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平川克美『見えないものとの対話』/メルロ=ポンティ『眼と精神』/『石原吉郎詩集』/村上春樹『東京奇譚集』
☆mediopos3754(2025.2.28.)
平川克美『見えないものとの対話』は
mediopos3748(2025.2.22.)でとりあげた
『言葉が鍛えられる場所』の続編
はじめにメルロ=ポンティの『眼と精神』からの
こんな内容の引用がある
「〈物〉と〈一つの空間〉を見せてくれる」戯れは
「〈物〉を見せるためにおのれを隠す」
それゆえ
「物をそれとして見るには、
この戯れそのものを見てはならなかった」
私たちはじぶんに〈見えている〉ことを
あたりまえで確かなことだと思いこんでいるけれど
そのように〈見えている〉のは
「その前提となるものが隠蔽されているから」なのだ
〈見えている〉と思いこんでいる〈物〉は
ほんとうは見えていない
「見えないものとの対話」は
その「隠蔽されている」ものに気づき
それを垣間見ることで行われる「対話」として
18章に渡って綴られる
そのなかから
石原吉郎の詩と村上春樹の小説をとりあげる
石原吉郎の最初の詩集
『サンチョ・パンサの帰郷』に収められた
壮絶なシベリア体験
(スターリン・ラーゲリでの捕虜)を背景にした
「自転車にのるクラリモンド」という詩がある
自転車にのるクラリモンドよ
目をつぶれ
自転車にのるクラリモンドの
肩にのる白い記憶よ
クラリモンドの肩のうえの
記憶のなかのクラリモンドよ
目をつぶれ
その作品のなかで石原は
「〈目をつぶれ〉という言葉を4回、
〈目をつぶった〉という言葉を2回くりかえしている」
「この詩の吸引力は、
「ひとは、欠落によってしか得られないものがある」
という認識へわたしたちを誘う」
「全人格的な欠落を生き延びた人間」が
その欠落を回復するために
〈目をつぶれ〉と繰り返すのである
そこに「希望」という言葉はない
「言葉の背後に口を開けている深淵」の前で
「希望という言葉を使わずに、希望を表現」し
「言葉にできないことを言葉にする」ために
〈目をつぶれ〉と繰り返すのである
しかしこうした壮絶な体験だけが
「見えないもの」との対話に導くのではない
「偶然の一致」が起こったときなどにも
そうした対話は生まれてくる
そしてわたしたちは気づかないだけで
「わたしたちがいま、ここに存在していることこそが、
奇跡のような偶然の結果に過ぎないのだとしても、
その奇跡がありふれた日常を支配している」
のだともいえるからである
村上春樹の「偶然の旅人」(『東京奇譚集』所収)では
「僕=村上春樹」が語り手として実名で登場し
ピアノの調律師である知人に起きた
不思議な偶然の一致について語られている
そしてその小説のなかで
偶然の一致が起こったときの
「どうしたらよいのか
わからなくなったときのルールとして」
調律師にこう語らせている
「かたちあるものと、かたちのないものと、
どちらを選ばなくちゃならないとしたら、
かたちのないものを選べ。」
見えないものと対話するためには
〈見えている〉がゆえに
そこに隠されているものがあることに気づき
それへと目を向けなければならない
みずからに命じる
〈目をつぶれ〉であり
「偶然の一致」が起こったときに
「かたちのないものを選」ぶことでもある
ありふれた日常で起こっていることも
すべてが「奇跡」であるといえる
「偶然」のように〈見えている〉ことは
隠されているものが見えていないだけなのだ
詩人はそれに目を向け
希望という言葉を使わないで希望を表そうとするように
「かたちの背後に流れているかたちのないものを感じ」
「かたちのないものにかたちを与えるために
言葉を紡ごうとする」
その意味において
詩の言葉を読むということは
見えないものを見ようとするように
言葉にされていない
隠されたものを読むということに他ならない
■平川克美『見えないものとの対話
喪われた時間を呼び戻すための18章』
(大和書房 2020/4)
■モーリス・メルロ=ポンティ(滝浦静雄・木田元訳)
『眼と精神』(みすず書房 1966/12)
■『石原吉郎詩集』(現代詩文庫26 思潮社 1969/8)
■村上春樹『東京奇譚集』(新潮社 2005/9)
**(平川克美『見えないものとの対話』)
●(「何の役にも立たない」何か————まえがきにかえて)
・見えないものとの対話
