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吉岡乾「ゲは言語学のゲ ⑲内から起こるか外から及ぶか」(『群像』2025年2月号)

☆mediopos3708(2025.1.13.)

言語の
内から起こる変化と
外から起こされる変化について
吉岡乾の『群像』での連載
「ゲは言語学のゲ」から(第19回)

言語は時とともに
次第に変貌しながら受け継がれてゆくが
その変化には内的なものと外的なものがある

内的な変化は比較的緩やかだが
外的変化は時に急速に進む

内的な変化の例として
「甘い」「寒い」「面白い」が挙げられている

東京辺りでは
「アメー」「サミー」「オモシレー」と
母音連続が融合するようになり
秋田県の沿岸地域では
「ンマェ」「サミ」「オモシレ」」となるが
大阪辺りでは
「アマイ」「サブイ」「オモロイ」というように
母音連合は起こらない

言語の外的変化とは
社会的要請・外来語の襲来・
隣接している言語との間の言語接触といった
「外来の圧力に曝されて発生する言語変化」であり
「言語そのものの特徴(発音、文法体系など)以外の
物事に由来する変化」である

比較的最近の例でいえば
telephoneは〝テレホン(カード)〟
platformは〝(駅の)ホーム〟と表記されるが

「これらの借用語が日本語に誕生した頃は、
未だファ行(ファ・フィ・フェ・フォ)の発音が
一般的に馴染みのあるものではな」かったからである

従って現在借用されることになるとすれば
ホではなくフォで「テレフォン」や
「フォーム」として借用されることになっただろう

普通は「言語変化はゆっくりと局所的に始ま」り
現在のようなユビキタス・ネット時代には
地域性はかなり薄れ
万人規模の「口癖」の普及などが増えている

一般的にはそれらは次第次第に浸透していくのだが
「社会的要請が掛かると、
語句の入れ替えが急速に進む」ことにもなる

「コミュニティ内で問題意識がやや強制的に共有され、
それを忌避する動機が
全構成員に一斉に押し掛かってくるため」
一挙に言語使用が変化し
「ある意味で受け入れざるを得ない環境が醸成される」

記事では排泄物に関わる忌避表現が挙げられているが
その趣旨を少しばかり広げるとすれば
ある種の言語使用やそれに関係した思想的な傾向性が
公に知識人やマスメディア等を通じ
ほとんど信仰のように「強制的に共有され」ることにもなる

やっと最近になって少しばかり
その危険性が示唆されるようにもなってきているが
「科学」なるものを御旗に掲げた「地球温暖化」や
「性的差別」をなくするための標語としての「LGBTQ]
そしてある種の思想を攻撃するための
「陰謀論」といった言葉も

いまだ知識人やマスメディア等においては
それらの実質や背景が多視点的に問われることのないまま
疑い得ない「常識」であるかのように
「正しい」視点として使われていたりもしているが

それらは第二次大戦時の戦意高揚のために
「強制的に共有され」てきたさまざまな言語表現の在りようと
基本的に変わらない

そうした「社会的要請」による
外的な言語及びその使用の変化については
なぜその言葉が使われるようになっているのか
そのひとつひとつを注意深く吟味する必要があるのだが・・・

■吉岡乾「ゲは言語学のゲ ⑲内から起こるか外から及ぶか」
 (『群像』2025年2月号)

*「図1は5年ほど前の秋に(大阪府茨木市と摂津市の境界の辺りにある)井於神社近辺を散歩していた際に見掛けた張り紙である。(・・・)

「ワンちゃんの〝おうら〟と〝おこよ〟は、持ち帰りましょう・」

 社会通念と照らし合わせて文意は即座に読み取れたものの、お上品すぎる語用に暫く僕は、「おうら? おこよ?」と大きな疑問符を頭上にぽっかりと浮かべたのだった。単語が解らないのに文意が分かるというのも、ちょっと不思議な体験だ。」

*「地球上のヒトのコミュニティで、言語を持たないものはない。あらゆる地域であらゆる人々が何かしらの言語を話している。

 言語は、代々の人々が用いる中で次第次第に変貌しつつ受け継がれてくる道具であり、基本的には隣接する世代間で大きな懸隔を持たない。言語が常に変化するものである一方で、順当に起こる限りではその変化が緩やかなペースのものだからである。

*「言語変化には内的なものと外的なものがある。」

*「内的な言語変化というのはある言語を使用している内に生じる変化であり、例えば話している間に段々と発音が変わってくるようなものは内的変化だ。日本語の形容詞を例に取って見ると、東京辺りでは母音連続が融合するようになった。

