奥野 克巳『絡まり合う生命——人間を超えた人類学』/ティム インゴルド『生きていること/動く・知る・記述する』
☆mediopos2608 2022.1.6
生きることは
世界観にかかわっている
ひとは世界に
みずからの世界観を投影し
そのなかで生きている
学問も同様に
その学問を成立させている世界観のなかで
ある視点を対象に投影し
そこで問うことのできるものに対する
答えを得ている
人間が人間である以上
人間であることで可能な世界の
外に出ることはできない
「人間を超えた人類学」といっても
おそらくそれは変わらないだろうが
それでも人類学が
人間を超えた視点で
人間と動物のあいだを超え
物と霊のあいだを超え
「人間的な世界のうちにある性質を
非人間的な世界に投影する」ことを超えて
新たな可能性へと開かれてゆくのは興味深い
そうすることではじめて人間は
みずからを超える可能性を得るからだ
生きるということは
最初に決まった世界があり
決まった自分がいるというのではない
インゴルドも述べているように
「生きることの核心部分は始点や終点にはなく、
生きることは出発地と目的地をむすぶことではない」のだ
変化しつづける生物・非生物を含む
さまざまな存在がいて
変化しつづける世界のなかで
変化しつづける自分がいる
そのなかで世界に働きかけながら世界を変え
みずからにも働きかけながら変わり続ける
人間世界の外にでることはできないとしても
その世界を拡張していくことは可能である
そのためにもじぶんがなにを投影しているのか
まず自らの視点を問いなおすことが必要となる
世界は多次元的であり
それぞれの世界にはそれぞれの存在者で充ちている
じぶんがどこでどのように存在し得るかによって
開かれてくる世界は異なってくる
いまこの世界にいるということは
みずからがその世界にフォーカスしているということだが
それは世界観によってさまざまな姿を見せてくれる
わたしがそれまでになかった一歩を踏み出すと
その一歩分の世界が広がるように
■奥野 克巳『絡まり合う生命——人間を超えた人類学』
(亜紀書房 2021/12)
■ティム インゴルド
(柴田崇・野中哲士・佐古仁志・原島大輔・青山慶・柳澤田実訳)
『生きていること/動く・知る・記述する』
(左右社 2021/11)
(奥野 克巳『絡まり合う生命』より)
「十九世紀のタイラーのアニミズム論以降、モノを含めた非人間に潜む霊や魂をどのように捉えるのかを、地球上の各地に住む人間にまで拡張し、調査研究することによって記述件等した人類学のアニミズム研究の流れ先端に現れたのが、インゴルドのアニミズム論であった。インゴルドが述べるように、現象の真っ只中に入り込む人たちが、経験と想像力あるいは事実と空想を峻別せずに、そこで生成する世界をつかまえようとするとき、モノが動き、話すことを目の当たりにする。タイラーの物-霊二元論や、人間的な世界のうちにある性質を非人間的な世界に投影するメカニズムとは根本的に異なるアニミズムが、インゴルドによって高らかに宣言されたのである。インゴルドのアニミズム論は、人間がモノや動物などの人外との「間」で物理的・精神的な距離を失わないでいるならば、世界はアニミズムに充ちていることを示している。」
「インゴルドは生物社会的存在を説く際に、社会関係と有機体、社会の領域知と自然の領域がひとつであることに気づいていたのである。だが間違ってはならないのは、それらをひとつにするのが、「全体論的で関係論的な存在論」ではなく、「局所的で関係論的な生成論」に進むことだという点である。あらかじめ全ては関係であるといった調和的な全体論に進むのではなく、何ら確定していない偶然による局所的なつながによる不安定な生成へと進まねばならない。前者は、あらかじめ全てが分類されていて区画されているのと同じであり、そこに想像の余地はい。インゴルドが目指したのは、局所的なつながりによる不安定な生成だったのである。
