橋本治『恋の花詞集/歌謡曲が輝いていた頃』
☆mediopos-2387 2021.5.30
歌謡曲というか流行歌
(すでに古めかしさを感じる言葉になっているけれど)は
ずっと昔からあるように思えるけれど
それが最初にあらわれたのは
大正3(1914)年の『カチューシャの唄』
その歴史はまだ109年目に入ったところ
橋本治も既に亡くなっているが
この『恋の花詞集/歌謡曲が輝いていた頃』が
さいしょに音楽之友社から刊行されたのが
平成2(1990)年のこと
本書で紹介されている曲は
歌謡曲以前の時代の
明治25(1892)年作曲の
『青葉茂れる桜井の』は別として
明治33(1900)年の『花』から
昭和四〇(1965)年の(あまり有名ではないけれど)
『霧深きエルベのほとり』までの63曲
橋本治ならではのとても懐かしい語り口で
しかしとても深い思い入れと洞察で
「歌謡曲」の歴史がたどられていく
ここでまずおさえておかなければならないのは
歌謡曲が生まれるまで口ずさめる曲は
唱歌と軍歌と三味線しかなかったということだ
それが『カチューシャの唄』以来
本書で紹介されているように
その翌年の大正4(1915)年には『ゴンドラの唄』など
次々に生まれてくるようになった
知らない歌もあるけれど
その歴史を辿ってみるのは面白い
歌とともにおそらくひとの感覚や感情と
その表現も変わってきているはずだ
その変化を辿ってみることは
いわゆる年表のような歴史を学ぶよりも
いろんなことが見え(感じられ)てくるのではないか
ちなみに橋本治がこの本を刊行した平成のはじめ
世の中にはYouTubeなるものは存在していない
だからレコード/テープ/CDというメディアで
紹介されている歌を聴いてみるよう誘っている
しかしいまや(確認はしていないれど)
多くはYouTubeをはじめとしたインターネットメディアで
それらは比較的簡単に聴くことのできる時代になっている
本書の単行本が刊行されたのが1990年で
いまから31年前
いまから31年後というと
どんな時代になっているのか想像するのはむずかしい
メディアはもちろんのことを
意識そのものもずいぶん変わっているのだろう
そのまえに
平成の音楽がすでにあり
令和の音楽もこれから生まれていくだろうが
かつて「歌謡曲」が誕生したように
あらたなものが生まれそしてそれが
あらたな意識の受け皿になっていくかもしれない
しかしあらたな意識は
過去に播かれ育てられていった意識の土壌から
あらたなものを加えながら変容していくことで生まれる
そのためにもいまじぶんのなかで
咀嚼できる言葉や歌からなにがしかの養分を
受けとっておくことはつねに重要なことのはずである
■橋本治『恋の花詞集/歌謡曲が輝いていた頃』(ちくま文庫 2000.4)
※1990年6月、音楽之友社より刊行されたものの文庫化
『青葉茂れる桜井の』から『霧深きエルベ川のほとり』まで、『序』を別にして六十三曲。「序」を入れると六十四曲----終わってしまった昭和の年数と同じです。別にはじめっからそうするつもりでもありませんでした。なにしろこの本の為の曲の選定を終えた時、まだ昭和天皇はご重態じゃありませんでしたから、偶然の一致です。
この本の元になったのは、主婦の友社から発行されている雑誌『èf』で一九八七年から八八年まで----事実上昭和の最後の年となった六十三年にかけての一年間連載された同著のエッセーです。その時は別に「編年体」という訳ではなく、「歌謡曲で歳時記みたいなことをやってみようか」という、季節順でした。それを見た音楽之友社の岩上杉子さんが「編年体で、昭和の流れと、それから〝お父さんとお母さんの時代の恋の歌〟というつもりで、昭和四十年くらいまでの歌謡曲の本をやりたい」と言ってきたもんで、「歌謡曲の本なら音楽之友社でやる!」と勝手に決めた私は、こういう次第にしたのです。
以前「〝結婚したら主婦の友〟社から出すんなら『貞女への道』!」というワケの分かんないことを言ってそういう本を出してしまった私は、そういう人間です。という訳で、『èf』の駒編集長、ゴメンナサイ。
