三木那由他「言葉の展望台㉕レンコン団子の美味しさ」(「群像」)/オリヴァー・サックス 『心の視力/脳神経科医と失われた知覚の世界』
☆mediopos-3131 2023.6.14
三木那由他は「レンコン団子の美味しさ」を
言葉で伝えることの難しさについて語る
(「言葉の展望台」の連載として)
それを伝えた友人から「合意」が得られなかったことから
「私自身が好ましく思い、しかも相手にとっても好ましく、
「それならば」と合意したくなるような何かを挙げる」
必要があるのだろうとして
その食レポ表現を試みている
「レンコン団子の美味しさ」とは
「主観的な感情に基づく判断」である
そうした「趣味判断」を伝える際には
「自分が抱いている感覚を説明することではなく、
美しさ、楽しさ、面白さについて
合意するに足る理由を聞き手に与えることなのだろう」
と至極もっともな結論に至るのだが
ここで重要なのは「合意」がなされるばあいに
前提として必要な諸条件であると思われる
まず三木氏と友人との関係性
つまり通常からの円滑なコミュニケーションの有無
そして「美味しさ」を伝える際の状況
さらには三木氏の「食」あるいは「味覚」について
友人が評価しているかどうか
あるいは友人にとっての「食」「味覚」の傾向性
そうした諸条件がととのってはじめて
「合意」に至る道をつけることができ
言葉による表現(食レポ)の適切さが問題となる
このことは
こうした「主観的な感情に基づく判断」だけではなく
主観的なものを超えた思考や判断を伝える際にも
コミュニケーション上のフレームが準備されていなければ
どんな言葉や表現も相手の「合意」に至る道は成立しない
「レンコン団子の美味しさ」を伝えようとする話は
個人的にも「レンコン団子」
(「レンコン饅頭」という名だった)に感動したことがあり
それに影響されてレンコンをすり下ろした料理などを試み
ますますレンコン好きになった経験があるので
とりあげてみたのだが(笑)
この「合意」への道について考えているとき
「レンコン団子の美味しさ」の話とは直接関係ないけれど
オリヴァー・サックス『心の視力』の最後の章
「心の目」で語られているこんなところを思い出した
人生半ばで失明したある女性が
「言葉と表現の重要性が増していることに気づいた」話である
「私が質問すると、本来なら見ないものを見たり、
見えないものが見えたりするのです。
目が見える人には、何にも見えていないことが多すぎますよ!」
このことからオリヴァー・サックスはこう語っている
「経験と記述のあいだ、
世界についての直接的な知識と仲介された知識のあいだに、
根本的な違いが本当にあるのなら、
どうして言葉はそんなにも力強くなりうるのか?
言葉というもっとも人間らしい発明は、
理論的に不可能であるはずのことを可能にする。
言葉のおかげで。生まれつき目の見えない人も含めて、
誰もが他人の目をとおして見ることができるのだ。」
『心の視力』には
見えなくなったときや言葉をなくしたとき
それを代替する別の力を発達させた事例が紹介されている
サックス自身が生まれつき人の顔が見わけられない
「相貌失認」をわずらっていたことに加えて
さらに右目の視力を失い適応を迫られることになっていたので
そうした事例に対するあたたかい視線は感動的だ
「レンコン団子の美味しさ」に「合意」を求める話に戻ると
それを相手に伝えようとする「言葉」の可能性と同時に
相手が伝えようとする言葉を
理解したいという姿勢(それは「心の視力」でもある)が
自分にあるかそれを育てようとしているかどうかも重要だろう
そしてなによりも重要だと思われるのは
じぶんになにかが欠けているとき
あるいは理解できないでいるとき
直接的にせよ間接的にせよ
それを見ようとする「心の視力」を
発達させようとしているかどうかである
「そんなもの見る必要はない」
というところからは
なにもはじまらないのだから
■三木那由他「言葉の展望台㉕レンコン団子の美味しさ」
(群像 2023年 07 月号)
■オリヴァー・サックス(大田直子訳)
『心の視力/脳神経科医と失われた知覚の世界』(早川書房 2011/11)
(三木那由他「言葉の展望台㉕レンコン団子の美味しさ」より)
「このところ、レンコン団子の美味しさをどう伝えたらいいかと頭を悩ませている。いや、「悩ませている」は大袈裟だが、それにしたって、美味しさを言葉で伝えるというのは難しいものだ。」