「「眼を持つかぎりすべての人は、いつかは影やそれに類したもののこの戯れの証人になったことがあるはずだ。ひとびとに〈物〉と〈一つの空間〉を見せてくれるのは、ほかならぬこの戯れである。しかし、この戯れはそうした証人がいなくてもそれらのあいだで行なわれており、それは〈物〉を見せるためにおのれを隠すのである。物をそれとして見るには、この戯れそのものを見てはならなかったのだ」
(「眼と精神」より/『眼と精神』所収)
これは、モーリス・メルロ=ポンティによる「見える」という単純な現象に関する繊細で複雑な報告である。わたしは、自分が見ている風景の背後に隠されている「見えない」ものが、何かの拍子で突如姿をあらわす瞬間を夢想した。しかし、どうすれば、そんな瞬間に立ち会うことができるのだろうか。」
・視覚の現象学
「視覚の現象学は、わたしたちに〈見えている〉ことが、あたりまえで確かなことだという思い込みに揺らぎを与えた。わたしたちに〈見えている〉のは、その前提となるものが隠蔽されているからなのだ。いや、そうだからこそ、わたしたちは物の輪郭や、色彩や、空間の厚みを、そこにある確かなものとして感じることができる。しかし、それらは自分が思っているほど、確かなものではないのかもしれない。
反対に、もし、視力を失ってしまえば、現実はもっと強固な輪郭を与えられることもあるのだろうか。」
「石原吉郎は、最初の詩集である『サンチョ・パンサの帰郷』のなかに、「自転車にのるクラリモンド」という、不思議な作品を挟み込んでいる。『サンチョ・パンサの帰郷』は、石原の壮絶なシベリア体験(スターリン・ラーゲリでの捕虜)を経て、饒舌をすべて削ぎ落とした、いわば〈沈黙の語法〉による作品を書き綴った。その中にあって「自転車にのるクラリモンド」は、他の作品とは肌色の異なるリズミカルで、向日的な世界を描き出しているかのように見える。
自転車にのるクラリモンドよ
目をつぶれ
自転車にのるクラリモンドの
肩にのる白い記憶よ
クラリモンドの肩のうえの
記憶のなかのクラリモンドよ
目をつぶれ
目をつぶれ
シャワーのような
記憶のなかの
赤とみどりの
とんぼがえり
顔には耳が
手には指が
町には記憶が
ママレードには愛が
そうして目をつぶった
ものがたりがはじまった
(「自転車にのるクラリモンド」前半/
『サンチョ・パンサの帰郷』所収)
この作品の中で、石原は〈目をつぶれ〉という言葉を4回、〈目をつぶった〉という言葉を2回くりかえしている。こうした、くりかえしは、他の作品ではほとんど見られない。石原にとって目をつぶるという行為が、重要な意味を持っていることを示していることは、想像に難くない。そして、目をつぶるという行為によってしか、実現できない風景が、パレードやサーカスを謳うように美しく描き出されている。」
「端的に言って、この詩の吸引力は、「ひとは、欠落によってしか得られないものがある」という認識へわたしたちを誘うところにある。〈目をつぶる〉ことでしか、見えないものがある。そして、それは単なる現象学的な認識ではなく、石原吉郎という人物の体験に対するかれ自身の総括なのだ。
おそらくは、スターリン・ラーゲリでの体験は、人間的なもの全てが落魄してしまうようなほとんど全人格的な欠落であった。そして、そうした全人格的な欠落を生き延びた人間は、何によってその欠落を回復することはできるのだろうかと問うている。目をつぶるということでクラリモンドはもう一つの現実を見ることができただろうか。だとするならば。この欠落の回復には何か重要な意味があるはずである。意味という言葉を希望と読み替えても良いかもしれない。たふぁ、石原の言葉のリストの中には希望という言葉はすでにない。
そんなものは、スターリン・ラーゲリで凍土の奥深く埋葬してしまった。
希望という言葉を使わずに、希望を表現するということ。それが、この詩人が自らに課した課題だったように思える。」
「言葉にできないことを言葉にする。
おそらく、詩や小説という文芸表現が目指しているのはこのことであるはずだ。通常、わたしたちが何かを語るとき、いつも言い過ぎるか、言い足りないというジレンマに悩まされることになる。いや、ほとんどの場合には、そんなことも意識せず、ただ言葉を潤滑油のように垂れ流しているだけなのかもしれない。
それでもときおり、わたしたちは過剰だったり、不足していたりする言葉の背後に口を開けている深淵に出会うことがある。
