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【討議】鈴木亘×つやちゃん×山本浩貴(いぬのせなか座)「技術と情動のマキシマリズム――「国民的文化」であるお笑いをどう論じるか」(ユリイカ 2024/12月号 特集 お笑いと批評)

☆mediopos3665(2024.12.1.)

「お笑い」の存在感が高まっている

文学でいえば芥川賞や直木賞のように
『キングオブコント』や『M−1グランプリ』といった
お笑いの世界でのステイタスを得るための登竜門が
マスメディアやネットの力を得ながら
文学よりもはるかに大きな規模で
「国民的文化」として認知されるようになっている

お笑い芸人の側からいえば
賞レースを勝ち抜くことができれば
「ようやく自由に好きなことがやれる」ということでもあり
多くの芸人が夢を追いながら参戦する

笑いは多くの笑いをとればいいのであって
「批評なんてするものではないという価値観は根強」いが
今やこうした賞レースは
お笑いの世界で影響力を強く持っている

そうしたなかで
「演者も制作も観客もなんとなく」
「前年がこうだったから次はどうするべきか」
「「何を笑うか」を決めているような空気が生じ」
そこに「お笑い批評」が広がっている

そのなかでもプレイヤー自身による批評は
「芸においてもキャラにおいても
その質を支える重要な武器」や「鎧」ともなり

それはまた「新規参入してくる観客に向けた
歴史や文脈の開示としてありつつ、
同時にその歴史における自身の位置づけの提示でもある」ような
「セルフブランディング」として機能しているところがある

ファンもお笑いを論じる者も
そうした批評の現在を生きているといえるのだが

その背景には
「エンタメとしてお笑いが浸透しているということ以上に、
笑いという情動自体に対して無条件な讃美がある」ようだが
笑いが深いところから求められているということだろう

しかしお笑い芸人は結局のところ
「テクニック的な評価を経由した後で
「やっぱりそこだよね」と行きつく」ような
「人間味」とでもいえる「キャラ」にほかならない

そうした「キャラ」が成立することで
「お笑い芸人」としてのポジションが確立される

それが舞台上で消費されるだけでなく
「人間のより良い振る舞い方の例として視聴者側にまで伝播」し

「社会における自己認識の型を様々な
人体を用いて発明し全国規模で流通させていく
奇妙な芸術・産業として」成立することになっているのだが

そうした「お笑い芸人のコミュニケーション技術」は
今後「ある程度体系化され、スキルとして
ビジネスシーンにおいても活用されていく」可能性を
持ち得るようになっているところがあるため

「笑いの技術の存在感がますます巨大化していくと、
笑いも感情マネジメントの対象として
統制されていく未来が来る」ことも考えられる

「1984」的な「管理社会」の道具として
使われる危険性があるということでもある

「お笑いが生み出すレトリックや身体的振る舞いは
政治性や社会的規範の展開と
切っても切れない関係にある」ために
無意識的なところにまで働きかける道具ともなり得るのだ

そうしたなかで
お笑いをじぶんなりに純粋に楽しむという
「私的な経験を大事にする視点」がスポイルされてしまい

「みんなこれを笑う/笑わない感覚やセンスを持っておくべきだ、
それが政治的にも倫理的にも正しいのだ」というように
「統制」されたお笑い文化が強く影響してしまうことにもなる

そのように
「人前で体を動かし話すだけで
空間を大きく操作できてしまう技術」が
「統制」のために使われることで
それが「大衆の制御や動員などに容易に繫がりうる」ため
その危険性について自覚的である必要がある

その意味でも「お笑い」のもつ力
そして「お笑い芸人」の「技術」とそれが与えるものについて
「批評」が必要とされているともいえるのだろう

笑いが必要不可欠なものであるのは確かだが
「お笑い」を過剰なまでに消費しているうちに
自分が笑っているのか
笑わされているのかさえわからなくなり
やがて笑えなくなるほどの状況を招いてしまわないように・・・

■【討議】鈴木亘×つやちゃん×山本浩貴(いぬのせなか座)
 「技術と情動のマキシマリズム
  ――「国民的文化」であるお笑いをどう論じるか」
 (ユリイカ 2024年12月号 特集=お笑いと批評
  ――賞レース、バラエティ、ラジオ、YouTube、SNS…膨張・炸裂するエンタメの行方)

