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デヴィッド・グレーバー (酒井隆史訳)『官僚制のユートピア』/戸谷 洋志『悪いことはなぜ楽しいのか』

☆mediopos3491  2024.6.8

『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』や
『万物の黎明』の著者でもある
デヴィッド・グレーバー『官僚制のユートピア』では
訳者・酒井隆史によるあとがきで
現在の日本の「全面的官僚制化」の惨状が
如実に表現されている

日本社会は
「規則のユートピア、官僚制のユートピアとしては
世界の先端を走っているのはまちがいない」

もともと近代化以来の強力な官僚制があり
「既存秩序への服従の表明以外の意味を
ほとんどもたない無内容な規則へのフェティシュ
——たとえば校則——のあったところに、
「全面的官僚制化」の波が押し寄せてきた」
というのである

『官僚制のユートピア』は
単なる官僚制への批判というのではない
むしろその両義的な側面を描き出しながら
結果として私たちを包囲している
「全面的官僚制化」という現状の問題が示唆されている

「ひとはどこにあっても二つの完全に矛盾し合う傾向をもつ」
「ただひたすら自己を目的としてプレイフルに創造的である傾向」
そして
「そのようにふるまってはならないと命じる者に同調する傾向」である

「制度的生活のゲーム化」を可能にしているものは後者であり
それをつきつめるとすれば
「すべての自由は恣意的なもののうちにあり、
すべての恣意性は危険な壊乱的能力のとるかたち」であるがゆえに
「真の自由とは、このような自由から自由である
[解放された]完全に予測可能な世界に生きることである、
という議論までは、ほんの一歩」となる

そしてわたしたちは
「「合理性」の信仰にせよ、あるいは恣意的権力への恐怖にせよ、
その動機づけはどうあれ、こうした官僚制化した自由の観念の結末」
として
「あらゆる生活の要素が、規則に拘束された
精密なゲームへと還元される」ことになる

そうして「恣意的な権力からの自由の追求がより恣意的な権力を生み出し、
その結果、規制が存在を締め上げてしまい、
守衛や監視カメラがあらゆる場所にあらわれて、
科学や創造性が抑制されるような状況、
そして、わたしたちの一日のうちに書類作成につぎ込む
時間の割合がひたすら上昇する一方の状況」を生み出すことになる

それが管理社会化を続けている
私たちの社会そのものの「全面的官僚制化」ということである

本書『官僚制のユートピア』では
なぜ「全面的官僚制化」へと至っているのかは語られるが
それに対する効果的な対策のようなものは示唆されていないものの

そうした「官僚制化」をなにがしか抑止し得る視点としては
ちょうど刊行されたばかりの
戸谷洋志『悪いことはなぜ楽しいのか』から
なにがしかの示唆を得ることはできるのではないかと思われる

それは上記の「二つの完全に矛盾し合う傾向」のうちの前者
「ただひたすら自己を目的としてプレイフルに創造的である傾向」と
どこかで関わってくる

それは「禁止されていること、やってはいけないとされていること」
つまり「規則(ルール)から逸脱するという
「悪いとわかっていることをあえてする」
そんな「楽しさ」でもある

「当たり前」だとされている
「規則(ルール)」そのもの
「正しい」とされていることそのものを
問い直すことにもつながってくるからである

それは
学校で教えられていること
メディアで報道されていること
医療において条件づけられていること
地域社会において決められていること
国において法制化されていること
そんなすべてを問い直すことだが

それは逆説的に
現在の日本の「全面的官僚制化」の惨状が
あまりに意識化されていないことに気づくことでもある

■デヴィッド・グレーバー (酒井隆史訳)
 『官僚制のユートピア/テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』
 (以文社 2017/12)
■戸谷 洋志『悪いことはなぜ楽しいのか』(ちくまプリマー新書 2024/6)

