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リチャード・ランガム『善と悪のパラドックス ーヒトの進化と〈自己家畜化〉の歴史』

☆mediopos-3097  2023.5.11

霊長類の行動生態学者であり
チンパンジーとボノボの世界的権威
リチャード・ランガムによる
ヒトの進化における暴力性をめぐる論考である

ヒトラーは数百万人のユダヤ人を死に至らしめたが
反面愛想がよく気さくで愛犬家でもあり
ポル・ポトもスターリンも同様に
穏やかな一面を持っていたように

ヒトは温厚さと残忍さ
協力的な特性と攻撃的な特性
というパラドックスをもっている

ルソー派はヒトは「生まれつき平和」な種であり
ホッブズ派は「生まれつき乱暴」な種だという
東洋でも孟子は性善説を唱え
荀子は性悪説を唱えているのは有名だが

じっさいのところヒトの本性を
善か悪のどちらかで論じるのは無理がありそうだ

なにが善でなにが悪か
ということを考えていくと
それそのものが迷路のようになってしまうが

温厚さや協力的な特性を善
残忍で攻撃的な特性を悪とすれば
ヒトの本性はそのどちらかというのではなく
やはりそのふたつの特性をあわせもっている
というのが妥当なところだろう

著者のランガムは
ヒトの本性は両者の「キメラ」であって
その両者の共存を
「善と悪のパラドックス」と呼んでいる

そしてヒトのもつ攻撃性を
「恐怖や激情に駆られて衝動的に暴力をふるう性質」である
「反応的攻撃性」と
「冷静に計画して相手を排除する性質」である
「能動的攻撃性」に分け

人間は動物とは異なって
「反応的攻撃性」が弱く
「能動的攻撃性」が強いのだが
そうなった理由を
「自己家畜化」なのだという

そしてそのきっかけとなったのが
「言語」を操る能力であり
それによって協調性や道徳性が発達し
その反面(計画的な)「処刑」や「戦争」も
行われるようになった

暴力や戦争は
進化にもとづく行動だというわけである

それゆえにヒトのそうした危険性を警戒し
そうした暴力を抑制する必要がある
というのが著者のランガムの論の着地点だが

いまのところヒトの暴力は
見えない偽善的なかたちでの暴力も含め
全世界的にとどまることを知らぬように見える

かつてアウシュビッツの強制収容所では
ナチスが家族的な暖かさをもちながら
「音楽」を楽しみ
かつ大虐殺と集団レイプをその音楽で盛り上げ

アドルノはそのパラドックスゆえに
「アウシュヴィッツ以後、
詩を書くことは野蛮である」と言ったが

じっさい現代において
現在進行形で起こっていることも
政治や思想そしてメディア等
そうしたパラドックスゆえに
さまざまなかたちの「能動的攻撃性」が
噴出しつづけている

そんな迷路のなかでこそ
ある意味で性善説を信じたくもなるのだが
そういうわけにもいかないようだ

しかしせめて
アドルノが示唆した野蛮の発想ではなく
むしろ「詩を書くこと」こそが
迷路からの出口を示すものであればと切に願う

■リチャード・ランガム(依田卓巳訳)
 『善と悪のパラドックス ーヒトの進化と〈自己家畜化〉の歴史』
 (NTT出版 (2020/10)

(「はじめに 人間進化における善と悪」より)

「アドルフ・ヒトラーはおよそ八〇〇万人の処刑を明治、さらに数百万人の死の責任を負うが、秘書であったトラウデル・ユンゲによると、愛想がよく、気さくで、父親のようだったそうだ。動物の虐待を嫌うベジタリアンで、飼い犬のブロンディを愛し、ブロンディが死んだときには慰めようもなく悲しんだらしい。
 カンボジアの首相だったポル・ポトは、みずからの政策で約四分の一もの国民を死にいたらしめたが、まわりからは穏やかに話す親切なフランス史の教師として知られていた。
 ヨシフ・スターリンは、一八カ月に及ぶ投獄生活のあいだ、いつも驚くほど温和で、決して怒鳴ったり悪態をついたりしなかった。立派な模範囚で、のちに政治的な理由から数百万人の命を奪うことになるとは想像もできなかった。
 ひどく邪悪な人間も穏やかな一面を持ちうる。私たちは彼らの罪を正当化したり、赦したりしたくないあまり、やさしい面に共感することをためらうが、彼らはヒトという種に関する奇妙な事実を思い出させる。人間はもっとも知的な動物というだけではない。ほかに類をみないほど複雑な道徳的性格の集合体なのだ。種としてきわめて邪悪であると同時に、きわめて善良でもある。
 一九五八年、劇作家で作曲家のノエル・カワードは、この奇妙な二面性に気がついた。第二次世界大戦を生き延びた彼にとって、人間に邪悪な面があることは疑う余地がなかった。「生まれながらの愚かさ、残酷さ、迷信深さを思うにつけ、人類がこれほど長いあいだ、どんな工夫で存続してきたのか想像するのはむずかしい」と彼は書いた。「魔女狩り、拷問、だまし合い、大虐殺、不寛容、こうした何世紀にもわたる人間の野蛮で無益な行動は、信じられないほどだ」
 にもかかわらず、私たちはたいてい、「愚かさ、残酷さ、迷信深さ」の対極にある理性、思いやり、協力によって、すばらしいことをしている。知性にこれらの資質が加わることで、人間の際立った特徴である驚くべき技術と文化がもたらされる。」

