを感じて、一生懸命料理をつくったのだ。僕らは、人が喜ぶ姿からその人のためにサービスしようという気持ちになる。だから僕らは、他人のために生きることに喜びを感じることができるのである。」

*「平川はここに「贈与の秘密」を見ようとするが、これは贈与とケアの関係を考えさせる、とても鋭い洞察である。人が贈与するのは、他人を喜ばせるためであり、他人が喜ぶ姿を嬉しく思うからである。ここに贈与の原点がある。例えば、クリスマイブに両親がサンタクロースのかわりに子どもたちの枕元にプレゼントを置くのも、子どもたちを喜ばせたいからであり、子どもの喜びを見て自分たちも嬉しく感じるからである。それは子どもたちに借りの感情を抱かせたり、感謝を求めたりするためではない。ただただ、与えたりサービスしたりすることに喜びを感じるからである。平川が料理を作ることに喜びを感じたのは、こういった贈与の原点に存在する感情からである。

 そして、重要なことは、父親に料理を贈与して喜ばせるのは、父親への単なる恩返しからではない、ということである。これはケアの根本についての考えにもつながる。老いた父や母を介護するのは、彼らに育ててもらい世話になった、その恩返しをしたいからなのだろうか。平川が父親の食事をつくったり、下の世話をしたり、お風呂に入れたりしたのは、すべて恩返しのためだったのだろうか。もちろん、そういった気持ちが人の心にあるのを、僕は否定しない。ただ、平川の書くものから読み取れるのは、単なる恩返しよりももっと根本的に、好きな父親を喜ばせたいという気持ちである。人の喜ぶ顔が見たいし、それが自分も嬉しいという、もっと普遍的な感情が、そこにはある。ここに贈与の原点があるとともに、ケアの原点があるのだ。」

・相互扶助

*「人は自分のためだけに生きているのではない。ふつうは誰でも自分が大事だと思っているだろう。たしかに、私たちはさまざまな局面でエゴをむき出しにしたり、わが身かわいさに保身に走ったりする。しかし平川によれば、「人は自分のために生きる」という考えはホッブス以来、資本主義が産み出した偏見であり、人類史的には歴史の浅いものに過ぎない。たしかに、ホッブスの自然状態は「万人の万人に対する戦い」であり、各人はその生存を脅かされている。利潤を求めての自由競争という面においては資本主義も同じような戦いの状態である。弱い会社はつぶれていき、強い会社のみが生き残る。ホッブス流の考え方や資本主義の弱肉強食のみを見るならば、人間は「自分のために生きる」という個人主義こそが正しいと思うかもしれない。どんなにきれいごとを言っても、自分の命、自分の財産、自分の地位が大切なのである。しかし、こういう個人主義の発想が誕生したのは、近世のある時期であって、人間はもともと個人主義的に生きていたのではなかった。ケアが呼び起こすのはこういった記憶なのである。」

「それは、相互扶助の記憶である。人はお互いに助け合って生きてきたのである。人だけではない。動物ですらお互いに助け合っているのだ。そういった記憶が受け継がれて現代の僕らの心のなかにも宿っている。そのことを体系的に論じたのが、ピョートル・クロポトキンの『相互扶助論』である。例えば、蟻はお互いに助け合って巣を作ったり、外敵と戦ったりするし、狼は群れをなし協力し合いながら狩りをする。それが人間にも受け継がれている。アフリカ、オセアニア、アメリカの先住民の社会では、自己犠牲と献身によってお互いに助け合っているし、中世の諸都市やギルドでは、封建的な身分を超えての相互扶助が見られる。近世の村落共同体では、繁忙期に農民たちはお互いに助け合って仕事をするし、近代の労働組合においては、職種に関係なく団結をしている。こういった歴史にクロポトキンは相互扶助の精神を読み取っていくのだ。」

「僕らはこの記憶を大切にしよう。いかに世の中にエゴイズムや個人主義が浸透しようとも、人は利己だけに還元できない。自分のためだけに生きているのではないのだ。それが平川が介護の体験から得たものである。ケアの喜びを考えていくと、そこには他者を助ける関係、いや思わず助けてしまう関係が存在している。そして、これはまたケアにおける「贈与の秘密」なのである。人は贈与したりサービスしたりして相手を喜ばせることで自分も喜びを得るのである。そういうつながりをとおして相互扶助があり、人間の種も維持されるのだろう。」

*「さらに、こういった他者とのつながりには、ギリガンの主張する、「取り残されたり傷つけられる者は誰ひとり存在しない」「ケアの倫理」を見出すことができるだろう。ケアをとおして全ての人が受け入れられる場では、どんな人でもつながることのできる共同性が生じるからである。このつながりは、「正しい人」と「正しくない人」に分けてしまう「正義の論理」では掬い取れない根本的な関係である。来るべき贈与論は、ケアによる「贈与の秘密」を受け入れることで、共同性と深い関係を持つのではないだろうか 。

 ここにケアにおける贈与と「根源的な共同性」が結びつくひとつの手がかりがあると思われる。」

○岩野卓司(いわの・たくじ)

明治大学教養デザイン研究科・法学部教授。著書:『贈与論』(青土社)、『贈与をめぐる冒険』(ヘウレーカ)、『贈与の哲学』(明治大学出版会)、『ジョルジュ・バタイユ』(水声社)、共訳書:バタイユ『バタイユ書簡集 1917–1962年』(水声社)など。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?