*「———— このたびの討議では、お笑いがメディアにおける影響力を際限なく高めている今日の状況について、そしてお笑い批評の可能性について、さまざまに検討していければと思います。現在のお笑い批評の広がりは賞レースに拠るところが大きいと思いますが、まずはそのお話からうかがえますでしょうか。

 鈴木/『キングオブコント』や『M−1グランプリ』の後は義務的に「この大会はこうだったよね」とか「この大会はこれが新しく出てきたよね」とか語らなければならないような風潮が、特にここ数年はあるように思います。例えば二〇二一年の『キングオブコント』で空気階段が優勝した時は「インクルージョン」、二〇二二年の『M−1』でウエストランドが優勝した時は「人を傷つける笑い」など、大会のたびに何か新しいもの、その時代を切り取って前年と区別するようなものを打ち出さなければならないというオブセッションが、お笑いを語る人々にあるような気がしていて、正直苦しいです。

 山本/賞レース中心主義的な今の状況においては避けがたいところですよね。前年がこうだったから次はどうするべきかといったロジックでは実はみんな動いていなかったりするだろうに、演者も制作も観客もなんとなくそれを踏まえて「何を笑うか」を決めているような空気が生じてしまう。一方ではYouTubeで『M−1』予選を毎年可能な限り全部見るみたいな熱心なお笑いファンの存在感が今まで以上に増していて、お笑い業界の文法やトレンドが一定以上わかっているひとにこそ刺さるようなネタも増えてきている印象があるけれど、もう一方では引き続きテレビなどを通じて不特定多数の人たちに見られていることもあり、半ば強引に文脈をワンフレーズで言語化していかなければならないという圧もある。この、ジャンルとしての高度化とそれとは真逆の簡易な言語化の要請の狭間で常に動かざるを得ない緊張のようなものが、毎年の賞レースごとにプレイヤーたちに内面化されていっている気もする。そんななか、例えば令和ロマンの高比良くるまさんみたいな、お笑いというジャンルそのものを分析する「分析キャラ」を作り上げて活動し、実際に『M−1』も優勝してムーブメントの中心に立ちつつある人が出てきたことなども含めて、今の状況は良くも悪くもジャンルとして行き着くところまで行きつつあるような印象を持っています。」

・誰のための批評か

*「つやちゃん/笑いは結果主義的であって、批評なんてするものではないという価値観は根強くあります。批評のあり方というのは諸ジャンルにおいていよいよ難しいものになってきていますが、それと比べてもお笑い批評というのはちょっとまた違った拒否反応を含んでいるように思います。でも、批評するものではないと言いつつ、どうしても批評に向かってしまいたくなるような欲望もみんな抱えていて、お笑い芸人も観客もそういう矛盾した状況に置かれている気がする。今言われたようにインスタントな批評はどんどん増えているし、お笑い芸人の「お笑いについてのお笑い」も増えていますよね。昨日行った人間横町のインタビューはでは「お笑いについての笑いをやるとゲームで目立てる」というようなことをおっしゃっていて、それはすごく分かる。さまざまなプラットフォームでお笑いが起きていて、なおかつそのスタイルも多様化している中で、メタをやると目を引くし、群雄割拠のゲームから抜け出せるところがある。それは粗品の一人賛否みたいなものを見ていても痛感するところで、お笑いについての批評性というこのは、結局のところゲームにおいて重要性を増してきていると思います。

 山本/プレイヤー自身による批評は、芸においてもキャラにおいてもその質を支える重要な武器になっていますよね。ある種の武器としても鎧としても、批評性を体現することは活動の上で多くのメリットを生む。お笑いに限らない話ですが、プレイヤー自身による批評って、新規参入してくる観客に向けた歴史や文脈の開示としてありつつ、同時にその歴史における自身の位置づけの提示でもある。要はセルフブランディングとして良くも悪くも機能してしまうわけです。それにファンはもちろんお笑いを論じようとする人もみな大なり小なり乗らざるを得ない。」

