村澤真保呂「「身体のアレンジメント」を読む 田中泯と「分子革命」」(ユリイカ2022年2月号)/フェリックス・ガタリ+田中泯『光速と禅炎』
☆mediopos3596(2024.9.23)
mediopos3592(2024.9.19)で
現代思想 2013年6月号の
特集「フェリックス・ガタリ」に掲載されている
田中泯へのガタリについてのインタビューをとりあげた際
ガタリと田中泯の対談本『光速と禅炎』についての
村澤真保呂「「身体のアレンジメント」を読む」という
ユリイカ 2022年2月号(特集「田中泯」)の記事にふれたが
「ガタリの田中泯論」でもあるその記事をとりあげる
対談は一九八四年におこなわれ
主にガタリから田中泯へのQ&Aとなっている
ガタリの質問は
「彼自身の「スキゾ分析」の枠組みと
ドゥルーズとの共著の中核概念である
「器官なき身体」を参照しつつおこなわれている」ので
記事ではまず背景となっている諸概念について説明がある
「器官なき身体」という概念は
アントナン・アルトーの
『神の裁きと訣別するため』で使われた言葉である
アルトーは「生きること」と「存在すること」を区別し
「「生きること」はそれ自体が目的であり、
非人称的で、大地と結びついたものである」のに対し
「「存在すること」は「生きること」の手段であり、
存在するために身体があり、器官があり、欲望がある」が
「「生きること」はしばしば「存在すること」と対立」し
「しばしば人は「存在すること」のために
「生きること」を断念する。」
その「「生きること」の実体が「器官なき身体」であり、
「存在すること」の主体が「器官」」であることから
アルトーは「「「器官なき身体」を抑えつけて
「器官」として存在するくらいなら、
「器官」を捨てて「器官なき身体」として生きるべきだ」
と主張する
この「器官なき身体」と「器官」の考え方と
ガタリの著作において使われる「機械」概念との
つながりを理解しておく必要がある
「器官」と「器官なき身体」の関係が
極端な二者択一を迫られる状況は
精神疾患が生じる状況であり
「したがって制度論的精神療法では、
逆に「器官なき身体」と「器官」の共存を促す方向で
治療が進められる。」
ガタリ=ドゥルーズの著作『アンチ・オイディプス』では
「器官=制度」が捉え直され「機械」と呼ばれ
「器官なき身体」はその「器官=機械」が
機能するための前提であり目的とみなされる
ガタリ=ドゥルーズの「スキゾ分析」の構想は
「「器官なき身体」を抑圧から解放して
「器官」との調和的な結合を指向する」ものである
(「スキゾ分析」については
昨日のmediopos3595(2024.9.22)でご紹介した
「図1 ガタリの四機能図式」とその説明を参照のこと)
さてガタリの田中泯へのQ&Aの詳細の一部は
引用のパートを以下で参照していただくとして
『光速と禅炎』の巻頭には
ガタリが田中泯に送った「オマージュ一九八四」という
詩のような文章が掲げられていて
それがこの対談のダイジェストともなっているので
それについて記事の著者・村澤真保呂が
パラフレーズしたものをとりあげておきたい
そこで鍵となっているのは
「私は場所で踊るのではなく場所を踊る」
というところだろう
「田中泯は「場所で踊る」のではなく、「場所を踊る」。
そのことによって「存在=器官」と対立し、
闇に押し込められていた「生=器官なき身体」は、
その裸の姿を表し、今度は王として「存在」を
みずからの手中に収めるのである。」
田中泯は踊ることで
「外部環境(機械)と内部世界(宇宙)という
無限大の速度(光速)の領域と、
自己の身体(実存的領土)と周囲の風や道路や木など
事物(の流れ)というゼロ速度(微速)の領域を往還し、
二つの領域を同時に変容させていく」
つまり田中泯の「内部にある
潜在的領域(闇)としての宇宙と彼の実存が、
既存の物語を超えて、新たな星座のもとで結びつき、
「器官なき身体」の生成あるいは異質生成がおこなわれる」
それは「内的に宇宙と合一すること」でもあるが
それは「外部環境(場所)を取り込むことで起こり」
その内的な変容が「外部環境(場所)を
新たな仕方でつくりかえる動因(炎)」ともなっていく・・・