「レンコン汁(は)すりおろしたレンコンを溶かしたお味噌汁に、レンコンで作った大きな団子が浮かんだ料理だ。食べてみて驚いた。このレンコン団子が想像以上に美味しかったのだ。普通のレンコンを団子にしようとすると、きっと片栗粉なり小麦粉なりで粘り気を出す必要があると思うのだが、お店のひとによると金沢市を中心に栽培されている加賀レンコンは粘り気が強く、そうした混ぜ物なしで団子になるらしい。そしてそのレンコン団子の食べ心地たるや、私が人生で食べたレンコンたちで美味しさを勝負したなら、間違いなくチャンピオンの座に輝くだろう。
(・・・)
そんなわけで大坂に戻り、私は意気揚々と友人にレンコン団子の話を繰り出した。
「レンコンだけで作ったらしいのに、むにむにして、なんだかもうお団子やお餅みたいで、見た目も食感もすごく可愛いんだよ!」
・・・・・・いくらなんでも食レポが下手すぎないか、と自分でも思ってしまう。この発言を聞いて、いったいどうレンコン団子の美味しさを受け止めればいいというのか。実際、友人の感想は「その食レポを聞くより『レンコン団子』って名前のほうが美味しそうに思える」というものだった。ただ名前を言うだけに負ける食レポってどうなんだ。」
「例えば、私はムンクの『マドンナ』が美しいと思っている。この「美しいと思っている」というのが趣味判断なのだが、私が「『マドンナ』は美しい」という判断をしたのは、『マドンナ』を見て私が「いいなあ」と感じたからであって、その意味でこれはあくまで私の主観的な感情に基づく判断だ。
けれど、「『マドンナ』は美しい」というのは単に「私は『マドンナ』を見ると幸せな気持ちになる」といことではなく、きっとそこには「誰だってこの絵を見ると幸せな気持ちになるはずだ」という考えも含まれているだろう。だからこそ、「私は好き」ではなくわざわざ「美しい」という言い方をしているのだ。その点で「『マドンナ』は美しい」という判断は、異なる意見を許さず、「誰でもこれに合意するはずだ」という意味合いを帯びている。
「美味しい」も、こうした趣味判断の一種と見なせるだろう。だとすると、「レンコン団子は美味しいんだよ」という発言も、相手の合意を求める側面を持っていると言えそうだ。要するに、「三木がレンコン団子を美味しいと信じているものとして、今後は振る舞いましょうね」ではなく、「二人ともレンコン団子を美味しいと信じているものとして、今後が振る舞いましょうね」という合意が得られて初めて、レンコン団子の美味しさがちゃんと伝わったことになるのだろう。そのためには、「友人がレンコン団子を美味しいと信じているものとして、今後は振る舞いましょうね」という合意も必要となるのだが、「なるほど、あなたはレンコン団子が美味しいと思うんだね。でも私は別に食べたいとは思わないな」という友人の発言からはこの合意への拒絶の意志が表れていて、きっとそれが「伝わっていない」感覚を生じさせているのだ。」
「どうも私の食レポは、私が何を好ましく思ったかという話ばかりしていて、相手にとって「なるほど、きっと美味しいんだね」と合意するきっかけを与えるような要素が足りていなかったらしい。私自身が好ましく思い、しかも相手にとっても好ましく、「それならば」と合意したくなるような何かを挙げるのが、よい食レポに違いない。
同じことは趣味判断全般について言えそうだ。私たちは美しさや楽しさ、面白さを伝えるときに、それが主観的な感覚に根ざしているがゆえに、ついそうした感覚そのものを言葉にしようとしてしまう。「この感覚をきちんと語れたなら伝わるはずだ」と。でも本当に大事なのは、自分が抱いている感覚を説明することではなく、美しさ、楽しさ、面白さについて合意するに足る理由を聞き手に与えることなのだろう。趣味判断は主観に基づくが、その主観自体は趣味判断を伝えるときのポイントではないのだ。」
(オリヴァー・サックス『心の視力』〜「心の目」より)
「経験とは、どの程度まで自分でつくり出すものなのか? どれくらいが生まれもった脳や感覚であらかじめ決まっているのか? そして脳はどの程度まで経験によってつくられるのだろう? これらの疑問に対して、失明のような深刻な知覚喪失の影響が、意外な手がかりになるかもしれない。とくに後天的な失明は、くじけそうなほど大きな難題を本人に課す。すなわち、従来のやり方がだめになり、新しい生き方を、自分の世界を秩序だてる新しいやり方を、見つけなくてはならないのだ。」
