保坂和志「鉄の胡蝶は夢に記憶の歳月に彫るか 70」(『群像』)/デヴィッド・グレーバー/デヴィッド・ウェングロウ(酒井隆史訳)『万物の黎明/人類史を根本からくつがえす』
☆mediopos3463 2024.5.11
この保坂和志の『群像』連載「鉄の胡蝶は・・・」は
一見「エッセイ」のようでもあるが
「小説」ということになっている
「小説を書くことは————
いや、そういう名詞で定義する言い方はなるべくやめよう、
小説を書いているとき小説家は
自分ひとりで書いているわけではない、
小説家は登場人物や風景や猫と一緒にその小説を書いている」
というように一般の「小説」とされるものではないが
まさにそのジャンルとかいった枠の外にあることが
この連載の面白さでもある
鍵となるのは「枠の外」ということであって
それは今回の話題とも通底している
さて昨年十一月十八日に予定されていた
保坂和志+酒井隆史の対談については
mediopos3281(2023.11.11)でとりあげたが
(「鉄の胡蝶は・・・64」)
その対談は中止されることになり
あらためて五月二十六日に行われる予定だそうだ
以前とりあげたのは
AI的な文章とそうではない文章との違い
それに関連した一貫性と不完全性のこと
そして言葉では説明できないことについてだったが
今回の「鉄の胡蝶は・・・70」の連載からは
酒井氏訳の『万物の黎明』の内容を中心に
保坂氏が対談で話し合いたいと思っている
「社会に対しても歴史に対しても
自分の生き方に対しても持たされる無力感の克服」
のために必要な視点をとりあげる
それは保坂氏がこれまで何度も引用してきたという
酒井氏の著書『通天閣』のなかで
「この社会の核には
「悲しみ、懊悩、神経症、無力感」などを伝染させ、
人間を常態として萎縮させつづけるという統治の技法がある。」
という言葉がその背景としてある
ちなみに『万物の黎明』では
いままでだれもが疑いもしていなかったような
人類の歴史とされていることは根拠のない錯覚であって
「人類の歴史には既定路線、
こうとしかなりえなかったなんてことは何もない、
人類の社会はいまあるこのような形とは
まったく違う姿になりえたということ」がを繰り返し語られている
「人間を常態として萎縮させつづけるという統治の技法」
についてだが
この社会はそれを意図的に使っているのではなく
それに「乗っかった権力ができあがっている」
つまり「権力はそのような統治の技法の産物」
なのではないかという
『万物の黎明』は人類の歴史の既定路線とされていることを
根底からとらえ直そうとするものだが
人類の歴史にかぎらず
なにかを探求するというとき
最初に「既定路線」を前提としてしまうと
「既成の価値観や学説を言い方を変えて擁護する」
ようなことにしかならない
「こうでなければならない」
「こうとしかなりようがない」
「こうなると決まっている」
というように
「知識は真に探求的でなない者が持っても
抑圧の道具になるだけで自由や創造に寄与しない」
からである
その意味でも「西洋形而上学」のもとともなっているような
プラトンが持ち出している「イデア」ではなく
ベルクソンが
「目の前で起きていることをしっかり見ろ」と言ったり
セザンヌが「山やリンゴをその形にさせている
力まで見ること」を示唆したりした意味で
現象そのものを「直観」することが重要なのだという
そこには「既定路線」などはなく
それによって萎縮させられるような知も統治も無効とされ
「社会に対しても歴史に対しても自分の生き方に対しても
持たされる無力感の克服」へとつながっていく
重要なのは
「そういうものだというのはない」
「そうでなくてもいい」
「なにもあらかじめ決まっていない」
ということだ
逆にいえば「そういうものだ」にしがみつくことで
安心を得ようとするところにこそ
逆説的に「悲しみ、懊悩、神経症、無力感」が
生まれてしまうということに他ならない
そのためにも
まずは「既定路線」という「枠の外」へ!