この「ガタリの田中泯論」である
対談「身体のアレンジメント」は
まさに「スキゾ分析」に重ねた田中泯の舞踏論となっている
■村澤真保呂「「身体のアレンジメント」を読む/田中泯と「分子革命」」
(ユリイカ 2022年2月号)
■フェリックス・ガタリ+田中泯『光速と禅炎』
(週刊本35 朝日出版社 1985/6)
**(「村澤真保呂「「身体のアレンジメント」を読む」
・序
*「一九八五年に刊行された朝日出版社の「週刊本」シリーズ第三五号の『光速と禅炎』というタイトルの本に、「身体のアレンジメント」と題された田中泯とガタリとの対談、およびガタリが田中泯に送った「オマージュ一九八四」という短い散文が掲載されている。対談は一九八四年にパリで通訳を交えておこなわれ、主にガタリから田中泯への質問とその回答から成り立っている。」
・Ⅰ 「器官なき身体」と機械
*「対談におけるガタリの質問は、彼自身の「スキゾ分析」の枠組みとドゥルーズとの共著の中核概念である「器官なき身体」を参照しつつおこなわれている。そこで、まず「器官なき身体」について簡潔に説明し、ガタリの主要概念である「機械」との関連を述べたい。」
・Ⅰ 「器官なき身体」と機械(1)「器官なき身体」と精神分析
*「ガタリがドゥルーズとともに発案したこの概念は、もともと演劇家アントナン・アルトーが『神の裁きと訣別するため』(一九四八)で使用した言葉に由来し、それをかなり忠実に継承したものである。」
*「アルトーは「生きること」と「存在すること」の区別から出発する。ほんらい、「生きること」はそれ自体が目的であり、非人称的で、大地と結びついたものである。そして「存在すること」は「生きること」の手段であり、存在するために身体があり、器官があり、欲望がある。しかし「生きること」はしばしば「存在すること」と対立する。たとえば演劇人にとって「生きること」は「演劇すること」である。しかし、それでは食べていけない。つまり「存在することができない=死んでしまう」ので。しばしばヒトは「存在すること」のために「生きること」を断念する。この「生きること」の実体が「器官なき身体」であり、「存在すること」の主体が「器官」である。アルトーによれば、人間は死への恐れから「存在すること」を維持するために社会組織をつくり、社会組織を維持するために諸々の掟、すなわち「神の裁き」を受け入れ、その代わりに「生きること」を抑圧する、すなわち「猥雑」な存在となる。」
「「器官なき身体」を抑えつけて「器官」として存在するくらいなら、「器官」を捨てて「器官なき身体」として生きるべきだ————これが『神の裁きと訣別するため』の基本的な主張である。」
・Ⅰ 「器官なき身体」と機械(2)制度と機械
*「このアルトーの「器官なき身体」と「器官」の考え方は、ガタリによる制度論的精神療法についての議論や『アンチ・オイディプス』、さらにガタリ独自のスキゾ分析にいたるまで、ほぼ忠実に継承されていく。ここでは、まずガタリとジャン・ウリの制度論的精神療法との関連を説明し、『アンチ・オイディプス』をはじめガタリの著作で一貫して使用される「機械」概念とのつながりについて簡潔に説明する。」
*「「器官」と「器官なき身体」の関係が、アルトーが提示したような極端な二者択一を迫られる状況は、当然ながら精神疾患が生じる状況である。したがって制度論的精神療法では、逆に「器官なき身体」と「器官」の共存を促す方向で治療が進められる。」
「「器官なき身体」が生きるためには「器官」が機能する、すなわち欲望する必要がある。患者の「実存的生=器官なき身体」が「器官」の維持を目的とした社会的制度によって圧殺されることが病気の原因であるとしたら、治療は逆に「器官」とそれを支える社会的制度を「器官なき身体」を養う方向に修正すればよい。(・・・)これが制度論的精神療法の基本的な考え方である。」
*「『アンチ・オイディプス』においては、上記の「器官=制度」がさらに広い観点から捉え直され、「機械」と呼ばれる。そして「器官なき身体」は、「器官=機械」が機能するための前提でありほんらいの目的とみなされる。(・・・)ラカン派をはじめとする精神分析の観点からすれば、「器官なき身体」を抑圧から解放して「器官」との調和的な結合を指向するガタリ=ドゥルーズの論理は、オイディプス・コンプレックスを否定する(ラカンによれば「〈父の名〉の排除」、まさしく統合失調症(スキゾフレニー)の論理にほかならない。そしてガタリはその方向で「スキゾ分析」を構想する。」
