四方幸子『エコゾフィック・アート/自然・精神・社会をつなぐアート論』/渡辺真也『ユーラシアを探して/ヨーゼフ・ボイスとナムジュン・パイク』
☆mediopos-3161 2023.7.14
四方幸子『エコゾフィック・アート』は
副題にもある通り
「自然・精神・社会をつなぐアート論」である
「エコゾフィー」は
ガタリが『三つのエコロジー』で提唱した
エコロジー+フィロソフィーの造語で
エコロジーを自然環境だけでなく
社会や精神にまで拡張したもの
そして四方氏の試みは
人新世といわれる現代におけるアートを
社会の諸領域さらには
地球における存在の総体としての自然や
精神・物質へと接続していくことにある
本書の第2章で展開されている
エコゾフィック・アート論のフィールドは
「森」「生」「渦」「水」「地」「力」
そして「電子」とあるように
インターネット後の世界をもふまえながら
時間・空間を超えた循環=「情報フロー」という
独自の視点で非人間も含めた生態的環境を扱う
数々のアート作品へと探求がなされている
四方氏の思想は
上記にふれたガタリの「エコゾフィー」とともに
そのキュレーションの仕事をするきっかけとなった
ヨーゼフ・ボイスの「社会彫刻」がその源流にあるが
ヨーゼフ・ボイスの思想はゲーテやノヴァーリス
そしてなによりシュタイナーの人智学がその根幹にある
そしてそのアートそしてパフォーマンスは
近代化により排除されてきた世界観や
動植物や自然全般とのコミュニケーションにも関わり
「生と死」「物質と精神」「熱と冷」「直観と理性」
「カオスと結晶」「中心と周縁」「西洋と東洋」といった
近代化のなかで強化され続けてきた二元論的対立ではなく
それらが循環する情報フローの「流動性」によって起こる
「変容」へと誘うものである
「西洋と東洋」へのアプローチとしては
ナムジュン・パイクとのプロジェクト
「「ユーラシア(ヨーロッパ+アジア)」がある
ユーラシア(Eurasia)とは
地球の陸地の40%を占める大陸である
ボイスはシュタイナーの人智学を経由しながら
その大地の西に位置するヨーロッパ(Euro)と
東に位置するアジア(Asia)に共通する
文化的ルーツに目をむけ
東西に分裂した世界の再構築を目指した
その「ユーラシア」のプロジェクトの詳細に関しては
渡辺真也『ユーラシアを探して』に詳しいが
それに関しては稿を改めて紹介する機会を設けたい
さて四方氏の『エコゾフィック・アート』の射程には
ガタリが「エコゾフィー」としてとらえた
自然・社会・精神の三つだけではなく
一九九〇年代に登場したインターネットやAIの進展が
踏まえられている
ある意味でデジタル・テクノロジーが
大きな力をもった社会においては
いわば「四つのエコロジー」が問題となるのである
デジタル・テクノロジーにおけるエコロジーは
政治的にもメディア的にも
監視社会のツールと化そうとする動きに対する
警鐘を発するものであるとともに
そこにボイスの唱えたような
「自由」「創造力」「経済」へと
リンク可能なものとしていく必要がある
そんななかでこそ「さまざまな情報のフロー(流れ)、
絡まり合い、循環するもの」としてとらえられた世界を
「変容」させるプロセスとしての
「自然・精神・社会をつなぐアート」が
不可欠となってくるのだといえる
■四方幸子『エコゾフィック・アート/自然・精神・社会をつなぐアート論』
(フィルムアート社 2023/4)
■渡辺真也『ユーラシアを探して/ヨーゼフ・ボイスとナムジュン・パイク』
(三元社 2020/2)
■『美術手帳 1992年4月号/特集:ヨーゼフボイス カオスと創造』
(美術出版社 1992/4)
(四方幸子『エコゾフィック・アート』〜「はじめに」より)
「私は世界を、さまざまな情報のフロー(流れ)、絡まり合い、循環するもの————そこには自身も含まれる————として捉えている。たとえば空気、水をはじめとする生態系、人間を含む動植物、土や石そして地層、言語、そしてデジタルデータなどである。つまる何かを見るとき、「モノ」や「かたち」ではなく、ミクロ・マクロの時間や空間における循環にある現在の「状態」として見るまなざしである。いわゆる「表象」ではなく、変容の「プロセス」として世界を見ている。そしてそれを捉える自分自身も、常に変容するものとして。
そのような世界観へシフトしたのは、一九九〇年代、メディアアートの黎明期にキュレーションに関わったときだった。当時登場したインタラクティブな作品は、デジタルであれ、体験者の動きや生体データであれ、情報として流れて伝達していくことで、リアルタイムな映像や音を含め空間が変容していくものだった。それが体験者にフィードバックされ、新たな動きや反応を生み出していく。そして実感した。メディアアートの重要な側面のひとつに、体験者が日常に戻ったときに、世界に存在するあらゆるものがインタラクティブにつながっていることを気づかせてくれる力があるのだと!
