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奈倉有里「文化の脱走兵 22.君が笑ってくれるなら」(『群像』2024年9月号)/九鬼周造「偶然の産んだ駄洒落」/鈴木棠三『ことば遊び』

☆mediopos3575(2024.9.2)

『群像』で連載中の奈倉有里「文化の脱走兵」
22回目は「駄洒落」の話

奈倉有里は「ちいさなころから駄洒落が好き」だったといい

「ロシア語を学びはじめてから詩が大好きになった理由のひとつは、
そこに言葉の響きあいという、
駄洒落にも通じる楽しみがあったから」だというが

「自分で考えられるかといえばさっぱりだめ」だと謙遜しながらも
エッセイの最後に「ゲーテはやっぱり、すげーって」
という駄洒落を披露していたりする

それはともかくエッセイでは
「いつからか駄洒落が「おやじギャグ」と呼ばれ、
古びたものとして切り捨てられていった」ことを憂え

「駄洒落を切り捨てるなんて、言語のゆるやかな自殺といって
も過言ではないくらいもったいない行為だ」といい

「駄洒落は多くの言語で愛されてきた
知的で遊び心に溢れた営み」であり
「言語もまた、その構造そのものに
遊び心の部分を保っておかないと、
どこかに無理がくる。軟骨のない関節みたいなものだ。」
としている

シェイクスピアの作品は言葉遊びや駄洒落だらけであり
ユゴーの『レ・ミゼラブル』には
「駄洒落のオンパレードが繰り広げられる有名なシーン」があり
ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』のなかでコロヴィエフは、
「光と闇について「下手な駄洒落」を言った罰として、延々と
駄洒落を考案し続けなければならなくなったことになっている」

また日本の哲学者・九鬼周造の随筆『偶然の産んだ駄洒落』でも
「駄洒落を聞いてしらぬ顔をしたり眉をひそめたりする人間の
内面生活は案外に空虚なものである」として
天野貞祐・和辻哲郎・西田幾多郎とのあいだの
「アマノがアマゴとアナゴを間違えた話」を披露している

mediopos-2143(2020.9.28)で
「言語の音響上の偶然的関係に基づく遊戯」として
九鬼周造が晩年に押韻定型詩を提唱した「押韻論」

そしてそれを受けた詩の第四の革命として
中村真一郎・福永武彦を中心に
『マチネ・ポエティク詩集』が刊行されたものの
その革命が頓挫した話をとりあげたことがあるが

エッセイでも関連したことにふれられていて
「もともと脚韻詩の習慣がなかった日本語では、
西洋詩の翻訳や現代詩に脚韻を取り入れようという
試みがおこなわれるたびに、
この駄洒落の連想が障壁になってきた」といい

「脚韻詩に挑戦しても、押韻(特に脚韻)が
駄洒落を連想させるために、切ない叙情詩の場合でも
テーマ性にそぐわない「面白み」が追加されてしまい、
読者を泣かせたいのか笑わせたいのかわからなくなってしまう
というジレンマが生じる」ことがとりあげられている

さてせっかくなので「しゃれ」という言葉の由来について
鈴木棠三『ことば遊び』から紹介しておきたい

「しゃれという語は、
洒落の転化した語であるとするのが江戸期の学者の説だが、
幾分か江戸っ子の理想を先入主とした当為の説」であるという

「しゃれ」は動詞シャレルの名詞形だが
「平安語ではサル(曝・晒)とザル(戯)とがあり、
ザルを清音でさると発音したこともあった」ようだ

平安のザル(ザレル)には
「①ふざける意
 ②気がきいて機転がきく、物わかりがよい
 ③あだめいて、くだけた感じがする
 ④風雅な趣がある」
といった意味があり
「中世になると、シャレルと拗音化する」という

つまり「シャレルとジャレルと発音の区別を
意識することにより、意義が分かれ」るようになり
「濁音のジャレルには
①のふざける、戯れる意味が一方的に濃くなり、
清音のシャレルは②③④の意味を独占するようになった。
この名詞化がシャレであったと考え」られる
「従って、シャレは審美的、抽象的な内容」を表すようになる

この「神秘学遊戯団」にも「戯」という言葉が入っているが
まさに「遊」んで「戯れ(ザレ)」ることそのものを
テーマとしているといってもいい
ときには「シャレ」てみようとしたりもしながら

