別役実『道具づくし』
☆mediopos3340 2024.1.9
「職人」が
「つくる」とき
「道具」が必要となり
その「道具」は
「職人」の一部ともなる
そこまでの「道具」とはいえないが
私たちはなんらかのかたちで
「道具」を使わずに生きてはいけない
じっさいに「つくる」ときはいうまでもないが
広い意味でいえば
衣食住をはじめ
さらには生きるために必要な
さまざまな「もの」を使って生きている
それらのなかには
わたしたちがほとんど意識することなく
使っている「道具」もあって
それらのことを想像力を逞しくしながら見ていくことで
思わぬ視点を得ることができたりもする
さてここでは
別役実の『道具づくし』をとりあげるが
これは数々ある別役流「○○づくし」シリーズの一冊で
ここで紹介されている「道具」(古民具)の話は
架空の道具のそれである
それらをただの悪ふざけとして笑って読むこともできるが
そこが「別役流超民俗学」は一味違い
嘘であるがゆえの真実を垣間見せてくれたりもする
そのなかから「おいとけさま」を紹介してみる
「おいとけ」というのは「放っておけ」
つまり「そばにあっても気にするな」という意味であり
等身大の木彫の座像である「おいとけさま」は
二人きりで対座するときの気詰まりを
和ませるときに傍らに置いたものである
「かつては《おいとけさま》を正面に据えて、
その前に二人が並んで坐り、お互いに話すべきことを、
すべて《おいとけさま》に向かって話した」
つまり「《おいとけさま》を通じて隣に坐っているものに
受信されるという経路を辿ることにより、
「目を見合わせてはにかんだりすること」などなしに
話し合うことが出来た」というのである
ここからが面白くなるのだが
室内で使用される等身大の《おいとけさま》以外にも
屋外で携帯できる小型のものもあり
それが「こけし」として流布している
「「こけし」は「個消し」の意味であり、
自我を殺して会話のおだやかならんことを期待する」
ものなのだという
さらにもっと荒唐無稽だが
「《おいとけさま》《放っとけさま》《ほとけさま》
というそれぞれの語感が似ている」ことから
仏教伝来の話まで持ち出される
《おいとけさま》は仏の座像と似ているようで
「二者対座における気詰りをなごます傾向を、
「仏の救い」に置きかえて
これを受け入れたのかもしれない」のだという
目を合わせないで対座するための
《おいとけさま》の等身大座像と
「個」を消すための携帯用の「こけし」
そして「おいとけ」「放っとけ」「ほとけ」から
「仏の救い」の意味をもたせ
仏の座像と近しい存在と論じる・・・
この《おいとけさま》は勿論全くの架空の話だが
それを心のなかの「道具」として考えてみると
「こけし−個消し」のように
わたしたちはこうしたさまざまな「道具」(もの)を
ほとんど意識しないまま持ち得ていることで
日々を暮らしているところがあったりもする
別役実『道具づくし』には
数多くのこうした架空の「道具」が紹介されているが
じぶんが使っているかもしてないと思われる「道具」を
じぶんなりに考えてみると面白いのではないか
あるいは「どうしてこの人はこんなことをするのだろう」
と疑問に思ったひとなどのことを
「こんな道具を使っているのではないか」
と想像してみるのも面白いかもしれない
■別役実『道具づくし』(ハヤカワ文庫NF 早川書房 2001/1)
(「はじめに」より)
「現在、我々の周囲には、多くの「道具」であり「もの」であるものが、ひしめいている。我々の日常生活は、それら「道具」であり「もの」であるものを使うことによって、成立している。
我々は必要に応じて無意識にそれらを手にし、必要がなくなるとまた無意識にそれらを手離す。必要であるものはいつまでも手元に置かれ、必要でないものはいつの間にか、我々の手の届かない片隅に押しやられる。
そのようにして「道具」であり「もの」であるものも、この悠久の時間の流れの中で、ゆるやかな新陳代謝をしつつあるのである。」
「当然ながら本書で採りあげた「道具」であり「もの」であるものは、我々が日常的に見慣れたそれらとは、いささか様相を異にしている。しかし、だからと言ってそれらに疑いを抱いてはならない。つまり我々はこれらの「道具」であり「もの」であるものに対して抱く疑いの量だけ、我々の日常的な生活感覚を変化させて、今日に至っているのであり、むしろその目に見えぬ変化の方に驚くべきなのである。
私は本書を出版するに当たって、ある高名な民族学者に検閲を依頼した。(・・・)ところが氏は、一読した後、ほとんど茫然としてしばらく目を宙に据え、そのまま一言も話すことなく、原稿を私に返してよこした。
(・・・)
そこで、これら「道具」であり「もの」であるものは、我々の日常的な「常識」の側からも、学者たちの学問的な「知識」の側からも。見捨てられ、次第に行方の定まらぬものとなりつつある。本書が、こうした事態をいささかでも喰い止めることが出来たら、望外の幸せと考えるものである。」