**(デヴィッド・グレーバー 『官僚制のユートピア』〜
   「序 リベラリズムの鉄則と全面的官僚制化の時代」
  〜「3 すべて究極的には価値にかかわることであると銘記すること。」より)

*「だれもがひとつの問題に直面している。官僚の実践、習慣、感性がわたしたちを包囲している。わたしたちの生活は、書類作成のまわりに組織されるようになった。しかし、こうしたことがらを語るために用いているわたしたちの言葉は悲惨なぐらい的を外している。あるいは、問題をさらに悪化させるような故意にそう仕組まれているともいえるかもしれない。このような過程のなかでわたしたちがいったいなにを不満におもっているのか、それを語る方法、それにともなう暴力について、率直に語る方法を探る必要がある。しかし同時に、それ[官僚制的なもの]に魅力があるとすればどこか、なにがそれを維持しているのか、真に自由な社会でも救済に値する潜在力を有しているとすればそれはどの要素か、複雑な社秋であれば不可避的に支払わざるをえない対価と考えるべきはどれか、あるいは完全に根絶できるし根絶せねばならないものはどれか、こうしたことを、理解しなければならないのである。」

**(デヴィッド・グレーバー 『官僚制のユートピア』〜
  「3 規則(ルール)のユートピア、あるいは、つまるところ、なぜわたしたちは心から官僚制を愛しているのか」
  〜「4 規則(ルール)のユートピア」より)

*「少しだけ言語について考察せねばならない。というのも、わたしたちの自由の観念そのものに基本的逆説(パラドックス)が存在するということを、それ以外のどの素材よりもあきらかにしてくれるからである。一方で、規則(ルール)はその本質からして制約的なものである。スピーチコード、エチケット規則、文法規則、これらすべては、なにをいうことが可能なのか、不可能かを制約する効果をもっている。文法上の誤りのために子どもの手の甲をぴしゃりと叩く女教師という像を、抑圧の原初的イメージのひとつとしてだれもがもっているのには、理由がないわけではないのである。しかし、それと同時に、いかなる種類の共有された規約————意味論も、統辞論も、音韻論————もなければ、わたしたちのだれもが場当たり的にうめくのみであろうし、そもそもたがいの交通もありえないだろう。それゆえ、それがどこか正確にいうのは不可能だが、過程のどの時点かで、制約としての規則は可能にするものとしての規則へと転換するのである。かくして自由とは、実のところ、みずからがたえず生成する規則に抵抗するという人間の創造性の自由なプレイのはらむ緊張である。そして言語学者がつねに観察しているのがまさにこれなのである。文法のない言語は存在しない。だが、文法をふくむすべてが、あらゆる時点でたえまなく変転していないような言語もまた存在しない。

 なぜそうなのか、わたしたちはめったに自問することがない。なぜ、言語はつねに変化しているのだろうか? 会話するために、なぜ文法や語彙についての共通理解を必要とするのか、を理解するのはやさしい。もしわたしたちが言語を必要とする理由がそれのみであるとすれば、こう考えることもできる。いったんある話者の一群が、目的にふさわしい文法と語彙を確立したら、かれらは端的にそれを墨守してもいいではないか。すなわち、たとえ語彙を変化させるにしても、なにかあたらしく語るべきものがあらわれた————あたらしいトレンドとか発明、輸入された野菜など————ときであって、そうでなければ言語に手を加えようとはしない、ということもあってもいいではないか。事実は、そうなっていはいない。音と構造の双方を一世紀にわたって変化させなかった言語の記録を、一例たりともわたしたちは知らない。これはもっとも「伝統的な」社会の言語にすらあてはまる。保存を旨として設立された精巧な制度的機構————グラマースクールやアカデミー・フランセーズのような————においてすら、例外ではないのである。(・・・)

 ひとはどこにあっても二つの完全に矛盾し合う傾向をもつようだ。かたや、ただひたすら自己を目的としてプレイフルに創造的である傾向をもつ。かたや、そのようにふるまってはならないと命じる者に同調する傾向をもつ。制度的生活のゲーム化を可能にしているものは後者である。というのも、もしこの二番目の傾向を論理的帰結にまでつきつめるならば、すべての自由は恣意的なもののうちにあり、すべての恣意性は危険な壊乱的能力のとるかたちとなる。ここから、真の自由とは、このような自由から自由である[解放された]完全に予測可能な世界に生きることである、という議論までは、ほんの一歩である。」