■保坂和志「連載小説/鉄の胡蝶は夢に記憶の歳月に彫るか 70」
〜「五月二十六日、酒井隆史さんとの対談、助走ふたたび」
(『群像』2024年6月号)
■デヴィッド・グレーバー /デヴィッド・ウェングロウ(酒井隆史訳)
『万物の黎明/人類史を根本からくつがえす』(光文社 2023/9)
**(保坂和志「鉄の胡蝶は夢に記憶の歳月に彫るか 70」より)
*「きたる五月二十六日(日)午後二時
京都市下京区富小路四条下ルの徳正寺にて
酒井隆史さんと対談します」
*「この社会の核には「悲しみ、懊悩、神経症、無力感」などを伝染させ、人間を常態として萎縮させつづけるという統治の技法がある。
という酒井さんが〈通天閣〉の注の部分に何の気なしに書いたと本人は言う言葉が私はとても大事で何度も引用してきた、私は五月に京都ではそれを確認し合うのでなく、その先の、人を萎縮させる統治技法に対抗する言葉、思考法・・・・・・を二人で話していこうと考えているが、前提としてこれをいつも心の中に用意しておくことは大事だ、
「あ、こうしてあいつらは人を萎縮させにかかっているな。」
と言葉にすることで、萎縮の方向に働きはじめそうになった心を方向転換したり、その心にストップをかけたりすることができる。」
「思うに、この社会が「人間を常態として萎縮させつづけるという統治の技法」を意図的に使っているわけではなく、この社会は「人間を常態として萎縮させつづけるという統治の技法」に乗っかった権力ができあがっているんじゃないか、統治の技法は権力が操作しているのではなくて、統治の技法によってそれを使うように権力が仕向けられている、権力はそのような統治の技法の産物である、それを本人は主体的に使っているわけでなく統治の技法の力学によって使わせられているだけなんだが安倍晋三のようにそれを自分で使いこなしているとカン違いできる者が権力の座につける。
いや、私は役員とか委員とか、名刺の肩書きとか恥ずかしいしみっともないとしか思わないから権力の側の人間が本当は何を考えているかわからないんだが見ていると、でなく、私に見えている姿はそういうことだ。」
*「ともかく、社会に対しても歴史に対しても自分の生き方に対しても持たされる無力感の克服だ、克服なんて言い方は大げさだ、無力感を持たされるように全体的に多方向のディスクールや概念やなんやかやがそうなっている、無力感というのは既定路線があってその外には出られないということだから、その既定路線という考えはただの思い込みだ、既定路線なんてものはひとつもないということを発見することだ、そして、去年秋に酒井さんが翻訳した〈万物の黎明〉はいままでほぼ全員がそうだと認めていた人類の歴史を、
「そんなことは錯覚だ、そんなことは根拠がない思い込みだ」
と、人類学というのか古代の人類についての遺跡とかそういうものからの発見や解読から、人類の歴史には既定路線、こうとしかなりえなかったなんてことは何もない、人類の社会はいまあるこのような形とはまったく違う姿になりえたということを繰り返し強調する。私は最近ことあるごとに言っているんだが、人間のあるタイプの人たちは知識を探求のために使うのでなく、自分を優位にしてマウントを取るための道具にする、つまり生徒指導の教師だ、
「こうでなければならない」
「こうとしかなりようがない」
「こうなると決まっている」
ばかり言う人が知の探究者であるわけがない、探求するとは可能性を広げることだ、分岐点に立ったら選択はひとつではない、事実人類はいま人々が人類はこのような選択しかしてこなかったと思い込まされているのとは違う選択をたくさんしてきた、」
*「グレーバーは人類の初期、先史時代には人類はそのような、近代人が避けられないと思い込んで、諦めているようなことをちゃんと避けてきた、と」
*「会社でも学校でもある組織の中で改革案が議論されるときに、
「それはしかし現実的ではない」