まア、「歌謡曲の本をやりたい」というのは結構以前から私の中にはあって、『完本チャンバラ時代劇講座』という、チャンバラ映画の本を書いた時に「こりゃア、歌謡曲もやんなかなア・・・・・・」とひとりごとを言い、『èf』で『恋の花詞集』以前に連載していた『貞女への道』を単行本にする時も、その各章の冒頭に昔の歌謡曲の一節を載せるということをやったんです。
ちょっとその時に使った曲を挙げましょう----『野崎小唄』『ここに幸あり』『高原列車は行く』『恋はやさし野辺の花よ』『逢いたいなアあの人に』『ガード下の靴みがき』『あなたと共に』『むらさき小唄』『明治一代女』『リンゴの唄』『かなりや』『からたち日記』『人生劇場』『花笠道中』『霧深きエルベ川のほとり』『とんがり帽子』『蘇州夜曲』の十七曲。かなりこの本のラインナップと重なってますが、私の趣味はこんなものです。豊臣秀吉の奥さんの北政所の話をする「貞女の千成瓢箪」という章の冒頭に「赤いりんごに唇よせて だまって見ている青い空」を持ってくるなんて、我ながらいい趣味してるなアとは思いますが、こんなことやったって誰も分かってなんかくれないことは重々承知してますから、「じゃアやるよ」でこっちに来るんですね。「貞女への道」の「あとがき」の最後には、ちゃんと「この本の各章の冒頭を飾っていただけた、偉大なる歌謡曲の詩人たちに、なによりも深い尊敬の念と感謝の思いを捧げます」と書いてあるんですけど、勿論マジです。
「歌謡曲をやらなきゃいけないな」と思っていたのは、近代と芸能史の関係もあるんですが、それ以上に大きいのは「言葉の問題で」です。僕は昔っから歌が好きで「こういう言葉」と当たり前に馴染んでいたんで、ただ好きなんです。「装飾過剰」だとか「情緒過多」だとか「大オーバー」だとか言われがちな、歌謡曲の歌詞が。
ロクでもないのもあればすごいのもあるのは、どんなジャンルも同じですが、ある時期歌謡曲の歌詞は「近代詩人の副業」の「小遣い稼ぎ」だったりしたもんですから、不当に低く見られすぎているような気がして、「こういう言葉とこういう言葉にこめられた〝感情〟を否定すると、大切なもの見失うよ!」と本当に怒ってた。一応私も「言葉の人間」なんで、好きな言葉葉好きなんです。
という訳で、一応「編年体」になってはいるこの本も、別に「歌で見る昭和史」という訳じゃありません。あんまり歌を歴史のダシに使いたくないんで、「昭和史」になっちゃった部分もありますが、それは所詮「その歌の時代背景」ぐらいに思って下さい。だって、ひょっとしたら「昭和の歴史」なんかよりも「歌の歴史」の方が重要かもしれないもの。
私にとって「昭和史」というのは避けて通れないものなのかもしれませんが、しかし、私としては「昭和史」というのにはあんまり興味がないんです。だって、他に詳しい人なんてゴマンといるじゃないですか。私がやる理由なんて別にない。だって、この本が終わりになる昭和四十年に、この私がいくつだったと思うんですか? まだ十七ですよ! 昭和のことなんか分かる訳ない----と言いながら、こんな本を書いてしまったバカなやつです。」
「あんまり長くなるとなんですが、最後に「参考文献」なるものを挙げようと思います。といっても、大体私はあんまりそういうものを使わないので、事典とか年表みたいなものを挙げてもしょうがないと思うんで、やめます。この本の場合、最大の「参考文献」は、やっぱりこの〝音源〟でしょうから。
この本で取り上げられた六十四曲をどうすれば聴けるか?----です。このレコードなりテープあるいはCDなりというのは、今じゃ大概手に入ります(意外なことに)。最大の参考文献というのは、そのレコードの全集についている「解説」なんです。ご参考までに、この「音源」を挙げます。」
※この後、「音源」が紹介されています。
※なお、「付録」として「補足年表」が付されていますので、ご参照のこと。
※最初の『青葉茂れる桜井の』のみは年表に入っていません。