■奈倉有里「文化の脱走兵 22.君が笑ってくれるなら」
 (『群像』2024年9月号)
■九鬼周造「偶然の産んだ駄洒落」
 (『九鬼周造随筆集』岩波文庫 1991/9)
■『マチネ・ポエティク詩集』(水声社 2014.5)
■『九鬼周造全集第五巻』(岩波書店 1981.4)
■藤田正勝『九鬼周造/理知と情熱のはざまに立つ<ことば>の哲学』(講談社選書メチエ 2016.7)
■鈴木棠三『ことば遊び』(講談社学術文庫 2009/12)

**(奈倉有里「文化の脱走兵 22.君が笑ってくれるなら」より)

*「駄洒落が好きだ。たとえば、友達が唐突に「レモンのいれもん」とか、「コンドルが地面にのめりこんどる」とか言ったとする。私はその場でも笑い転げ、家に帰っても思い出して笑い、たぶんほとんど永久にその記憶を大切にして笑っている。幸せなやつである。」

*「ちいさなころから駄洒落が好きだった。小学校ではクラスにひとりは駄洒落をぽんぽん思いつく子がいた。たまに駄洒落が好きな先生もいて、そうすると子供たちのほうも負けじと駄洒落合戦をするようになる。身近な文房具はいつも駄洒落の題材だ。誰かが「カッターがなかったー!」と言い出せば、「見つかったー!」「高かったー?」「切れ味よかったー?」と、カッターひとつでクラスじゅうがいつまでも掛けあいをしている。私はいつもそういうふうにしてみんな口から駄洒落が発せられる瞬間が透きで、「すごいなあ」と憧れてもいた。いま思い返してみても、記憶のなかで誰かが駄洒落を言った瞬間というのは、ぜんぜん凝った駄洒落でもないのに(もしかしたら、だからこそ)不思議なほど輝いている。

 たぶん、「面白い」というのもあるけれど、それよりなにより「ほっとする」のだと思う。駄洒落にはほとんどの場合、邪気がない。一般に「子供は無邪気だ」なんていうが、なにかが衝突したり転覆したりするのを見てけらけらとそれこそ「無邪気に」笑ったり、ぬいぐるみをわざわざ車に牽かれた設定にして面白がるといったケースはいくらでもある。私は笑いに含まれるそうした嗜虐性が、子供心にとても怖かった。テレビを見ない子供だったが、見たいと思わなかった理由のひとつは、当時のテレビのお笑い番組などでよく大人が人の頭を叩いたり、誰かをばかにしたりするのを笑いの種にしていたのを目にして、ほんとうに嫌なものだと感じたからだ。

 いつからか駄洒落が「おやじギャグ」と呼ばれ、古びたものとして切り捨てられていったのも、嗜虐性や排他性を帯びたギャグが広く受け入れられていった経緯にともなうものであったのじゃないか、といまの私は思う。

 でも、駄洒落を切り捨てるなんて、言語のゆるやかな自殺といっても過言ではないくらいもったいない行為だ。シェイクスピアを原文で読んで言葉遊びや駄洒落だらけだと気づく人は多い。ユゴーの『レ・ミゼラブル』にも「駄洒落はしばしば政治的に重大なものになる」として駄洒落のオンパレードが繰り広げられる有名なシーンがある。ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』に登場するコロヴィエフは、光と闇について「下手な駄洒落」を言った罰として、延々と駄洒落を考案し続けなければならなくなったことになっている。九鬼周造は『偶然の産んだ駄洒落』という随筆のなかで「ポール・ヴァレリイの詩的な駄洒落擁護をひいたうえで、こんな逸話を書き留めている——あるとき和辻哲郎とともに、西田幾多郎先生を誘って貴船へ「アマゴ(天魚)でも食べに」行こうという話になったとき、伝言役の天野貞祐が間違えて西田先生に「アナゴ(穴子)を食べに」行きませんかと誘ったせいで、先生は「アナゴのような脂っこいものはおれはいやだ」と答えたが、結局は誤解が解けてみんなでアマゴを食べに行けた、という話だ。九鬼は「アマノがアマゴとアナゴを間違えた話」だと締めくくっている。おそらく、と私は想像する——四者は道中「こりゃまいったね」と笑いあい、アマゴは地方によって呼びかたが違うのじゃないか。ヤマメとは違うのか、などという魚談義で盛りあがったに違いない。」