「認知神経学者は二、三〇年前に、脳はかつて考えられていたように回路が固定されているわけではないことを知った。ヘレン・ネヴィルはこの分野のパイオニアの一人で、言語習得前難聴者(つまり、二歳くらいになる前に耳が聞こえなかった、または耳が聞こえなくなった人々)の場合、脳の聴覚野は退化していないことを示した。その部位は変わらず活動的で機能するが、活動も機能も新しくなる。つまり視覚言語を処理するように変化する————ネヴィルの言葉を借りると「再割り当て」されるのだ。生まれつき目が見えない、あるいは幼いときに目が見えなくなった人についての類似の研究は、視覚野の一部が音と触感を処理するように再割り当てされて使われる場合があることを明らかにしている。」
「かつて視力をもっていた人にとって、視力を回復することは、その手段が外科的な方法であれ、感覚代行の装置であれ、重要である。なぜなら、そのような人には無傷の視覚野と生涯の視覚記憶があるからだ。しかし見えたことのない人、光や光景を経験したことのない人の場合、脳の臨界期についてわかっていること、そして視覚野の発達を刺激するためには少なくとも二歳までに何らかの視覚経験が必要であることを考えると、視力を与えることは不可能のように思える(・・・)。舌による視覚は生まれつき目の見えない人にも試されていて、成功例もある。生まれつき目の見えない一人の若い音楽家は、生まれてはじめて指揮者の身ぶりが「見えた」と言っている。生まれつき目の見えない人の視覚皮質は、容積が二五パーセント以上も縮小するが、それでもどうやら感覚代行によって活性化しうるようであり、いくつかの症例でこのことが機能的MRIによって確認されている。」
「四〇代に失明したあと、アーリーン・ゴードンは、言葉と表現の重要性が増していることに気づいた。彼女はかつてないほど視覚心像の力を刺激され、ある意味で、見えるようになった。「私は旅行が大好きです。ヴェニスに行ったときはヴェニスが見えました」。彼女の話によると、旅仲間が場所を説明してくれると、その細かい内容や自分が読んだもの、そして自分自身の視覚記憶から、視覚イメージを組み立てるのだという。「目の見える人たちは私との旅行を楽しんでいますね。私が質問すると、本来なら見ないものを見たり、見えないものが見えたりするのです。目が見える人には、何にも見えていないことが多すぎますよ! これはお互いさまのプロセスです————お互いに相手の世界を豊かにしているんです」
ここには私には解明できない矛盾がある————実におもしろい矛盾だ。経験と記述のあいだ、世界についての直接的な知識と仲介された知識のあいだに、根本的な違いが本当にあるのなら、どうして言葉はそんなにも力強くなりうるのか? 言葉というもっとも人間らしい発明は、理論的に不可能であるはずのことを可能にする。言葉のおかげで。生まれつき目の見えない人も含めて、誰もが他人の目をとおして見ることができるのだ。」
(オリヴァー・サックス『心の視力』〜「訳者あとがき」より)
「おおざっぱに言って、本書のテーマは「見る」力とその欠如である。物を見るための視力は、人が生きていくのにとても重要だと考えられている。だが、ただ見えればいいというものでもない。見えているのが何なのか認識し、適切な反応を示すことができなければ、世の中とかかわりながら生きていくにはやはり不自由だ。
(・・・)
しかし、人間の適応力は欠けた力を補ってあまりあることを、サックスの患者たちは体現している。リリアンは楽曲を耳で聴いて覚えて再現する能力を高め、頭のなかで編曲さえできるようになった。ハワードは字を読む訓練と工夫を重ねて、新しい小説と回想録を執筆することができた。〈ステレオ・スー〉のスーは、両目をきちんと働かせることができず、そのために三次元で物を見ることができなかったが、治療と訓点のおかげで四〇代も半ばを過ぎてはじめて立体視を獲得した。奥行きのある世界は彼女の想像をはるかに超えていたという。〈生き返る〉に描かれているパットは、脳出血で倒れたあと言葉を理解することも発することもできなくなってしまったが、人の身ぶりや表情を読み取る力が増し、発話以外の方法で意思を伝えることを学び、コミュニケーションの輪の中心になった。」
「人生半ばで失明したある女性が言っている。「私が質問すると、目の見える人はそれまで見ていなかったものを見る。目が見える人は何も見えていないことが多い」と。「見る」とは、「見える」とは、どういうことなのかをあらためて深く考えさせられる。」