私たちはそれぞれが、生体・言語・社会・環境的な情報を入出力する情報のノード(結節点)であり、津年にダイナミックに動いている。呼吸するだけでも、視線や指を微かに動かすだけでも、自身も世界も変化する。さまざまな情報が影響し合う世界は、今ここだけでない。空間そして時間的につながり影響を及ぼしていく。今ここでの世界の受容と行動が、未来へつながっていく。もちろん現在も、過去に起きたことの派生としてある。時間や空間はつながっており、人類が生まれる前、地球ひいては宇宙が生まれた時点から連綿として今ある「世界」とは、今ここにあるだけではなく、むしろ過去や未来を含め、時間や空間でつながった総体として存在している。
また人間は、二重の存在である。宇宙の生成以降、とある時期に生まれた「自然の一部」でありながら、自然を対象化できるという、現時点においては生命体の中で唯一の存在である。近代以降、人間は科学・技術を駆使して後者、つまり自然の対象化に邁進してきた。それは自然だけでなく、人間でさえも「モノ」として対象化し、支配する状況を生み出した。(・・・)
「人間の対象化」は、しかし同時に人間が自身を世界とつながり生かされている存在として省察し、発見する可能性ともいえる。人類は何をしてきたのか、今生かされている人間が総体として、そして私たちそれぞれが何をしているのか、また何をしうるのか? 過去に生きた人々、未来に生まれる人々、あるいは過去や未来の動植物、生態系に対しては、物理的・直接的な行動はできないが、時間・空間を含め、すべては情報フローとしてつながっている。今生かされている私たちが、そのことに向き合い生きていくことで、健やかな世界へふみ出せればと思う。
コロナ禍において私は、一九八〇年代初頭に私がアートの世界に入るきっかけとなったドイツのアーティスト、ヨーゼフ・ボイス(一九二一 − 八六年)が提唱した「社会彫刻」や「人は誰もが芸術家である」という言葉の根底にある「変容(トランスフォーメーション)」という概念に再び向き合った。ボイスは「変容」を、とりわけ熱エネルギーの流動により生起するものとしているが、それが、私自身がメディアアートのキュレーションの中で培ってきて「情報フロー」という言葉とつながっていたことをあらためて認識することになった。そしてそのような認識の中から私は、これからの生涯を通して取り組むテーマとして「人間と非人間のためのエコゾフィーと平和」——人間だけでなく、人間以外の存在、動植物、鉱物や水や気象をはじめ世界に存在するさまざまなものや現象に加え、デジタル上の存在までを包含する「エコゾフィー」と平和——を設定した。アートから世界を見ること、世界を新たに発見すること、情報フローのただ中で、感受して動き続けること・・・・・・。アートとともに生きる日常が訪れ、そして分野を超えてその土壌にアート的なものの見方や感受性が浸透していくことをめざして。」
(四方幸子『エコゾフィック・アート』〜「第1章 道標 思想の源流を溯る/エコゾフィーのアート」より)
「「情報フロー」という考え方は、ヨーゼフ・ボイスが重視した「変容」、そしてフランスの精神分析家フェリックス・ガタリが晩年の一九八九年に著した『三つのエコロジー』で提起した「エコゾフィー」と関係がある。」