*「つやちゃん/もうひとつ、そういったある種の「お笑い批評」が顕著に出ている局面というと、やはり賞レースの審査がありますよね。そこで全体の傾向と大きく外れるような採点をしている審査員に対して、毎年演者からも視聴者からも「それってどうなんだ?」という批判が出る。あれを見るたびに、お笑い批評のあり方について考えざるをえない。」

・お笑い語りのムード

*「つやちゃん/そもそも「お笑い」どころか,私たちの日常における「笑い」自体も非常に高度なものになってきていますよね。「お笑い」と「笑い」がかなり近くなってきた印象がある。ここまでくると、「お笑い」の話以前に「笑い」というものがなぜこんなにも無条件に必要なものとされているんだろうということが気になるというか。お笑い芸人がこれほど重宝されるのも、結局はどういうことですよね。笑えることは良いことだ、あるいは笑いを生み出せるのは良いことだ、あるいは笑いを生み出せるのはすごいことだという明らかな共通認識が形成されている。それはお笑いの加害性みたいなものを言いたいわけではなく。なぜこんなにも笑いが我々の日常においてプレゼンスを得ているのかというのが純粋に不思議なんですよ。分断とか対立とか言われているなかで、当然笑いというのは関係性をほぐす効果もありますし、ビジネスや生活の様々な局面でより合理的かつロジカルになってきつつある我々の会話を打開して余白を生み出せるという意味で、それ自体にはすごく大きな力があるとは思います。だからといって、それにしても日本でエンタメとしてお笑いが浸透しているということ以上に、笑いという情動自体に対して無条件な讃美がある。それは恐らく、笑いは人智を超えたものとして捉えられているからではないでしょうか。漫才の歴史を辿っていくと特定の宗教と結びついた神事に辿り着くとか、そもそも落語が僧侶の説教から始まっているとか、そのように笑いというものが崇高なものとして存在してきた。分析できない、そもそも分析してはいけない、それ以前に素晴らしいものという価値観が培われてきて、お笑いが批評を禁忌したがるのはそういった背景も関係しているのではないか。

 そうやって思考していくと、結局は笑いが内包するものは何なのだろうか、という話になってくる。」

*「鈴木/つやちゃんさんの言う「バイブス」という言葉で語られるものって、例えば昔ながらの芸能の用語だったら「ニン」であり、『M−1』の審査員だったら「人間味」みたいな言葉で言うことができると思いますが、テクニック的な評価を経由した後で「やっぱりそこだよね」と行きつくものという感じがあります。」

「山本/「バイブス」や「ニン」の話で言うと、そこでの「その人らしさ」って別に生まれつき持っている自然さとか実際に家でどうすごしているかとかではなくて、あくまで見た目や声色や顔なども含めた肉体の物理的かつ表層的な特性とフィクショナルな芸が合わさって生みだされる「キャラ」ですよね。つまりは舞台の上に立つ体がどのような体つきをして、どのようなしゃべり方や振る舞いをして、どのような格好で、どのように隣の人間あるいは観客と関わるかといった膨大な情報が、ひとつには「笑い」という情動として圧縮されるわけだけれど、同時にもうひとつ、「キャラ」というかたちでも圧縮される。重要なのはその「キャラ」が、舞台上で消費されるだけでなくわりとシームレスにテレビのバラエティたYouTubeといったいわゆる「平場」へと持ち込まれ、人間のより良い振る舞い方の例として視聴者側にまで伝播していくところがあるということだと思う。つまりは社会における自己認識の型を様々な人体を用いて発明し全国規模で流通させていく奇妙な芸術・産業としての「お笑い」というものがある・・・・・・これはいわゆる近代文学などがかつて為してきた、しかし今ではお笑いでしかもはや許されていない役割かもしれない、なんて思ったりします。」

・キャラ・技術・天下

*「山本/賞レースから抜けたらようやく自由に好きなことがやれる、というのは、例えば淳文学における芥川賞とか演劇における岸田國士戯曲賞、現代詩における中原中也賞とかにも言えることですよね。応援している作家がそれらを取ると「出所おめでとう!」みたいな気持ちになる(笑)。(・・・)お笑いは規模感がもはや国家に一番近いと言って過言でないようなものになってしまっているので、お笑いで覇権を握ろうとすることが単なる一ジャンルを超えてマジで社会における「天下」の位置に立とうとすることを意味してしまう。少なくともそれくらい上に到達しなきゃ成功したとは言っちゃいけないような気分にさせられるところがあるわけですが、『M−1』でいいところまで残らなかったとしても他のジャンルで活動する人たちと比べると遙かに人を集めやすく、いろいろな活動に繋げやすいところがある。既存のマスメディアの力を得ることも比較定容易だし・・・・・・もちろん市場がでかいがゆえの大変さがあるというのは前提ですが。