その意味で、生物社会的存在という概念には、関係論的な生成論的特徴が最初から合意されていたことになる。存在と言ってしまうと、「Aかnot Aか」という形式論理を突き破ることはできない。その上で、インゴルドは詩的に「あなたの中に入り込んで」といった表現をしているが、そこには「自」か「他」かという問いが発生してしまう危険性がある。インゴルドの目的は「Aでもnot A」でもない空間を語ることだとすると、彼はそれをいかに言い表すのかという点で苦心しているようなのである。
上妻は、シベリアのユカギールの狩猟行動の調査をつうじて社会的な領域と生物的な領域を「私でなく私でなくもない」という動態の中に読み解いたウィラースレフ[ウィラースレフ二〇一八]のように、生成論の動態の基礎を特定することから始めれば、インゴルドは、生物社会的存在の骨組みをよりすっきり提示できたのではないかと評している。生物社会的存在という表現では、静態的・実体的な存在が最初から想定されてしまい、関係論的思考を組み入れた時に現れうる動態的・生成論的な面が除外されてしまう危険性がある。
上妻がいうように、インゴルドは揺れている。ある時には「ビカミングス」と言ったり、またある時には「ヒューマニング」と言ったりもしている。しかし、それらは全て、一貫して関係論的な生成論の観点で捉えられている。
生物社会的存在というアイデアを手に入れた後、インゴルドは躍進する。『生きていること』[インゴルド二〇二一]に収められた「つくることのテクスティリティ」を取り上げて、自然の領域と社会の領域のように、二極化した決定論的な論理がどのように突き崩されるのかを追ってみよう。
「形相」は心のうちにデザインを持つエージェントが押しつけるものであり、それに対して、不活性な「質料」が一方的な型を押しつけられる受動的な対象とみなされる。モノをつくることにおいて、こうしたアリストテレス的な「質料形相モデル」が、依然として繰り返しなぞられている。だが画家パウル・クレーがいうように、形とは「死」であり、形が生成しつつある状態こそが「生」なのではないか。
質料形相モデルを補正するために、人間「主体」が「対象」としてのモノに働きかけるという図式を反転させて、対象が主体に働きかけるのだと主張されたことがある。だが、そうした二極化の乗り越えは、主体と対象の二極化を生み出した当の論理と全く同一の理論体系にとどまったままなのである。
クレーのいう「形を与える過程」の創造性こそが示されねばならない。作り手の役割とは、事前に心のうちに抱いたアイデアを施行することではなく、当の作品の形をあらしめている素材の力と流動に合体し、それに随うことなのだと、インゴルドは唱える[インゴルド二〇一一:一八七-二〇六]。
(ティム インゴルド『生きていること/動く・知る・記述する』より)
「哲学者たちは、世界の内に存在することの条件について、長きにわたって思索をめぐらせてきた。だが、動くこと、知ること、記すことは世界の内に浸され、存在する以上のことを要求する。動くこと、知ること、記すことは観察することを要求するのである。動き、知り、記す存在は注意深い目をもたなければならない。注意深い目をもつということは、世界に向かって生きていることを意味する。本書は、生きていることについての研究を集めたものである。
現在、英国の人類学者たちは私を含めて、生きているという課題に対してきわめて冷淡な学術的環境におかれて仕事をしている。建学の理念やら戦略企画、監査報告や査察のなだれに飲み込まれ、参与の苦労と汗から生まれた観察することと不可分のアイデアは、光と空気と湿気に飢えた草花のようにしおれている。学問はイノベーションと競争力という二つの虚像に身を売って、学びの伝統を市場のブランドへと、卓越性の追求を外部資金と評判のくだらない寄せ集めへと、そして本書のような著作を、人間の知に対する貢献ではなく格付けとインパクトで測定されるアウトプットへとおとしめるに至った。」