 (1)甘い: アメー
    寒い: サミー
    面白い:オモシレー」

「秋田県の沿岸地域では、(2)のようになっていると見做せるのではないか。

 (2)甘い: ンマェ
    寒い: サミ
    面白い:オモシレ」

「西に行って大阪辺りでは、この音変化(母音連合)が窺えない。

 (3)甘い: アマイ
    寒い: サブイ
    面白い:オモロイ」

*「もう一方の、言語の外的変化というのは外来の圧力に曝されて発生する言語変化のことである。それは社会的要請だとか、外来語の襲来、隣接している言語との間の言語接触など、その使用している言語そのものの特徴(発音、文法体系など)以外の物事に由来する変化だ。

 舶来の単語が到達した際に、その発音が巧く模倣できないということがある。けれど、時代と共にその大元の言語に触れる機会自体も社会全体で増えると、前世代のその手の単語の発音や表記は古めかしく見えることとなる。〝テレホン(カード)〟だの〝(駅の)ホーム〟だのというのは、telephone(テリファウン)やplatform(プラェトフォーム)に由来しているので、令和のこの時代に始めて日本語に導入されたら、ホではなくフォで「テレフォン」とか「(プラット)フォーム」として借用してただろう。英語でのフォ(/fo/)と日本語でのフォ(/Φo/)とはまた発音が違うのだが、それでも。これらの借用語が日本語に誕生した頃は、未だファ行(ファ・フィ・フェ・フォ)の発音が一般的に馴染みのあるものではなく、だから今ならファ行にしそうな音をハ行(ハ・ヒ・フ・ヘ・ホ)で導入していたのである。wafers(ウェイファズ)が〝ウエハース〟に、fuse(フューズ)が〝ヒューズ〟に(・・・)とカナ書きされていたのは、ファ行が苦手だった・・・・・・というより無かったからだ。

 そして次第次第に日本語話者たちが生活内でファ行音に曝されてきた結果、〝フィーチャーフォン(feature phone)〟や〝フューチャー〟(future)(・・・)になった。『ファイナルファンタジー』をプレイする世代で「ハイナルハンタジー」と言う者は居ない、時折テレホンの残滓が顔を出して、〝スマホ〟(smart phone)とかいった新語もできるが、「ヒューチャーホン」と言った者はいない。

 勿論、音韻に限らず言語変化は起こる。」

*「普通、言語変化はゆっくりと局所的に始まる。ユビキタス・ネット時代になって、地域性はかなり薄れ、逆に仮想空間コミュニティの大規模化が進んでいる現在は、万人規模の「口癖」の普及などが増えているが、それでも次第次第に浸透していくのが言語変化の一般的な進行である。

 だが社会的要請が掛かると、語句の入れ替えが急速に進むことにもなる。外的動機が脈々と受け継がれてきた言語に急変を齎(もたら)すのだ。コミュニティ内で問題意識がやや強制的に共有され、それを忌避する動機が全構成員に一斉に押し掛かってくるため、一挙の言語変化が達成可能である。世代交代とかを待つこともなく、今日明日で進む。そこに反対意見の出せる余地がなく、ある意味で受け入れざるを得ない環境が醸成されるのだ。

 冒頭の例は排泄物に関わる忌避表現である。

 排泄物、つまり穢れに関わる語句を直接的に口にしたり耳にしたりするのを避けようという社会的な動機があり、屎尿について迂遠に〝おうら〟〝おこよ〟と美しく呼んでいたのだった。これらは〝裏〟や〝小用〟に〝御〟が付けられた美化語で、〝裏〟とは隠語で「便所、トイレ」を指す。

 そもそも「屎尿」「糞」「便所」といった音読み語も忌避された表現だ。日常的に屎尿を指し示すために〝くそ〟だの、況や〝ゆばり〟だのと言う人はどれだけ居るだろう。〝うんこ〟や〝おしっっこ〟は幼児語なので、大人が大人だけのスペースで言うことは尠ない。トイレに関しては千を超える別称があるらしい(森田 2002)。直言を避けたくて避けたくて堪らないのだろう。

 穢れ・差別・神聖・閨房に関するものなどは言語上の禁忌(タブー)となる。禁句というやつだ。

 大小様々なコミュニティで先んじて形成された社会環境・情勢が言語変化の外堀を埋めるので、鶴の一声で言語行動を一新することが可能なのであろう。あるいはその先のリーダーシップが不在だと、元々の語句は用いられなくなるが。新しい代替表現が群雄割拠のコントになることもある。

 差別・神聖に由来する禁忌は体外誰かが音頭を取るが。穢れ・閨房に関するものは誰も先頭に立ちたがらないのではないか。今の日本の民度に鑑みると、例えばメガホンを片手に天下御免と大きな声で「今日から〝くそ〟のことを〝うんち〟と言いましょう」と憚るろ知らずに叫んだら、その人には〝うんち大臣〟みたいな不名誉な綽名が付きそうだ。そんな懼れを抱えてまで、下世話でお下劣と認識されている概念への新しい呼び名を放(ひ)り出して提唱するには、大層な胆力、相当な踏ん張りが要るだろう。」

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