 つやちゃん/お笑いって言ってみたらただのしゃべりですよね。そんなただのしゃべりが、二〇二〇年代にもなって山本さんが言ったような国家的な市場を作っているのって、すごいことです。もちろん、お笑いの芸自体は複雑になってきていますが、それでも、古来からあるしゃべり芸が一番今日本の文化において力を持っているというのは、一体何が起きているのだろうと不思議に思います。」

「山本/人前に立ってしゃべるというパフォーマンスが生み出すキャラへの信頼が笑い=熱狂に結びつき、世界そのものの「天下」の行く末を担うことになるという構造は、言ってしまえば政治家という存在のあり方とかなり近い。何を民衆に期待され、どういうしゃべりでもってキャラを作り、適切なタイミングで場を制御して奇蹟を起こせるか。

 鈴木/日本では弁論術が全く盛んではなく、政治家のしゃべりも他の国に比べて下手くそと言われているのに、こんなにも話芸が盛り上がっているのはアイロニカルですね。

 山本/政治家として活動する芸人も数としては他のジャンル出身と同じくらいという印象で、培われた話芸が政治へと積極的に輸出されている感じはしない。ただそれでも、オリエンタルラジオの中田敦彦さんや極楽とんぼの加藤浩次さんみたいにガンガン政治家に質問して番組を回していける能力を備えた人材を輩出する場所として他に類例がないのは間違いないと思います。やっぱり漫才や平場の蓄積がもたらしトーク力やその伝承には尋常ではないものがあり、島田紳助・竜介やツービート、爆笑問題やアンタッチャブルといった人たちの漫才を見ていても、しゃべりの速度や振る舞い、人前に立つ体としての強度など、自分と同じ人体とは思えない異様な何かが立ち上がっているさまに圧倒される。これは俳優などとも違う、特殊な洗練を感じざるを得ない。

 鈴木/コミュニケーションのスキルという意味での技術もありますよね。」

「つやちゃん/今後、お笑い芸人のコミュニケーション技術がある程度体系化され、スキルとしてビジネスシーンにおいても活用されていくのではないでしょうか。そうやってビジネスにしろ政治にしろ、笑いの技術の存在感がますます巨大化していくと、笑いも感情マネジメントの対象として統制されていく未来が来るかもしれませんね。」

*「山本/お笑いが生み出すレトリックや身体的振る舞いは政治性や社会的規範の展開と切っても切れない関係にある。お笑い批評に対して「いちいち細かく分析してんじゃねえよ」という反応が出てくるのも、「みんなが笑っているのだから素直に笑うべき」という社会的圧としてある。そこでは常に、自分だけがひとり笑ってしまった、というような私的な経験を大事にする視点は抜け落ち、みんなこれを笑う/笑わない感覚やセンスを持っておくべきだ、それが政治的にも倫理的にも正しいのだという強い教育としてお笑い文化は機能してしまうでしょう。そこから始まる統制もあるはずで、それが「コンプライアンスを守るお笑いをしましょう」程度のものだったらまだマシですが、さらに進んで大衆の制御や動員などに容易に繫がりうることを思うと、野暮ではあるけれど慎重かつ積極的に考えていくべきところではありますよね。そもそもそうやって人前で体を動かし話すだけで空間を大きく操作できてしまう技術を得ることって、実は人生においてかなり恐ろしいことでもある。多くの芸人が夢を追い、眼の前の人を笑わそうと頑張るうちにいつのまにかそうした技術を生み出し身につけ流通させれしまっているということに、あらためてみんながある程度自覚的にならないといけないのかもしれません。ある意味ではそこまでしっかり考えてこそ、お笑いやそのプレイヤーとしての芸人のみなさんの仕事を真摯に受け止めることになるかとも思うんです。」

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