(「第2章 攻撃性のふたつのタイプ」より)

「攻撃、すなわち身体的または精神的な害を与えようとする行為は、ふたつの主要なタイプにわかれる。(・・・)私は「能動的」攻撃と「反応的」攻撃という語を用いるが、同様の感覚を表す対語は多数ある。たとえば、「冷静」と「興奮」、「攻撃的」と「防御的」、「計画的」と「衝動的」などは、どれも同じ重要な差異を表現している。
 反応的攻撃は、脅威に対する反応だ。」

「人間はほかの動物に比べて反応的攻撃性が低く、の動的攻撃性が高い。なぜそうなったのだろう。(・・・)(人間のように)非常におとなしい動物の多くは、家畜化されている。ある種が家畜化されるとき、何が起きるのか。それを知る必要がある。」

(「第8章 処刑」より)

「言語能力の向上は、ヒトの家畜化の完全解明に向けた最良の基礎となる。」

(「第9章 家畜化がもたらしたもの」より)

「文化を学習する高い知性と能力は、ヒトがほかの家畜化された種よりすぐれていると見なされる、ふたつの有名な理由である。もうひとつのリウ右派、自己家畜化と同様に、処刑に起因すると言われる。つまり処刑は、反応的攻撃性の低下と協調性の増加に加えて、われわれに新しい種類の道徳体系を与えたようなのだ。」

(「第12章 戦争」より)

「人間はきわめて同族主義だとよく言われる。たしかにそうだ。しかし「同族主義」が大きな社会集団との連帯感を指すのなら、それはほとんどの霊長類に当てはまり、同族主義でヒトとおかの霊長類が区別されるわけではない。能動的攻撃性についても同じだ。ヒトよ社会を真に独特な存在にしているのは「連合による能動的攻撃性」である。人類の祖先のあいだでは、社会集団のメンバーに向けた「連合による能動的攻撃性」が自己家畜化と道徳の進化を可能にした。現代ではそれによって国家が機能しているが、残念ながら、戦争、カースト、無力な人々の虐殺など、さまざまなかたちの暴力や抑圧も同時にもたらされた。」

(「第13章 パラドックス解消」より)

「ルソー派に言わせれば、人類は社会のせいで堕落した生まれつき平和な種である。一方、ホッブズ派に言わせると、社会のおかげで文明化した生まれつき乱暴な種だ。どちらの見方もうなずけるが、「生まれつき平和」であると同時に「生まれつき乱暴」というのは、矛盾して見える。この組み合わせの不一致が、本書の核心となるパラドックスだ。
 人間の本性は「キメラ」だと認識すれば、パラドックスは解消する。ギリシャ神話に出てくる「キマイラ」は、体がヤギで頭がライオンの生き物だ。どっちつかずであり、どちらでもある。攻撃性の資質に関して人間はヤギでありライオンでもある、というのが本書の主張だ。われわれは反応的攻撃性が弱く、能動的攻撃性が強い。この会社によれば、ルソー派もホッブズ派も部分的には正しく、これまで考察してきたふたつの疑問に焦点が当たる————なぜうこの独特な組み合わせが進化したのか、そして、その答えは人類を理解するうえでどう役立つのか。」

「人間の本性はキメラであるという議論は、ひと筋縄にはかない。表面的には正反対のふたつの概念を同時に思い浮かべるのがむずかしいからだ。ホッブズ派とルソー派が的はずれに主張したように、ふたつに分かれた人間の性格の一方だけが生物学的に決まると考えがちである。だとしたら、われわれの「善」の面、つまり低い反応的攻撃性だけが進化の産物だと想像するほうが、多くの人にとって心情的に楽だろう。しかし「悪」の面、つまり多くの邪悪な行為の原因となる高い能動的攻撃性も、進化の歴史に位置づける必要がある。人類の未来を考えるうえで、それは何を意味するのか?進化に関するふたつのことを憶えておくといいだろう。」