・2 スキゾ分析の基本図式
*「対談を読み解くのに必要な基本的概念に絞って説明する。」
引用者注)「スキゾ分析の基本図式」については、簡略的なものではあるが、昨日のmediopos3595(2024.9.22)でご紹介した、「図1 ガタリの四機能図式」とその説明と重複するのでそちらを参照のこと。
(この記事内においては「図1 スキゾ分析の基本図式」参照)
・3 対談とオマージュについて————田中泯と「分子革命」
(図2 時間、共立性、速度)参照
*「最初にガタリは、田中にたいして舞踏中に「宇宙の星座と言うべきものを自分が変化させた」という感覚をもつことがあるのか、その標識はあるのかを問うている。それは先の基本図式でいえば、精神内の「非物質的宇宙(U)」と「実存的領土(T)」が新たな仕方で結びついたことをどう感知するのか、と言い換えられる。
*「この結合は、ガタリによれば「異質生成」である。というのも、それは既存の領土化された世界。既存の宇宙の星座(つまり既存の物語や世界観)とその内部にいる自己から、それとは異質の独自の世界と自己を生成することだからである。ただし、その認識は非論証的な内部世界で起こすことである以上、言語的・論理的な認識ではなく。あくまで感覚的・直感的な認識である。ガタリはそのような認識のモデルを日本の禅や俳句、山水画などに見ており、田中の躍りにも同様の認識があると捉えている。」
*「異質生成が起こるのは、自己と他の諸要素が新たな一貫性をもって結びつく、非物質的宇宙における共立平面の上である。そこからガタリは田中にたいして「動物になること」の経験とアニミズム的感性を問い、さらに風や匂い、音などへの生成変化の可能性を問う。動物などの非人間的存在と自己が結ばれる共立平面は、アニミズム的世界観に通底するからであり、またアルトーの「大地としてのシグリ=器官なき身体」のように、既存の「意味」や「記号」で領土化された世界からの脱出経路(逃走線)になる可能性を与えるからである。」
*「そのような内的領域における自己と宇宙の関係の変化は、同時に外的世界の諸事物と自己の関係の変化として現れる。そこからガタリは集団的な動的編成(アレンジメント)と舞踏空間に主題を移していく。田中の精神=身体も、また彼を取り巻く観衆だけでなく風や土も含む環境(Φ)も、集団的な動的編成をつうじて構成されたさまざまな機械から成り立つ。したがって、いかなるものも環境、すなわち機械から逃れることができない。ただし人間は、機械を変えることができる(・・・)。また人間は、機械を介してみずから変わるころができる(・・・)。ガタリが田中の舞踏のうちに、そのモデル————つまり「分子革命」————を見ていたことは明らかである。」
*「対談の最後では表象が問題とされ、ガタリは再現と実現を対立させるインタビュアーに異議を唱える。そして先に述べた基本図式をもちだして、表象の問題と田中の舞踏における表現について自説を展開する。そのために、基本図好きの左側(ΦとF)の論証的な外部世界のほうに「表象」を置き、右側(UとT)の非論証的な内部世界に「器官なき身体」と「実在の生産」を置いたうえで、こう説明する・まず外部世界(環境)が表現者(田中)の内部世界(身体=精神)に取り込まれ、次に先に述べたような異質生性(UとTの新たな結びつき)が起こると、今度はそれが外部世界に「表現」の流れ(F)として逆戻りする。このプロセスの繰り返しが、外部世界と内部世界を結ぶ表象の問題である、と。田中自身、ガタリの説明に完全に同意し、自分の躍りはどのサイクルを高速でおこなっていると感想を述べて、この対談は終わる。」