「「エコゾフィー」は、「エコロジー」と「フィロソフィー」を合体させたガタリによる言葉で、自然のエコロジーに加えて、社会そして精神におけるエコロジーを意味している。生態系を意味する「エコロジー」は、それ自体が動的なシステムといえる。この言葉を社会と精神へと拡張した「エコゾフィー」という概念に出会ったとき、情報の循環という観点からさまざまな事象を見ることで、領域を横断してしまう世界観に強く共感したことを覚えている。ガタリはこの本の最後の部分で、これらが「ひとつの共通の美的 − 倫理的な領域に属するもの、いわばひとつにつながりあったものとして構想されねばならない」と述べている。そして続けて、「三つのエコロジーの作用領域は私が異種発生性と名付けたもの、すなわち再特異化の持続的過程に依存する。諸個人は他者に対して連帯的であると同時に、他者とますます異なった存在にならねばならない」と記している。特異性をもちながら連帯的、という個人のあり方は、デカルトの「コギト」に代表される近代における統一的主体としての自己を逸脱してしまっている。ガタリの言う「主観性」とは、自明の存在ではない。ガタリは同じ本の中で、「主観性のベクトルは必ずしも個人を経由するものではない」と述べているが、それは他者を含めた多数性、多様性の関係の中で立ち上がるものだと私は解釈している。このような思想と出会って以来、ガタリの「エコゾフィー」は、私の中で静かに息づいてきた。メディアアートに関わる中で、自然、社会、精神のエコロジーを更新させるる情報技術による、また情報技術への批評的介入を通して、創造的な循環(情報のフロー)に開くことをミッションとしながら。」
(四方幸子『エコゾフィック・アート』〜「第1章 道標 思想の源流を溯る/未来へと接続されるボイス」より)
「そもそも私が現在このような仕事をしているのは、一九八二年にヨーゼフ・ボイスの存在を知ったことによる。一九八二年にボイス関係の雑誌『Joseph Beuys Magazine』の編集を手伝い始め、オランダ人のライター、ラウリン・ウェイヤースとコンタクトをとり、彼女の記事を和訳している。一九八四年にボイスが個展(西武美術館)で来日した際は本人と実際に会い、一九八六年二月にはボイスのリサーチでドイツに渡った。出発前月にボイスは亡くなってしまったが、現地デュッセルドルフでアーティストのインゴ・ギュンターやナムジュン・パイクなど、彼のことをもっとよく知る多くの関係者と交流することができた。以来、私は「ボイスの現在形」を社会や科学技術との関係から問いながら、アートの可能性を探索してきた。
ヨーゼフ・ボイスは、二〇世紀を生きたアーティストであった。第二次世界大戦を経験したのち芸術を学び、二〇世紀後半に、社会、教育、政治、経済、環境などにおける諸問題を敏感に感知し、自らの歴史・文化的背景や身体性を拠り所に、社会との対話を精力的に試みた。
ボイスが提示した多岐にわたる作品やインスタレーション、アクション、社会・経済的活動は、既存の芸術概念や社会通念を越えるものであり、共感と拒否感両極の反応とともにしばしば(なかば確信犯的に)スキャンダルを巻き起こした。作品に加え、独自の出で立ちや言動でカリスマ的存在となったが、それは自己を対象化するユーモアと壮絶なパッションに裏づけられていた。彼の理念や言動は、ゲーテ、シラー、ノヴァーリスやシュタイナーを根幹に、神話や神秘学、生物学、宗教学などに根ざしているが、近代化による排除されてきた世界観も多く含まれている。ボイスは、人間以外の存在(動植物や自然全般)とのコミュニケーションを促し、同時に遊牧民やシャーマン、仏教などを念頭に、東洋とつながる「ユーラシア(ヨーロッパ+アジア)構想にまで至っていた。ボイスが現在、当時を知らない世代にも受容され始めているのは、彼が提起していた問題が、各人そしれ地球全体の生存に関わるほど身近で深刻なものとなったからではないだろうか。その活動を貫く重要な要素として、「流動性」———物質/非物質的な熱やエネルギー、波動などさまざまな情報のフローや関係性———と、それにより起きる変容が挙げられる。「生と死」「物質と精神」「熱と冷」「直観と理性」「カオスと結晶」「中心と周縁」「ユーラシア」・・・・・・。ボイスが扱うものは、二元論的対立ではなく、循環する情報フローのパラメータに応じた諸様態といえる。それはプロセスから形態が生まれるとするゲーテの自然科学の延長にあり、現在なら、複雑系科学やフェリックス・ガタリの「カオスモーズ」へと接続することもできるだろう。