と否定する人は権力の側についただけではない、ここが大事なんだが、否定した人間は、その時に権力を代行した、そいつはただ傍観者として権力を容認したわけでなく、そいつが権力の行使者となった、そしてそいつは心の中で改革案を潰した喜びを感じたはずだ。
ルール、ルール、規則一辺倒、「前例がない」などなど、それら学校の生徒指導の教師タイプの人間、デモ行進に沿って歩いてデモを監視する警官や刑事たち、彼らはただ規則を守れと言っているだけではない、自分として可能なかぎり権力を行使している、そして行動として権力を行使している以上に精神面では権力に従わないやつらを拘束したり潰したりする喜びを味わっている。
既成の価値観や学説を言い方を変えて擁護する本をわざわざ出版するというのは精神のあり方において、デモ行進を監視する私服刑事になるのと同じことなのだ、知識は真に探求的でなない者が持っても抑圧の道具になるだけで自由や創造に寄与しない、グレーバーの〈万物の黎明〉には自由、平等、解放の精神が満ちあふれている。」
*「私はこのあいだベルクソンの考えたことの核がわかった気がした、(・・・)ベルクソンは目の前で起きていることをしっかり見ろ、精密に見ろと言った、その見るというのはセザンヌがサント・ヴィクトワール山が空の重さに耐えて山の姿を保つ力を見るということでたんに静かに見ることではない、山やリンゴがその形をしていること、山やリンゴをその形にさせている力まで見ることだ、このベルクソンの言う見る・聞く・触れるのたんに物理的な外観にとどまらない、その物の奥で起こっている力とか活動とか、その物を貫く力とかを見る・聞く・触れることでプラトンのイデアを否定するというか、プラトン以上の世界を世界たらしめている力がわかる、それがハイデガーが言った「西洋形而上学を粉砕する」ということだった、ニーチェも同じ意味のことを言った。
(・・・)イデアというのは誰も見たわけではない見ることは永遠にない概念でしかない、セザンヌのリンゴや山はイデアをまさに粉砕する物が在ることだ。
グレーバーが〈万物の黎明〉で批判する空想の人類史は歴史観や人類観におけるプラトンのイデアではないか、イデアが世界のどこにもないように農耕やって富と権力が集中して国家になるという単純な変遷の模式図はどこにもない、(・・・)大事なことだから二、三回繰り返してもいい、歌ならサビは何回も繰り返される、むしろ散文が繰り返し書かないことがベルクソンの言った哲学が直観から離れて理屈が直観を何重にも包んでしまって現象そのものを忘れてしまうんじゃないか、直観は歌のダイナミズムを持つ。」
*「詠っているあいだだけが歌が、歌うのを離れて歌とはなんてダサいこと言ったら歌はどこからも聞こえてこなくなる、————」
*「「ラカンの現実界より郡司ペギオさんの全体のナントカの方がわかりました。」
「全体概念は、存在しないからこそ全体だ」というフレーズだ、ラカンの現実界と郡司ペギオの全体の話の二つが揃うとぐっとわかりやすい、人間は理解可能な事象のまわりに理解を超えた外があるがそれは意識できないというような意味だ、理解の外、言語の外、見えている風景の外があって創造性はそこからやってくる、ラカンもたしか、芸術によって主体が主体として生きることができるみたいなことを言った。」
*「グレーバーも〈万物の黎明〉で人類の初期の人たちがすでにじゅうぶん創造的であったことを強調している、創造性は見えている風景でなくその外からやってくるんだから自分以外人間以外の能力を認めることは創造性を重視することにもなる、ラカンも郡司ペギオもグレーバーも京都で会う酒井さんも全体として同じ方向を向いている、ベルクソンもだし、ハイデガーもだ、話の蒸し返しになるがハイデガーはナチスに加担したが思想の中心にあるのは本当の意味での人間の解放だ、だから人道主義とかいうレベルでなく、個として————いや、そうでなく思考とか行動とかを貫く力、ドゥルーズが流動というような力に最も関心があった、」