東畑開人「贅沢な悩み 連載第10回/第2部 生存編—心を可能にする仕事 5章 白さんのカラフルな刺繍—我痛む、故に痛みあり、ゆえに我なし(承前)」(『文學界』2024年12月号)
☆mediopos36467(2024.11.13.)
東畑開人「贅沢な悩み」の連載第10回(『文學界』)は
前回第9回ではじまった
第2部 生存編————心を可能にする仕事
「5章 白さんのカラフルな刺繍
————我痛む、故に痛みあり、ゆえに我なし」の続き
(mediopos3614/2024.10.11.)
前回の結論部分を簡単にいえばこういうことだ
東原開人は心を奥行きのあるものとしてイメージしており
輪郭と奥行きが失われるときに心は不可能になり
それらが確保されると内面という次元が立ち現れ
「心が可能になる」のだという
つまり問題となるのは
「心が不可能になる」ときである
従って臨床心理士としての課題は
「心を可能にし自由にするためになにができるか」であり
そのためにはまず
外界から区別された自分だけの内的空間をもつことで
「心を可能」なものにし
さらにそのなかで不自由になっている心を
自由にする必要がある
今回は「白さん」の事例がとりあげられている
白さんはいつか大ホールで歌を歌い
満場の拍手を浴びることを夢みて音楽大学に進学したが
大学で与えられる課題についていけず
3年生になると抑うつ状態になり
「劣っている。劣っている。劣っている。」
と自己否定感に苛まれるようになる
東畑開人は「彼女が変化するのではなく、
彼女に求められていることの方を
変化させることが大事だ」と考え
「大学関係者に状況を説明し、
配慮してもらう」ことなどにより
「比較的速やかに最悪の状態からは脱」する
3年生の段階でクライシス状態となったのは
卒業後の進路が迫ってきたことにある
結局声楽のキャリアを諦めなんとか音楽教師となるが
教師生活が2年目に入ったとき
新年度になって音楽科の主任が変わり
「ちゃと自覚を持ちなさい」と厳しく言われ
「アーティスト気取りはやめなさい」という言葉が
「自分は劣っている」という「古い傷口」を開いてしまう
そして休職することになるが
「劣っている」「劣っている」「劣っている」・・・
という声にとらわれ
カッターで腕を切ったりした
「生活環境が整えば、自ずと心は回復するはず」
そう思っていたが
目論見は外れ「心は不可能なまま」となっていたのである
しかし白さんは
「嫌なことばかり考えちゃうから、YouTube」を見ていて
「刺繍いいじゃん、って気づ」き
「眠れぬ夜に刺繍を始め」る
「頭の中に響く声は、刺繍をしていると薄ら」ぐからだ
白さんにとって刺繍は「象徴」として機能していた
「象徴とは縫い重ねること」
「二つの違うものを重ねることで、深みを作り出す」
「物理的な針と糸は心の傷を
縫合するために使われていた」のである
心には
「心が不可能なとき」と
「心が可能なとき」という2種類の心がある
「心が不可能なとき」
心は「は凝り固まった氷のように、
一つのことしか考えられなくな」るが
心が心を思う
つまり「「妄心がある」と気づくことそのものが、
すでに妄心からの距離を可能に」する
つまりその違いは「深さ」の有無であり
「不可能な心は皮や紙のようにペラペラで」二次元的だが
「可能な心は袋や箱のようにふっくら」した三次元的である
東畑開人は白さんが
「リストカットではなく、刺繍を見つけたこと」に感動を覚える
「それは私がもたらしたものではなく、
彼女の心で「はじまった」ことだった」
心の創造性である
「環境調整」の必要性はあるが
それだけで心の創造性が開かれるわけではない
「ペラペラの心のどこかに種が埋まっている」のだ
東畑開人は心の二次元と三次元という比喩で
「心が不可能なとき」と「心が可能なとき」を
説明しているが
だれしも心の二次元と三次元を合わせ持っている
三次元とはいってみれば二次元メタレベルの
「心が心を思う」レベルにおける心
それをさらに敷衍すれば
自我における現代的な課題である
「意識魂」ということでもあるだろう
そこには身体性も深く関わっている
じぶんはいまこう感じている考えているのだと
じぶんの感覚・感情や思考を対象化することである
いわゆる「執心」「妄心」というのは
じぶんを見つめることのできないことにほかならない
じぶんで自分を雁字搦めにしている状態である
心を「可能」にするためには
そうした状態から離れることが必要となる