対立的とみなされるものの相互循環は、ボイスをおのずと「芸術と社会」へと向かわせた。「社会彫刻」「拡張された芸術概念」「人は誰もが芸術家である」「芸術=資本」などのメッセージを通して、芸術を広く社会に浸透させること、つまり各人が日々の生活や仕事のなかで創造力を発現させていくことをボイスは提唱していった。それは政治、経済、教育、環境などあらゆる領域が「芸術」を媒介につながる社会であり、芸術は、貨幣経済に代わる「資本」とみなされた。」
「ボイスは「人類学的芸術(Anthropological Art)」という言葉を使用していた。「人間が創造的になることで推進されうる社会彫刻」と言い換えうると思われるが、と同時にボイスは人間を、動植物など人間以外のさまざまな存在とのコミュニケーションによって形成されるものとみなしており、そこに二一世紀に開花し始めた新たな芸術————デジタル/アナログにかかわらず、非人間ろの協働によって生まれる、ひいては非人間のための————の可能性を見ることができる。それは、近年活発に研究されているポスト人新世、ポストパンデミックの時代における脱人間主義的哲学や人類学につながるように思われる。」
「ボイスの没後、一九九〇年代に社会に登場したインターネットは、当初注目された贈与経済的モデルから、今世紀には人々の日常の言動を無意識的に支配するモデルへと移行していった。私たちは、使用する情報システムが企業や公共センターへの依存を強めることによって、実質デジタル監視的な情況に置かれている。AIや先端医療技術における近年の進展が、社会の格差を増幅させれいる一面もある。近年急速に普及しはじめた仮想通貨は、分散型の母ロックチェーンを背景にするものの、貨幣経済の延長と化している。いずれも、ボイスの唱えた「自由」「創造力」「経済」からほど遠い状況に見える。」
「「ユーラシア」を推進しようとしたボイスが一九八二年秋に面会を果たしたダライ・ラマ十四世は、ボイスの没後ウェイヤースが中心となる実現されたシンポジウム「アート・ミーツ・サイエンス・アンド・スピリチュアリティ・イン・ア・チェンジング・エコノミー(AmSSE)」において、こう述べている。「愛は進化のための基礎となるものです。そして愛は、私たちの未来のための根拠なのです」
ボイスの遺作のひとつとなった《カプリ・バッテリー》。愛は、接続されたレモンと電球から、未来への光として放たれている。」
「一九九〇年九月にウェイヤースは、彼女が「精神彫刻(メンタル・スカルプチュア)と位置づけるシンポジスム「AmSSE」(アムステルダム市立美術館)を実現する。」
「ボイスの「社会彫刻」は、物質と非物質を超えてエネルギーが循環する流動的世界観に依っていた。ウェイヤースの「精神彫刻」は、人間に限らない多様な存在における精神の流動性を促すものである。そして私が一方で注目するガタリの「エコゾフィー」も、彼らの世界観と共振する。その上で私が志向するのは、デジタルを介して情報のフローを未来へ拡張することなのだ。
人が誰でも創造的に生きることができ、それによって社会のさまざまな格差がほぐされていき、地球環境(おのずと地球外も含まれる)がサステナブルに循環していく世界————。そのためには、先に引用したボイスの言葉(「創造力の最高の産物は、意志から発するのです。[中略]意志と感情と、そして、その上に建設された思考、この愛こそが現在一番重要なものだと私は確信しています」)のように、何よりも「愛」が求められると思う。私たちが、生きてここにいることだけでも、広義の愛の賜物である。その素晴らしさを感じつつ、他者やさまざまな存在に愛というエネルギーを注いでいくこと。そこから私たちの新しい未来が始まる。」