*******
*「最後に「オマージュ1984」を本稿の内容にもとづいてパラフレーズしてみよう————田中泯の踊りは、外部環境(機械)と内部世界(宇宙)という無限大の速度(光速)の領域と、自己の身体(実存的領土)と周囲の風や道路や木などの事物(の流れ)というゼロ速度(微速)の領域を往還し、二つの領域を同時に変容させていく。それは田中の内部にある潜在的領域(闇)としての宇宙と彼の実存が、既存の物語を超えて、新たな星座のもとで結びつき、「器官なき身体」の生成あるいは異質生成がおこなわれることである。また、それは動物への生成変化として、新たな共立平面で自己が結びつくことであり、ひいては俳句や禅の認識のように、内的に宇宙と合一することでもある。その内的変容は、外部環境(場所)を取り込むことで起こり、また外部環境(場所)を新たな仕方でつくりかえる動因(炎)となる。すなわち田中泯は「場所で踊る」のではなく、「場所を踊る」。そのことによって「存在=器官」と対立し、闇に押し込められていた「生=器官なき身体」は、その裸の姿を表し、今度は王として「存在」をみずからの手中に収めるのである。」
**(フェリックス・ガタリ+田中泯『光速と禅炎』〜
フェリックス・ガタリ「オマージュ1984)木幡和枝訳
・ガタリが田中泯に提供したテクスト
*「田中泯
闇のイルカ
日本の奇蹟の足の下に
感覚のもうひとつの境界線を画した
彼の禅の炎。
工業というアイデンティティーのこちら側の
物語という筋書きの向こう側の
器官なき身体。
その舞踏を宇宙へと引きずり出すための
光の速度にのった微速
動物たちの横這い。
可能なあらゆる場面の交差点における
強度の図解。
誕生から途切れず続く線上の
欲望という骰子の一投げによる身振り。
リズムの不可逆な生成と俳句的事態の小楽章
I dance note in the place but I dance the place
(私は場所で踊るのではなく場所を踊る)
田中泯
身体気象
存在について我われが抱く不可能な記憶の裸の王
**(フェリックス・ガタリ+田中泯『光速と禅炎』〜
フェリックス・ガタリ+田中泯「Ⅰ 身体のアレンジメント/気象表現について」より)
一九八四年六月、パリにて/通訳=小沢秋広+鈴木秀亘
・1 閾値の現象
*「ガタリ————まず質問ですが泯さんがある関係——肉と皮膚、通路や場との関係——において本当にマリオネットになったということを知る為の或る種の判別式、閾値、標識のようなものはあるのでしょうか。一種の享楽点のようなものが実際あるのでしょうか。それをどう名付けたらいいのかわかりませんけれど。
泯————マリオネット、人形ですね。まずねダンサーの表現の門戸ということがあると思うんです。一体何を踊っているのかという問題ですね。このことと人形になるということは深く関わりを持つわけです。私との関係において表現は成り立つという原則は認めるとして、この私との関係という不問の問に立ち入ることがダンサー田中泯の実験であるわけです。田中泯という例題の連続の中でより私であろうとしえフットワークを駆使すると言っても良いかも知れないけど、一瞬にして古くなる私をけり出そうとしている私の現在ですね。ところで肉と言いましたが、その点をもう少し具体的に。
ガタリ————ええ、それはマヨネーズを作る時のようなものです。あれは失敗することがあります。泯さんは「あ、超えた」というようなある種の敷居、記号の感覚を持ったことがありますか、宇宙の星座と言うべきものを自分が変化させた!、というような・・・・・・まだ自分は座標の中にいるが、それが、あっ、やった!、俺は超えた!、というような・・・・・・つまり泯さんにとって不連続性の生きられた現象とは一体何なのかということですけど。
泯————それはその場所の中で、関係において超えるんです。「私」の閾値として語るべき物が何なのか、人前でダンサーであるということが何なのか、ぼっとうしますね。しかし、私が閾値を超えるという事実に集合すべき物事を絶えず見当つけているからこそ、つまり、環境の中に私は居てさらに私も閑居追うそのものであるという、地図でしょうかあるいは営みでしょうか。表現自体は日常というまだ生まれていない抽象に向かって矢を放つことですから、ガタリさんの言うある種の敷居、記号の感覚というのはわかります。敷居をまたぐあるいは谷を越えるという感覚ですね。でも感覚なのかな。僕の場合は、ある見当をつけるという正義とか義務とかあるいは負荷とかいう観念だという気がするんです。したがって、不連続に生きられた現象と言ってもつまり調子の良いときには殆ど考えずに生きられる、悪いときには一生懸命考えている、頭の中でね。