「まず、(・・・)進化の歴史は過去の説明だ。「予言」ではないので、未来に何が待ち受けているか語ってはくれない。(・・・)ただのストー−リーだ。
(・・・)
 われわれは、時代の流れとともに社会が向上することもあれば、腐敗することもあるのを知っている。知りようがないのは、子孫がどういう方向に進むかである。
 進化に関して二番目に指摘したいのは、未来は本来開かれているものの、進化はときに不穏な予測可能の方法で人間行動に影響を及ぼすバイアスを残しているということだ。」

「人類の進化を理解することで得られるさらに一般的な教訓は、集団も個人もつねに権力争いに興味があるということだ。
(・・・)
 もっとも、進化論的分析から確かにわかることがひとつある。いまより公正で平和な社会は容易ではないということだ。労力と計画と協力が必要となる。移動する狩猟採集民は、社会からの逸脱者や粗暴な者から身を守る制度を持っていた。どんな社会も独自の防衛策を見つけなければならない。暴力の出現を避けるために、複雑な社会組織がたやすく腐敗し、その機構が非常にむずかしいことをつねに肝に銘じておかなければならないのだ。」

「人類が探求すべき重要なことは、強調の促進ではない。その目標はむしろ単純で、家畜化ろ道徳感覚によってしっかりと基礎づけられている。それより困難な課題は、組織的な暴力が持つ力をいかに軽減させるかだ。」

(「訳者あとがき」より)

「人間の本性が善か悪かという議論は、古来からあった。たとえば、生まれつき善良と考えるのがジャン=ジャック・ルソー、生まれつき邪悪と考えるのがトマス・ホッブズというふうに。東洋でも、孟子の性善説、荀子の性悪説は紀元前にまでさかのぼる。こうした二元論に対して、人類学・霊長類学の立場から、人間は善であると同時に悪でもあると主張するのが本書である。ヒトはほかの霊長類と比べて、通常きわめて温厚で、暴力的になることは少ないが、戦争などの計画的な戦いにおいては残虐で、致死率も非常に高い。そもそも両立しそうにないこのふたつの面の共存を、著者は「善と悪のパラドックス」と呼ぶ。
 ヒトのこの矛盾を解明する鍵は、「反応的攻撃性」と「能動的攻撃性」の区別である。「反応的攻撃性」は、恐怖や激情に駆られて衝動的に暴力をふるう性質、「能動的な攻撃性」は、冷静に計画して相手を排除する性質で、ヒトの場合、前者は弱いが後者は強い。われわれ人間にこのような類をみない組み合わせが生じた理由について、本書ではとくにチンパンジーと、その姉妹種であるボノボを比較しながら論じていく。
 チンパンジーは凶暴になりがちだが、ボノボは比較的おとなしい。なぜか? そこから本書のキーワード「自己家畜化」が出てくる。
 寛大でおとなしい性質は、家畜に共通している。家畜は人間に飼われることでそうした性質を進化させたが、ボノボは人間の手が加わらなくても家畜化しているように見える。それが「自己家畜化」だ。同じことが人間自身にも起きたというのが本書の主張なのだ。」

「著者によると、ヒトの自己家畜化のきっかけは「言語」を操る能力だった。言語を得た私たちの祖先は、互いに相談することで意思を共有し、横暴にふるまうメンバーを計画的に「処刑」できるようになった————能動的攻撃性の発達である。そうした協力体制のもとで、処刑につながりかねない反応的攻撃性は必然的に抑えられ、ヒトの自己家畜化が進んだ。さらにその自己家畜化の副産物として、有益な情報を共有する「協調的コミュニケーション」や道徳体系が発達した。」

「暴力や戦争が進化にもとづく行動だという考えは「性悪説」に近い。かつて、チンパンジーが集団で同種のチンパンジーを殺すという観察結果が公になったときにも、各方面から批判が相次いだらしいだ、ましてヒトの暴力は適応行動だと言えば、学界や巷の性善説論者から激しい反論がぶつけられることは想像にかたくない。本書の慎重な筆の運びからもそれがうかがわれる。しかしランガムは、適応行動だからといって発生を防げないわけではない、と希望も語る。ヒトが危険な種であることを認識したうえで、警戒を怠らず、強固な制度で暴力を抑え込むべきだと締めくくるのだ。」

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