■東畑開人「贅沢な悩み 連載第10回
第2部 生存編————心を可能にする仕事
5章 白さんのカラフルな刺繍
————我痛む、故に痛みあり、ゆえに我なし(承前)」
(『文學界』2024年12月号)
・5
*「白さんは音楽大学の3年生で、声楽を学んでいた。幼いころから歌が好きで、お正月やお盆に親戚の集まりがあれば、宴会の途中で彼女が歌い出すのが恒例行事だったらしい。いつか大ホールで歌いたい。そして、満場の拍手を浴びたい。そういう少女時代の夢のままに、白さんは音大に進学したのだった。
しかし、大学生活がうまくいかなかった。次から次へと出される課題についていけなかったのだ。(・・・)
おそらくADHD(注意欠陥・多動性障害)の気があったのだと思う。白さんはタスクを整理して、スケジュールをうまく管理することができなかった。そのせいで、彼女はいつもやらなきゃならいけないことにバタバタと追われていて、大きく膨らんだ黄色のリュックにはプリントが溢れかえっていた。締切前日に夜に徹夜で課題に取り組むことが常態化していた(・・・)。
それでも、2年生まではなんとかついていくことが出来た。」
「しかし、3年生になると、問題が顕在化した。まったく生活が回らなくなってしまい、白さんはひどく抑うつ的になった。」
「劣っている。劣っている。劣っている。
白さんはインテーク面接で何度もそう言った。」
「本当の問題はADHDというよりも、自己否定感にある。私はそうアセスメントした。周りと比較することで、自分を責めすぎている。これをなんとかしないといけない。」
「そのために、具体的に大学関係者に状況を説明し、配慮してもらうこと(そのために私が情報提供書を書く)、今抱えているタスクの優先順位を一緒に整理すること、捨てるべき課題は捨ててみることを具体的に提案した。彼女が変化するのではなく、彼女に求められていることの方を変化させることが大事だと思った。
彼女は嫌がった。みんながふつうにできていることなのだから、自分もやらなくてはいけないと思っているようだった。ただ、最後は同意してくれた。」
「予想外なことに、白さんは比較的速やかに最悪の状態からは脱した。」
「すると、話題は広がった。彼女は日々起きていることや過去のことを徒然なるままに語り、振り返るようになった。
具合が悪くないときの白さんの日常はカラフルだった。大学の友人たちと一緒に、駅前で大道芸のパフォーマンスをしてみたり、生理前のイライラしている日に『ショーシャンクの空に』を真似て、大雨に打たれてスッキリしてみたり、彼女の行動は突飛で面白かった。私はしばしば笑ってしまって、そうすると彼女は大きな目を細め、大きな口を開けて、ガハハと笑った。豪快に笑う人だった。
一方で、家族の話をしているときの彼女は抑うつ的で、怒りが滲んでいた。父親や母親の話題になると、彼女は目を真っ赤にさせた。」
*「当初白さんの心は不可能になっていた。「劣っている」という声で頭がいっぱいになっていて、ほかのことを何も考えられなくなっていた。そうなった原因の一つは大学の学習環境が彼女の特性と合っていなかったことで、もう一つは彼女の生育暦において作られてきた自己否定感であった。姉ばかりが愛され、自分には価値がない。この古い傷が、大学でのついていけなさから甦ったのである。」
「なぜ3年生の段階で彼女はクライシスを迎えたのか? それは卒業後の進路がリアルなものとして迫ってきたからだ。」
・6
*「結局学校の先生になることにした。彼女なりの現実感覚で、教員免許取得のための単位をきちんととっていたのだ。」
「教育実習から帰ってきたとき、彼女は幾分軽躁的だった。それがいかに楽しい時間だったかを語り、音楽教師になりたいと熱っぽく語った。私には声楽のキャリアを諦めることの悼みを防衛しているようにも見えたし、今からでは教員採用試験の勉強は間に合わないとも思ったが、彼女なりの一歩を踏み出そうとしているのは感じた。だから、その実存的選択を支えようと思った。
結局、公立学校の採用試験はうまくいかなかったが、校外にある中高一貫の女子校の音楽教師として臨時採用された。」
「これでひとまず人生は前に進んだように、私は思った。」
「無事契約も更新できて、教師生活は2年目に入り、そろそろフォローアップも終わりにしてもいいのではないかと思っていた頃に、異変は起きたのだった。」
・7
*「心が不可能になるとはどういうことか? 心が可能になるとはどういうことか?