ガタリ————私は標識と言うのは「考えている」ということを言わない為なんです。
泯————それはわかります。でも標識なんて言わなくても良いんじゃないかとも思います。私は一刻も休まず考えています。つまりもう考えなくていんです、という私であろうと思っているわけです。私は考え続けているという不連続の生命であると言わせて下さい。」
・2 水平性について
*「ガタリ——ここでこのことに関して直接に隣接する二つの質問をしたい、一つは個別的で、もう一つは非常に一般的なものです。個別的な質問というのは、泯さんがある種の水平性——地を這うこと——の次元に達した時、それは「動物になること」と何らかの関係があるのかということです。人類学的な座標の外への移行のようなものはあるのでしょうか。これが第一の質問です。第二の質問というのは脱人間的状態、宇宙の星座の変動、泯さんが公衆と共に芸術とするようなプレゼンテーションは、極度に練り上げられ極度に複雑な——私はたとえば日本やたとえば日本や中国の詩、つまり俳句など、或いは絵画、つまり山水画などの究極性に思いを巡らしているのですが————状態たり得ているのかということです。というのも極度に練り上げられた繊細なものがあり、それは————六八年の学生達特有の神話作用に見られるような————身体との表現上の息苦しい関係に対して、対極の位置にあるからです。
————————それは言い換えれば分子的水準ということに・・・・・・
ガタリ————ええ分子的水準にあるのか、高度に練り上げられ、目的化された————結局、逆接的な形で————何かが?ということです。それはだから敷居減少の問題をめぐる行為に狙いを定めるということなのです。そして他方————まさしくそれは初めの質問の特殊なケースですが————泯さんにとって垂直性と「動物になること」の断絶をつなぎ合わせることには意味があるのでしょうか。
泯————それは非常に面倒な質問ですね。最初の水平性に関してだけど、僕は自分一人で踊ろうと思った時に、まず寝ることから始めた。自分が水平に寝てしまうことで自分は躍りが踊れるのかという問いを自分にぶつけてみたんだ。それから世間に対する疑問もあって————皆立って簡単に体を動かして躍りだと思っているけれど、それに対してすごく大きな疑問があったんです。それから人々がそれを躍りと呼んでくれるだろうかとも思った————環境というものの中で僕が本当に這ったりころがったりした時に、人は僕を何と呼ぶだろうかって。僕はその時自分に押し寄せてくるもの————町の中で裸でころがるわけですから、音の聞こえ方が違うし。人間が違って見えてくるわけです————そういう押し寄せてくるものを僕はどう自分の中で解消して自分の体に次のアクションをとらせるのだろうか、そういう追求の時間はものすごく長かったですね。だから僕は最初から水平だったわけで————それから地面を這ったんだが————非常に計画的だった。むしろ水平線に自分は持ち上げてもらっているという気持ちはありましたね。それと地上的なものに世界をみるという子供のときからの癖はあります。眼をもっとも地面に近づけておきたいという欲求です。つまり観念が感覚になりそして知恵につながるという。」
・3 躍りの素材について
*「————————私が興味深く思ったのは、最初のプッシング・ディスカッションの時、泯さんが風を想像すると言ったことです。
ガタリ————あ、それは私も同じです。(・・・)泯さんは「香りを躍りにする」といったことがありますか。夕方の何時かに特有な香りのようなものが・・・・・・。それを私はハイパーコンプレックスな対照と呼んでいるのえす。
泯————うん、僕は素材は固定しない。水でもいいし土でもいい。単純に植物でもいい。ワークショップの中で風と言っているのは、体の感覚としてとらえる方がいいようなもので、ある種の共通感覚としてあるから使っているわけです。だから対照は決して固定しているわけではない。
ガタリ————でもそれは属領化された要素を通じてでしょう。もっと別種のトランスセミオティックな要素は使わないのですか。例えば匂いとか、音とか、印象とか・・・・・・。