「人類学とは、私に言わせれば人が生きることの条件と可能性をじっくりと着実に探っていく学問である。けれども、これまでの人類学の歩みがそうだったというわけではない。ときとして人類学者たちは、苦心の末に自分の理論から生きることをそっくり末梢してしまうか、遺伝対文化、自然対社会のように区分けされるパターンや規範、構造やシステムから吐き出される単なる出力結果の断片として、「生きていること」を扱おうとしてきた。自然として産まれ、社会によって模(かたど)られ、生来の遺伝的性向に操られ、継承された文化を範にとるものとして、前もって定められた容器を満たすためにみずからの生を費やす生物、それが人間だというわけだ。ちょうど、「われわれは全員、何千種類もの違った生を生きうる自然の装備で出発するが、結局はただ一種類の生活を営む結果に終わる」(・・・)というクリフォード・ギアツの有名な言葉にあるように、この見解では、生きることは、容器をだんだん満たしながら、終わりに向かって可能性を閉じていく運行にすぎないことになる。この四半世紀のあいだ、こうした見方をひっくり返したいという思いに私は導かれてきた。行き先の定まったプロセスであるという目的論的な見解に代えて、行き先が絶えず更新されていく宙に投げ出された流転として、生きることの可能性を新たに捉えなおすことはできないだろうか。生きることの核心部分は始点や終点にはなく、生きることは出発地と目的地をむすぶことではない。むしろそれは、無数の物たちが流動しながら生成、持続、瓦解するなかを絶えず切り拓き続けてゆくことであるはずだ。つまるところ、生きることは開いていく運動であって、閉じていくプロセスではない。そして本来、このような「生きること」こそが、人類学の関心の中心にあってしかるべきなのだ。」
◎奥野 克巳『絡まり合う生命——人間を超えた人類学』
【目次】
序論 平地における完全なる敗者
第1部 アニマルズ
■第1章 鳥たち
■第2章 リーフモンキーの救命鳥
■第3章 2でなく3、 そして4
■第4章 ネコと踊るワルツ
第2部 スピーシーズ
■第5章 多種で考える――マルチスピーシーズ民族誌の野望
■第6章 明るい人新世、暗い人新世
■第7章 人間以上の世界の病原体
■第8章 菌から地球外生命体まで
第3部 アニミズム
■第9章 人間だけが地球の主人ではない
■第10章 科学を凌ぐ生の詩学
■第11章 ぬいぐるみとの対話
第4部 ライフ
■第12章 考える森
■第12章補論 考える、生きる
■第13章 記号生命
■第14章 バイオソーシャル・ビカミングス――ティム・インゴルドは進化をどう捉え、どう超えたか
■終章 人類の残された耐用年数――厚い記述と薄い記述をめぐって
■あとがき
■参考文献
◎ティム インゴルド『生きていること/動く・知る・記述する』
【目次】
序文、および謝辞
プロローグ1 生に還る人類学
第一部 地面を切り拓く
2 素材対物質
3 地面の文化 足を通して知覚される世界
4 板を歩く 技術に熟練する過程を考える
第二部 メッシュワーク
5 動くものを再考すること、思考を再び動かすこと
6 点・線・対位法 環境から流動空間へ
7 アントがスパイダーと会うとき 節足動物のための社会理論
第三部 大地と天空
8 大地のかたち
9 大地、天空、風、そして気象
10 ランドスケープか気象世界か
11 サウンドスケープ概念に対する四つの反論
第四部 物語られた世界
12 空間に逆らって 場所、動き、知識
13 分類に逆らう物語 輸送・散歩・知識の統合
14 物語ることとしての名づけ アラスカのコユコン族が動物について話すこと
第五部 線描すること、つくること、書くこと
15 Aという文字の七つのヴァリエーション
16 精神の歩き方 読むこと、書くこと、描くこと
17 つくることのテクスティリティ
18 線を束ねる 行なうこと、観察すること、記述すること
エピローグ19 人類学はエスノグラフィーではない
解題|生きている世界へのまなざし(野中哲士)
謝辞
索引/文献一覧