池田 清彦『専門家の大罪/ウソの情報が蔓延する日本の病巣』
☆mediopos2867 2022.9.23
日本では
これでもかこれでもかというほど
いかに人間は愚かになれるか
という実験の真っ最中で
いつになったら
この実験が終わるのか
いまだその出口は見えそうもない
こうなったら
そのプロセスをじっくり観察しておくのが
後のためにも役に立つのかもしれない
そんな気になっている
「何があなたをそうさせた」
という昭和の流行歌の歌詞も浮かぶが
「○○が悪い」と言い募ったところで
すぐにそれをどうこうすることはできないだろう
まず教育機関が洗脳機関になっていることも挙げられるが
そうした教育機関を求めるのはだれかということになると
ニワトリと卵のどちらが先かという議論にもなってくる
基本は「親方日の丸」「寄らば大樹の陰」とでもいう
きわめて根強い「信仰」があって
それらに逆らわないほうが得だし
疑問をもたないほうが逆風に晒されないでいられる
ということが大きいのだろう
いわば生活の知恵である
なので上から「こうしなさい」「これが正しい」
そういわれたらそれに従い
できるだけ疑問をもたないほがうまくいく
基本的に「迎合」である
そして「迎合」に「責任」という文字は存在しない
そしてどうせ従うのであれば
従うための「権威」があれば安心だ
じぶんで調べ考えて理解する必要はない
その「権威」がいわゆる「専門家」である
というのが本書の基本的な視点だろう
「専門家」が万能ではないのはいうまでもないけれど
少なくとも価値中立的であれば「罪」は少ない
しかしその多くはさまざまな利権に絡まっている
つまり価値は「利権」に従った方向へ向く
「専門家」は決して有効な「エビデンス」だけに基づいて
その知見を発言しているわけではない
都合の悪い「エビデンス」は捨象される
黒塗りの教科書のようなものだ
それが黒塗りであることがわかればまだしもだ
黒塗りの箇所に気づかれないようにしないと
そこに責任が生まれてしまうので
その箇所は存在していないことにさえしてしまう
利害からあえて離れて
最初から逆風に耐え続けている専門家はもちろんだが
みずからの知見の誤りに気づき
あえてそれを改め責任を取ろうとする専門家は尊敬に値する
いまはそうした方がどれほど存在し得るのかどうか
それが日本の未来の礎にもなるだろうから
しっかりと見ておく必要がありそうだ
いまはその観察に最適の時期だともいえる
それらの観察に適したテーマはたくさんあるので
あえて挙げる必要はないだろうが
もっとも観察が必要なのは
その責任を巧妙に回避しようと立ち回る人間たちだろう
その人間を批判する云々ということが重要なのではない
そんなことはだれだってできる
大事なのはそうした人間の悲しさ・罪深さから何を学ぶかだ
■池田 清彦『専門家の大罪/ウソの情報が蔓延する日本の病巣』
(扶桑社新書 扶桑社 2022/9)
「権力やマスコミが必要としているのは、専門家が提供する最先端の知見などではなく、行政に都合がいい情報の「権威づけ」なのである。だから、意見を聞くのはとりあえず「専門家」と呼べる人物であればそれで十分だし、自分たちの主張を貫くためなら、そうやって呼んできた専門家の発言さえも、都合よく切ったり貼ったりする。
そしてそのからくりに気づかない世の中の人たちは、「専門家がそう言っているのだから間違いない」と思い込み、すっかり騙されてしまうのだ。」
「今や純粋に学問を追究するような専門家というのはまれな存在で、たいていの人が職業として専門家をやっている。そういう人たちは何らかの利害関係の中にいるわけで、それは、本当のことを言うことで自分が大損する可能性のあることを意味している。「間違い」を前提に何らかのシステムが立ち上がり、そのような空気が出来上がってしまった場合、専門家としてそれが間違いであることがわかっていても、のらりくらりとその流れに乗っておくのが明らかに安全なのだ。余計なことを言わずに、世の中のムードに素直に賛同しておくほうがマスコミにだってたくさん出られるし、世間のムードに乗じて設けようとする企業や政府から金をもらえるので、絶対に得なのである。」