これを明確な形で見せてくれるのが次の局面である。」
*「新年度になって、音楽科の主任は代わったのがきっかけだった。新しい主任の当たりは強かった。白さんが業務を整理できず、もたついているとき、前の主任は手伝ってくれたが、新しい主任は「ちゃと自覚を持ちなさい」と厳しかった。」
「「アーティスト気取りはやめなさい」
これが決定打となった。痛いところを突かれたのだ。プロの声楽家になれなかった。このまだ閉じていない傷の絆創膏をはがされた。」
「頭の中を同じ言葉が駆け巡っていた。
「自分は劣っている」
古い傷口まで開いていた。
私は緊急対応を迫られていた。火急性があった。心を可能にする仕事が必要だった。だから、休職を勧めた。」
「仕事は休みであっても、彼女は休まらなかった。ベッドから起き上がれず、スマホで動画やSNSばかりを見ていた。」
「「アーティスト気取りはやめなさい」何度も声が響いた。
電話の着信があると、主任からではないかと怯えて、心臓が止まるようなパニックに襲われた。定期的に学校に状態を報告しなくてはいけなかったが、メールを打つこともできなかった。そして、そんな自分がまた惨めだった。
「劣っている」「劣っている」「劣っている」「劣っている」」
「「劣っている」「劣っている」「劣っている」「劣っている」」
あまりにその声がうるさいとき、白さんはカッターで腕を切った。血がにじむと一瞬残酷な声は遠のいた。」
*「休職して、生活環境が整えば、自ずと心は回復するはず。私はそう思っていたのだが、目論見は外れた。心は不可能なままだった。」
・8
*「次の週、朝から暑い日の午前の面接だった。学校は休みに入っていたから、外からは子どもたちの声が聞こえた。白さんはハンカチで汗をぬぐいながら面接室にやってきた。玄関で迎えたときの白さんは口をとがらせていて、深刻そうな表情をしていただ、顔色はよかった。(・・・)
ソファに座ると、白さんは顔を上げ、大きな口を開けてにやーっとした。
「いい方法見つけちゃいました」
声が明るかった。私はホッとした。
「何があったの?」
「(・・・)嫌なことばかり考えちゃうから、YouTube見てたんです」
(・・・)
彼女はガハハと笑った。
「そしたら、刺繍いいじゃん、って気づいたんです。」
*「彼女は眠れぬ夜に刺繍を始めたのだった。
細い針に緑の糸を通し、白生地に突き刺す。糸を出し切ったら、3ミリ先に再び射しこむ。そして、先ほど通したところかた針を出し、再び糸を引き出す。これを繰り返して、縫い終わりのところで玉留めをする。
劣っている。劣っている。劣っている。劣っている。
頭の中に響く声は、刺繍をしていると薄らいだ。針の動きに集中し、糸が創り出す形の面白さ、縫い重なることで生まれる色彩の美しさを楽しんだ。静かな深夜に小さく手を動かしていると、ある生物が浮かび上がってきた。話をきいていると、私は一緒に夢を見ているような気持ちがした。」
「次の夜も、その次の夜も、刺繍を続けた。「劣っている」という声が来たときには、針を手に取ればいい。世界が私をチクチク刺すならば、私は白生地に針でチクチクと刺してやる。」
*「刺繍は「象徴」として機能していた。象徴とは縫い重ねることだ。二つの違うものを重ねることで、深みを作り出す。チクチクと縫う静かな夜に、白のTシャツと白さんの心は混じりあい、物理的な針と糸は心の傷を縫合するために使われていたのだ。」
・9
*「心が不可能なとき心が可能なとき。この対比こそが問題であった。白さんの事例がそれを鮮やかに教えてくれる。二つの地点を観測すればよい。「劣っている」という言葉が溢れているときの白さんと、刺繍をしながら物思いにふけっている白さん。前者において心は不可能になっていて、後者にあって心は可能になっている。これが私の主張したいことだ。」
*「「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの有名な言葉を思い出す。身体も世界も存在しないかもしれない。すべて幻覚の可能性がある。そのようにすべてを疑おうとしたデカルトは、それでもなお、そのように疑っている自分が存在していることは歌が言えない、と宣言した。そのように感じ、考えている心は存在していると言わざるを得ない。(・・・)
しかし、そのとき、デカルトの右腕がガスバーナーで焼かれていたとしたらどうだろう?(・・・)
デカルト派きっと、「熱い」とか「痛い」としか感じられなくなるはずだ。そして、「自分は今痛みを感じている。この痛み自体は幻覚かもしれないけれど、痛みを感じている自分は少なくとも存在している」などと考える余裕は全くなくなる。」
「痛みの最中で、私たちは我を失う。つまり、痛みは圧倒的に存在するけれど、我はなくなるのだ。(...)