(・・・)
ガタリ————その時場所の問題が見いだされる。
泯————我々の関わっている空間すべてを場所と呼ぶのか、それとも場所と称ぶべき必要な素材はあるのかどうかという事ですね。雨は雨である。風は風である。しかし動きが必要ですね。俳句で風と言う場合、本院がどう表現しようが、風であることは疑いの余地がない、しかし、我々の中の、人間の身体の中の素材が動くから風を読むんでしょう。共通感覚と言ったのはこれを無限大にとらえているのではなくて点のようなものあるいは自分に退行する意志としての言葉とした使ったわけで、事実を表明する何物かでは決してないわけです。永遠に止まれという動きとしての風もあるし、もういやだという風もある。身体は意味論的ではないという風でもあるし。つまり場所と中の素材とはしばしば一致するわけですよ。問題は私という素材の中にあり同時にそれは私の外に見出しうるものだと思います。それから先ほどのハイパーコンプレックスな対象の話ですが、他人に悼みはわからないというハイパーコンプレックスなんかはどうでしょうか、これも場所の問題に深く関わると思うのですが。印象と言っているうちはまだ言語ですよね、それが身体に、中身になるあとさきが重要なんではないでしょうか。」
・4 アレンジメント
*「ガタリ————私は次のような層状構造をここで設定したいと思います。つまり演劇空間、そして身体的強度の世界です。後者の中には前者と矛盾する要素がいくつかあるわけで、問題は各層を如何に管理するか、それらの間の遊泳を司るものは何かということです。
泯————それを説明するのにはたいへん長い時間がかかるだろうと思う。というのもそれを司るのは僕ではなく、僕の外にあるものと考えなければならないから・・・・・・、
ガタリ————まさしくその通りです。それをアレンジメント、集団的アレンジメントと言うんです。
私にとって集団的アレンジメントは、単にたくさんの人々が関わっていることを意味するだけではなくて、その非人間的過程もまた付け加わっているのです。
また非人間的過程とは、宇宙的事物、抽象的な機械のホルモン的生物学的歴史であると同時に、人間的論理によっては決して操作されない反復の純粋な類型において課されるリズムの歴史でもありうるのです。
————————彼の仕事はまさしくこのアレンジメントの操作の観念から離脱することにあるのですが。
ガタリ————個体的アレンジメントからのね。
泯————外側に事件が発生しているのに、まるで自分の事件であるかのようにしてしまうことは大きな間違いだと思うんです。僕は何年も前から、もう「私の」と言えるような時間は死ぬまで無いんじゃないかと思っています。だからといって人の為に生きているというつもりも全くない。私の為に生きているんだけれども徹底してより私でありたいから私は無いという。例えば自然はもともと舞っていた。その舞いを見て我々は、我々の感覚は踊り、感覚を知性に引き上げた。永い人間的・非人間的過程が我々の踊りをアレンジしていると思います。体外に、身体の外側に回帰すること、僕にとって重要なポイントです。
・5 インプロヴィゼーションについて
*「————————即興で演じる俳優は(・・・)最大限の自由と最大限の必然性とに身を置こうとしなければならないのです。ある種の敷居というものがあり、それはヨリ遠くにあるとか、ヨリ近くにあるとか言うのではない————そこでは突如としてヨリ多くの自由とヨリ多くの必然の間に一致が生ずる、そのような敷居はあるのです。
泯————やはり自由というのはある種のフィクションが先行したのでは話にならないわけです。いつもその「間」で存在するインプロヴィゼーション、それは思想の総体としての見当を持っていなければならない。よく自由に、アナーキーにやるのが即興だと勘違いする人がいるけど、その即興をもたらすものを考えなければどうにもならないんだ。また即興が芸術表現の一つの方法になったら、それは夢でもなんでもなくなってしまう。夢の途上のようなもの、それがあるわけです。見当があるから直観がある。直観が一気に立ち上がって縁を作る、そしてその縁を「確かだ」と言いたいから即興があるのではないかな。