それは見えないものであり、それが見えたときにはこちら側の現実が消えてしまうようなものでもある。わたしたちに見えるのは、内向的な詩人が、その深淵の前で佇ちつくしている姿だけである。わたしたちは、かれ、あるいは彼女が見ているものや、対話している対象が何であるのかは、実のところよくわからない。
ただ、かれらの佇ちつくしている場所に、我知らず自分も佇つことができるだけである。おそらくは、それが詩を読むということなのだと思う。」
●(偶然の旅行者)
・神奈川県川崎市のショッピング・モールでの偶然
「「きっかけが何よりも大事だったんです。僕はそのときにふとこう考えました。偶然の一致というのは、ひょっとして実はとてもありふれた現象なんじゃないだろうかって。つまりそういう類のものごとは僕らのまわりで、しょっちゅう日常的におこっているんです。でもそ大半は僕らの目にとまることなく、そのまま見過ごされてしまいます。まるで真っ昼間に打ち上げられた花火のように、かすかに音はするんだけど、空を見上げても何も見えません。しかしもし僕らの方に強く求める気持ちがあれば、それはたぶん僕らの視界の中に、ひとつのメッセージとして浮かび上がってくるんです。」
(村上春樹「偶然の旅人」部分/『東京奇譚集』所収)
村上春樹は、その名も「偶然の旅人」という短編を書いている。この小説は、村上作品としては珍しいことに、「僕=村上春樹」が語り手として実名で登場する。
『東京奇譚集』(新潮社)という転変集の最初に収められているこの小説は、実際にこの作家の身の回りで起きた不思議な偶然の一致がテーマになっている。
それは、こんな風に始まる。ある日、ピアノの調律師である知人が、行きつけの喫茶店で本を読んでいると、隣で本を読んでいた女性に声をかけあっれる。「あの、今及びになっておられるご本なんですが、それはひょっとしてディッケンズじゃありませんか?」「そうですよ」彼は本を手にとって彼女の方に向けた。
そのとき、彼女が読んでいた本もディッケンズの同じ本『荒涼館』だった。
これを村上春樹はこう記している。
「平日の朝、閑散としたショッピング・モールの、閑散としたカフェの隣り合った席で、二人の人間がまったく同じ本を読んでいる。それも世間に広く流布しているベストセラー小説ではなく、チャールズ・ディッケンズの、あまり一般的とは言えない作品なのだ。」
そして、この話は思わぬ展開を見せる。彼と彼女は親しくなり、彼女は彼を求めるようになるが、彼はゲイであり彼女とのセックスを受け付けることができない。彼は告白してそのことを侘びると、彼女も彼に告白されたことを侘び、彼女の行動は、最近乳がんが見つかって、近々に再検査をすることになっていることも要因の一つであったことを告げる。
話は、それで終わらない。彼は、自分がゲイであることを告白して以来10年も疎遠にあっていた姉に電話をする。喫茶店で出会った女性の耳にあったほくろが、同じ箇所にほくろのあった姉を思い出させてくれたからである。久々に出会った姉とお互いの近況を話しているとき、姉が突然、自分が乳がんの切除手術をしなくてはならないことを告げるのである。」
・日常を支配するものの正体
「偶然は、一つだけなら、ただの偶然で済まされてしまう出来事かもしれない。しかし、偶然が二つ重なれば、人は誰も、それが何かのメッセージなのではないかと、思わざるを得ないだろう。」
「すべての「もし」には、わたしたちには見えない必然が潜んでいないとは誰にも断言することはできないだろう。
わたしたちがいま、ここに存在していることこそが、奇跡のような偶然の結果に過ぎないのだとしても、その奇跡がありふれた日常を支配していることもまた事実なのだ。そして、その奇跡を生み出したものの正体を「愛」とか。「恐怖」とか、あるいは「意識」とわたしたちは名付けてきたのではないだろうか。
上の小説の中で、村上春樹は示唆深い言葉を書きつけている。
それは、どうしたらよいのかわからなくなったときのルールとして、調律師によって語られた言葉である。
「かたちあるものと、かたちのないものと、どちらを選ばなくちゃならないとしたら、かたちのないものを選べ。」」
・偶然にいま・ここ
「詩人はいつでも、かたちのないものに目を凝らしているのだろうか。かたちのあるものを凝視しているときも、そのかたちの背後に流れているかたちのないものを感じているのだろうか。なぜなら、いつでも詩人というものは、かたちのないものにかたちを与えるために言葉を紡ごうとするものだからだ。」