(「おいとけさま」より)
「「おいとけ」というのは、「放っておけ」という意味である。「そばにあっても気にするな」ということなのであり、その名の通りの存在なのだが、実際には、かなり具体的な効用のあるものであって、東北地方の山間部などでは、現在でもまだ使用されている。
三人以上が集まれば座がなごむが、二人きりで対座するとなると、どうしても気詰まりだ、という感じは一般によく知られている。《おいとけさま》というのは、そうした二人きりの対座の時、座をなごますためにかたわらに置く、等身大の木彫の座像のことである。「おいとけさまにも、おいでてもらいましょ」と言って、二人っきりになったとたん、老婆が押し入れの隅から、黒くすすけて目鼻立ちもはっきりしなくなった大きな木像を、ずるずる引きずり出してくる光景は、現地を訪れたものなら、たいてい一度や二度は見ているはずである。
現在ではもうそんなことはないが、かつては《おいとけさま》を正面に据えて、その前に二人が並んで坐り、お互いに話すべきことを、すべて《おいとけさま》に向かって話したのである。つまりすべては、《おいとけさま》を通じて隣に坐っているものに受信されるという経路を辿ることにより、「目を見合わせてはにかんだりすること」などなしに話し合うことが出来たというわけなのだ。
戦後間もなく、アメリカ文化讃美の大合唱の中で、「人と話す時に相手の目を見ない」ことを、日本人の悪癖として声高に論じた似非文明評論家がいたが、恐らく彼は、我が国に古来より伝わるこうした対人関係における優雅な仕掛けを、知らなかったに違いない。(・・・)
相手の目をのぞきこむことは、相手をとめどもなく怪しむことである。従って人は、相手の目をのぞきこむことによっては、おだやかな会話はのぞめない。おだやかな会話を期待するのなら、目の前にいる実の相手ではなく、自分自身がこうであってほしいと思う相手に向かわなくてはならない。この、相手に対する「やさしさ」と、ナイーブな感受性が、《おいとけさま》を生み出したのである。
《おいとけさま》は、前述したように等身大の座像であり、室内で使用されるものが主であるが、一部に携帯用の小型のものを使用するところもある。戸外で、思いがけなく道で出会って立ち話をする時などに使用するものであり、この変形は一般に「こけし」として流布している。言うまでもなく。「こけし」は「個消し」の意味であり、自我を殺して会話のおだやかならんことを期待するのである。
最近《おいとけさま》の民俗学的研究が、再び左官になりはじめたのは、もちろん、こうした効用が問題になったせいではない。《おいとけさま》こそ《ほとけさま》の、前駆的存在ではないか、ということが、近年一部の民族学者の中で、言われはじめてきたからである。《おいとけさま》《放っとけさま》《ほとけさま》というそれぞれの語感が似ていることは言うまでもないが、もちろんそれだけのことではない。
我が国に仏教が伝わり、それが全国に伝播した速度が以上に早かった事実は、これまで多くの研究家が問題にしてきたことであるが、もしそれ以前に我国に、それを吸収するに足る条件が備わっていたとすれば、これは説明可能なものとなる。つまりここで、《おいとけさま》の存在が、浮かび上がってくるわけである。これが仏教の伝播以前に我国にあった風俗であることは既に検証ずみのことであり、しかもその座像は、仏の座像と極めて良く似ているのである。もちろん、「おいとけ」「放っとけ」として無視する傾向と、「仏を崇める」傾向とを同一に論ずることは出来ないにしても、あるいは、二者対座における気詰りをなごます傾向を、「仏の救い」に置きかえてこれを受け入れたのかもしれない。いやもしかしたら、仏教の教義そのものが、《おいとけさま》の存在によって、大きく変更されながら、独自の定着の仕方をしたのかもしれない。だとすればこのことは、仏教研究の側からの作業を通じて更に確かめねばならないことである。」
○別役実(べつやく・みのる)/1937年4月6日 - 2020年3月3日
1937年旧満州生まれ。早稲田大学政経学部中退。劇作家、エッセイスト。寺田寅彦の姉、駒の曾孫にあたる。68年、『マッチ売りの少女』『赤い鳥の居る風景』で岸田戯曲賞受賞。71年、『街と飛行船』『不思議の国のアリス』で紀伊国屋演劇賞受賞。88年、『ジョバンニの父への旅』で芸術選奨文部大臣賞、『諸国を遍歴する二人の騎士の物語』で読売文学賞受賞。97年、劇作100本を達成する。戯曲や童話の他に、生物学の常識を覆す奇書『虫づくし』、日本古来、および現代の妖怪の生態を解説した『もののけづくし』(ともにハヤカワ文庫)、『けものづくし』『鳥づくし』『魚づくし』等、著書多数。犯罪、医学の分野でも独創的な論考を発表しており、その関心は森羅万象におよぶ。