————————結局泯さんにとってその即興とは直接的創造、瞬間の書き留めなんですね。
泯————僕は一瞬ごとに古い田中泯ですね。瞬間の書き留めですね。直接的創造というよりは休みなしの夢と言ったほうが具体的です。空に浮かぶ雲を舌でなめてみたり、川の水面に眼を接近させて魚影を身に受けとめる。食事の途中で「本当に美味しい!」と叫んでみる。相手の言葉を充分に聞いて自分の脳をひっくりかえす。即興とは何時、何が見えても固くならないことです。新しいと言わないことです。それを僕は身体気象と言っています。」
・6 再現ー表象の問題について
*「————————再現——表象の問題に行こうと思います。というのもやはり、ほとんどの芸術表現においてこの問題が課せられていると思うからです。演劇的表現の場合も再現——表象があります。つまり観客に何かを提示することが問題なのであり、真なる問いとして、つまり再現の働きと実現の働きという形で演劇を把握し考える問題として、何ものかが課せられるのです。たとえこの現実が非常に多様で複雑で多層化されていてもです。やはりこの再現——表象と実現——現実化の間の点にこそ、真なる問いが存在しているのではないでしょうか。
ガタリ————その二つを対立させては駄目なんですよ。お望みなら私の考えをはっきりさせましょう。それらの観念を私は三つの範疇のタイプに分けることにします。実際には四つ、つまり属領化——脱属領化の水準があるのですが、これはここでさしあたってはとりあげません・まず一方の側に私は、言説的(論弁的)論理に所属する諸本質の総体————これを言説的(論弁的)総体と言いましょう————を置きます。そしてここ、反対側に、私はアルトーから借りた「器官なき身体」の論理という観念を置きます。それは言説的(論弁的)ではありません。さてここに実在の生産があり、この左側に表象があります————そこでは実体的な与えられた身体はありません(・・・)。ですから私にとって次のような流れがあります。それは感覚的、非言説(論弁的)的領土に取り込まれる言説的(論弁的)流れであり、つまり感覚的、実在的領土に取り込まれるが、次にそれによる表現の流れとして逆戻りする流れなのです。そしてこの関係、それが再現ー表象の関係、意味作用の関係になるのです。この流れ1(f1)は、それはこの実在を生産する場によって媒介されたことを通じ、流れ2(f2)として見出されます。
————————そして最初の流れと次の流れとの間にまた関係ができ、この関係が複雑になっていくところに与えられた身体ができている・・・・・・
泯————そう、全くそう、それがすごく速い。
ガタリ————しかし即興の、私の意見では特別な問題————演劇の問題ですが————これはそこにはないのです。なぜならそこにあるのは、固定したある種の水準、プレゼンテーションだからです。それが存しているのは、同じ言説的(論弁的)、記号論的要素が自らを変形し、実在領土の別のタイプを創造する結果となる限りにおいてなのです。つまりある種の意味作用、ある種のメッセージを与えるのに役立つ動作は、その動作のリズム、輪郭・・・・・・そして実在的領土を生産する何かによっているのです。その時演劇の舞台とは、言説的(論弁的)要素間のこの変化が起こる場と言えます。その場の機能は、表象の体制において記号化の形式の中で展開し、同時にある種の実在的領土を生み出します。そしてその領土はその非言説(論弁)的領域で展開し、演劇を豊かなものにします————それは舞台の生産があるという事実であり、舞台の上に舞台があり、それが一つの舞台を誘引するとされた方がした方を無化するというような事実のことです。しかしただ、舞台の観念は言説的(論弁的)ではなく、それは存在するが知ることはないとういうようなものです。
泯————僕は「これかは始まる、これから始まる」という表現をするんだけど、それは全くこのサイクル、この複雑化に相当するし、速くなればなづほどそう思わざるをえないね。僕にとって再現化も現実化も同時なんで、特に自分がベスト・コンディションで覚醒している時がそうだね。」
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