*「わたしたちが目の当たりにしているのは同一の帰結である。「合理性」の信仰にせよ、あるいは恣意的権力への恐怖にせよ、その動機づけはどうあれ、こうした官僚制化した自由の観念の結末は、プレイが完全に制限されてしまった————あるいはよくてもいかなる真剣かつ重大な人間の努力からも遠く離れた場所に封印されてしまった————世界という夢想の実現である。そこでは、あらゆる生活の要素が、規則に拘束された精密なゲームへと還元されるのである。そうしたヴィジョンにいっさい魅力が無いというわけではない。万人が規則を認識し、万人が規則に則してプレイし、そして————さらには————規則に則してプレイする人間がそれでも勝利できるという世界を夢想しない者がいるだろうか? 問題なのは、これが、絶対的な自由のプレイの世界がそうであるのと等しくユートピア的空想であるということである。それは、つねに、わたしたちがふれるいなや霧散してしまう、はかなり幻想にとどまっているのだ。

 そうした幻想がつねに悪いというわけではない。人間のもっとも偉大な達成のほとんどが、そうした現実ばなれした追求の結末であることはまちがいないだろう。しかし、[わたしたちの時代のような]この文脈にあっては。すなわち、官僚制が人類の一握りがそれ以外から富を抽出するための主要な手段であるような政治的・経済的文脈にあっては、そうした幻想のもたらしてしまうのは以下のごとき状況なのである。すなわち、恣意的な権力からの自由の追求がより恣意的な権力を生み出し、その結果、規制が存在を締め上げてしまい、守衛や監視カメラがあらゆる場所にあらわれて、科学や創造性が抑制されるような状況、そして、わたしたちの一日のうちに書類作成につぎ込む時間の割合がひたすら上昇する一方の状況である。」

**(デヴィッド・グレーバー 『官僚制のユートピア』〜「訳者あとがき」より)

*「本書は、以下のような悩みをお抱えの方に、うってつけである。

・世の中は、規制はいらないとか、自由化だとか、官僚制の弊害だ、役人を減らせ、だとか、あいかわらず呼号されています。それに、そういうことをいうと、あいかわらず政治家も人気があがります。でも、世の中がそういう雰囲気になればなるほど、実際には、どこもかしこも規則とか規制だらけになっていくような気がしてなりません。しかも、規則の「遵守」——コンプライアンスですか?——もいろんな場面で以前よりもうるさくなっているし、なんにつけても融通がききません。こういうのをちょっと前までは「お役所仕事」といっていたのではないでしょうか? そもそも、その時代のほうが、まだ融通がきいたようにおもえるのはわたしだけでしょうか。それに、なにをするにもめんどうな手順が増えました。それだけでなく、悩ましいのは、作成しなければならない書類がとんでもなく増えていることです。気のせいか、役人というか官僚も相変わらずいばってる、というか、あんまり変わっていないようにもみえます。いわれていることと実際におこっていることが、あまりに違っているようにおもうのです。これは、被害妄想でしょうか。

・コンピュータが導入されて、合理化で業務の簡素化もすすんでいるといわれています。ペーパーレスの時代ともいわれています。ところが、実際に、そういう名目で、たとえばウェブ上でのあたらしい手続きの方法が導入されると、どうしても、以前よりも、ややこしくなっている気がしてなりません。わたしの、気のせいでしょうか? たとえば、むかしだったら出張するときでも、書類一枚書いて会計に提出すればよかったのですが、いまでは、ウェブ上で旅費を所定のアプリで調べ、それを書き込み、旅先の宿泊施設の費用をホテルのHPで確認できるアドレスまで添付し、さらにある部署にいって承認をしてもらい、最後にその書類をようやく会計に提出するのです。しかも、わたしが苦手なせいもありますが、そのコンピュータ上の処理がとんでもなくややこしく、一度たりともすんなりいったことがありません。おそらく「簡素化」以前と比較して、少なくともわたしは、ひとつの書類提出に10倍の時間はかかっているように体感しております。そもそも、パソコンで作成した書類も結局、プリントアウトして、印鑑を押して、提出させられたりして、結局、そこは前と変わらないどころか、むしろめんどうな過程が増えているし、それに、いっこうにペーパーレスもすすんでいるようにおもえません。それどこか、ペーパーは増殖していくいっぽうです。いまでは、コンピュータによる合理化とか簡素化といわれると反射的にぞっと寒気が走るようになりました。心身にどこか、疾患があるのでしょうか。