*「扱われかたはさまざまだが、駄洒落は多くの言語で愛されてきた知的で遊び心に溢れた営みであって、一定の地域の一定の世代のものと限定しておさらばできるようなものではない。それに、なにごともそうだが言語もまた、その構造そのものに遊び心の部分を保っておかないと、どこかに無理がくる。軟骨のない関節みたいなものだ。」

*「もともと脚韻詩の習慣がなかった日本語では、西洋詩の翻訳や現代詩に脚韻を取り入れようという試みがおこなわれるたびに、この駄洒落の連想が障壁になってきた。(たとえばマチネ・ポエティック時代の中村真一郎や福永武彦が)脚韻詩に挑戦しても、押韻(特に脚韻)が駄洒落を連想させるために、切ない叙情詩の場合でもテーマ性にそぐわない「面白み」が追加されてしまい、読者を泣かせたいのか笑わせたいのかわからなくなってしまうというジレンマが生じる。その後、歌謡曲やロックの世界では押韻に近い言葉の戯れがみられるようにもなったが、それはまた別の話としておこう。」

*「私がロシア語を学びはじめてから詩が大好きになった理由のひとつは、そこに言葉の響きあいという、駄洒落にも通じる楽しみがあったからなのは確かだ。

 ところで、私はこんなに駄洒落が好きなのに、自分で考えられるかといえばさっぱりだめである。」

*「笑いのツボが合う人とは長くつきあえる、という説がある。けっこう当たっていると思う。ゲーテ流にいえば「人間はなにを可笑しいと思うかによって、最もその性格を示す」とうやつだ。以前、ふだん真面目な話をしているときには特になんとも思っていなかった人に「面白い」と薦められた芸人をふと調べたてみたら、ぞっとするほど排他的な雰囲気で驚いてしまい、あとからそれを薦めた人とは思想的にとてもじゃないけど折りあいがつかないとわかって、妙に納得したことがある。反対に、身近な誰かのために言葉遊びや駄洒落を考案し続けていつまでも笑っているような人とは、たいてい一緒にいて心地がいい。きっと人間の性質の、落ちつくべきところが似ているのだと思う。それにしても、またゲーテがあらかじめすべてを語っているな。ゲーテはやっぱり、すげーって。」

**(九鬼周造「偶然の産んだ駄洒落」より)

*「駄洒落を聞いてしらぬ顔をしたり眉をひそめたりする人間の内面生活は案外に空虚なものである。軽い笑いは真面目な陰鬱な日常生活に朗らかな影を投げる、ある日、私がパリで散髪をしていると理髪師が私に向かってデ・ジャポネー(日本人)は騎兵は要らぬそうですねといった。何のことかと聞くとデジャ(既に)ポネー(小馬)だからといった。人を馬鹿にしているこの駄洒落は異郷の旅愁をかえって慰めてくれた。旅愁は人生の旅にもおそいかかってくる。軽い駄洒落も時には悪くない。」

**(鈴木棠三『ことば遊び』〜「第三章 しゃれ」より)

*「しゃれを愛するのは、日本人の国民性であるといってよい。しゃれは日本人にとっては文芸であったし、しゃれのわからない日本人は、ユーモアを解しないというだけでなく。風流の嗜みに欠ける人間と考えられた。もっとも、しゃれの内容や形式にもいろいろあって、時代によっても一様でなかった。

 平安時代には、和歌の掛詞がしゃれに相当する。掛詞すなわち同音異義の語を、どのように駆使するかで、作歌の技術が左右された。散文ないしは日常生活のことばでは、興言とか利口というのが、しゃれの同義語といってよかった。ただし、興言・利口は、即座に気のきいた滑稽を言うことで、近世初期の「当話」がこれに当たり、駄じゃれとか地口とかいうのは、一致しない部分がある。

 私の郷里では、座談のうまい人、面白いことを言って笑わせる人を、デクチのいい人だと言って褒めた。デクチとは、とっさに口からことばを出すこと、またその技術すなわち滑稽がかった話術をいう語であった。さしずめ、咄という字の国語的用法を思わせるが、この咄という中世以来の新語は、物語に対する新しい話術を意味する語であった。」