この歌は、「序」のなかで次のように紹介されています。
「この歌は、歌人であり国文学者である落合直文が明治二十六年『国文』という雑誌に発表した『桜井の里』という詩に奥山朝恭(ともやす)という人が曲をつけたものということになっていましたけど、どうやら原作者は斎藤延正(のぶまさ)という歌人であるのが本当らしい。奥山朝恭が作曲をしたのが明治二十五年で、明治の三十年頃から歌われていた。楠木正成と正行親子のことを歌ったもので、元々は『大楠公』という楠木正成を主人公にした長編叙事詩の三分の一の部分だったという。正式のタイトルは『桜井の訣別(わかれ)』というんだけれども、歌い出しの「青葉茂れる桜井の」がそのまんまタイトルになっちゃった。」
(「一、『花』」より)
「武島羽衣作詞/滝廉太郎作曲
春のうららの 隅田川
のぼりくだりの 船人が
櫂(かひ)のしづくも 花と散る
ながめを何に たとふべき
見ずやあけぼの 露浴びて
われにもの言ふ 桜木を
見ずや夕ぐれ 手をのべて
われさしまねく 青柳(あおやぎ)を
錦おりなす 長堤(ちょうてい)に
くるればのぼる おぼろ月
げに一刻も 千金の
ながめを何に たとふべき
ご存じ滝廉太郎の『花』ですが、ところでこの歌の作詞者っていうのを知ってます? 武島羽衣(はごろも)という、女学校の国文学の先生。東京女子高等師範という学校の先生を養成する女学校で教えていた男性。滝廉太郎が『荒城の月』に続いて『花』を作曲したのは二十一歳の時で、その時この羽衣氏は二十七歳だった。時に明治は三十三年----一九〇〇年のことだった(今から九十年前)。
この頃日本に一体どんな歌があったのか? 実はなんにもない。
お父さんに取り残される『青葉茂れる桜井の』はある。いくつかの学校で教えられる唱歌というのがある----『夏は来ぬ』とか、『蛍の光』とか『仰げば尊し』とか。不思議と、子供のためには〝訣別の歌〟が多くて、「昔の光いまいずこ」と繰り返される『荒城の月』だって、いってみれば〝終わってしまった過去を偲ぶ歌〟です。
それから、この時期は近代日本が最初に出っくわした日清戦争の後で、やがて日露戦争が始まらんとしているような時代だから、軍歌がある。そして、江戸以来の三味線音楽----小唄・端唄・俗曲といった、お座敷で芸者とおっさんが歌うような唄がある。小学校で唱歌を歌って『蛍の光』を歌ってしまうと、もう軍歌と三味線しかない。日本で最初の〝流行歌〟といわれるのは『カチューシャの唄』というやつですけど、これが出てくるのは大正になってからの話で、それ以前の明治時代にはそんなものがない。明治の〝流行歌〟というのは、自由民権運動以来続いている、演歌師達がバイオリオンを弾きながら歌う、一種のプロテスト・ソングです。
テレビなんかないし、ラジオもない。レコードもない。なんにもない。今みんなが一番当たり前に口ずさむような〝歌〟なんか全然ない。若い女の子が歌う歌がそもまず一つもなくて、歌を歌おうとしたら、「敵は幾万ありとても」と「カッポレカッポレ ヨイトナ〜 ヨイヨイ」よ「仰げば尊し我が師の恩」しかないというような時代。女の子が失恋しても、「私は愛の難破船・・・・・・」なんてことを口にしようがない。なにしろそういう歌----近代的な恋の歌っていうものが〝ない〟んだから。
たとえば、与謝野晶子が「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」と歌った有名な『みだれ髪』が出て来るのは明治三十四年----『花』の翌年ですね。なにしろ〝ない〟んだから、男はなんにもわかりゃしない。だとしたら、女としては「そんなことで寂しくないんですか?」と訊いてみなければならない。「私は寂しいと思いますけど、でも私が寂しいと思わなきゃいけないのはあなたのせいですよ、違います?」ってね。「さびしからずや道を説く君」っていうのは、そんこってすね。」
◎青葉茂れる桜井の(桜井の訣別) 童謡・唱歌
明治25(1892)年作曲
ダークダックス
◎【滝廉太郎】 花
明治33(1900)年