・現代はテクノロジーの発展がすごいといわれています。それがどうしても信じられないのです。というのも、ちょっと前まで、2001年ごろには宇宙旅行ができてる感じじゃなかったですか? 宇宙ステーションもないし、それをコントロールしている感情をもったロボットもいません。空飛ぶ自動車も飛んでいないし、それどころか飛行機はいつのまにか音速を超えなくなってしまいました。ということは、人類の経験する速度はむしろ減速しているのではないでしょうか。癌もハゲも、あるいは風邪すらも、特効薬がまだあらわれません。タケコプターとはいいませんが、それに近いものすらないのはどういうわけでしょう。それなのに、パソコンがキーボードなしにタッチで操作できるとか、新発売の携帯電話のディスプレイが広くなって余白がなくなったとか、曲がるとか、付属カメラのレンズが二つになったとかで大騒ぎしているのが、どうしてもバカバカしくおもえてしまいます。こんなじぶんは、誇大妄想のひねくれものなのでしょうか。

・この世界に不必要なことをしているとしかみえない、なにをやって暮らしているのかもよくわからない、金儲けのために法を犯したらしい「元犯罪者」の起業家が、マスコミでやたらとえらそうにしているのが、わかりません。いっぽうで、この世界にとってだれもが必要としているようにみえる仕事——たとえば保母さん保父さんのような——をしているひとたちがいます。ところが、この不必要なことをしているようにしかみえないひとは、必要とされていることをしているひとたちよりも大金を稼ぎ、しかもその大事な仕事をさげすむようなことをいいます。とても不条理におもえます。じぶんは、時代遅れなのでしょうか。

・コラボやグループワーク、プレゼン、自己点検、自己評価などなどで、「想像力」を養い、「創発性」なるものを促進し、ときに「生きる力」などというものをつけさせると、いわれています。ところが、ミーティングも課題も拘束時間も、そしてペーパーワークもやたらと増え、だれもが疲弊しているようにみえます。まったく効果がないどころか、そうした「想像力」とか「創発性」のようなものを、封殺してまわっているようにしかおもえません。こういうものが導入されるや、日に日にみんなの顔が浮かなくなっていくようにみえて仕方がないのです。しかし、こういうものを考案して導入させるエリートたちが、まさか、アホにもわかりそうなそんな矛盾に気づかないことがあるでしょうか? やっぱり、現場のわれわれの無能が問題なのでしょうか。

・どうしても書類書きが苦手です。じぶんは、決してそれを望んだわけではありません。むしろ、そういう仕事がいやだからこそ、「クリエイティヴ」が売りの仕事に就いたはずなのです。なのに、なぜこう事務仕事が増えるのか、毎日が苦痛で仕方がありません。そのせいか、注意しているつもりですが、締め切りは忘れる、日時はまちがえる、数字がちがっている、といったことで叱責される日々です。他のみなさんも、おなじ境遇なのに、スマートに対応しているようにみえるため、ますます、自己嫌悪がつのります。これほどの愚か者もあまりいないにちがいありません。この世に、わたしの居場所はないのでしょうか。

・なにかイベントのあとに、いつのまにか、ゴミを拾うのがやたらともてはやされるようになりました。これが日本人の美徳だとも、いわれます。しかし、わたしはそれをみるたびに、ぞっとします。そういう「いいひと」は、なにかあると、おそろしいとおもうのです。こういう現象の背景には、たぶん、ひとに迷惑をかけてはいけないとか、ルールを守ることがなにより大事だというひとが増えていることがあるのではないでしょうか。そういうひとが増えていることにも、なにやらおそろしくなってしまいます。わたしは、心が汚れているのでしょうか。