*「しゃれという語は、洒落の転化した語であるとするのが江戸期の学者の説だが、幾分か江戸っ子の理想を先入主とした当為の説といってよい。」

「しゃれは、動詞シャレルの名詞形であることはいうまでもないが、そのシャレルが問題である。(・・・)平安語ではサル(曝・晒)とザル(戯)とがあり、ザルを清音でさると発音したこともあったらしく、戯れる意にサルと清音で表記されている文例が少なくないが、仮名文の場合は清濁の表記が曖昧なので決定的なことは言い難い。とにかく平安のザル(ザレル)には、①ふざける意、②気がきいて機転がきく、物わかりがよい、③あだめいて、くだけた感じがする、④風雅な趣がある、等の意味があった。語意においては、サル(サレル)と清音で発音する時も同じだったろう。これが中世になると、シャレルと拗音化する。」

「つまり、シャレルとジャレルと発音の区別を意識することにより、意義が分かれて来た。濁音のジャレルには①のふざける、戯れる意味が一方的に濃くなり、清音のシャレルは②③④の意味を独占するようになった。この名詞化がシャレであったと考える。従って、シャレは審美的、抽象的な内容としているのである。」

**(『マチネ・ポエティク詩集』〜安藤元雄「『マチネ・ポエティク詩集』について」より)

*「ここに復刊された『マチネ・ポエティク詩集』は、一九四八年(昭和二十三年)七月一日を発行日として、東京の溜池にあった真善美社から出版されたものである。(…)これは実に過激な、時流に挑戦する大胆さと泥くささをもった書物でもあった。というのも、ここに収録された作品はことごとく、日本語による押韻定型詩だったからである。「マチネ・ポエティク」は集団の名であり、その命名者は同人の一人だった福永武彦だったそうである。」

*「巻頭には「詩の革命」と題する押韻定型詩のマニフェストが高らかに掲げられ、巻末には「NOTES」と題して、グループやこの詩集の成り立ち、ここで用いられている技法の解説などをしるした一文が添えられている。どちらも無署名の文章だが、実は全社は中村真一郎がすでに雑誌「近代文学」第十三号(一九四七年九月)の巻頭に発表していたものであり、また後者は、この詩集の著者代表として奥付に名を出している窪田啓作の執筆だと思われる。

 それにしても「詩の革命」とは、何と激しい揚言ではなかったか。短歌の誕生、連歌の誕生、新体詩の誕生を、それぞれ日本の叙情詩の歴史を区切る三回の革命であったと位置づけた上で、「千年にわたる我々詩人たちの夢であった」ところの「厳密な定型詩の確立」をもって第四回目の革命を遂行しようというのだ。」

*「考えてみれば、リズムと言い脚韻と言い、すべて時間を切り取るための工夫だった。そうやって切り取られた時間が、言葉によって生み出されながら逆に音楽性の面から言葉を支えるときに、その作品は定型詩として初めて成功する。これが詩語の保証なのだ。完璧な押韻アレクサンドランで書かれた無味乾燥な駄句はフランスにも無数に存在する。要は詩というもの、そしてとりわけ押韻定型詩の、このおよそ別世界的なあり方が、語法それ自体の統一的な構造性とどこまで一体化し得るかにかかっている。それが詩的レアリテと呼ばれるものであり、また、詩の自律性と呼ばれるものであろう。

*「マチネ・ポエティク」の実験は、押韻は音節の数的位置については精密な考慮を払ったが、アクセントや速度、音価、さらには発語の位相といった要因への配慮が、おそらくは不十分だったのだ。そのために、言葉の置き換えの可能性が、ほとんど恣意的なものと化してしまった。そして、故意にせよ偶然にせよそうしたものへの配慮が払われたときにだけ、存在感のある作品を生み出し得たのである。

 とすれば、「マチネ・ポエティク」の試みは、本当にわれわれ自身のものである詩語を何とかして確立しようという、新体詩以来の執拗な、しかしいまだに実らない努力の、長い系譜上に位置づけられることになる。この「革命」の流産を惜しむことはできても、それを歴史からはみ出した狂い咲きとみなすことはできない。復刊された「マチネ・ポエチック詩集」は、いななお検討さるべき問題点を数多くはらんでいる。「革命」はまだ成就していないだけだ。」

