渡部 潤一『古代文明と星空の謎』・ルドルフ・シュタイナー『人体と宇宙のリズム』
☆mediopos-2464 2021.8.15
天文学は
天体の動きを計測し
太古の時代に
天体はどのように位置していたのかを
シミュレーションすることができる
古天文学という学問は
「天文学と考古学の狭間に」あって
「いにしえの人たちが
星空をどのように眺め、何を見出してきたのか、
歴史上の遺跡や古記録などを手がかりに
読み解いてみる研究分野」だという
そして
考古学的な対象について天文学的な考察を加え
歴史的に残された記録から
当時起こっただろう天文現象を明らかにし
星や星座の和名などを集める
在野でのフィールドワークを行ったりもする
そうして研究される内容はたしかに興味深いのだが
かつての時代において
星々とはどのような存在だったのか
人間と星々との関係が
どのようにとらえられていたのかを
明らかにするものではもちろんない
それは現代の常識的な唯物論的な視点で
ストーンヘンジは夏至の日の出を示し
ピラミッドは正確に真北を向いている
といったことを明らかにすることに止まり
古代人はどうやって計測し得たのか
ということを驚いて見せるしかないのだ
唯物論的な科学によって閉ざされた認識からの
根本的な転換が必要なのだろうが
現代の科学にとって
それはファンタジーに堕すことでしかないだろう
シュタイナーの神秘学的な視点では
古代の人たちは
星は神的・霊的存在の身体であり
星と星のあいだには
霊的な力が働いていることや
人間は星々の神的・霊的存在から生まれ
それらの力が働いていることを知っていた
そして謎のように残されている古代の遺跡は
そうした知恵によってつくられたものだという
私たち現代人はそれらの知恵を
機械的に「計測」することを超えて
理解することはもはやできなくなっている
引用にあるシラーの言葉を使って言えば
「自然は君たちが計算できるだけの大きさなのだろうか。
君たちの研究対象は、もちろん、
空間のなかで最も崇高なものだ。
しかし、友よ、空間のなかに崇高な者は住んでいない」
ということができる
私たちはすでに私たち人間そのものを
機械の集合体のようにしか見なせなくなっている
古代文明においてつくられた遺跡も
そして宇宙そのものもまた機械の集合体にすぎず
たとえそれにロマンを感じたとしても
そのなかに「崇高な者」は住み得ない
いまはファンタジーのようにしかみなされないだろうが
人間という存在を
「宇宙空間を流れる霊的生命の一滴」として
とらえるロマンを持ち得るあらたな時代が訪れますように
■渡部 潤一『古代文明と星空の謎』
(ちくまプリマー新書 筑摩書房 2021/8)
■ルドルフ・シュタイナー(西川隆範訳)
『人体と宇宙のリズム』
(風濤社 2003.4)
(渡部 潤一『古代文明と星空の謎』より)
「古天文学とは、いにしえの人たちが星空をどのように眺め、何を見出してきたのか、歴史上の遺跡や古記録などを手がかりに読み解いてみる研究分野です。歴史上の種々の古記録、古文書、遺跡、遺物などを天文学的に検証し、その暦年代日時などを考察する学問であり、また、天文現象のほとんどは計算により再現可能なため、これを歴史上の日時推定に用いたり、あるいは、逆に自然科学の情報を得る学問でもあります。
そのような学問の総称が「古天文学」ですが、正式な名称ではありませんし、その分野の研究者もほとんどいません。天文学者の大半は、「遺跡」や「古記録」などにあまり興味がなく、考古学の研究者の多くは、理系の範疇に入る天文学の専門的な知識を持たないからです。
だからこど、天文学と考古学の狭間にある研究が、とても面白いと言えます。
たとえば「ストーンヘンジ(Stonehenge)」という巨石遺跡をご存じでしょうか。
このストーンヘンジを研究しようとすれば、天文学的な知見がないと読み解けない部分があります。ピラミッド、マヤ文明、ポリネシア、そして、日本の代表的な天文学的知見が盛り込まれているキトラ古墳についても、天文学と考古学の双方からのアプローチである古天文学によって、より研究が深まるケースも少なくありません。
また、(・・・)これまで「日本では月や太陽を愛でる文化はあったが、星に興味はなかった」という俗説がありました。しかし、古天文学を通してみると、案外そうでもないことがわかります。
遺跡を読み解くことで、「昔の人たちがどんなふうに星空を眺めて、そこに何を見てきたのか」が、さらに深く理解できるのではないか。」
「斉藤先生(斉藤国治名誉教授)によれば、「古天文学」には三つの分野があります。
一つ目は「考古天文学」です。