こういう悩みを、本書が、解決してくれるわけではない。しかし、それは決して、あなたの責任ではないことは、雄弁に語ってくれるはずである。」

*「上下左右、どこをみても「秩序派」的感性に浸食され、増殖する規則によってありとあらゆる時空間が埋め尽くされていく日本社会が、規則のユートピア、官僚制のユートピアとしては、世界の先端を走っているのはまちがいない。もともと、マクロには、近代化以来(あるいはもしかすると幕藩体制以来)の独特の強力な官僚制、ミクロには、既存秩序への服従の表明以外の意味をほとんどもたない無内容な規則へのフェティシュ——たとえば校則——のあったところに、「全面的官僚制化」の波が押し寄せてきたのである。そのおそるべき帰結を、いまわたしたちは経験しているわけだ。

 しかし、わたしたちの悩みは、世界の悩みでもある。本書を読むならば、日本社会が決して特別におかしくて、世界から孤立しているわけではないことがわかるはずだ。「左派」が「官僚制の最悪の要素と資本主義の最悪の要素の悪夢のごとき混合物」しか想像できず、的を外してはいるものの、それでも右派が「官僚制批判」を旗印にし、革新のイメージを独占しつつあるのもおなじである。あるいは、世界的な再起の努力や再興の機運をものともせず、いまさらの「リベラル化」の果てに消失しかけているというところは少し異なるかもしれない。このことは、人びとの日常からの反官僚制的エートスの消滅の傾向や、反官僚制的エートスやその倫理、あるいは論理を自覚的に保持したり発展させたりする領域の、これもまた消滅の傾向が、日本社会ではとりわけ徹底しているようにみえることと相関しているかもしれない。日本社会における「全面的官僚制化」の具体的様相については、今後の探求が必要だろうが、いずれにしても、本書は、官僚制批判の再開という、わたしたちにとっても切迫した課題をも示唆するものである。

 そうした状況介入的な意味をおいても、本書は、現代の数少ない官僚制論として、その「数少ない」という事態もふくめて説明してみせた、傑出した研究書であり、また、歴史を通してみても、数ある官僚制論のなかで、その洞察と根源的な批評性において、きわだってすぐれた仕事のひとつであるといえよう。」

**(戸谷 洋志『悪いことはなぜ楽しいのか』〜「はじめに」より)

*「禁止されていること、やってはいけないとされていることを、あえてやりたいと思ってしまうこと、そしてそれにスリルを感じ、わくわくし、心を躍らせてしまうこと――そうしたことは、誰もが体験することではないでしょうか。要するに、悪いことは楽・・・・・・しい・・のではないでしょうか。

 しかし、それはなぜなのでしょうか。なぜ私たちは、悪いとわかっていることをあえてすることに、楽しさを感じるのでしょうか。そもそも「悪い」こととは何なのでしょうか。そして、それを破ることによって得られる「楽しさ」とは、いったいどのようなものなのでしょうか。

 悪いことはなぜ楽しいのか――その問いを手がかりにしながら、「よい」と「悪い」の境界について考えること、それがこの本のテーマです。」

*「この本が明らかにしたいと考えているのは、私たちにとって悪いことが楽しいと感じられる、その理由です。私は、人間関係や社会のあり方を考えるうえで、この問題がとても重要であると考えています。その理由は、大きく分けて、三つあります。

 第一に、「悪い」ことがなぜ楽しいのか、ということを理解できなければ、それを避けることもできないからです。悪いことを避けるためには、悪いことが楽しいということを認め、その理由を理解するべきなのです。このことは、たとえば、ドラッグを避けるということにも似ています。ドラッグは人間にとって有害なものですが、しかし快楽を与えます。快楽からは、その人体への有害さは――少なくとも快楽を味わっている間は――わかりません。だからこそ、有害であるにもかかわらず快楽を与える、という客観的な知識が、ドラッグで人生を滅茶苦茶にしないために、必要不可欠です。悪いことがなぜ楽しいのかを考えなければならない理由も、それと同じです。