(渡辺真也『ユーラシアを探して』〜「第2章 ヨーゼフ・ボイスとナムジュン・パイクの出会い」より)
「西洋と東洋を一つのものとして結びつけるべく、ボイスはルドルフ・シュタイナーの人智学を経由して、東洋における近代以前の哲学や宗教に接近した。西洋の資本主義圏における物質主義を批判しつつ、シュタイナーの「東西の金言」の影響下にあるボイスは、西洋の存在の哲学を克服し、さらにヨーロッパとアジアの分裂を克服しようと試みたのである。ボイスが頻繁に引用したドイツロマン派の詩人ノヴァーリスは、抽象作用を用いた結合についてこう書いた。
抽象概念以前はすべてが一つであったが、それは渾沌のようなものだった。抽象化の後、すべてが再び結合したが、この結合は、自律的で自己決定的な存在としての自由な結合であった。
ノヴァーリスが指摘したように、二つの異なるものを一つにまとめる唯一の方法は抽象化によってであり、プラトンのイデアでも近代化でもない。この抽象化の考え方は、カール・グスタフ・ユングが精神分析の実験に用いた連想や。チャールズ・サンダース・パースのアブダクションに似ている。二つの異なる物を一つも物語に結び付けるというこの抽象化が、神話の誕生をもたらした。だからこそ、ヨーロッパやアジアを一つのユーラシアという統一体に結びつけようと試みるボイスは、あたかも神話をつくるかのように、アクションという形態を選んだのである。ここでのボイスの答えは、西洋的思考の目的である死を扱うべく、動物の腹を割いて心臓を切り取るという、東洋のシャーマンの役割を果たすことであった。そうすることで、ボイスは西洋の思考と東洋の行為を結びつけようと試みたのである。」
※シュタイナー「東西の金言」(Ose-West-Aphorismen/in das Goetheanum,I.Jahgang.Nr.45)
「東洋人は、宗教、芸術、科学の間の完全な統一において精神的体験をしていた。彼は自身の神聖なる霊的存在を犠牲にした。彼らから彼へと、彼を真の人間に昇格させたことの祝福が流れた。(・・・・・・)知識の波、精神の美しい光が西へと移動し、芸術に傾倒した人々を敬虔にした。」
(渡辺真也『ユーラシアを探して』〜「第4章 出会いと別れ」より)
「彼らが初めで出会った時、パイクは若くして成功した芸術化であったが。ボイスは四〇代になってもまだ無名のアーティストであった。《ユーラシア》と呼ばれる彼らのコラボレーションにおいて、自信と敏捷性に満ちたパイクは、内向的であったボイスを多弁なパフォーマンス・アーティストへと変化させ、成功を収める役割を果たした、最終的に、一九八四年の最後の共同のパフォーマンスでは、パイクはスーパースターになったボイスのサポート役を務めることになった。しかし、ボイスが死去してから三〇年以上が経過し、パイクが死去してから一〇年以上が経過した今、パイク作品への再評価は続いており、現在では間違いなく二〇世紀最大のアーティストの一人と考えられるようになった。
決して妥協せず、意見も変えないというボイスの頑固な性格は、どちらかというと柔軟で温和なパイクを理想的な協力者とした。彼らの関係は、お互いを包み込む形で一つになるような、陰(パイク=東=アジア)と陽(ボイス=西=ヨーロッパ)のような関係であった。初期ドイツロマン主義から影響を受けたボイスと、「ドイツ−モンゴル表現主義」[German-Mongolian-expressionism]を自称するパイクの出会いは火花を放ち、《ユーラシア》と呼ばれる「東と西の永遠の抱擁・・・・・・誰もが見ることのできる灯台のように現れなくてはならない」ものを生み出した。