考古学的な天文学、つまり、考古学的な対象について天文学的な考察を加えるという学問分野です。文字がまだ存在しない先史時代において、文字記録のない遺物のなかで、天文に関するものを研究対象としています。具体的には「ストーンヘンジ」や「ナスカの地上絵」がその範疇に入ります。」
「二つ目は「歴史天文学」です。
歴史時代に入ると、文字の記録が残されています。一例が『明月記』です。(・・・)この『明月記』には多数の天文現象が記録されていますが、とりわけ貴重な情報が「超新星の出現記録」です。」
「三つ目は「民族天文学」です。
この分野には、いわゆる〝在野の研究者〟がたくさんいます。たとえば「オリオン座」の中央の三つ星を和名では「三神様」と呼んでいました。「北斗七星」は四つと三つに分けて「四三の星」と呼ぶことがありました。」
(シュタイナー『人体と宇宙のリズム』〜「太陽・月・星」より)
※一九〇八年三月二六日のベルリンでの公開講演
「太古の叡智を、今日の自然科学者は見下しています。太古の叡智の名残は、占星術と呼ばれるもののなかにも、まとまりのない、愚かなかたちで含まれています。それは人類の原初の叡智に溯るものです。そのような原初の叡智が何から成り立っているのか、明らかにするのは容易ではありません。今日、人間は星や地球を、宇宙空間を運行する単なる物体と見ています。天体が人間の運命にとって何かを意味すると考えるのは子どもじみている、と現代人は言うでしょう。
昔は、人間と世界を対峙させたとき、もっと別な感じ方をしました。骨や筋肉や感覚ではなく、自分のなかに生きる感情・感受のことを考えたのです。古代の人々にとって、星は神的・霊的存在の身体でした。彼らは、天体の神霊に貫かれるのを感じました。
今日の人間は、機械的な力が太陽系のなかに働いている、と認識します。昔の人は、心魂的・精神的な力が星から星に作用するのを見ました。物質的な力ではなく、純粋の精神的な力が星から星へと作用している、と偉大な密議参入者は教えました。
この宇宙感情が、現在の唯物論的なニュアンスの世界観へと変化したのが、よく理解できます。しかし、この五〇年ほど前からの唯物論的見解が、あらゆる時代に通用すると信じる者は精神的な宇宙経験を予感できません。地球が宇宙創造の目的だという見解も、唯物論は拒否します。」
「人間はいくつもの部分かたなる存在です。眠ると、ベッドには物質的身体とエーテル体しかありません。アストラル体と個我は、物質的身体とエーテル体から離れて、精神世界に上昇します。そして、精神世界で力を受け取ります。それよりも崇高な力を、人間は日中、太陽と月から受け取ります。
アストラル体は、アストラル界の非常に軽い実質のなかに組み込まれており、星の世界がアストラル体に強く影響します。起きているあいだに、物質的な力が物質的身体に作用するように、星の世界がアストラル体に作用します。人間は宇宙から、すなわち星天・宇宙神霊から生まれたからです。
このように太陽・月・星を見あげると、どんな力がそこに働いているのか、理解できます。そして、宇宙空間における霊的なものを知ることができます。人間に似た宇宙神を予感するのではありません。宇宙の霧の背後の霊的な力を、私たちは感じ取ることができます。そうして、どのように宇宙が発生するのかを洞察します。活動する力の背後に、その力を指導する存在たちを、私たちは体験しはじめます。
シラーも、物質的な星々の世界のみを研究している天文学者に呼びかけるときに、そう考えました。
星雲や太陽について、そんなにしゃべらないでくれ。
自然は君たちが計算できるだけの大きさなのだろうか。
君たちの研究対象は、もちろん、空間のなかで最も崇高なものだ。
しかし、友よ、空間のなかに崇高な者は住んでいない。
もし外的な力だけを考察するなら、私たちは崇高な者を見出せません。しかし、私たちが精神的なものを探求し、広大無辺の星界から自分自身に戻ると、自分の内面に、宇宙空間を流れる霊的生命の一滴を見出すことができます。
このような態度で天体に向かい合うと、「何十億もの太陽も、人の目に映らず、人の心を喜ばさなかったら、無意味であろう」という、ゲーテ作『ヴィンケルマン』中の言葉を、もっとよく理解できます。
この言葉は思い上がったもののように聞こえますが、正しく理解・把握すると、謙虚なものです。私たちは、生命の流れを発する太陽を見上げます。太陽は力強いものであり、月によって弱められないと、私たちには耐えられません。このようにして、私たちは宇宙のなかに霊的なものを見ます。その霊的なものを知覚できる器官を自分の内に持っている、と私たちは知っています。私たちは宇宙の霊性を、人体器官に反射します。私たちは太陽を直接見ることはできませんが、その輝きが滝の水に反射するのを見ることはできます。それをゲーテは、ファウストが地上生に戻ったあとの場面で、(・・・)語らせています。」