 第二に、私たちにとって楽しいことが、「悪い」と評価されるとき、なぜそのように評価されるのか、その根拠がどこにあるのかを考える必要があるからです。楽しいものは、私たちにとって望ましいものであるように思えます。それがなぜか大人たちから「悪い」と評価され、私たちから遠ざけられてしまうこともあります。しかし、その評価が正しいという保証はありません。もしかしたら、その評価は間違ったものであり、大人たちは私たちにとって望ましいものを、自分の都合で遠ざけているのかもしれません。

 このことは、「悪い」ことを避けるべきである、ということを否定しているわけではありません。そうではなく、なぜ私たちの楽しい行為が、避けるべき「悪い」行為として扱われるのか、と問うているのです。それが明らかにされなければ、私たちは大人から不当に評価されたり、管理されたりすることになるかもしれません。

 第三に、「悪い」ことについて考えることは、結果的に「よい」ことについても考えることになるからです。「悪い」ことが楽しいのなら、「よい」ことは楽しくないかもしれません。単に楽しくないだけなら、特に問題はないでしょう。しかしそれが、「楽しくない」だけではなく、「苦しい」だったり「辛い」だったりするなら、話が変わってきます。私たちは、善良さのために、あるいは正義のために、人を苦しめたり、傷つけたりしてもよいのでしょうか。これもまた、しっかりと考えるべき問題です。」

*「そもそもなぜ人に噓をついてはいけないのでしょうか。実はこれは、本気で答えようとするとかなり難しい問題です。「人に噓をついてはいけない」を「当たり前」だと思っている人の多くは、おそらく、この問題に答えることができません。そうだとすると、人々は自分でもなぜそれが正しいのかわからない常識を信じて、物事を判断している、場合によっては人に説教している、ということになります。

 このような問題にメスを入れ、できるだけ人々が納得できる答えを出そうとする学問が、倫理学に他なりません。」

*「当たり前」を問い直す、ということは、その問いの答えを「当たり前」なことで説明することができない、ということを意味します。常識を疑っているときに、常識から答えを導きだすことはできません。倫理学の議論は、そうした正解のなさ、答えのなさに必ず直面します。きっとみなさんも、この本を読みながら、「それで結論は何なんだよ」と思うことが、一度ならずあると思います。

 倫理学は、そもそも答えのない学問だ、と言い切ってしまうこともできます。でも、そうすると「何を言ってもオッケー」という、極端な発想に陥ってしまうことになります。それこそ、「悪いことは楽しいんだから、悪いことしまくればいいじゃん」という、受け入れがたい結論に至ってしまうかもしれません。

 それを避けるためには、何をもって正しいと見なすのか、その判断の基準を、常識とは別のところに設定する必要があります。そうした判断の基準、いわばリトマス試験紙のような拠り所として、みなさんに覚えておいてほしいことが、二つあります。

 一つは、みなさん自身がその議論に納得できるか、ということです。偉い先生が正しいと言っているとか、常識で正しいとされていることが、常に正しいとは限りません。自分で考え、自分が正しいと納得できることだけが正しい、まずそのように考えてほしいです。

 そしてもう一つは、みなさん自身が、自分が正しいと思っていることを、周りの人が納得できるように説明できるか、ということです。自分が納得していても、周りの人を納得させられないのであれば、そこには何か齟齬が起きているはずです。もしもうまく説明できないなら、もしかしたら自分がわかったと思い込んでいるだけで、本当はわかっていない部分があるのかもしれません。そうしたとき、自分は何かを誤解しているの ではないか、あるいは何かを見過ごしているのではないか、と、改めて考え直してみてください。

 この二つの指針をもっても、絶対的な答えにたどり着けるかどうかはわかりません。しかし、少なくとも答えに対して接近することはできるでしょう。あるいは、たとえそれが難しくても、ひどい誤解から遠ざかることはできるはずです。」

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