ヨーゼフ・ボイスの死から三年半後、ベルリンの壁は崩れ落ちた。それにもかかわらず、今日においれも克服すべき多くの壁が存在している。(・・・)新たな問題に直面している私たちは、自己の存在という概念の延長線上に成立する、敵対概念によって定義される国民国家のオルタナティブを見つける必要がある。私たちは全員同じ人間として平等であり、同じ世界に住む他の人々と連続することで存在することが可能になっていることが認識できれば、我々は国家の誕生に先立つ抽象へと戻ることができ、そこから新しい文明の形を作ることができるだろう。ボイスとパイクの生涯に渡るコラボレーション《ユーラシア》に関する世界で初めての詳細な分析となる本書が、誰もが見ることができる、私たちの明るい来るべき未来を照らし出す灯台となることを願う。」
(『美術手帳 1992年4月号/特集:ヨーゼフボイス カオスと創造』より)
(ヨーゼフ・ボイス)
「私の〈拡張された芸術概念〉は、自分自身を精神の中でひとつの彫刻作品にして、目に見えない本質を、具体的な姿へと育てることです。そして、私たちのものの見方、知覚の形式をさらに新しく発展・展開させていくのです。」
○四方幸子『エコゾフィック・アート』【目次】
はじめに
第1章 道標──思想の源流を遡る
エコゾフィーとアート
未来へと接続されるボイス
第2章 フィールドへ──エコゾフィック・アート論
【森】
エコゾフィーの森へ
富士山から山々をめぐる
【生】
大小島真木──呼吸、空気……そして宇宙万象へ
翁を現代に召喚する
【渦】
螺旋の思考1 宇宙と生命の記憶
螺旋の思考2 持続というリズム
【水】
ポッシブル・ウォーター
遍在する水、越境する水
【地】
土地のテリトリーを超える
地底人とミラーレス・ミラー
【力】
鈴木昭男──世界の本源と共振する
南イタリアのエナジー
【電子】
ポストパンデミック時代に未来をフォークする
コモンズからNFTへ
第3章 創発へ──アートコモンズ展望
想像力という〈資本〉──来るべき社会とアートの役割
アートコモンズの実践「対話と創造の森」
おわりに
◎四方幸子
キュレーター/批評家。美術評論家連盟会長。「対話と創造の森」アーティスティックディレクター。多摩美術大学・東京造形大学客員教授、武蔵野美術大学・情報科学芸術大学院大学(IAMAS)・國學院大学大学院非常勤講師。「情報フロー」というアプローチから諸領域を横断する活動を展開。1990年代よりキヤノン・アートラボ(1990-2001)、森美術館(2002-04)、NTT ICC(2004-10)と並行し、インディペンデントで先進的な展覧会やプロジェクトを多く実現。国内外の審査員を歴任。共著多数。yukikoshikata.com
◎渡辺/真也
1980年静岡県沼津市生まれの映画監督/インディペンデント・キュレーター。ニューヨーク大学大学院シュタイナート教育学部ビジュアル・アート・アドミニストレーション修士課程修了後、ニューヨークのイーサン・コーヘン・ファインアートにてギャラリー・マネージャーを2年務め、アートキュレーターとして国民国家に焦点を当てた国際美術展をアメリカ、スイス、ドイツ、日本などで開催。東京都歴史文化財団東京文化発信プロジェクト室を経て、文化庁新進芸術家海外研修員(2011‐2013)。ベルリン工科経済大学造形文化学部で4年間教鞭を執る傍ら、本書にてベルリン芸術大学造形学部社会経済コミュニケーション学科コミュニケーション科学にて博士課程を修了。美術史博士。初監督した映画『Soul Odyssey―ユーラシアを探して』(2016)が、インドネシア世界人権映画祭(IFFPIE)にて優秀作品賞とストーリー賞を受賞。テンプル大学講師(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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