「我思う」ために必要なのは、まずがガスバーナーを止めることだ。そして火傷の手当をすることだ。(・・・)
心を可能にするためには、安全な環境が必要なのである。」
*「実は「心が不可能なときと心が可能なとき」とは、心の存在の有無を問題にしているわけではない。正確には2種類の心を問題にしているのである。つまり、「不可能になっている心」と「可能になっている心」である。
「劣っている」という痛みに呑み込まれている心と、刺繍をしながら物思いにふけっている心。ガスバーナーに焼かれて悶絶している心と、平和な土地で「我思う」心。前者が不可能な心であり、後者が可能な心だ。」
*「この二つの心は何が違うのか。不可能な心に欠如している「心が心であるための本質的な機能」とは何か。
これを教えてくれるのが、本章のエピグラフにあった沢庵和尚の句である。(・・・)
心こそ心迷わす心なれ、心に心心ゆるすな
(・・・)
ここで沢庵和尚は心には2種類あることを指摘している。これを「妄心」と「本心」と言う。」
「妄心とは凝り固まった氷のように、一つのことしか考えられなくなった心であり、本心は水のように流動する自由な心である。当然、妄心=不可能な心であり、本心=可能な心だ。前者は固体であり、後者は液体。」
「心が心を思っていること。「妄心がある」と気づくことそのものが、すでに妄心からの距離を可能にしている。氷を溶かしている。自由になれるだけの距離をとったところに心がもう一つ存在し始めている。この二重性こそが本心の本質であり、心が不可能になっているときに失われているものである。」
・10
*「私は数学的な比喩の方が適切だと思う。二重性とは本質的に幾何学的な概念であるからだ。問題になっているのは二次元と三次元の差異だ。ようは「深さ」の有無である。不可能な心は皮や紙のようにペラペラで、可能な心は袋や箱のようにふっくらしている。平面的な心と立体的な心。
ペラペラの心と膨らんだ心。これこそが心の不可能性と可能性の原イメージである。」
*「心が不可能なとき、心はペラペラの皮のようになっていて、心が可能になるとき、心は袋のように膨らんでいる。そこには深さが存在している。その具体的な現れを白さんの事例を通して見てきた。」
*「一点だけ、補足しておきたいのは、何が白さんの心を可能にしたのかだ。それはまるで魔法のようだった。私はあの日の面接で、心そのものが持つ力を実感せざるを得なかった。
確かに環境調整は意味があったと思う。休職し、母親に衣食住の世話をしてもらう、デカルトがオランダに隠栖したように、白さんが隠栖できるように私は尽力した。これが心を可能にする仕事であって、それが心の膨らみを準備したことは疑いえない・
でも、最後の最後に、彼女がリストカットではなく、刺繍を見つけたことは、やはり感動的だった。彼女の心に刺繍という可能性があることを私は全く思いもしていなかった。それは私がもたらしたものではなく、彼女の心で「はじまった」ことだった。
こういうときに、心がいかに創造的であるかを思う。心は単に外部の環境に反射するだけの存在ではない。そこには記憶があり、深さがあって、自己と世界を、そしてその二つの関係性を変える力が備わっている。ペラペラの心のどこかに種が埋まっているのだ。」