**(『九鬼周造全集第五巻』〜月報5 中村真一郎「『日本の押韻』とマチネ・ポエチック」より)

*「九鬼周造博士の「日本詩の押韻」という論文は、日本の貧しい詩学の歴史のうえで、劃期的な業績である。

 にも係らず、哲学者−−−−それも博士の周辺のひと握りの同情者、あるいは崇拝者−−−−が、それを博士の偶然論の一適用であるとして、専ら哲学的な関心を示したにとどまり、詩人たちのなかには真面目な関心は惹きおこさなかった。真面目に研究して評価したのは、戦争直後に押韻定型詩運動を行った、東京のマチネ・ポエチックグループだけである。(ただし、同人の詩の大部分は戦前、戦争中に、既に出来上がっていた。)

 マチネ・ポエチックの仲間は、専ら実作を発表するに急であって、日本語で押韻が可能なりやという理論的考察は、博士の論文に任せたままであった。云うまでもなく、いかに理論が精緻であっても、実作が失敗してしまえば、押韻は有効ではないということになってしまうのである。

 マチネ・ポエチックの運動は数年にして止んだ。私を含めてその仲間は、活動の舞台を散文の領域に拡げて行くことになり、押韻の実験も中絶したままになった。そして当時を知る人は、その運動が詩壇のなかで、四面楚歌だった。ほとんど悪罵の超えに埋もれて終った有様を、今も記憶しているだろう。しかし私自身の定型詩集も、その後、二度にわたって再刊され、又、『マチネ・ポエチック詩集』も、最近になって三十年ぶりに復刊されて、また人々の手にわたるようになった。私たちの定型詩運動は、ようやく再評価の時期を迎えはじめたのである。

 一方で、「日本詩の押韻」を含めた、九鬼博士の全集が、これまた刊行中である。興味のある者は、理論と実作とを並べて検討することが、容易に可能となったのである。

 この時期に、実作者のひとりであった私が、私たちの実作と博士の理論との関係について、一言、誤解を防いでおくことは、意味があるだろうと思う。」

**(藤田正勝『九鬼周造』〜「第六章 文学・詩・押韻」より)

*「九鬼は、押韻は語呂合わせや地口の類いの遊びにすぎないという、自由詩の立場から押韻詩に向けられた批判を十分に意識していた。その批判を十分に意識した上で九鬼はむしろ「言語の音響上の偶然的関係に基づく遊戯」を積極的に評価したのである。(…)「日本詩の押韻」のなかの「遊戯を解しない者は芸術の世界に入る資格は無い」という言葉がそのことをよく示している。
 そのように述べたあと、九鬼はまた次のように記している。「押韻は音響上の遊戯だから無価値だと断定するのは余りに浅い見方である。我々はむしろ祝詞や宣命の時代における「言霊」の信仰を評価し得なくてはならない」。ここで「言霊」がもちだされたのは、江戸時代の国学者・富士谷御杖(一七六八年−−一八二三年)の歌論書『真言弁(まことのべん)』(一八〇二年)を念頭に置いてのことであった。

 富士谷御杖はこの書のなかで必ずしも歌を遊戯と捉えていたわけではない。人は誰しも思いのままに行為しようとする偏心(ひとえこころ)をもつが、それを抑えきれず、それが一向心(ひたぶるこころ)になったときに、それを慰め、悪しき行為へと走らないようにするのが歌であるとしている。そして『真言弁』下巻の「言霊の弁」において、「一向心を慰めようとして生まれでた歌のなかに、そのやむをえない思いがとどまり、そのなかにこもったものが「言霊」であるとしている。それを「言霊」と呼んだのは、そこに人の力では及びえない「活用の妙」があると考えたからである。御杖はその例として、『古今和歌集』「仮名序」で言われる「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むる」働きを挙げている。

 九鬼がこの書に注目したのは、そこで「すべて、物ふたつうちあふはづみにおのづからなり出るものは、かならず活て不測の妙用をなすものなり」と言われていたからである。「物ふたつ」という言葉のもとに御杖が理解していたのは、歌詠む人の「私」なる思いと、時宜にかなわぬ行為をすべきではないという「公」の思いとであったが、九鬼はこの「物ふたつうちあふはづみ」という表現のなかに押韻の遊戯を、つまり、音と音とがたまたま重なりあい、共鳴しあうという偶然の戯れを見たのである。

 その戯れが生み出す「音楽的可能性を発揮させて詩の純粋な領域を建設する」ことが、九鬼のめざしたものだったと言えるであろう。」

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