「このように書くと、専門家自身が自らの姿勢を改めさえすれば、さまざまな問題が解決するかのような印象をもたれてしまうかもしれないが、ことはそう単純ではない。
なぜかといえば、専門家たちを取り巻く環境が、時の政権をはじめとする大きな権力に逆らえないような方向、あるいは逆らわないほうが得な方向にどんどん傾いており、彼らはさまざまなしがらみのもとで生きているからだ。専門家を養成するシステム自体が、権力に迎合するうようになっていることも、事態を硬直化させる原因だ。要するに、現代の専門家はニュートラルな立場から発言するのが難しい状況に陥っているのである。
そういう意味では彼らも被害者であると言えるが、その肩書きを信じ込み、不利益を被っている人も少なからずいる以上、決してその罪が軽いとは言えない。」
「行政がある政策の正当性をアピールするときの後ろ盾は二つあって、一つはその政策を選挙の争点に掲げて勝利することであり、もう一つは専門家のお墨付きをもらうことである。選挙は行政に有利なプロパガンダはできても、有権者の判断を曲げることはできないので、とりあえず公正である。それでは、専門家のお墨付きのほうはどうかというと、これはかなり怪しい。一応、審議会とか委員会とかがあって、そこに諮るのが普通であるが、審議会などが整備されていない自治体では、専門家に個別に意見を聞くこともある。
その際、なるべく行政寄りの専門家の意見を聞くとか、あるいは審議会メンバーの権威を行政寄りの委員で固めるようにして、専門家の審議の結果、この政策を遂行するに当たって瑕疵はありません、という結論にしたいわけだ。ある分野の専門家はたくさんいるので、行政が自分たちに有利な意見を言う専門家を選ぶことが可能なのだ。
例えば、山野を大規模に開発したいというときに、自然環境の専門家に聞くと、大方は自然保護の観点から開発は好ましくないと言われるに決まっている。そこで、自然環境の保全や生物多様性に詳しくない生物学者を選んで、行政が適当な説明をして丸め込んでしまうといったことはよくある。
これはペテンに近いが、一般の人は生物学の専門家と聞けば、自然環境にも詳しいだろうと思うわけで、専門家のお墨付きなるものも当てにならないのである。
さらに問題なのは、利権が深く絡む分野は、専門家の多くは利権に取り巻かれているので、科学的中立からは程遠い立場にあることだ。
例えば、CO2の輩出が地球温暖化の主因だとする「人為的地球温暖化」論者の科学者は、この理路が正しいという前提の研究をすることにより、職を得て研究費をもらっているので、途中から、この理論は間違っているようだと気づいても、もはや後戻りすることが不可能なのだ。自分の本心を偽るか、人為的地球温暖化に反するエビデンスを無視して、人為的地球温暖化の与して生きるかしか術がなくなるのだ。
もっと重症なのは医療の分野で、多くの医者は製薬会社かたさまざまな利益供与を受けていることが多いので、薬の副作用についても、患者にあまり説明せずに、例えば降圧剤などをやみくもに処方している医者も多い。
多くの医者は、本人に自覚がない高血圧に関しては、降圧剤は処方しないほうがQOLを良好に保てることはわかっていると思う(わかっていない医者はよほどのヤブだ)。しかし、日本高血圧学会という医者の利権団体が、高血圧には降圧剤を使うのが正しいという姿勢なので、後ろめたさをあまり感じることなく、降圧剤を処方してお金を儲けるという誘惑に勝てないのである。
日本の医療で最も悲惨なのは、従業員の健康診断を企業に義務づけていることだ。健康診断もがん検診も死亡率を下げられないことは、外国での数度のくじ引き検査の結果、はっきりしたエビデンスがある。したがって欧米では、健康診断を義務づけている国はない。
がん検診も廃止の方向に向かっている。例えば、アメリカでは前立腺がんの検診はやめたほうがいいと政府の公的機関が表明しているし、肺がんも、検診したほうが肺がん死亡や総死亡数が増えることがわかり、欧米では行っていない。
ひとり日本だけが、何の根拠もないのに健康診断とがん検診をむやみに推奨している。日本では、ほとんどの医療従事者は健康診断やがん検診は有効だと信じ込まされているので、無理もないと思うが、無効だということを知っていて、業界の利権のために健康診断やがん検診を推進している専門家の罪は重い。」